Chrononglyph

このブログは、"こっぱちゃ"の日記系個人ブログです。2004年より連載中。毎日00時更新、掲載は7日遅延します。執筆に際しAI不使用。 記事を読んだら「いいね 」押して頂けると執筆の励みになります。
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#8159

久々の自然睡眠

昨夜、数年ぶりに自然睡眠で寝付くことができました。
自分は幼少期からの夜更かし癖によって生活リズムが異常に破綻しやすい特性を持っており(#07714 / 2025年01月29日)、
大学時代のような社会適応が必要ないライフステージでは概日リズムが根本的に壊れた生活を送っていました。
朝に起きたら翌朝まで起き続け、そして夕方に起きたら次は夕方まで起き続けるというような生活です。
こうした生活は「起きている時間が一般的でないだけ」と捉えられるかもしれませんが、
実際には崩壊した生活リズムで明確に覚醒しているのは起床後1〜2時間程度がせいぜいであり、
あとはめちゃくちゃ眠いのに眠れない、というような地獄が延々と続くというのが実態です。
自分は貴重な趣味第一の生活ができる大学時代の7割くらいをこれによって浪費してしまったという黒歴史があります。


基本的に幼少期〜思春期をこのように過ごしてしまうともうサポートなしで社会適応するのは難しいという現実があり、
自分は2019年から非ベンゾ系の睡眠薬を服用することによって、なかば無理やり睡眠リズムを矯正し続けています。
睡眠薬はざっくり言うと昔からあるベンゾジアゼピン系と呼ばれる依存性の強い薬と、
抗うつ作用が弱い代わりに催眠に特化し、比較的依存性が弱いとされている非ベンゾジアゼピン系睡眠薬に分かれます。
非ベンゾ系は「依存性が無い」と言われて処方されたものの、近年の研究では必ずしも依存性が無いわけではないらしく、
まあいずれにしろ睡眠薬に依存せずに生活できるならそれに越したことはありません。
しかし日常生活で寝るべきときに眠くなるという現象がまず起こらないので、頼らざるを得ない生活を続けてきました。
これはもともと生活リズムが崩れやすいという先述の個人的な事情に加え、
テレワークで起床時間が遅い、運動量が少ないなど眠くなりにくい環境を作り上げてしまっているせいもあると思います。
こうした事情から、もはや睡眠薬無しでは生活できない状況がだらだらと続いてしまっている現状があります。


昨日は06時起きの出社日だったのに加えて、帰宅後すぐにDiscordのボイチャに深夜まで入り浸っていました。
そしてなんやかんやで02時まで起き続けていたのですが、猛烈に眠くなってきたので退室したら、
そのまますんなりと眠れたんですね。まあ、20時間起きていれば眠くなるのは当たり前と言えば当たり前なのですが……。
ふだんは夜更かしするとなると夜明けだろうがなんだろうが眠くならないので、
自分にしてはかなり珍しい現象だったと言えます。
新年度からの週3出勤は出社日に限り睡眠薬に依存しない生活を実現できるポテンシャルがあるかも、と思った次第です。


#8158

出社日の利活用

今日の出来事週間計画

新年度から週3出勤になって約3週間が経過しました。
週間計画の基礎になる「1週間のルーチン」について今一度ここで整理しておきたいと思います。
まず、直近の自分の考え方として、中期目標に直接結びつく活動を少しでも進めるために、
定常的な作業とは別に余暇で何か活動する「余地」を残しておくことは重要と考えています(#05171 / 2018年02月18日)。
ここで定常的な作業とは自分にとってブログと読書が当てはまります。
言わずもがなのことかもしれませんが、仕事もこれに含まれるでしょう。
ここ3週間の実績ベースで、ブログはざっくり10.5時間/週、読書は4時間/週ほど時間リソースを使っています。
読書は実質通勤時間内に含まれるのでほぼカウントしなくてもいいかもしれませんが、
ブログは電車内ではさすがに書けないので退勤後時間を使わざるを得ません。
現状、この10.5時間は週2日のテレワーク日の退勤後と土日で捻出しているという状況です。


