Chrononglyph

このブログは、"こっぱちゃ"の日記系個人ブログです。2004年より連載中。毎日00時更新、掲載は7日遅延します。執筆に際しAI不使用。 記事を読んだら「いいね 」押して頂けると執筆の励みになります。
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#8152

欲望は服を着る

これはまだ掘り下げ不足な持論ですが、主に劣等感や自己不信、無力感などをケアする文脈において、
「いまの自分は、おおむね自分が望んだ通りになった結果だ」という考え方があります。
これまでのブログではあまり言語化してきませんでしたが、自分の信念に通底している考え方のような気もします。


たとえば自分はいまに至ってもなお独身であり、いろいろ弁解はしていますがそれに対する劣等感は拭いきれていません。
おそらくパートナーが欲しいという欲求があるのは間違いないのですが、現実はそうなっていない。
その理想と現実の差異に嫌になることがまったく無いかと言われれば嘘になります。
しかし、思い返せばこんな自分にもパートナーを得るチャンスというのは幾度となくあったはずなんですよね。
2011年のあの日をはじめとして、その後も自分の働きかけ次第で進展するチャンスは何度もあった。
そしてあのとき確かに、自分にそのボールが回ってきてどうするか選べる自由を与えられたはずなんです。
しかし自分はいずれのケースもパートナーになるかもしれない人に接近しない選択肢を自分の意思で選んできました。
その結果としての現在があり、つまりこれは自分が望んだ状況だということです。


パートナーとまでいかなくても、承認不安に陥って話し相手が欲しいと思うことはよくあります。
それも深刻な悩みで、だからこそ先日は第5のコミュニティに属したいという話を書きました(#08147 / 2026年04月06日)。
しかし一方で手放してきたコミュニティも数多くあり、
人間関係を増やすことそのものが必ずしも自分の生活を豊かにするとはかぎらないということは薄々分かっています。
つまり、孤独感を感じる現状も、自分の性格を汲み取った上で望んで作り上げたものなのではないかと。
単に人が恋しいだけならとうの昔からコミュニティ探しに動いているだろうし、
コミュ力や趣味などそれを阻む問題があるならせめて実家暮らしを継続すれば家族との距離なら近づけられる。
しかし現実はそこまで真剣にコミュニティ探しはしてこなかったし、
実家に至っては自分から距離を置いているようなところがあります。
他人と話す機会も、その気になればDiscordなどコミュニケーションアプリの利用時間を増やせば
いくらでも増やすことはできますが、あえて絞って一人時間を確保しているようなところがあります。
にも関わらず、一方では寂しいからと第5のコミュニティを探そうとしている。


これはそもそもクリティカルに波長の合う相手でないと承認不安は取り除かれないという問題もあり、
コミュニティの数を増やすことは本質的な解決にならないということに注意が必要なケースではありますが、
結局のところ自分個人の価値観と社会の価値観のズレからくる歪みなのではないかとも思っています。
コネは多い方が偉い、独身よりも既婚の方が偉い、年収は高い方が偉い、SNSのフォロワーは多い方が偉いなどなど、
社会は個人のステータスに基づきランキング化し、「より上を目指さなければならない」と煽動しているように見えます。
そしてそれに乗らない人は「負け組」で「怠慢」なのだと責めようとします。
その方が「社会は」合理的なのでしょう。
しかし、それはあまりにも個別の事情を無視した支配的な価値観であると言わざるを得ません。
仕事に人生を賭けたい人もいればワークライフバランスを重視する人もいるし、
自分のように一人時間を比較的重視する人もいれば常に誰かといないと落ち着かない人もいる。
そこに本来優劣は無いはずなのですが、人間どうしても他人と比べたがる生き物なのでいかんともしがたい。
多様性だなんだと言われて久しい世の中ですが、競争原理を否定できないのは人の性のような気がします。


問題は、自分が何かを望んでいるとしたら、それを本当に望んでいるのは誰なのかということです。
本心は一人でいる方が気楽なのに彼氏/彼女が欲しいと言って憚らないような人の場合、
それを望んでいるのは本人ではなく実は社会で、本人はその価値観を着ているに過ぎないのではないかと。
そして「裸の自分」が望んでいることは、少なくとも自分に選択権を与えられた場面では望む方を選び続けてきた。
その結果の総体こそが「いまの自分」なのではないかと思うわけです。


7年前にも似たようなことを書いていて、
当時の主張を要約すると「人生は選択の連続で構成されており、
その選択はそのときどきにおいて最善を選んできたはずである。ゆえに人生は自分の思い通りになっている」
というようなことを書いています(#05600 / 2019年04月21日)。
また過去の自分はいまの自分を構成するという考え方は古くは17年前にも書いていて(#02000 / 2009年09月01日)、
当時この考え方は日記を書く自分の信念のような位置付けでした。
自分史を文章にして受容し、解釈し、自省した結果としていまの自分がいるということです。
もしかしたらこの辺が自分哲学の核のひとつになるのかもしれません……が、
まだ十分に自己批判してきた考え方ではないので、それは今後の掘り下げ方次第かなと思います。


