Chrononglyph

このブログは、"こっぱちゃ"の日記系個人ブログです。2004年より連載中。毎日00時更新、掲載は7日遅延します。執筆に際しAI不使用。 記事を読んだら「いいね 」押して頂けると執筆の励みになります。
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#8204

寝起き改善施策

今日の出来事身体の問題

台風接近に伴い、今日と明日は強制的に在宅勤務ということになりました。
こういうとき、テレワークを選べるのはなんだかんだでIT系の強みなんじゃないかと思います。
逆に言えば、台風が来ようが休めないということでもあるのですが。


そして自分は寝違えたのか03時に目が醒めるほどお腹〜腰回りの痛みに悩まされ、
せっかくの強制テレワーク日なのにあらゆる物事が進展しませんでした。
おそらく横になったときの姿勢が悪く肋骨を圧迫したことによる痛みで、3年ぶり2回目です(#07215 / 2023年09月18日)。
ストレッチなどをして脇腹を伸ばして改善しようとするのですが1日ではなかなか効果が出ず。
座っているだけでそこそこツラいのであらゆる作業をする気になれず、
かといって横になっても、特定の角度以外は痛みを感じるのでひたすら痛くない角度を追求していました。
立って歩いている分にはツラくないので、いっそ出社の方が楽だったかもしれません。


こういうことが起きるたびに、そろそろ睡眠環境も本格的に改善しようかなという気持ちにもなります。
いまの睡眠環境は、まず前提として都内の単身向け賃貸マンションなので部屋が1部屋かつ狭いです。
それでも1人で過ごす分にはまったく困っていません。
ただ、来客があるとさすがに狭すぎるので、入居時はベッドは買わず、
来客時に片付けられる敷布団を実家から持ってきてずっと運用しています。
もう丸6年以上この睡眠環境で寝ているので今更軽率に変えたくないという事情もあるのですが、
ただ、床+敷布団だとどうしてもマットレス+敷布団の柔らかさには劣るので、
この反発力の低さが肋間神経痛みたいな症状をまれに引き起こす要因になっているのかもしれません。
まぁでも、実家に帰るとマットレスがちゃんとある実家のベッドの方が寝にくいと感じることもあるので、
単にマットレスを敷けば解決するという問題でもないような気もしますが。


おそらくですが自分はかなりの頻度で寝返りを打っており、それが直接的な要因になっている気もします。
ただ、無意識下で行われる寝返りを制御するのは土台無理な話。
できるとしたら、どんな寝返りを打っても朝起きたらどこか痛くならないような姿勢を心がけるとかでしょうか。
寝返りの制御という観点では、マットレスよりもむしろ抱き枕の方が適しているのかも?


#8203

センスについて

今日の出来事言葉の定義

個人的には、AI時代の到来によって「語彙力」「言語化能力」はかなり価値が上がったかなと思います。
自分のやりたいことを正確に言語化できれば、あとはAIがなんでもやってくれるような時代。
しかし個人の「やりたいこと」を言語化するまでのプロセスはAIはまだ十分にアシストできません。
それをも丸投げすることはできなくはないですが、そうすると成果物に対して自分が生み出したとは言えなくなり、
ある意味では言語化能力は人間に託された最後の役割のようなところがあると思います。
この最後のプロセスは、「センス」などと呼ばれることもあるでしょう。
センスだけは、AIに任せられない最後の砦のような気がします。


しかし改めて考えるとセンスという言葉も簡単なようでよく分からない概念です。
辞書で引くと、以下のように書いてあります。



センス【sense】


物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。(大辞林第三版)




きび【機微】


表面からは知りにくい微妙な心の動きや物事の趣。(同上)




びみょう【微妙】


① なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深いこと(さま)。
② はっきりととらえられないほど細かく、複雑で難しいこと(さま)。
〔自分の意見や判断をはっきり言いたくない場合や、婉曲に断ったり否定的に言ったりする場合に用いられることがある。〕
(同上)