作業時間を数値にすると「1日は24時間もあるんだから1.5時間/日なんて大したことないな」と思いがちですが、
経験上、24時間のうち実際に稼働できる活動時間というのは非常に少ないです。
これは各々のモチベーションやポテンシャルによって大きく左右されますが、
実際に怠惰に慣れてしまった低空飛行を続けているような状況では1.5時間の捻出もまあまあ難しいという実情があります。
そんな中で定常作業だけで10.5時間取られると、シンプルに「余地」が残らないんですよね。
いまのルーチンで言うと、テレワーク日に3時間/日確保できないとその皺寄せを土日で吸収することになるため、
結果的に土日は他に何も活動できていないということが起きがちです。


物事を進展させるためには、少なくとも1日は何をやってもいい日として確保しておきたいと思っています。
これは先週日曜日にそういう状況を作れたとき、ものすごく作業がはかどったことに依ります。
毎週これができるなら、かなり理想的なルーチンと言えそうではある。
そのために現状必要なのは、「出社日も定常作業に取り組む」という方針への転換なのではないかと考えています。
出社日は06時起きなので、帰宅するとドッと疲労感が出てくるので諸々の作業が進みにくいのは否めません。
しかし、帰宅する前なら多少の余地はありそう。
そこで、上京直後は毎日のようにやっていたものの最近ご無沙汰だった、
退勤前にカフェで作業をする習慣を復活させてみるというのがひとつ有望な施策になるんじゃないかなと。


いまの通勤先は大手町駅の数駅隣なので、退勤したらまず大手町駅で降りて東京駅まで歩き、
ノマドワーク拠点として使い慣れた東京駅で夕飯を済ませ、その他に必要な買い物も済ませ、
そしていくつかのカフェのうちその日の気分で使いたいカフェでガッツリ作業をする……というのが理想的です。
外食が1日2食になる上に会社に申告している以上の交通費がかかるので金銭的なロスは若干ありますが、
それで趣味系計画を進展させられる余地を作れるなら安い気がする。


#8157

推し活動の脆弱性

承認欲求のために活動することは、成果を生み出す段階では報われるかどうかわからないという意味でギャンブルであり、
そうした活動からギャンブル性を払拭するための実践として利他活動は有望なのではないか、
というようなことをここ2年くらい繰り返し論じてきました。
利他活動(自分の利益を一切求めない、他人のためにする活動)によって「自分は社会貢献している」と実感できれば、
少なくとも活動は他人に認められないと無意味だ、というような文脈の活動よりも持続しやすいのではないかと。


そして当時の自分は「推し活動」を利他活動のひとつとして挙げました。
推し活動、つまり誰かの活動を(多くの場合金銭的に)サポートするという活動です。
パトロンサイトで課金制のファンクラブに入ってブログに全肯定的なコメントを残したり、コミケでグッズを買ったり。
推し活動が利他活動と言えるのかどうかについてはかなり厳しいような気はしていますが、
いずれにしろこれらの考えの根底には「自分が社会に埋没することに対する恐れ」から脱したいという願いがあり、
その視点からすると推し活動は「承認欲求ありきの活動」よりは若干マシのように見えます。


承認欲求ありきの活動は、認められるかどうかは他人次第であり活動主体はそれをコントロールできません。
そのため頑張っても頑張っても認められないという経験が累積すると他者不信に陥り無償では頑張れなくなります。
これは本人のスキルだけに必ずしも依存しません。時代の価値観、運、人間関係にも大いに左右されるでしょう。
そして自分は20年のネット活動の末にもはや頑張れなくなってしまったという事情がまず念頭にあります。
その点、「推し活動」は憧れている人に自分を重ねることによって、
憧れている人が社会に認められたとき、他者に褒められたとき、成果を発表したとき、
それらをあたかも自分ごととして捉えることで欲求を満たすことができます。
しかも、自分自身はファンクラブのサブスクにさえ入っておけば主体的に努力する必要もありません。
語弊があるかもしれませんが、承認欲求の投資信託みたいなイメージです。


しかしそれがいかに脆弱であるかということは、2024〜2025年にVTuber界隈を見渡して痛感しました。
推される側は、推す側の期待によって敷かれた見えないレールの上を正確に歩くことを求められていて、
そこから少しでも逸脱すると「解釈不一致だ」と叩かれます。まずこの難しさがある。
また、推しが叩かれるとそれを推している人もあたかも否定されたかのような気持ちになることは避けられません。
ホロライブ界隈はこれに派閥や不祥事の問題が加わっているので泥沼の戦争みたいなことを裏でやっているわけです。
そして決定的なのは、ファンが多いような人やキャラの推しをやっていても、
ただそれだけでは「社会に埋没することへの恐れ」は払拭できないということです。
ちょっと母数が減っただけで、結局ファンクラブ内では有象無象の一人であるということは否定できない。
そこから抜け出したいと思ったらファンとして主体的に「認められないかもしれない活動」をするしかないわけで、
結局冒頭の地点に戻ってしまいます。


