2年半前、Twitterのメインアカウントでフォローしていた人を一気に678人リムーブ(フォロー解除)し、
その少し後にさらに公式アカウント270個ほどをリムーブするということをしました(#06818 / 2022年08月17日)。
今更ながら、いや今更だからこそ、この立ち回りが正しかったのかどうかを振り返っていきたいと思います。
当時の記事を読み返すと、その思惑としては「相互フォロー全盛の時代にとりあえずフォローしただけの相手は、
無責任にただフォローしていてもお互いに損にしかならない」というような考えがあったようです。
もう少し当時の記憶を肉付けすると、当時はたしかまだおすすめの精度がイマイチで使っていませんでした。
それで基本的にはフォローしている人のつぶやきを新着順に読むというのが一般的で、
Twitterというのはさまざまな人の一人言を読むツール、というイメージでした。
その一人言というのは無責任な自分語りがあまりにも多く、ときに辟易していたのは事実です。
やはり、タイムラインから受けるストレスというのは現在と比べると格段に多かった。
だからこそメンタルをやられていた2019年以降はしばしば強い意志で「ツイ禁」したり、
あるいは自分自身もメンヘラツイートをぶちかますようなこともありました。
いまとなっては信じられませんが、ブログの新着記事URLをTwitterに都度投稿していたのもこの頃です。
いまの価値観で言えば、当時のTwitterというのは非常に確率の低い「承認欲求ガチャ」だったと思います。
認めてほしい人のあまりの多さに対して、認めてくれる人があまりに少なかった。
最初にリムーブした678人というのはただ相互フォローしているだけの赤の他人であり、
お互いの一人言に対して反応することも滅多になかったし、「いいね」をつけることもありませんでした。
当時は、「他人はコントロールできないが、付き合う相手は選ぶことができる。
合理的に考えれば、なるべく自分を認めてくれるような他人を選ぶべきだ」という考えがあり(#06853 / 2022年09月21日)、
認めてくれない他者は積極的に切り捨てても良い、という考えのもと大量リムーブを決行しました。
当時もそれは利己的すぎるかもしれないと内省していますが、果たして大量リムーブは正しかったのでしょうか。
当時はネット活動の不振から「ネット活動では承認欲求は満たせない(割に合わない)」という考えが根強くあり、
Twitterからもほとんど身を引くつもりでいました。
それは単にお互いに何も反応しないフォロー関係は不毛だ、というようなレベルではなく、
自分のメイン活動であるピクミンをも引退するつもりで思い切ったフォロー整理をしていたという意図があります。
本当にたまたま偶然、その直後に完全新作が発表されたことで引退は撤回することになりましたが、
直前にフォロー整理を行なったことでピクミン専用の発信アカウントとして再出発せざるを得なくなりました。
なぜなら、自分から認めてくれない他者を積極的に切り捨てた以上、
自分自身が無益なつぶやきでタイムラインを汚すわけにいかなかったからです。
それにより2023年以降(特に去年から)は急速にサブアカウントの数が増えました。
メインアカウントがピクミン専用になったことで、他の趣味について情報収集する受け皿が必要になったからです。
当初はコンシューマーゲームに関する話題だけは相変わらずメインアカウントでしていましたが、
最近だともうそれすらサブアカウントで済ませることが多くなっています。
もちろん、サブアカウントでつぶやいたところで反応をくれる人はほとんどいません。
かつてはただフォローしただけの間柄でも何気ない投稿から会話が始まることがまれにありました。
メインの趣味とは言えないまでも自分の興味のあることについての発信をメインアカウントで根気よくしていたら、
2022年以降もそういう交流があったのかもしれないのに……とふと思いました。
少なくとも、繋がりがゼロに等しいサブアカウントで呟くよりは有意義であるように思える。
まぁ、それを正当化するためには自分が他者の何気ないツイートを受容する必要があり、
これまでにそういうことが実践できていたのかと言われると……。
もともと、Twitterは「ゆるいつながり」を標榜するSNS的な何かだったはずであり、
それ自体にまるでリアルの人間関係かのような有意義さを求めるのはお門違いだというのはその通りでしょう。
他者の何気ないつぶやきを見てストレスが溜まるようならそもそもTwitterに向いていないし、
その時点で自分自身の性格的な欠陥を感じずにいられません。
結局、大量リムーブによって「関係性がないわけではないが日常的なつぶやきをするアカウント」が少数残り、
タイムラインが低速化することによってそれら日常ツイートがさらに悪目立ちするようになってしまい、
ストレスフリーを徹底するために彼らをもミュートすることによって、最終的に虚無空間が出来上がりました。
とはいえ、今更ミュート解除したところで日常ツイートを積極的に読みに行く理由も無いわけで。
これに関してはもう後戻りできないところに来てしまったと感じています。
そもそも日常ツイートに対しストレスを感じるということ自体、
大量リムーブによって自分だけは無益な投稿をできなくなったという「縛り」のせいなのではないかとも感じます。
そう考えれば、昨今のTwitterで感じるストレスは自業自得であると言え、
それをもって大量リムーブは失敗だったと結論づけることもできるでしょう。
とはいえ、趣味別にアカウントを使い分けて一人言の垂れ流しから卒業するというのは近年のTwitterの潮流でもあり、
決して自分だけの話ではないと感じています。
少なくともタイムラインを見るかぎり、ここ数年でそういう運用に切り替えた人はかなりいる。
言い方は悪いですが、分別を弁えられる人とそうでない人で明暗が分かれたイメージです。
前者は近年の価値観に沿って無益なつぶやきはなるべくしないようにしている一方、
そういう潮流に気付けない人がいまもなお一人言をひたすら垂れ流している。
大量リムーブは自業自得ですが、
リムーブしなかったとしても世間の流れ的に一人言の垂れ流しが許されていたとも限らない。
それ自体は自分も許容する・しないはさておき人として良くないことだと思っていて、
図らずも一人言の垂れ流しから卒業できたことそのものは道徳的には良いことだと思っています。
ただ、Twitterがもっと充実していたころと比べると一抹の寂しさは感じずにはいられません。
2ちゃんねるの時代からあった「なんとなくみんなでワイワイ話す場所」をついに手放したという感覚。
当時、意味は無いと思っていた678人との繋がりは、
自分が自分にルールを課すこともなく自由につぶやきを許すという点で意味はあったのではないかと感じます。
そのか細い関係があったからこそ、有意義ではなくとも承認欲求を満たそうとする行動ができていた。
そういうプラットフォームがあるからこそ日々の隅々まで意識していたという側面もあるでしょう。
割に合わないと感じていたのは事実ですが、そういうアウトプット先があるだけマシだったのかもしれない。
いまは、有意義な活動結果以外ではTwitterで承認欲求を満たすことが完全にできなくなってしまいました。
もちろんこの方が無責任な発信は減るし、より良い成果を求めざるを得ないという良い面もあります。
ただ一方で以前よりも承認欲求不満に陥りやすくなってきているのは事実だろうと思います。
無差別フォロー自体は過去の遺物であることは間違いないので、
まあ時代がこうさせたと言ってしまえばそうなのかもしれません。