#8151

本当の余暇の重要性

取引市場で、長いレンジを見ていてなんらかの根拠があってこれは買い(売り)だろうという自信がある場合、
短いレンジのちょっとした下落や上昇に対して動揺することは基本的にありません。
5分足や1分足の値動きというのは砂浜のさざなみのようなもので、常に押したり引いたりするものです。
高波を待っているのなら地平線の向こう、
具体的には根拠としているファンダが本当に正しいのかどうかを注視するべきであって、
足元の動きは大した問題ではないわけです。
しかしそういった情報を持たずに1分足でテクニカル取引をしているような場合、そうはいきません。
ミユビシギ というかわいい鳥は砂浜で波が引いたのを見計らって波が残していったエサを探し回り、
次の波が来ると一斉に逃げ出すというせわしない習性がありますが、
1分足スキャルピングで取引をするような場合はそのように足元のさざなみにも過敏にならざるをえません。


自己実現や日頃の活動と、それに対する心の変化についても似たようなことが言えるのではないかと思っています。
つまり、中長期で何をやりたいのかという見通しが立っているかどうかで、
目先のタスクに対する姿勢、あるいはそのタスクの立て方や、
ネガティブな事態に陥ったときに持ち堪えられるかどうかが根本的に異なるのではないかと。
最初はとても面白いので定期的にやるようになったことも、
ある程度時間が経つとマンネリ感が漂ってきて当初のような面白さを感じられなくなってくる。
そういうときに、「いまはまだ道半ばだけどこの活動をすることで最終的に得るものがある」と信じているのと、
「いつもやっているから」と惰性で着手するのとでは充実感がまるで変わってきます。
それは他人が絡む活動でありがちですが、個人的な活動においてもある程度当てはまりそうです。
ことクリエイティブな活動については、このマンネリ期をどう凌ぐかでその活動の持続可能性がかなり変わってきそう。
短期展望だけで活動していると、容易に波に飲まれてしまうということです。
ミユビシギのように完全にそれに特化するならあるいはそれでも適応できるかもしれませんが、
人は「飽きる」という習性がある以上いかんともしがたいところがあります。


いま、自分は短期的にはややネガティブなマインドに陥っていると自覚しています。
いずれの活動も(読書以外は)新しい展開がなかなか見えて来ず、行き詰まり感が漂い始めたからです。
では長期展望が無いからダメなのかというと、決してそういうわけではありません。
むしろ長期展望があるのに機能していないからこその この悩みです。
週間・月間・年間計画はいちおう形にしているし、年間よりも広いレンジのロードマップもいちおうある。
それに対して「解像度が低い」という指摘はできそうですが、
長期展望をめちゃくちゃ具体的に書けばモチベが回復するわけでもないでしょう。
どちらかというと不足しているのは、それぞれのレンジ同士に納得感のある関連性があるのかどうかなのかもなと。


この週間計画をこなすと月間計画のここを部分的にクリアしたことになる。
ということは年間計画がこれだけ進んで、当初やりたかったことの実現にこれだけ近づく。
というようなイメージができているかどうかが、思っているよりも大切なのではないかということです。
月間計画の進捗に影響を与えない定常的な活動に追われて進捗に寄与することができていないという事実が、
いまの「ややネガティブなマインド」に少なからず影響を与えているんじゃないかなと。
ここでいう「定常的な活動」は一般的には生活を維持するための諸々のタスクや仕事が該当しますが、
自分の場合はそれにブログ執筆も含まれます。運動習慣がある人はそれも含まれるでしょう。
ブログや運動は超長期的な展望に基づく活動とも言えますが、月間計画のような中期レンジとは結びついておらず、
そういう意味で「納得感のある関連性」は見出しにくい活動です。


人はどうしても日々に進展を見出せないと心が閉じていってしまう生き物です。
そしてこの意味の進展は24時間から睡眠食事その他生活維持のための行動、仕事、超長期的な習慣等々を差し引き、
それでも残った自由時間と余力でできることからしか見出せないものなのではないでしょうか。
もちろんこれを厳密に言いすぎるとすべての娯楽を否定しかねないので「ときと場合による」のでしょうが、
こと自分に関してはもう少し中長期的な計画と地続きになっている活動を重視してもいいのかもしれません。


#8150

生活リズムの意外な適応

今日の出来事生活リズム

プロジェクト変更により仕事の時間が少し変化し、生活リズムもそれに合わせざるをえなくなりました。
この業界にいるとこういうことが(一般職と比べて)頻繁に起こりうるというのは、
生活リズム維持の観点でハンデを抱えている自分にとっては憂鬱なことです。


前年度末まではまず月・金曜のみ出社で、その日は08時10分起床→09時45分会社着→20時半ごろ帰宅という感じでした。
始業がやや遅いので朝は出社するにしては遅くまで眠れる分、帰宅時間が遅かったわけですね。
そしてテレワークの火・水・木曜は09時50分起床→19時終業でした。
翌日がテレワーク or 休日の月・火・水・金・土は03時くらいまでの夜更かしが許されていました。
休日は12〜13時ごろに起きることが多かったですね。
ちなみに自分は寝起きの負荷を減らすために起床直後のタスクは極限まで短縮しているので、
寝起きから家を出るまでは10分しかかかりません。