個人的には、センスという概念はこうした辞書的意味だけでは説明しきれない側面があると思っています。
確かに、物事や人間心理の機微を正確に読み取って
それを芸術作品等のアウトプットに反映するのを「センスがある」と言うことに異論はありません。
しかし一方で、コンテキスト(文脈)を正確に読み取った上で、
「この部分にはこういう表現が一番しっくり来る」と多くの人が納得するようなアウトプットができることも、
個人的にはセンスがあってこそなせる業なのかなとも思います。
前者はアウトプットする対象概念を読み取って反映することを言うのに対して、
後者は対象概念の前後・周囲にある概念との相対的な位置関係を考慮しているという点で、大きく異なります。
文学で言えばある〈微妙〉な事象を説明するのに巧みな表現を使っていればそれは前者の意味のセンスだし、
前後の文脈を踏まえて物語を流れるように展開し読者を引き込むのは後者のセンスでしょう。


音楽でも、すぐれた作品は「ここでこの音源を使うのは分かってるね!」と思わずうなるような展開をするものです。
それは作曲家の音源的なボキャブラリーが豊富だからこそ為せる業なのでしょう。それもセンスだと思います。
こういうことは文学や音楽に限らず、ゲームや漫画、ファッションや家電製品までさまざまな芸術にも言えることです。
webデザインにだって言えると思います。
デザイン的にすぐれたwebサイトは、余白、色使い、フォント、レイアウトに統一的なコンセプトが感じられ、
あらゆるデザインパーツがその文脈を逸脱しないように設計されているものです。
実際にサイトを作っていると、
「このフォントはしっくり来ないな……」「この色はこのサイトらしいかも!」などといった試行錯誤をするものです。
webサイトは(芸術とみなした場合)どちらかというと後者的なセンスを重んじるものなのかもしれません。


この「文脈」というのは必ずしも作品内の関係性だけで言えるものではなく、
その芸術を味わう人の世界観にも大きく影響されます。
大衆文化ならその時代の大衆にとって「しっくりくる何か」を表現することが求められるし、
あるクラスタに向けた作品であれば、その属性のコンセンサスをしっかり守っていることが求められるわけです。


直感的には、消費する人に迎合できればセンスがあると言い切れるものでもないような気がしますが、
少なくとも従来世界は「機微な情景」を表現できる人はセンスがあるとみなされてきたと思います。
しかし今後、コンテキストを読み取って答えを出すのはAIの仕事になると思われ、
そういう意味ではAIで生み出せば従来型のセンスはあって当たり前の時代になるのかもしれません。
特にwebサイトのような簡単にAIが量産できる分野は、逆に大衆迎合的なデザインは忌避される可能性さえあります。
AIイラストの世界はただめちゃくちゃハイクオリティなだけで没個性な顔は「マスピ顔」と言って忌避されており、
すでにそこからいかに崩して個性を盛り込むかという世界になってきています。
もしかしたら、20年後くらいには「センス」という辞書的意味も大きく変わっているのかもしれません。


#8202

所有欲に追いつかない余暇

今日の出来事ゲーム一般

自分の中で衰退し続けているコンシューマーゲーム。
ただ、衰退しているからといって嫌いになったわけではなく、むしろゲーム文化はずっと好きです。
しかし、とにかく「ゲームをする」という行動が日常の動線から外れてしまっているいま、
本腰入れてゲーム以外のタスクを退けてゲームのためだけの時間を確保し、腰を据えないとプレイできません。
これはゲームがどうこうというよりライフスタイルの問題、あるいは精神的余裕の無さに起因していると思われ、
そういう意味では今後改善したい課題ではあります。
少なくとも、日常の動線から外れたからといってゲームを「卒業」すると宣言するのはダサいと思っています。
まぁ、確かに自分の腕前で中年以降も持続可能かと言われるとかなり厳しいのは現状なんですが……。


とにかく昨今は、2025年のNintendo Switch 2発売で高まったゲーム復帰の期待から一転、
『ポケモンレジェンズZ-A』『カービィのエアライダー』と立て続けにビッグタイトルを積んでしまった反省から、
2026年はビッグタイトルだからといって軽率に買うまいと思っていました。
が、そこへ自分の最推しポケモンが主人公×サンドボックスゲームという反則級に心を動かすタイトルが登場。
それでも当初は「直近2タイトルを積んでいる自分にやる資格はないか……」と思っていたのですが、
SNSで上がってくるプレイ報告に刺激され、
これのために実家帰省するという条件をつけて結局今年1本目として『ぽこあポケモン』を買うに至りました。