この問題は、「どの程度欲求が満たされれば満足できるのか」というボーダーラインを見極める必要がありそう。
埋没している・していないという観点でこの問題を考えてしまうと、解決は不可能なのではないかということです。
それは自分が推していたVTuberもYouTube配信界隈では埋没している1人の配信者にすぎないことからも明らかです。
もしかしたらこの問題は、視点が高すぎてなんでも他人の成果を俯瞰できるからこそ深刻に思える問題なのかも。
ネット社会はそういう視点の高さがデフォルト設定だからこそ こういう悩みが深刻になっていますが、
実社会の仕事においては、自分は社会に埋没しているという事実を否定できない一方、
たとえば同じ会社でも隣の部署の人が何をやっているのかさえクローズドであるからこそ
自分の領分に集中できているというような側面もありそうです。


実社会をヒントにネット社会における立ち回りを今一度見直してみる、というのはひとつの方針としてアリだと思います。


#8156

自律の季節

前途多難感が漂っていた仕事(新年度からの新プロジェクト)については、
一番知識量のある前任者が「マニュアル読んどいて」だけで質問してもレスポンスがめちゃくちゃ遅く、
温厚そうな後任者で実質的な自分の直属の上司は新年度からの異動らしく
業務知識についてはキャッチアップがまるで追いついておらず、正直まだまだ頼りにならない。
それならもうマニュアルを聖書として読み尽くすしかないのか、しかしどこから手をつければ……
と困っていたら、マニュアルの書き間違いが原因で前任者と認識齟齬のトラブルなんかも発生。
そこでPMは「マニュアルが間違うのは仕方ないんだから鵜呑みにするな」となぜか前任者を擁護。
その場は引き下がったものの、これはもしかして上京以降で一番真っ黒な会社なのでは?
と内心不安になりました。


が、ここで腐ってしまったらいままでのキャリアやメンタル面の意識改革はなんだったんだということになります。
いまはネガティブな気持ちを抑え込んで前任者から穏便に知識を引き出すことに専念しており、
前任者も思っていたよりコミュ障ではない雰囲気も感じられているのでここが踏ん張りどころなのかも。
結局、会社の人間関係構築って自分から「諦めてしまう」から結果的に当たりが強くなってブラックに感じるわけで、
思い返せば自己責任でリタイアしたところもあったと思います。
今回、それを避けられるかどうかというのはメンタル面の大きな課題になるでしょう。
それはもしかしたら定年まで平社員で終わるか否かの分かれ道かも。


とはいえ心配事といえばそれくらいで、当初最大の懸念だった出勤日の早起きもいまのところ安定しています。
なんなら週4出勤でも支障なく行けると思うし、
出勤した方が結果的に読書もはかどるのでそっちの方がいいのかもとさえ思います。
テレワーク日は結局誰にも見られていないからこそ怠惰を貪ってしまうし、
その怠惰にどっぷり浸かって退勤時間を迎えるとプライベート活動も捗らないことが多いんですよね。
自分を律するためには、むしろ他人の目に積極的に晒される環境に身を投じるべきなのかもしれない。


その点ではゴールデンウィーク計画も若干迷っています。
当初はゴールデンウィークは帰省しないつもりで余り過ぎていた有休を03月に消化し、そこで帰省しました。
当時は新プロジェクトに入ってすぐ有休を取れる保証が無いと思っていたからです。
しかし実際には特に問題なく取れそうだし、むしろ取るならいまのうち感が漂っています。
秋にリリースを控えているので、そこに近づけば近づくほど有休を取るどころではなくなってくるでしょう。
今年のゴールデンウィークは2日有休を取得するだけで9連休にできるので、
そこでまた実家に帰れば『ぽこあポケモン』の続きができるという明確な目的もなくはない。
実家は基本的に車が無いと外に出られない閉鎖空間であり、
しかも他人と同居しているため否応なしに作業が捗る環境でもあります。
自分を律しやすいという意味では、ゴールデンウィークはやっぱり帰省するというのもアリかもしれない……?
ただ、やはり03月に帰ったばかりでそのときはあまり自律できていたとは言い難いので微妙なのは確か。
気分転換が目的なら実家ではなく地方に旅行するというのも少し考えましたが、
作業するという目的なら結局都内のカフェを巡るのが一番無難な気がしています。
カフェでノマドワークは他人の目で自分を律したい人にとってはやはり最強コスパの作業環境なんですよね。