一方、新年度からは月・水・金曜出社で、その日は06時30分起床→08時35分会社着→19時半ごろ帰宅という感じです。
またテレワークの火・木曜は08時35分起床→18時ごろ終業となっています。
月・水・金・土はある程度の夜更かしが許されていますが、前年度ほどド深夜まで起きているのは危険になりました。
そもそも出社日は朝早く起きているので深夜まで起きていられません。
このように早起きせざるを得ないリズムに矯正されたことから、休日は09〜11時ごろに起きるようになりました。
ちなみに新年度は起床から会社着までの時間が延びていますが、これは各駅停車に乗る区間が多いためです。
そのおかげで40分くらい読書に集中する時間を確保できているので、これ自体はデメリットとは捉えていません。
が、3年前の自分なら読書よりも睡眠時間を少しでも長く確保することを優先していたような気がします。


かつて運動不足やストレスで起立性調整障害を強く疑う症状によって押しても引いても起きられなくなったことがあり、
それによって会社とトラブルさえ起こしたことのある自分にとって、朝無事に起きられるかどうかは重大な関心ごとです。
出社でさえ08時起床だった前年度と違い今年度は06時台に起きる必要があるため、
本当に朝起きられるのかという不安はかなりあったのですが、いまのところ難なくクリアできています。
前にも書きましたが、自分は近年、夜明けの時間帯にほぼ確実に中途覚醒してしまう傾向にあります。
いまのところその後二度寝できているので支障は無いと放置しているのですが、
この「夜明けに確実に一度起きる」という習性が06時に起きなければならない事情とぴったり噛み合い、
出社日は中途覚醒したらそのまま起きて出勤、テレワーク・休日は二度寝するという運用ができています。
これのおかげで、いまのところ新年度の生活リズムには自分でも意外なくらい適応できています。


このブログの最初の18年は睡眠についての悩みを書く日記だったと言っても過言ではないくらい、
かつては睡眠について深刻に悩んでいたし、それについてさまざまな迷走をしてきました。
しかし非ベンゾ系睡眠薬の適切な服用、朝の準備を極限まで削ること、ストレスと向き合うこと、睡眠環境、
習慣的な運動として出社機会を確保すること、仕事に対する責任感、一週間全体で生活リズムの平均化を意識することなど、
あらゆる方策や意識改革を試した末に、ついに安定してきたと言える時代が来たのかもしれません。
自分が2010年ごろから抱えてきた睡眠の問題をついに克服したかもと初めて実感したのは2023年末ですが、
いまのところそこから順調にさらなる改善を続けていると思います。
あとは連続出社に耐えられるかどうかですが、これだけ順調なら普通に耐えられそう。


コロナ以降、睡眠の問題があるかぎりは
テレワークできない職場には勤められない半社会不適合者という自覚がありましたが、
もしかしたらその問題はここに至ってかなり寛解してきたと言えるのかもしれません。


#8149

時代依存の価値観

昔のアニメの問題シーンに対する当時と現在のコンプラ意識の差についてAIに調査してもらっていたら、
放送当時の感想として2006年の個人ブログの記事が引用されており、
ブログの概要をついでに見てみたらなんと記事数がこのブログよりも多い約8,900本でした。
自分よりも多く書いているブロガーは珍しいのでどんな内容のことを書いているのかと見てみたら、
残念ながら2023年を最後に更新が止まっていました。
ついでにChatGPTのリサーチ能力を頼って長期運営ブログを探してみてもらうと、
5,000〜7,000本くらいのレンジではいくつか見つかりました。8,000本以上かつ継続中と指定すると無いとの回答
(つまり、このブログはChatGPTのSearch APIにひっかかっていない……)。
7000本台のブログをいくつか拝見すると、60代でうつ病に苦しんでいる社会人のブログ、
めちゃくちゃ右寄りの思想で政治についての話ばかり書いているブログなど、
まあ自分みたいにいろいろな意味で「こじらせている」ブログが多いという印象でした。
長期運営しているからといって読者数が特に多いわけではないのもここと似ていますね。
やはりブログは孤独に行き着くプラットフォームなのか……?