しかしそこまで心を動かされたぽこポケでさえ、実家帰省中は順調に進行していたものの、
東京に戻ってきた途端にプレイ機会が失われて結局中盤で放置していまに至っています。
やはり現状では何も考慮せずにゲーム時間を確保するのはもはや不可能で、
一週間に詰め込まれたタスクよりも意図的に優先してゲームを遊ぶ時間を確保する必要がありそうです。
とはいえ、やるべきことの量と猶予時間のバランスを考えると、わかっていてもなかなか優先度を上げられていません。


これの問題点は、ゲームのプレイ機会は確実に減っているのに、
新作が欲しいと思う気持ちは減衰しているわけではないということなんですよね。
それは所有欲なのか、ゲーマーとしての自尊心なのか、新作への期待感なのか……。
明確な動機は分かりませんが、とにかく次々に積んでいるという状況があってもなお、ゲームが欲しいという気持ちはある。
そしていま、スクエニの新規IPである『冒険家エリオットと千年物語』というRPGが欲しくなっています。
これは『オクトパストラベラー』のチームが制作する2D-HDグラフィックのアクションRPGで、
昔ながらのドット絵と美麗な背景画が融合したデザインが魅力のゲームです。あと妖精フェイがかわいい。
ゲーム性もいわゆる『ゼルダの伝説 神々のトライフォース』を彷彿とさせるガッツリ系2Dアクションで、
ハマれば楽しそうなポテンシャルは感じます。


まぁ、仮に何も考えずに買ったとしてクリアはできないだろうし、
それどころか5時間プレイするのかさえ怪しいので日常の動線整理は絶対必須です。
いま自分が考えるべきなのは『冒険家エリオットと千年物語』が本当に買うに値するゲームなのかどうかとか、
ぽこポケはどうにかして最後までクリアするべきなのかどうかとか以前に、
まずはコンシューマーゲームさえまったく触れない日常が本当に妥当なのかどうかということなのかなと。


#8201

速読の見直し

今日の出来事読書

03月中旬から突然目覚めたように復活した読書習慣ですが、13冊目にしてさすがに失速してきました。
これまで月4冊(=週1冊)を目安に読みまくってきましたが、いったん方針を見直したいと思います。


失速の原因は分かっていて、読む本の選定を怠っているからだと考えています。
読書復帰序盤では、丸の内や立川へわざわざ赴いて大型書店を練り歩いたり、
Twitterの読書用アカウントのタイムラインをひたすらスクロールしたりして、時間をかけて本を探していました。
その結果として「これを読むぞ!」と決めた本なので、多少なり身が入ったのでしょう。
しかしそれが持続していたのは05月中旬までで、
05月下旬は「持ってきた本は行きの電車で読み終わってしまい、帰りの電車で読む本が無い」ということが立て続けに起き、
当日の帰りの電車で読むためだけに緊急避難的に書店で本を確保しました。
これは、要するに本を読むことそのものが目的になってしまっていることを意味します。
たまたまクリティカルに興味のある本を探し当てられれば良かったのですが、残念ながらそうはならず。
特に12冊目が(それなりに慎重に選んだつもりでしたが)かなり微妙で目が滑る本だったので、
これでモチベーションが削がれてしまった感があります。


なので、やはり本はちゃんと時間をかけて選ぶべきなのでしょう。
もちろん常に新規に買わなければならないというわけではなく、
読書ペースが復帰する以前からも積読本は溜まっているので、これを読むということでもいいでしょう。
いずれにしろ、どのような理由であれ興味の持てない本を読むのは悪手でしかないということです。
それで何かたまたま思いも寄らない好奇心を発掘できればしめたものですが、
いまのところ分の悪いギャンブルでしかないのかなと。
自分はまだそこまで「乱読」できるようなほど読書人として成熟していないのだと思います。


あと、週1冊というペースはかなり早すぎる感があり、1冊読んだらすぐに次へ行くのは考え直した方が良さそうです。
ハイペースを維持できた方がいろいろな本を読めるというのは確かにそうなのですが、
振り返り時間が皆無だと結局頭に入らないし、要約も書けないし、それだと本末転倒という気が。
もちろん読み切った上で再読するに値しない本というのもあるので、そういう本は現状のままでいいと思います。
ただそうでない本も1回読んだだけで次に行ってしまうのはもったいないような気がするし、
このスタイルだと永遠に読書録が書けないので「月4冊」にはこだわらない方が良さそうです。
ちゃんと理解したい本に出会ったら、その再読に最低1週間は確保した方がいいかも。