職場の立ち回りにしろプライベート活動にしろ、自分を律するということがテーマになりそうな今日この頃です。


#8155

執筆時間のインフレ

執筆時点でこのブログの累計文字数は約1328万文字で、1記事あたり約1,628文字となっています。
実際には、平時では1,000文字を目指して書き、筆が乗ったら書けるだけ書くというようなスタイルです。
そのスタイルで書くと結果的に平均1,600文字前後に落ち着くという感じですね。
年別で見ると2007年にはすでに現在と同じくらいのボリュームになっていて、
社会人以降は年によって上振れ下振れが若干ありますが、おおむね60万文字/年をキープしている状況です。
つまり、このブログは文章量だけで見ると19年前からあまり変わっていません。


しかし近年、実はブログにかける時間というのはかなりインフレしている実感があります。
macOSのスクリーンタイム計測によると、1本あたり1時間半〜2時間程度かかっています(あくまで推定値)。
昔のブログ執筆時間については記録していませんが、体感で1時間もかかっていなかったはず。
文章量が増加傾向だった2011、2012、2019、2020年などの例外を除くと、
おおむね30〜45分くらいだったんじゃないかと思っています。
少なくとも最初期は随筆でさえ1時間半もかけていなかったはずで、
まして通常記事に時間をかけるという発想は無く、なんというかもっと乱雑に書いて投稿していました。
だからこそその頃は1日2本以上投稿といういまでは考えられないスタイルが成立していたわけです。


文字数は増えていないが執筆にかける時間は延びている。
それをもって「質が上がっている」と考えるのは軽率というものですが、内容が変化してきているのは確かです。
黎明期は「日記」としてスタートしたので、その日のことを書くのが当たり前でした。
しかしいまはどちらかというと「随筆集」みたいなスタンスで書いているような気がします。
そしてこれは何か転機があって明確に分断しているわけではなく、
黎明期も随筆的な記事を書くことはあったし、いまも日記的な記事を書くことが根絶したわけではありません。
ただ、両者の比率は明らかに変化してきている。


日記はあったことを書くだけなので、極論そこに思想めいたものはありません。
なので特に何か考えなくても書くことはできる。
ただし、日記を書くためにはブログ執筆以外の活動がある程度充実ないし進展している必要はありそうです。
一方、随筆は思想の「タネ」みたいなものさえ見つけられれば、それを膨らませて記事にすることができます。
ブログ執筆以外の活動進捗が皆無でも書ける反面、タネを膨らませるためにはしっかり考える必要があり、
また毎日同じ結論にするわけにもいかないのである程度の思想的進展が必須になり、
そのためにはかなり頭をひねる必要がありそうです。そもそも適当な「タネ」が見つからないことも多い。
昔は後者のような書き方については相当未熟だったし人としても未熟だったので、
こういう書き方はちょっと油断すると愚痴や批判などのネガティブな結論に着地することも多かったように思います。
しかし長年書き続けてきた結果、興味深い議論を自分なりに距離を取って思考することができるようになってきた。
まあ他者の批評を通過していないので客観的にこれらが妥当なのかは知りませんが、
少なくとも自分個人は近年のブログ上の議論はかなり有意義に進展してきているように感じています。
ブログというプラットフォームが、自分の思考を発展させるための足場として機能している実感がある。
その実感も見える化されるので、RPGでいうところのレベリングに近い感覚です。


そこへ来ると近年、10代から続けてきた趣味はどれもこれも限界を感じてきていて、まるで進展していない。
短期で興味を持てることはありますが、「2週間の壁」を越えて取り組み続けられる活動はもはや稀です。
特にコンシューマーゲームなど若者向けの娯楽は長期的に見ると存続はかなり危ういのが実情で、
これはそう思うようになった2022年からいまのところ一度も覆っていません。
今後どうなるか分からないし、変な先入観は持つまいと思っていますが……なかなか糸口が見えていない状況です。
それをもって、最近は「趣味そのものが減退した」「加齢で生活エネルギーそのものが落ちている」
というようなことを認識するに至りました。