自分が他人のブログを読むことはあまりないのですが、
考え方が一致する長期運営ブロガーのブログならぜひ購読したいという気持ちはあります。
いわば同業者がいることはブログ執筆を強力に援護するし、そういうモチベの観点からもぜひとも見つけたい。
しかし、他人のブログを読む習慣が無いから当然といえば当然なのですが、そんな稀有な人はついぞ見つかっていません。
こうして探し続けていけばいつかは見つかるのでしょうか。


他人のブログを読んでみて改めて思うのは、
自分のブログは「自己の内面」にかなり寄っているのがある種の特徴になっているということですね。
拝見したブログはどれも時事問題を積極的に書く傾向にあり、自分のことはそこまで積極的に書いていない。
なんというかあくまでも目の前に起きた現象について書くのが主流で、
自分の心の中を積極的に言語化しているこのブログはそういう意味で少し異質なのかもと改めて気づきました。
もしかしたら、他人のブログを積極的に読むことで見えてくる景色もいろいろあるのかも……?
ただ、知らない人のブログって内容の99%は興味持てないので続かないんですよねぇ……。
それこそが長期運営ブログに人が定着しない理由なんでしょうけど。


ちなみに冒頭の「昔のアニメの問題シーン」とは、
2006年のアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で主人公のハルヒ(破天荒な女の子)がコンピュータ研究部に押しかけ、
その部長に悲劇のヒロインの朝比奈みくる(おっとり巨乳な女の子)の胸を触らせたところを写真に撮り、
撮影データで脅してパソコンを奪い取ろうというシーンです(『射手座の日』)。
コンプラ意識の高まった現代では、20周年再放送で「いまならアウトだろう」という意見が見られたそうですが、
それなら当時はどうだったんだろうなと。
そこで冒頭の8,900本書いているブログが感想を書いているのを発掘したわけです。
当該記事には「ハルヒひどいな……」と書いていて、当時からハルヒの行動は不評だったことが垣間見えます。
でも、セクハラ×イジメとも解釈されかねないこの内容はいま地上波で放送するのはさすがに当時より厳しそうではある。
当時は各キャラの立場や事情を踏まえた上でしている行動だという理解ができましたが、
ショート動画全盛の現代は炎上させるために無責任な人が都合良く切り取ってコンテンツを消費する時代ですからね。
ハルヒはセカイ系で象徴的かつ魅力的なキャラクターだと思うのですが、
そういう文脈では魅力的でも現代のコンプラ意識やネットの構造と合わなくなってきた感があり、
20年でこうも価値観が変わるのかとしみじみ思います。さらに20年後はいったいどうなっているんだろう。
こう考えると、作品に対する印象は読み手が生きている時代の価値観に依存するという意味では流動的で不可逆的で、
作品解釈というのはまるで生き物のような印象が見えてきます。
そしてそれは、他人のブログや自分のブログにも言えることなのかもしれません。


#8148

個人サイトの過剰防衛

若干過剰防衛かつ自意識過剰かなと思うのですが、
このブログをゆくゆくは「トップページ以外非公開」にしようかなと考えています。
きっかけは2つあり、まず先日の承認不安に関する考察で「匿名でもそれをやりたいならやってもいい」
という一種の試験をパスした活動は今後も継続しうるのではないかという記事を書いたこと(#08135 / 2026年03月25日)。
そこに書いた「長年の承認不安はWeb 2.0という構造上の問題なのでは?」という気づきが、
「脱Web 2.0」を推進すべきなのではないかという思想へと発展しつつあります。


脱Web2.0とはつまり、ネットにいる有象無象のユーザーに対して一切期待しないというスタンスを意味します
(ここでいうWeb 2.0とはユーザー参加型プラットフォームを言いますが、ほぼ「SNS」を指しています)。
Twitterのフォロワー、YouTubeのチャンネル登録者はもはや承認不安を増幅させる存在でしかない。
彼らはどうあがいても認めようとしないだけでなく、少しでもラインを越えれば自分を否定する可能性さえある。
このリスク認識が妄想じみたものであることは承知していますが、
とにかくSNSの仕組みはそういう不安から逃れるための安全装置を致命的に欠いているわけです。
真っ当に努力して客観的に価値のあるモノを生み出せる人はこうは考えないのかもしれません。
これは言うなればネット社会の(クリエイターとしての)敗北者の論理なのでしょう。
ただ、ネット社会を見限るにしても自分は自分のアウトプットに価値があると感じているし、
他人に見られないからといってそれを止める必要は無い。
また、有象無象ではなく信頼できる人に見てもらう余地を完全にシャットアウトするのも非合理に思える。
そこで有望に感じているのが、活動の軸足を個人サイト、つまりここに移すというものです。


とはいえ個人サイトも結局はネットに晒していることには変わりはないわけで、
「有象無象に見られたくない」ということなら個人サイトはまだ万全ではありません。
たとえば個人サイトのコンテンツをスクショしてSNSに貼られるということは全然ありえるわけです。


その発想にいたったのがもうひとつのきっかけで、
先日エゴサしていたらこのブログがいまや存続危機に陥っている匿名掲示板、5ちゃんねるに晒されていました。
本人の預かり知らぬところでその発言に対して評論や誹謗中傷等を繰り広げるいわゆる「ヲチスレ」で、
「たかだかゲームでここまで熱く語れるのは恐怖」と晒されていましたが、
当該レスは誰にも反応されることなく流されていました。せめて誰か反応してよ。
晒されたのは2024年11月で、当時ハマっていたゲームは『ポケモンカードポケット』ですが、
もしかしたら文脈的には少し前に掲載した『原神』の記事を晒そうという意図があったのかもしれません。
2024年秋当時は移転したばかりでURLも変わっており、
SEO対策もしていなかったので検索で見つけるのはかなり難しかったはず。
さらにいえば2023年05月〜2024年08月は非公開運営だったのでネット上からはアクセス不可能です。
もしかしたら晒しあげた本人はそれよりも前から自分のことを知っている誰かかも……と邪推したりもしています。