いずれにしろ読書のモチベーションがあろうが無かろうが、出勤日の通勤時間に他にやることがない事実は変わりません。
なので意欲が減衰したからといって読書習慣をすぐにやめるという選択肢はありません。
かといって惰性で続けるのも考えものなので、こうして立ち止まるのも大事かなと思っています。
なんなら、たまには通勤時間でガッツリ読書アカウントを流し読みする日があってもいいのかもしれない。


#8200

群れの話

今日の出来事web制作

ここ数年の承認不安に対する一連の考察を経て、僕は不特定多数に承認を求めることから卒業しようと思った。
承認不安とはつまり、「自分は誰かにとって個の確立した誰かでありたい」という欲求だったのだと思う。
ここで客体としての「誰か」を不特定多数と置いてしまうと、
それが成立するのはいわゆるインフルエンサー、著名人、有名人などのように、
何かを具体的に「成し遂げた者」にならなければならないという重すぎる制約が課される。
僕はいままでインターネット世界で個を確立するとはつまりそういうことなのだと信じて疑ってこなかった。
そうでもしなければ、匿名世界から抜け出すのは困難なのではなかろうかと。
それがあまりにも愚かな妄想だったことは一生悔やむべきだろうが、
その後悔の中で自然と、客体としての「誰か」は必ずしも不特定多数でなくてよいのではないかという発想が浮かんだ。
突き詰めればそれは0人、つまり主体としての「誰か」と同じであっても成り立つかもしれなかった。


かくして僕は20年以上のネット活動の紆余曲折を経て、
ごく少数の承認によって確立したweb制作活動と、自分自身によってのみ承認するブログ活動が活動の二本柱になった。
やっていること自体はネット黎明期からずっと変わっていない。
しかし承認不安について考えた末に「不特定多数に認められなくてもいいんだ」という事実を飲み込んだことにより、
ともすればかつては心細かったはずの少数の承認は確かに重力を得て、それは僕にとって重要な基盤になった。
改めて僕は、そうした少数の「確立した個」にとって確立した個であることに依拠し、
だからこそ今後も自分なりに活動を続けていきたいと思う志がある。


このような相互承認を是とする考えは大きくずれているとは思っていないものの、一方で確かな疑問も残る。
相互に承認する相手はただ待っているだけでは永遠に現れない。
相手がいない段階では必ず能動的に「何か」をする必要があって、
その矛先は特定の誰かを想定できない以上、不特定多数を念頭に置いた活動にならざるを得ないこともありうる。
こうなると結局元の木阿弥なのではないだろうかと考えてしまう。


そこで、これまでの紆余曲折を踏まえてインターネット世界で一歩踏みだすことを想像してみよう。
それは不特定多数のうちなるべく多くから賛同を得たいという営みというより、
自分が特定の誰かと相互承認的な関係性を構築するための「信頼できる人探し」の段階であると考えるのはどうだろうか。
その文脈ならインターネットがどれだけ実力主義で無責任なレビュワーが多くても、無関係な声はノイズとして割り切れる。
想定しているペルソナだけを考えば、必ずしも否定的意見に怯える必要はない。
真理を追い求めていることを標榜するなら、こうしたスタンスは自分勝手だと咎められるかもしれない。
しかし、個人の活動というものは果たしてそこまでのコンプライアンスを求められるものだろうか?


イルカやオオカミ、ゾウなどのように、小さな群れを作ることが合理的であることを知っている動物は多い。
ヒトも狩猟社会から現代に至るまで、小さな「群れ=社会」を作り、個々がそれに適応することによって活動してきた。
しかし、インターネット空間はそれ自体個人に手に負えないほど大きく、
そして個々のクラスタ同士の距離もきわめて近い。
この社会の在り方が抜本的に見直されるまでには長い時間がかかりそうな気がしているが、
しかし幸か不幸かその黎明期に立ち会った僕は、この未成熟なインターネット空間で立ち回るしかない運命を背負っている。
答えを出す頃には、その正解も通用しない世界になっているのかもしれない。


#8199

web業界は新たなステージへ

今日の出来事web制作

Googleが年に1度の新製品発表会「Google I/O 2026」にて、検索サービスの刷新を発表しました。
超ざっくり言えば、去年秋から提供している「AIモード」が今後の検索のメインになるということです。
おそらくですが、現在の検索結果ページは今後オプションになるのでしょう。
つまり、これからのweb検索はユーザーが直接サイトを訪問するのではなくAIが代わりに情報を集めてきて、
サイトはその引用元として表示されるだけになると。
ChatGPTを擁するOpenAIは最初からその方針でチャットアプリとweb検索を高度に融合しているし、
従来型検索エンジン最大手のGoogleがそれに追従するとなれば、もう抗えません。
これからはAI検索が主流になっていくのでしょう。


