個人の憲法を作る
何日か前に「瑠璃野ねも」というVTuberの眠くなるまで民法を読み上げるASMR配信が話題になりました。
眠くなるまで? まあ長くても3時間くらいだろうなあ……と思ったらまさかの11時間50分!?!?
かわいい声で小難しい内容をひたすら読み上げるというのは自分にはかなり刺さる内容でした。
ASMRは長時間であることに意味があり、
20分そこらで終わってしまう動画は内容が魅力的でもあまりリピートしたくなりません。
この内容で12時間というのは中の人はニーズを「理解」っているとしか……。
このぶっ飛んだ方向性は、単調で面白みのない耳かき配信が跋扈する昨今のASMRに投じられた巨石とも言えるでしょう。
これからはこうした専門特化で工夫を凝らしたハイレベルなASMRがどんどん出てきて、
にわかには参入しにくい文化になっていくのではないでしょうか。……いや、もうなっているかも。
手帳コラージュ、水彩画、ヘアメイクロールプレイなど既知のASMRも思い返せばかなりハイレベルだし。
耳かき配信は最初期によく聴いていましたが、そういえば最近はもう聴かなくなって久しいです。
ところで、こういうものに触れると万年万物にわかな自分は触発されて法律への興味も高まるのですが、
その中で法律を超越した概念として「自然法」あるいは「自然権」なるものがあると知りました。
日本では日本国憲法が最高法規であることは常識として知られており、憲法と矛盾する法律は無効になります。
それと同様にヒトとしての普遍の原則を自然法といい、
自然法論とは自然法と国の最高法規が矛盾するようであれば自然法の方を適用すべきというような考え方です
(法学徒のみなさん、間違っていたらごめんなさい)。
これはたとえば戦争の放棄をうたう第9条の是非を巡る議論でも登場し、憲法は戦争の放棄をうたっているが
他国が一方的に攻めてきた際に自己防衛のために反撃したら違憲になるのか、
いや「正当防衛」は自然権なのだからそれは反撃したとしても違憲ではない……みたいに使われるわけですね。
ここでの「普遍の法則」とは、人類の歴史の中で一貫して正しいとされている道徳的価値観、あるいは理性を言い、
たとえば黄金律(自分がしてもらいたいことを他人にせよ / 自分がされたくないことは他人にするべからず)
などが当てはまります。
現代において黄金律が本当に普遍の価値観なのかという議論はさておき、
こうしたことは時の政府や立法機関というよりは宗教や哲学者によって見出されてきました。
日本は特定の宗教が根付いていない国なので(「宗教文化」はものすごく身近ですが)、
黄金律のような概念の重要性はなかなか実感できないのではないかと思います。
だからこそ市井に蔓延る基本ルールがどんどん複雑化して窮屈さを感じやすくなっているのでしょうか。
そこを客観視でき、しかもシンプルで誰にも分かりやすい形で明文化されているのは宗教の便利なところです。
かつて丸の内ジュンク堂でたまたま見かけたウィトゲンシュタインの本に触発されて
「ブログに書いた普遍的な価値観を集約できないか」と思いついたことがありました(#06271 / 2021年02月17日)。
20年以上もブログを続けていると価値観はどんどん移り変わっていきますが、
その中でもずっと変わらない「真理」と言っても差し支えないような価値観も少なくありません。
それを集めて集約すれば文字通りに自分にとってのバイブルになるのではないか、という話です。
この計画を実行するのはまだまだ先ですが、今回の件で若干解像度が上がった気がします。
すなわち、ブログの集約結果としての「個人の憲法」を作るという計画。
これを実現するためにも、書いたら終わりではなく過去のアーカイブともきちんと向き合っていきたいところです。