まぁ、この件は特に内容を叩かれたわけでもないのでどうでもいいんですが、
要するに個人サイトに軸足を移したとしても結局はこういう悪意的な晒しリスクは無くならないわけです。
とはいえかなりのレアケースだと思うし、逆にポジティブな反応を書かれたこともあるので(#07729 / 2025年02月13日)、
今回の件だけで決めるのはいくらなんでも早計かなとは思いますが。
単に検索流入を避けたいならトップページ以外のクロールを排除するなど、
個人サイトを全面撤退する前にできることはいろいろあり、まぁいまのところ完全撤退は可能性のひとつでしかなさそう。


脱Web 2.0もかなり極端な考えだと思うので、今後はさまざまな折衷案を模索することになると思います。
個人サイト自体はクローズド運営にしつつ、クリティカルなコンテンツはWeb 2.0に出張するのが無難そうではある。
とにかく、このところ自分の中でネット活動の持続可能性がかなり揺らいでいるのは確かで、
これを基盤レベルから安定させるか、どうしても無理なら代替活動を見つけるか、
いずれにしても中年期の本格始動に向けて変革を求められている段階であるというのは確かです。


#8147

読書を社会活動にする

今日の出来事読書

いまのところあまり順調ではないですが、
今年は良くも悪くも無難だった2025年の反省を生かして諸々の計画を遂行したいと考えています。
基本的なスタンスとしてはネット活動はもう不特定多数からの承認というのは諦めて、
想定できる具体的な誰かのためにできるかぎり有意義な活動をするという方針です。
その方針自体は妥当だと思っていますがリアルをないがしろにしているかぎりは永遠に承認不安から抜け出せないので、
それはそれとしてリアル志向の活動も何かアクションしたいという方針を考えています。


自分はざっくり言えば家族、仕事関係、ネット関係、そして上京以降の友人関係と4つのコミュニティに属しています。
とはいえこのうち仕事関係はプライベートなことを話せるわけではないのでノーカンかも。
ネット関係は趣味別に名義がありますが、本アカ以外はしょぼいので全体で1個として考えてよいでしょう。
また、かつては重要な立ち位置だった上京以前のつながりはもう消えたと考えてよいと思っています。


かつて未熟ゆえにさまざまな人間関係トラブルを起こしてきた自分にとって、
これらのコミュニティ、特にネット関係と上京以降の人間関係はきわめて大切なコミュニティです。
しかし大切だからこそ慎重な立ち回りをしており、それゆえ「すっぴんの自分」を誰にも見せられず、
だからこそ承認不安に陥っているのだと思っています。
これはもう思春期による致命的な愛の不足によるものであり、今後もずっと背負って生きる運命なのだろうし、
社会は結局のところ何かを演じて他人と関わり合うものなのかもしれないとも思っています。
しかし現状はそれにしては上京以降の友人への依存度があまりにも高いという現実があり、
せめて5つ目のコミュニティを持ちたいというのが当面の課題だと思っています。


とはいえ、自分にはそのきっかけが無いことが長年の課題でした。
唯一開かれているのが異性との出会いを目的とするマッチングアプリの類ですが、
これまでの経験を考えると恋愛ありきのつながりは相手の期待を全部背負わないといけないという不条理があり、
またこの年齢になってしまうと結婚する/しないを念頭に置かざるをえないという不合理があります。
それらは自分のステータスやポテンシャルやモチベーションを正直ベースで考えるとなかなか難しい現実があります。
理想に忠実だった20代だったらまた違う価値観だっただろうと考えると、
やはり恋愛の適齢期は20代前半なんだろうなと改めて思うわけですが、いまそんなこと考えても仕方ありません。
もう少しハードルの低い、かつ新規コミュニティに入れる余地はないものか。


これについては基本的には自分の正直な興味関心に基づく「具体的な活動」があることが前提になると考えていて、
それを土台に人間関係を広げられるかどうかを検討するということをいままでやってきました。
あるゲームにハマったらそれをテーマとするコミュニティを探すとかですね。
ただお察しの通り、自分は2週間でマイブームが移り変わるほど物事に対する意欲が薄っぺらく、
コミュニティに属する前にコンテンツに飽きてしまうのが常です。
まぁこれについては土台であるところの「ゲーム」というカテゴリが自分にはもう限界なのだと理解しています。
そもそもゲームは若者文化であり、年齢的にもマッチしているとは思えない。
かといって長年ゲームに傾倒してきた自分にとって、他にそれに相当する趣味があるわけでもない。
思春期の怠慢が祟って、手札があまりにも少なすぎるんです。
もっと体力のあるうちにさまざまなことに手を出しておけば……とは誰もが30代になってから後悔することですが、
自分もこの文脈ではそれに該当すると認めざるを得ません。