が、よくよく思えばゲームをしなくなった代わりに2時間/日も時間をかけてブログを書いているではないかと。
つまり自分はいま、若者向け文化を卒業してブログをメインの趣味とするフェーズに入りつつあるのかもなぁと。
こうなることは想定していなかったわけではありません。
昔から定年を迎えたらブログ専業になるんじゃないかとぼんやり考えていたのですが……
40歳になる前にその段階に突入するというのはさすがに考えていませんでした。
まぁでも、定年前までゲームをするのが自然かと言われるとそれもどうかとは思うのでこんなものなのかもしれない。


ブログを中心に据え、それ以外を切り捨てる生活は華が無いと言ってしまえばそれまでです。
なんというか社会から隔絶された、隠居生活みたいなイメージがある。
しかしそれはポジティブに言えば活動の一切を社会に依存せずに自立しているということでもあります。
ゲームにしろ動画サイトにしろコンテンツを食い潰す活動は長い目で見るとコンテンツが枯渇したり、
トレンドが自分の価値観と食い違ったりしてうまく消費できなくなったりと意外とうまくいかないものです。
しかもそれは社会の潮流によって変化するものであり、個人はどうすることもできません。
ブログ活動はいちおうクリエイティブな部類なのでそういう消費活動における悩みとは無縁です。
人生単位の長期活動という観点では、実はブログは結構有望な活動なのかもしれない。


若者文化を切り捨てるにはさすがにまだ早すぎるとは思っていますが、
青年期から中年期の過渡期において、今後何を軸に生きていくべきかというのは折りに触れて考えることになりそうです。


#8154

プライベートサーバー炎上事件

今日の出来事ネット文化

スクエニの人気IPである「ニーアオートマタ」関連シリーズの熱心な外人ファンが、
『NieR Reincarnation』というサービス終了済みのソーシャルゲームのプライベートサーバーを建てたことで、
日本人と外国人(主には欧米人)との間でわかりやすい文化対立 が起きています(元ツイはこちら )。
ざっと双方の主張を読んだところ、
外国人は「公式が正当にプレイする可能性を閉ざしているゲームをファンによって再興することは、
それが著作権侵害だったとしても許容されるべき行為だ。文化を失うことこそが本質的な悪だ」
というようなことを言っているのに対し、日本人はおおむね一貫して
「どのような意図・目的であれ公式がサービス終了したものを公式に無許可でファンが再発するのは盗用であり、犯罪だ。
著作物をどうするかについての主権はあくまでもクリエイターにあり、消費者にそれをとやかく言う権利は無い」
というような主張が多いように見受けられます。
そしてお互いがお互いを「彼らとは分かり合えない」と呆れており、その溝の深さに驚いているようです。


結論から言えば、プライベートサーバーの設立と公開は公式が所有するアセットを一切使っていなかったとしても、
クライアントアプリを勝手に非公式サーバーへ接続させる時点で少なくともエンドユーザー利用規約に抵触するだろうし、
自前のサーバーでゲームを成立させる過程でリバースエンジニアリングやコピーガード回避をしていると思われ、
それらは明確に著作権侵害となります。
権利元のスクウェア・エニックスが怒ればプライベートサーバー運営側は消し飛ぶはずです。
そして、その辺の権利を保障するための法律は別に日本独自のものではなく、各国でも似たような規定があります。
つまり「どのような大義名分であれ、権利侵害している以上は法的にはアウトと言わざるを得ない」というのが結論かと。
海外勢は「法より倫理」という立場で文化の保存を大義名分としているようですが、
本質的に問題なのは他人も遊べるサーバーを勝手に公開していることであり、その点は倫理的にもアウトに見えます。
「ホスト本人のみか、ごく限られた人しかプレイできない」とかだったら炎上しなかったかも。
ただ、事態はそう単純なものではありません。


まず、「日本のゲーム・アニメが好きな外国人オタク」という立場になって考えると、
自分たちが好きなコンテンツが、自分たちに供給されることはあまり多くないという実情があります。
レトロゲームのような物理媒体はそもそも国内で手に入らなかったり、
DL販売にしてもリージョンや専用プラットフォームなどがややこしくてプレイが困難な可能性もあり、
そしてやっと手に入れても言語の壁があったりするわけです。
海賊版や改造版の存在はそうした問題を一挙に解決するので、
倫理的な問題はあるにせよそういうインターネット技術に頼らざるを得ないという感覚は、
まあ10000歩譲ってわからなくはない。
その点、日本はゲームに関しては公式からの供給手段がとても安定しているので理解できないのでしょう。
しかし日本でも電子書籍の購入はレンタルに等しく、ストアがサービス終了すれば全部読めなくなるというリスクを挙げて、
「公式が提供するサービスが著しく使いにくいなら、割れ(違法DL)に頼らざるを得ない」
という言説が比較的受け入れられているのを見かけたこともあり、この辺は共通感覚としてあるのかなと。