こうなると心配なのは、情報発信それ自体を目的としているwebサイトの存在意義です。
Web 2.0以降、法人にしろ個人にしろ、ある種のサイトが運営される理由の多くは広告収入が占めているはずです。
つまり、有益な情報を発信して訪問者を呼び込めばweb広告によって収入が得られる。
収入が得られるから情報発信を続けようというモチベーションが保たれていたわけですね。
それに当てはまらないのは広告以外の収益モデルを展開しているサイト、
Wikiなどのボランティアや、承認欲求のみを目的とするブログ、
あるいはそうしたリワードさえ目的としないこのブログのようなサイトに限られ、これらはもはや少数派と思われます。
要するにwebの情報の鮮度や量は広告収入モデルによってある程度支えられていると。
そしてそれらはAIモードによって一方的に引用されるだけになり、広告収入が激減することが容易に想像できます。
そうしたとき、もし従来モデルのままなら
広告収入に大きく依存する法人系サービスから順に撤退することになるのではないでしょうか。
すでに現状でも中小ニュースサイトなんかは広告ブロッカーとのイタチごっこを繰り広げているわけで、
ここにAIモードのスタンダード化によってそもそも訪問数が減るとなればトドメを刺すことになりかねないような。


広告収入モデルが崩壊すればAIが参照するサイトが激減し、情報の鮮度や量も劣化することは免れません。
AIを運用する側もそれでは困るはずなので、なんらかの変革が必要なのは確かです。
AIが参照するに値する一次情報を提供しているサイトに対してAIモデルを提供する側がお金を支払うというような。
そして、その収入源を確保するためにSearch APIはPro以上のサブスク限定にするとか。
逆に言えば、いまはAIが数多のwebサイトの情報群に「ただ乗り」しているような現状が許されているということです。
要はAIモードの実態は、発信者からすればまとめサイトやアンテナサイトみたいなもの。
特にニュースサイトなど情報の二次提供者は損でしかないので、いずれこれに対する反発が起きることでしょう。
あるいは、「webサイトで情報提供」だけで個人や中小の法人が食っていける時代が終わるのだろうか……?


#8198

長寿作品のジレンマ

今日の出来事ゲーム一般

ドラゴンクエストシリーズ40周年ということで、外伝系の完全新作『ドラゴンクエストモンスターズ4』のほか、
待望のナンバリングタイトル『ドラゴンクエストXII 夢の彼方へ』の映像が初公開されました。
……が、DQ12はもともと2021年にタイトルを発表してからすでに5年経っています。
今回は開発体制をリスタート、つまりイチから作り直したことでさらに開発に時間がかかることが表明されており、
映像初公開に喜ぶどころか失望の声の方が大きく、まあ炎上していると言っていいのではないでしょうか。
炎上という言葉をこんなにカジュアルに使ってしまうのもアレですが……。


ドラクエシリーズは前作であるDQ11が2017年発売であることを考えると、
いま「作り直した」と発表したにすぎない次回作は10年かそれ以上の間隔は開きそうです。
「ドラクエFFとポケモン、どこで差がついたのか」みたいな議論をするとき、
ドラクエFFがもはや国民的RPGと言うには苦しくなってきているのは
この発売感覚の長さのせいなのではないかとよく言われます。
自分がなんだかんだで「剣盾」まで欠かさずポケモン本編をプレイしてきたのは、
まずもっとも多感な幼少期にポケモン赤緑をプレイしたという自分にとって神聖な原風景があり、
そこから金銀→ルビー・サファイア→ダイヤモンド・パールと青春の中にポケモンがあり続けたからこそ、
自分にとってポケモンという存在が簡単には否定できない大切な文化になっているわけです。
近年のポケモンはバグが多いとか全国図鑑が無いとかいろいろ言われがちですが、
それでもコンスタントに完全新作を出し続ける姿勢を崩していないのは、その重要性を知っているからでしょう。