そんな孤独なモンスターである自分が現状唯一「正直な興味関心に基づく活動」として有望視しているのが読書です。
そこで、「読書会」ならどうかとふと思いました。
サラッと調べてみると、東京都内ならその手のイベントが山のようにあります。
初心者向け読書会は自分の好きな本のレビューを1〜2冊発表するだけで参加できるらしい。
常連向けでは文学部のゼミでやるような輪読もやっているらしい。
ほうほう、これはもしかしてワンチャンあるかも?
と思ってある読書会の応募フォームを見たら、なんと年齢制限を超えていました。これはショック……。
ああ、自分はもう10年単位で周回遅れの人間なのだと自覚せざるをえなかった瞬間です。
もちろんすべての読書会で年齢制限をオーバーしているわけではないですが、
多くのイベントは20〜30代をターゲットにしているため、出るとしても年配者として扱われるのは避けられません。


まぁでも、読書自体いま自分の中で勢いのある活動だし、それを誰かと共有できるのは願ったり叶ったりです。
第5のコミュニティに属したいという動機とは関係なく興味ありますね。
とはいえ語れるほど読んだ本というのは少ないので、その辺の選定と精読は必須になりそう。
逆に言えば、独力で精読までやるモチベがあるならむしろ参加しない手は無いような。
もし参加する勇気があれば、この春〜夏くらいに一度くらいはチャレンジしてみようかなと思っています。


#8146

有能な新人としてのAI

今日の出来事ai

02月からCodexで本格的にバイブコーディングをするようになって2ヶ月ほど経っていますが、
バイブコーディングという概念に対して当初抱いていたイメージと現在のイメージがだいぶ異なるので、
軽くその辺の差異について振り返っておくことにします。


まずバイブコーディングデビューした02月当時は、ものすごい開発実績を叩き出しました。
わずか1週間で全体的に低迷傾向にあった2025年の7ヶ月分に相当する規模の改修を行い(#08095 / 2026年02月13日)、
既存のwebアプリはSEO対策、セキュリティ対策、累積的なバグ修正などといった
人力コーディングでは工数の割に報われないので放置されてきたタスクが一気に片付きました。
こうしたどのようなwebアプリにも通用するような実装については、今後もAIに丸投げで良いと思っています。
これは個人のwebアプリ制作プロジェクトにAIという力強いコーダーが新たに入ってきてくれたような感覚でした。
ただ、その後も継続して新機能追加や既存コードの整理を進めていくにあたって、
やはりCodexも数あるコーディング支援ツールのひとつでしかなく、
結局のところ開発主体は自分なのだという認識が強くなっていきました。
もちろんこれはGPT-5.4現在の話でしかなく今後どうなるかはわかりませんが……。


そう思った理由はもちろん意図通りにコーディングしてくれないことがあるという実体験があるからです。
まずAIは基本的に、人間の指示は絶対のものとして解釈します。
つまり人間の指示からして方向性が誤っている場合、AIは必然的に誤っているコードを生成してしまうわけですね。
明らかな間違いはAIが実装を開始する前に確認してくれるかもしれないし、常に確認するように指示することもできます。
しかし、「自分が実装したいこと」を自分が常に正確に言語化できるとはかぎらず、
それぞれの単語のニュアンスによって方向性が微妙に異なるようなケースでは、AIは基本的にその違いを指摘しません。
さらに、実装したいことを過不足なく言語化したとしても、AIがそれを正確に解釈してくれるとはかぎりません。
AIは常にプロジェクトファイルの内容のすべてを把握しているわけではなく、
人間で言えば「めちゃくちゃ有能だけど入ったばかりの派遣社員」みたいなものなんですね。
なのでマニュアル(AGENTS.md)がよほどしっかりしていないと、AIは各ファイルの役割を正確に把握できません。
これによって齟齬が生まれると、わりと簡単にAIは勘違いします。


「プログラミングまったくできないけどClaude Codeに丸投げしてアプリ開発できた!」
というようなドヤ顔ブログをたまに見かけますが、ああいうのはイチからAIに委託するのでむしろ簡単なんです。
なぜならAIが全容を把握しつつコーディングできるので。
既存のプロジェクトにエージェントAIを導入する場合はそういうわけにいきません。
必ずどこかで人間がAIにコードの仕様、意図、役割を説明しなければならず、
そうしたドキュメントの作成をサボってきたプロジェクトではAIはあまり役に立たないこともありえます。


AIは強力なツールであることは間違いないしSEO対策みたいな汎用的なタスクの処理はすぐできますが、
既存アプリを土台に新機能を組み込むような場合は結局人間側もそこそこ頑張らないといけないということです。
もちろん、土台作りの段階からAIにフォローを入れてもらうのもアリですが、
いずれにしろAIにプロジェクトを理解してもらうテクニックは今後の開発で重要になってくるんじゃないかなと。
Codex登場当時はもう人間がコーディングする時代は終わったなどと思ったものですが、
プロジェクト整備やマニュアル化・言語化の重要性がさらに増したこと、
何も考えずにAIに任せっぱなしだといずれ人間はコードさえ理解できなくなる危険性など(#08132 / 2026年03月22日)、
むしろ人間側の負担が増えたような気がしないでもないです。