さらにやっかいなのはソーシャルゲームというものの実態です。
ソシャゲはユーザーにクライアントアプリを支給するものの、それは公式サーバーが稼働していないと起動さえできません。
そしてサーバー維持やコンテンツの制作にお金がかかる以上、
ユーザーがそれなりに課金してくれないとサービスの安定供給はなかなか難しく、
『パズル&ドラゴンズ』以降、おそるべき数のソシャゲが世に出ては消え去っています。
サ終してしまったソシャゲは基本的には遊ぶことができません。電子書籍のようなものです。
それに対して「文化の損失だ」と嘆く感覚もまあ分からなくもないです。
ソシャゲは電子書籍における紙書籍のような代替フォーマットが存在しませんからね。


しかしだからといって「ソーシャルゲームはいつでもプレイできるように保存されるべきだ」
という方向に倒してしまうと、権利者の負担はただ増えるだけになるでしょう。
たとえばサービス終了したらサードパーティのサーバーに接続する方法を用意しなければならない、
というような法律を作ったとしたら、
自分さえ楽しめればそれでいいユーザーたちは公式を攻撃してさっさと公式サーバーを撤退させ、
自分たちの裁量でやりたい放題できるサードパーティでのプレイ体験にこそ価値を見出すようになるのではないでしょうか。
もしもそれが通用するならもはや企業はお金をかけて他社IPとコラボしたりアセットを用意したりする意味がなくなるので、
ソシャゲという文化は急速に廃れていくことになるのではないかと思います。


つまり、ソシャゲのような文化は公式が手綱を握っているからこそ維持されている文化であり、
それを奪い取れるような世界線ではそもそもソシャゲというもの自体が成り立たないのではないかということです。


この辺の議論は日本人(の若者)が作品というものをどう見ているかという価値観が垣間見えて興味深いです。
同人文化に接続して考えればさらにいろいろな発見がありそうですが、まあそれはまた今度ということで。


#8153

遅延掲載スタイル

久々にweb開発が捗り、起床してからほぼ一日中取り組んでいました。
いろいろとやらねばならないことはありますが、こういうことができる日を1日は用意したいですね。
通常、日曜日はブログ更新日ということでブログの加筆修正に追われていることが多いですが、
今週はそのタスクを土曜日までにほとんど消化していたため日曜は別作業に集中できた感じです。
かなり理想的な動きができたと思っていますが、これを毎週できるとは思っていません。


そのブログについて、今日のアプデでわりと大きな変更があったのでお知らせを。
というのも、これまでは日曜日にその週の始まりから1週間分をまとめて掲載するという建て付けになっていました。
「毎日必ずブログを完成させる」というルールは仕事との兼ね合いなど生活実態と全然噛み合わないので、
1日1本ではなく7日7本書く、つまり1週間以内に辻褄を合わせられればそれでよいというのが
このブログの4代目以降のルールです。
日記系ブログとは言っているものの今日起きたことだけを書くという趣向は はるか昔に廃れているし、
このルールの方がブログ以外の活動に支障をきたさないのでこれで行かせてもらっています。


ただ、そうするとwebサイトとしての更新頻度が週1回になってしまうのが問題でした。
訪問者の視点からすると次の日曜日まではずっと同じ記事がトップに表示されているということになり、
いつ来ても同じ(たいていは最後の日曜日に書いた)記事が表示されることになり、
訪問者の再訪問率を上げたいという観点からも、日曜の記事が良くも悪くも不当に目立つという観点からも微妙でした。
そこでこれらの問題を緩和するために少しルールを変えることにしました。


