私立大学削減へ
先月末、財務省が「2040年までに私立大学を250校削減する」という提言を行い、話題になっていました
(引用:読売新聞『私立大学250校削減案、財務省が2040年目標(2026/04/30) 』)。
簡単に要約すると、少子化によって1992年→2024年で18歳人口は約半分になっているにも関わらず、
私大の数は384校→624校(財務省資料によれば、国公立を含むと813校)と大幅に増加しています。
これにより当然定員割れが起こり、受験生の質は低下。
それに伴い教育のレベルを下げざるを得なくなり四則計算やbe動詞から教えている大学もあるのだとか。
私大は設置すると国費が出るのですが、財務省は「その支出に見合った教育の質が確保されているか疑問」とし、
大胆な削減案を提示した、とのことのようです。
少子化が予見されていたにも関わらず私大が増え続けていた原因について少し掘り下げていくと、
2003年当時の小泉政権が推進した「聖域なき構造改革」の一環としての規制緩和が要因になっているみたいです。
いわゆる「官から民へ」の発想で大学を認可する際に国が最初からあれこれ締め付けるのではなく、
いったんは認可して大学同士で競わせ、受験生に大学を選んでもらう。
その結果質が低い大学は淘汰されるだろうというような発想で規制が緩和されたとされています(文科省の資料による)。
しかし実際には想定したような淘汰は起こらず、
私大は認可されれば国費をもらえるので競争原理もそもそもちゃんと機能していなかったと。
高校時代の自分は「大学全入時代が来た」という周囲の大人の風潮に巻き込まれるままに私大→大学院と進学し、
結果として若年時代のうち6年を棒に振った人間として、いまでも大学進学は間違っていたと思っています。
大学時代はモラトリアムとよく言われますが、
自主性に任された中で与えられた時間をこれっぽっちも有効活用できず、ただただ空白の時間を過ごしてしまった。
「大学でこれをやるぞ!」という意識が無ければ、大学生はほとんどニートみたいなものなんですよね。
まぁいまさらこれについて当時の大人や自分自身を批判したところで何が変わるわけでもないわけですが、
自分みたいな「特段勉強が好きでもない受験生でも大学へ入れてしまった」という現実は、
個人がどうこうというよりこうした政治的な決定の上で組まれた社会の仕組みに依るところが大きいのだと思います。
仮にこの250校削減が自分が受験生になる前にすでに行われていたら、自分の最終学歴は高卒だったでしょう。
それによって年収はいくらか少なくなっていたかもしれませんが、
自分にとってはコミュ力の向上が望めるのが社会人になってからだったという事情を考えると、
修士卒と比べて6年早く社会に出る方がよっぽど重要だったのではないかと思います。
大学は周囲の企業へ人材を供給する役割も担っており、Fラン大だからといってただちに淘汰するべきとは思いません。
とりわけ地方大に関しては、四則計算の授業をしてでも学生を繋ぎ止める意味はあるのかもしれない。
逆に言えば、都内にあるFラン私大は一極集中阻止の観点からも真っ先に廃止するべきでしょうね。
大学はなんだかんだで自分の人生を悪い意味で大きく変えた存在なので、
これからもこういうトピックスは取り上げることになるんじゃないかなと思っています。