しかし現代ドラクエは、仮に小学4年生の子が2017年にDQ11を買って夢中になったとして、
その10年後にDQ12が発売されたとしてもすでに20歳のその子にとってのドラクエは
「子どもの頃に遊んだタイトルのひとつ」でしかありません。
よっぽど長期で遊んだケースでないかぎり、ドラクエが青春だったとはなかなか言い難い現状があります。
かといってドラクエシリーズの黄金期だった1986〜1988年当時にハマった古参ファンたちはもう50〜60代で、
いかに強烈な思い出補正があったとしてもさすがにがっつりプレイするには厳しい年齢です。
とはいえ、彼らを無視するわけにもいかない。


こう考えるとドラクエシリーズの完全新作は非常に難しい舵取りを求められているようにも思います。
発売感覚が長すぎるので、もはや現代っ子に訴求できるようなブランド力はなさそう。
つまりブランドに依存しない純粋なゲームとしての面白さを追求しないと、
さまざまな面白いジャンルが溢れかえっている現代ゲーム市場では埋もれてしまいます。
古参ファンのために今更コマンドバトルRPGを作ったところでその古参ファンしか買わないでしょう。
とはいえ面白さを重視してアクション要素を盛り込んでしまうと、60代がやるにはさすがに厳しそう。
彼らを何も考えずに見捨てたら大変なことが起きるのは目に見えています。
いっそのこと、ゲーム性はさておきストーリーやキャラに全振りするのが無難なのではないかとさえ思ってしまいます。
その方がまだ国民的RPGとしてのメンツを保てるのではないでしょうか。


80〜90年代に生まれたヒットコンテンツのうち、いまも続いているものは少なくありません。
これらは今後10〜20年で世代の壁を越えられるどうかが試されることになりそうで、
おそらくドラクエはこのまま行くとこの壁を越えられないような予感がします。
しかしそれは決して対岸の火事ではなく、
これからは世代交代の問題のみならずAI問題によってあらゆるIPが危機に晒されうるリスクを抱えていると思っています。
果たして20年後、コンテンツ産業やその会社はどうなっているのでしょうか。


#8197

AIと通報

今日の出来事LLM

スキャンダル系はシャットアウトしているという記事を書いた翌日にこれを書くのもなんですが、
どうやら野球の巨人の監督が娘に暴行したとかで大きな話題になっています。
このレベルまで話題性が大きいとさすがに自分のアンテナにも引っかかってくるわけですね。


超ざっくり現時点の状況を整理すると、まず家で長女と次女が喧嘩をしていたと。
そして元監督(当時は酩酊していたらしい)が喧嘩をやめるように注意したが二人は聞く耳を持たなかったので、
勢いで長女の胸ぐらを掴むなどして止めようとしたと。たぶん、これで喧嘩は止まったのでしょう。
しかし長女は父に胸ぐらを掴まれたことに戸惑い、これをChatGPTに相談。
ChatGPTは「父親から暴行を受けた」というプロンプトに基づき、児童相談所への連絡を提案したそうです。
そして長女はその通りにしたらしいのですが、児童相談所は18歳未満のみを対象しており、長女は18歳。
児相の担当者は、18歳なので対応はできないが状況的に切迫していると判断し警察に通報。
警察がすぐに現場に到着して、阿部元監督が容疑を認めたため逮捕(すぐに釈放)。
事態を重く見た監督は辞任を申し出て受理され、辞任記者会見では涙を浮かべながら無念の辞任となることを表明。
「思っていたよりもはるかに大事になってしまって反省している」という旨の長女のメッセージも読み上げられました。


長きにわたって巨人軍に貢献してきた名監督が、たったこれだけのことで辞任に追い込まれることに衝撃を感じました。
さて、この件で一番悪いのは誰なのでしょうか?
この件でフォーカスされやすいのはまずChatGPTに相談したというところだと思うのですが、
ChatGPTが児童相談所に相談したのは妥当だったのかどうかについて、少しだけ調べてみました。


まず、メモリを消して18歳を装ってChatGPTに「父親に虐待されているがどうしたら」という旨のプロンプトを入力すると、
「あなたの年齢では扱いが分かれるかもしれないが」と前置きしたうえで、
確かに児童虐待通報窓口である全国共通相談ダイヤル(189)を提案してきます。
これは相談窓口と各自治体の児童相談所へ繋ぐためのハブとしての機能を併せ持つ全国ネットワークで、
住所や状況を説明すればすぐに最寄りの児童相談所へつながります。
ちなみに「189では対応してくれなかった」と言った場合、
ChatGPTは#9110(警察相談ダイヤル)か110(通報)への連絡を推奨しようとしてきます。