#8145

本選びの重要性

今日の出来事読書

2026年は読書を本格的に復活させたいという思いで迎えたわけですが、
最初の2ヶ月間はさまざまな事情でそれどころではなく、先月上旬からようやくスタートしました。
読書メーターに再登録して、その実績を重視してどちらかというと「乱読」気味に読み進めた結果、
なんと年間最低目標である4冊(前年に読んだ冊数+1)をわずか1ヶ月でクリアしてしまいました。
今度の勤務先は移動中に合計1時間ほど電車の席に座れるため否応なしに読書が進むという事情があり、
そういう追い風もあって今後ますます読書は加速していきそうです。
基本的には読書録を書くなどのプレッシャーが無ければ新書であれば週1冊ペースで読めると思っていますが、
もちろんそのペースを維持すること自体を目的にしないよう戒める必要があります。


いま、4冊読んで5冊目を読んでいますがこれまでの経験から感じていることをいくつか言語化します。
まず、何よりも本選びが重要であるということは改めて認識しています。
4冊読み切った感じだと、内容がやや微妙でも新書程度ならサラッと最後まで行くことはできますが、
やはり面白くない本を読むのは有意義でないのでそういう本を避ける工夫は必須かなと思います。
引っかかりやすいのは、タイトルはとても惹かれるが内容が必ずしもそれに則していないようなケースですね。
タイトルの言わんとしていることと内容が乖離しているとまでは言えないものの、
タイトルを読んで期待するこちらの思惑と書かれている内容が乖離するというケースは往々にしてあります。
先月読んだ4冊のうち2冊はそれに該当するケースでした。
それでも読めることは読めるんですが、あんまり有意義な感じはしないし目が滑りやすい。


『資本主義を半分捨てる』(青木真兵著、ちくまプリマー新書)なんかがまさにそれでした。
この本は「個人が資本主義から距離を取りつつ豊かに生きることの正しさ」が書かれているのかと期待したのですが、
実際に書かれていたのは山奥で私設図書館を開設してまったり生きる著者の自分語りでした。
「資本主義の誘惑やシステムからどう逃れるか」などの実践的な内容がメインではなかったということです。
内容がタイトルのインパクトに負けているイメージは拭えず、個人的にはかなりイマイチな本でした。
もちろんこれは個人的にニーズが合わなかったという意味であり、著者の考えを否定するものではありません。
ただ、せっかく読書するなら自分のニーズに噛み合った本を選びたいものです。


今後、こうした本選びの失敗を避けるためにやろうと思っているのは
読書メーターの書評をあらかじめ読んでしまうというものです。
実用書・新書ならネタバレは怖くないし、むしろ著者の主張を理解してから読み進めた方が内容は頭に入りやすく、
その意味でも書評を先に読んでしまうというのは有効なんじゃないかと思っています。
読書メーターはまだ再開して1ヶ月も経っていませんが結構みんな真面目にレビューしていて、
少なくともAmazonのレビューよりは信頼できそうな雰囲気を感じています。
今月はその辺の情報も処理しつつ、本探しの精度を高めることを意識していきたいところ。


#8144

出勤の時間コスト

今日の出来事通勤・通学

新プロジェクト参画3日目。
当初、とりあえず今週中はすべて出勤してほしいというプロジェクトリーダーからの要望があったのですが、
TLに相当するメンバーがみんな本社に来れない事情があるとのことで、
むしろ今日は在宅勤務してほしいとのことで初のテレワークということになりました。
今度のプロジェクトはテレワークに関して統一された制約(週○日以上出社せよ、など)はありませんが、
その辺を自主性に任せつつ、一方でPLは「まあやる気あるなら出社はするよね」という雰囲気を漂わせており、
無能だと思われたくないならなるべく出社しろという言外の圧力を感じています。
おそらく、過去にテレワークでがっつりサボる人がいてテレワーク自体を若干警戒しているのでしょう。


そんな現場の事情も鑑みて、自分はいまのところ週3出社を目論んでいます。
これまでの教訓として、テレワーク比率を高めすぎると仕事自体のモチベーションを高められない上に
連動して趣味などのモチベーションも下がりがちという傾向が自分の中にあることが分かっているので、
PLの圧力とは関係なくなるべく出社はした方が良いだろうという意識はあります。
しかし一方で連日出勤はシンプルに身体への負荷、ことに睡眠リズムの維持が難しい可能性が大いにあり、
連日出社前提にしてしまうと身体面で破綻するリスクが少なくありません。
また、出社日は単純に勤務時間(8h)+休憩時間(1h)+移動時間(3.5h)=拘束時間となるため、
電車内読書以外でプライベート活動を進める余地がほとんどありません。
自分は個人的な制約としてブログ維持のためにまず週7時間は確保した上で、
それでも余った余暇が初めて諸々の活動に使える時間として計上できるという事情があります。
そのためあんまり社畜方向に寄せてしまうとあっさり破綻してしまうリスクがあるんですよね。
なので身体面の心配とは別に趣味の維持という観点からも完全出社スタイルは避けたい。
そうした諸々を考慮した上で月・水・金のみ出社が妥当かなと考えた次第です。