簡単に言うと、掲載は現在時刻を基準に7日遅延するというのが新しい方針です。
たとえば今日この記事を書き上げたら7本アップしますが、明日04月13日に閲覧できるのは7日前の04月06日分まで。
内部には残り6日分の記事が「公開待ち」としてストックされ、毎日00時に1本ずつ解禁されるという方式です。
これなら執筆側は従来通り日曜日にまとめてアップするという体裁を保ちつつ、
webサイトとして見ると1日1本新しい記事が更新される高頻度更新のブログとして成り立つということです。
短期的に頑張って7日分未来の記事をストックしておけば事実上当日の記事を当日に公開できますが、
そうすると記事の日付と執筆日が乖離して日付が形骸化してしまう気がするので、いったんこれで行かせてください。


ところでブログ改修の方は順調でしたが、ピクチャレ大会の改修の方は大変な難工事になっています。
というのも、DBとして使っているPrisma ORMというデータベースの定義ファイルでIDEが警告を出していたので、
これを消したいと思ってCodexに働いてもらおうとしたんですね。
すると、その警告はPrisma 7.xとそれ以前の仕様変更によるものということが発覚。
しかも前バージョンは新しい記法をサポートしていないので、警告を消すには7.xにアップグレードするしかない。
しかしPrisma 7.xを入れるにはそれが依存するさまざまなソフトもそれなりに新しくないといけないらしく、
芋蔓式にソフトのバージョンアップをすることになったという次第です。
そして無事にアップグレードが終わってコンテナを動かしてみると、致命的なエラーが出るわ出るわ。
Codexがやってくれるからと軽率に初めてしまったアップグレード改修ですが、まだまだ続きそうです。
最悪の場合は警告を放置して旧バージョンのまま運用するという選択肢も留保していますが、
それはいつでも決断できるのでひとまず掘り下げられるだけ掘り下げるつもり。


#8152

欲望は服を着る

これはまだ掘り下げ不足な持論ですが、主に劣等感や自己不信、無力感などをケアする文脈において、
「いまの自分は、おおむね自分が望んだ通りになった結果だ」という考え方があります。
これまでのブログではあまり言語化してきませんでしたが、自分の信念に通底している考え方のような気もします。


たとえば自分はいまに至ってもなお独身であり、いろいろ弁解はしていますがそれに対する劣等感は拭いきれていません。
おそらくパートナーが欲しいという欲求があるのは間違いないのですが、現実はそうなっていない。
その理想と現実の差異に嫌になることが長い目で見てまったく無いかと言われれば嘘になります。
しかし、思い返せばこんな自分にもパートナーを得るチャンスというのは幾度となくあったはずなんですよね。
2011年のあの日をはじめとして、その前後も自分の働きかけ次第で進展するチャンスは何度もあった。
そしてあのとき確かに、自分にそのボールが回ってきてどうするか選べる自由を与えられたはずなんです。
しかし自分はいずれのケースもパートナーになるかもしれない人に接近しない選択肢を自分の意思で選んできました。
その結果としての現在があり、つまりこれは自分が望んだ状況だということです。


パートナーとまでいかなくても、承認不安に陥って話し相手が欲しいと思うことはよくあります。
それも深刻な悩みで、だからこそ先日は第5のコミュニティに属したいという話を書きました(#08147 / 2026年04月06日)。
しかし一方で手放してきたコミュニティも数多くあり、
人間関係を増やすことそのものが必ずしも自分の生活を豊かにするとはかぎらないということは薄々分かっています。
つまり、孤独感を感じる現状も、自分の性格を踏まえた上で望んで作り上げたものなのではないかと。
単に人が恋しいだけならとうの昔からコミュニティ探しに動いているだろうし、
コミュ力や趣味などそれを阻む問題があるならせめて実家暮らしを継続すれば家族との距離なら近づけられる。
しかし現実はそこまで真剣にコミュニティ探しはしてこなかったし、
実家に至っては自分から距離を置いているようなところがあります。
他人と話す機会も、その気になればDiscordなどコミュニケーションアプリの利用時間を増やせば
いくらでも増やすことはできますが、あえて絞って一人時間を確保しているようなところがあります。
にも関わらず、一方では寂しいからと第5のコミュニティを探そうとしている。