結果的には「対象年齢でないと知りながら児童相談所への連絡を提案した」のは事実ですが、
実際に起きている出来事の通り、そうした年齢の細かな違いよりも現場の切迫感などがはるかに優先されるうえ、
児童相談所はそういう事態が起きたときに警察へ連携できることも今回明らかになりました。
完全に結果論ですが、ChatGPTが最初に189を提案したことは特に間違いではなかったということです。
自治体によっては児童相談所の対象年齢の定義を18歳の高校生まで含むとしているケースも見受けられ、
18歳という年齢は現状では「児童と成人の両方に跨いでいる」という扱いなのでしょう。
そもそも明確に児童相談所で18歳を扱えない事情があるなら、189のオペレーターが警察への通報を提案するはず。
ChatGPTは若者に「最初の相談窓口」として利用されていることを踏まえて、
今後はこうした緊急性がありつつも微妙な問題については慎重な調整が求められることになりそうです。


児童虐待は「いつでも誰でも通報でき、しかも迅速に動いてくれる仕組みが確立している」ということが今回明るみになり、
それ自体は良かったのではないでしょうか。
巨人ファンは失望したかもしれませんが、誤解が解ければ復帰も決して難しくはないと思います。
胸ぐら掴んだだけで現行犯逮捕されるならおいそれと育児や教育なんてできないんじゃないか、
と現代のコンプライアンスの厳しさに疑問を呈する声も少なくないですが、それはまた別の問題なのかなと……。
昭和を駆け抜けた全国の父親や熱心な教育者たちはこのニュースに何を思うのでしょうか。


#8196

ニュースのフィルタリング

自分は2024年初頭、芸能界の大御所である松本人志さんがスキャンダルに巻き込まれた件をきっかけに、
いわゆるニュース・防災系のアプリをすべて消してニュースアプリからほぼ卒業しました(#07339 / 2024年01月20日)。
ネットには他人の不幸を飯のタネにしたい人があまりにも多く、
もはやニュース系プラットフォームはそういう「最大勢力」が好むように高度に最適化している。
その網の中にいるかぎりは自分も感情に基づいてニュースを消費せざるをえず、生産性の無さという点で不毛である。
ニュースアプリから卒業したのはそういう理由に基づくもので、
これは個人のスタンスとしては大筋では間違っていないといまも思っています。


とはいえ完全にニュースを見ていないわけではありません。
2024年以降、最新情報は基本的にGoogleディスカバリー、Twitter各種アカウント、
そしてYouTubeの民放公式チャンネルなどによって得ています。
GoogleやTwitterは一般的な(?)ニュースアプリよりも自分好みにキュレーション傾向をコントロールしやすいため、
ほとんど自分の興味のあるトピックスや投稿しか流れてこないようになっています。
まあ、Twitterのあるサブアカは一時期VTuber界隈を多くフォローしていたこともあって、
それ関連の炎上事件がたまーに出回ってきたりしますが。
YouTubeの民放公式チャンネルは主に世界情勢と経済に関わるニュースを摂取するために観ており、
最近だとほとんどイラン情勢に関わるトランプ大統領の動向関連しか見ていません。


要はスキャンダルや暴力事件をほぼシャットアウトしているというのが現状になります。
YouTubeはGoogle Chromeの「YouTubeフィルター」という簡易なプラグインを使って、
暴力事件に関連するようなワードがタイトルに含まれている場合は表示されないような仕組みを採用しています。
自分という一個人が、見知らぬ他人の暴力事件を知る必要性ってまったくないと思うんですよね。
それが社会問題だったとしても他に現場に近しい人はいくらでもいるのだから、彼らに任せておけばいい。
これはキャンセルカルチャーないし各種の炎上についても(当事者でないかぎり)ほぼ同等のことが言えます。


しかし最近、ちょっとしたネットサーフィンの一環でたまたまYahoo!ニュースの記事ページに辿り着いたのですが、
関連記事に凄惨な暴力事件についてのリンクが複数あり、うっかりクリックしてしまいとっても嫌な気持ちになりました。
意識してフィルタリングせずにネットニュースを見て回るとこうなるのか、と再確認した次第です。
以前、Twitterのキュレーション機能が壊れたときに
「生のネット世界はファイアウォールが機能していないP2Pのよう」と書いたことがありましたが(#07551 / 2024年08月19日)、
それは個人が無責任に発信するTwitterのみならず、
メディア系アカウントに限られるニュースプラットフォームにおいても同じことが言えるのかもしれません。