それにしても移動時間だけで1日3.5時間消費するというのは改めて考えると馬鹿馬鹿しいですね。
これでも今回の勤務先は山手線内にあるという点で特に遠いわけでもなく、
多摩に住みつつ都心勤務を前提としている以上、この程度の通勤時間に文句を言える立場ではないんですよね。
通勤しつつライフ・ワーク・バランスを整えたいなら都心に住むか、
せめてもっと都心に近い地域に移住することを考えなければなりません。
この辺はお金を優先するか、時間を優先するかといった個人の選択なのかなと思っています。
自分はいまのところ地元の住みやすさ優先でテレワークできるなら片道2時間未満は許容範囲として考えてはいますが、
もっと年齢が上がってきたら住まいや体力や時間に対する価値観や事情が変わり、都心志向になるかもしれません。


#8143

前途多難な現場

今日の出来事仕事

昨日はまさかの突き指で病院に行く羽目になり、
今日は通勤区間が電車と自動車が衝突したとかで朝から運休しており、迂回ルートで出勤することになりました。
こういうときのためのテレワークですが、今回はまだ2日目ということで無理やり出勤することに。
というわけで昨日は突き指の話に持って行かれて書けなかった新しいプロジェクトの話をようやく書けます。


今度の現場はシンプルにシステム開発をするIT企業。
ここ数年、こういう「いかにも」な現場からはずっと遠ざかっていたので何気に久々です。
例によって自分の意欲スキルその他とマッチしたというより自社の都合でアサインされたという感じですが、
押しても引いても開発をさせてくれなかった前回と違い、今回はいちおう開発込みのアサインの予定です。
ただしweb系ではないので専門外と言ってしまえばそれまでの領域で、その点では不安しかありません。
いままでと違うのは自社の人間がすでに何人かいて、さらに自分と同時に入る人がいるという点。
まだどんな人なのかさっぱり掴めていませんが、そこのつながりは重視したいところです。
ちなみに事前情報だと自社のそこそこ偉い人も参画しているという話でしたが、
まったく別の部署みたいなので当面意識することはなさそう。


現場の雰囲気はなんというかただただ良くも悪くもシステム開発の現場というような感じ。
つまり、新規の人は原則として即戦力という前提があり、設計書その他を「読んでおいて」で丸投げ。
既存メンバーは自分の持っているタスクで手一杯。
この雰囲気に飲まれて手をこまねいていたら後々大問題になることが目に見えているわけで、
現場独自のルールなど分からないことは分からないと堂々と言う覚悟が必要になってきます。
こういう現場を渡り歩いてきた人なら、設計書丸投げでもある程度通用するのでしょう。
むしろそれが普通だからこそのこういう対応なのかもしれない。
自分は幸か不幸かこういう「普通の」現場を避け続けてきたようなところがあるため、
今回改めて「あ、この業界に居続けるの厳しいかも」と直感しました。
少なくともweb系じゃないとダメなのではなかろうかと。
今後も生き残れるかどうかは今回の現場で試されることになるんじゃないかと思います。


いちおう現場の人柄や雰囲気はそこまで悪くはなさそうな空気を感じとっていますが、
これも例によって業界あるある(偏見)なことに上にいる人ほど教えるのが下手そうな雰囲気がぷんぷんします。
もしこの予感が当たってしまうとかなりしんどい現場になることは確定しそう。
その場合、最速で9月末で逃げることになります。
自分に割り振られたタスクがいったんそこまでなので(そのための増員らしい)、
望む望まざるに関わらずそこで終わりになるかもしれませんが。


いまのところ現場の雰囲気は少し嫌な予感がするだけで、
むしろいままでが楽すぎたのは間違いないのである程度の反動は覚悟の上ではあるのですが、
どちらかというと3連勤&06時起きのキツさに参っています。
終業が早いので慣れればある程度適応できそうだけど……このままでは趣味活動は維持できないだろうなと。
少なくともブログで手一杯になりそうな気配。
いちおう出社日は自分で選べるものの週3程度の出勤は要請されているので、
連勤がキツいことを鑑みて月・水・金を出勤日にしようと考えています。これで趣味を維持できるかどうか。
ただ、実は今回の通勤ルートでは行きで45分くらい座れる区間があり、非常に読書に適している事情があります。
なのでもし余暇の趣味活動が維持できない場合でも読書は維持できそう。
もちろんそれを維持するためには面白い本を探し当て続ける活動が必須なわけで、
やはりどのみちある程度の余暇が無いと困るのは確かではあります。


新年度にして放り込まれた新しいプロジェクト。前途多難な予感がしていますがどうなることやら……。