#8195

身体のメンテナンス

今日の出来事身体の問題

「身体は資本」というのは真理だと思います。
とにかく身体を大事にしろ、体力をつけろというのは中年以上の年配者が若者に言うありきたりな話題ですが、
あまりにも耳タコな話なのでそれだけを聞いても危機感はあまり芽生えてきません。
実際、自分もおそらく30歳未満のうちにこういう話を10回ではきかない回数聞いてきたと思いますが、
結局その当時は危機感らしい危機感はなにも芽生えませんでした。
「将来、ヨボヨボになったときや事故に遭って身体が思い通りに動かなくなってからではやりたいこともできないので、
健康なうちにできることをやっておけ」くらいの意味合いにしか考えていなかったわけです。
しかし、実際年配者が言いたかったのはそういう万が一の場合や遠い将来の話ではなく、
いわゆる「若者」を自称できなくなる年代になってからすぐに直面する問題のことだったのではないかと思います。
身体のパフォーマンス低下は個人の「やりたいこと」を確実に蝕む。
自由に生きたいなら、体調不良によって自己実現を阻まれないように身体を常にメンテナンスする必要があると。


実際、自分も痛感していますが身体の問題はメンタルに直結します。
誤解を恐れずに言えば、「やりたいのになんとなくできない」の7割くらいは体調不良のせいなのではないかと。
ロードマップが見えているのに何年経っても何も進展していない人というのは少なくないですが、
そういう人に話を聞くと深刻な身体的問題を抱えているケースが多く、また自分もそれに当てはまります。
つまり、少なくない人が最低限健康なパフォーマンスを発揮できないことで、
(身体的ではないことを含む)「やりたいこと」を阻まれているという現実がある。


しかし、健康状態というのはその人にとってはそれが「当たり前」であり、客観視しにくいパラメータです。
身体的パフォーマンスが悪いせいで状況がなかなか進展しないことも含めて、
こういうものだと受け入れてしまっているケースも少なくないのではないでしょうか。
自分も長年抱えている睡眠の問題で、平日午前はパフォーマンスが悪いのが当たり前、
休日午前中というのは二度寝で消化するのが当たり前という価値観で長らく生活してきました。
また大学時代の4年間のうち3分の2くらいは、昼夜逆転病によって浪費してしまったという事実もあります。
それはどう考えても自分の人生を蝕んでいるし、それによって計上した損失は計り知れません。
にも関わらず、当時の自分は半ばそれを受け入れ、改善のためになかなか動けずにいました。
本当に実効性のありそうなことをあれこれ試して結果が出てきたのはここ近年になってからです。
なぜこれを大学時代の段階からやらなかったのか、というのは悔やんでも悔やみきれません。


最近は、睡眠中の身体硬直によって発生した「コリ」が起床後のパフォーマンスを落としているのではないかと思い、
2つのストレッチを導入したところ、休日は2日ともナチュラルに10時台に起きられるという奇跡が起きました。
やったこととしては、まず朝覚醒したらうつ伏せに寝っ転がり、腰を少し浮かしてコリをほぐします。
うつ伏せになるだけでおそらく仰向け時と反対側に筋を引っ張る効果があり、かなり気持ちいいです。
さらに、テレワーク日の場合は朝会前にコーヒーを飲む猶予時間を使って、
背筋を伸ばして斜め方向に前傾することで背中全体の筋を伸ばします。
この2つを少しやるだけで、少なくとも「ああ二度寝したい……」という気持ちはかなり収まりました。
最近の自分にとって、休日にふたたび横になりたくなる(そして結果的に二度寝してしまう)のは、
眠いというより起床後のコリがツラいので少しでも楽になるために横になりたい、という欲求だったのではないかと。
朝散歩(#08187 / 2026年05月16日)を思いついて実行したこともありましたが、
基本的には腰と背中のストレッチだけでもかなりの効果はありそうです。


今後、加齢が進めば身体的パフォーマンスはどんどん落ちていくと思われますが、
その流れに少しでも抗うためにこうした小手先の改善を積み重ねていくことになるんじゃないかと思います。