これはそもそもクリティカルに波長の合う相手でないと承認不安は取り除かれない(?)という問題もあり、
コミュニティの数を増やすことは本質的な解決にならないということに注意が必要なケースではありますが、
結局のところ自分個人の価値観と社会の価値観のズレからくる歪みなのではないかとも思っています。
コネは多い方が偉い、独身よりも既婚の方が偉い、年収は高い方が偉い、SNSのフォロワーは多い方が偉いなどなど、
社会は個人のステータスに基づきランキング化し、「より上を目指さなければならない」と煽動しているように見えます。
そしてそれに乗らない人は「負け組」で「怠慢」なのだという後ろめたさが多かれ少なかれあります。
実際のところその方が「社会は」合理的なのでしょう。
しかし、それはあまりにも個別の事情を無視した支配的な価値観であると言わざるを得ません。
仕事に人生を賭けたい人もいればワークライフバランスを重視する人もいるし、
自分のように一人時間を比較的重視する人もいれば常に誰かといないと落ち着かない人もいる。
そこに本来優劣は無いはずなのですが、人間どうしても他人と比べたがる生き物なのでいかんともしがたい。
多様性だなんだと言われて久しい世の中ですが、競争原理を否定できないのは人の性のような気がします。


問題は、自分が何かを望んでいるとしたら、それを本当に望んでいるのは誰なのかということです。
本心は一人でいる方が気楽なのに人前では彼氏/彼女が欲しいと言って憚らないような人の場合、
それを望んでいるのは本人ではなく実は社会で、本人はその価値観を着ているに過ぎないのではないかと。
そして自分に選択権を与えられた場面では意識的にしろ無意識的にしろ「裸の自分」の価値観が望む方を選び続けてきた。
その結果の総体こそが「いまの自分」なのではないかと思うわけです。


7年前にも似たようなことを書いていて、
当時の主張を要約すると「人生は選択の連続で構成されており、
その選択はそのときどきにおいて可能なかぎり最善を選んできたはずである。ゆえに人生は自分の思い通りになっている」
というようなことを書いています(#05600 / 2019年04月21日)。
また過去の自分はいまの自分を構成するという考え方は古くは17年前にも書いていて(#02000 / 2009年09月01日)、
当時この考え方は日記を書く自分の信念のような位置付けでした。
自分史を文章にして受容し、解釈し、自省した結果としていまの自分がいるということです。
もしかしたらこの辺が自分哲学の核のひとつになるのかもしれません……が、
まだ十分に自己批判してきた考え方ではないので、それは今後の掘り下げ方次第かなと思います。


#8151

本当の余暇の重要性

取引市場で、長いレンジを見ていてなんらかの根拠があってこれは買い(売り)だろうという自信がある場合、
短いレンジのちょっとした下落や上昇に対して動揺することは基本的にありません。
5分足や1分足の値動きというのは砂浜のさざなみのようなもので、常に押したり引いたりするものです。
高波を待っているのなら地平線の向こう、
具体的には根拠としているファンダが本当に正しいのかどうかを注視するべきであって、
足元の動きは大した問題ではないわけです。
しかしそういった情報を持たずに1分足でテクニカル取引をしているような場合、そうはいきません。
ミユビシギ というかわいい鳥は砂浜で波が引いたのを見計らって波が残していったエサを探し回り、
次の波が来ると一斉に逃げ出すというせわしない習性がありますが、
1分足スキャルピングで取引をするような場合はそのように足元のさざなみにも過敏にならざるをえません。


自己実現や日頃の活動と、それに対する心の変化についても似たようなことが言えるのではないかと思っています。
つまり、中長期で何をやりたいのかという見通しが立っているかどうかで、
目先のタスクに対する姿勢、あるいはそのタスクの立て方や、
ネガティブな事態に陥ったときに持ち堪えられるかどうかが根本的に異なるのではないかと。
最初はとても面白いので定期的にやるようになったことも、
ある程度時間が経つとマンネリ感が漂ってきて当初のような面白さを感じられなくなってくる。
そういうときに、「いまはまだ道半ばだけどこの活動をすることで最終的に得るものがある」と信じているのと、
「いつもやっているから」と惰性で着手するのとでは充実感がまるで変わってきます。
それは他人が絡む活動でありがちですが、個人的な活動においてもある程度当てはまりそうです。
ことクリエイティブな活動については、このマンネリ期をどう凌ぐかでその活動の持続可能性がかなり変わってきそう。
短期展望だけで活動していると、容易に波に飲まれてしまうということです。
ミユビシギのように完全にそれに特化するならあるいはそれでも適応できるかもしれませんが、
人は「飽きる」という習性がある以上いかんともしがたいところがあります。


いま、自分は短期的にはややネガティブなマインドに陥っていると自覚しています。
いずれの活動も(読書以外は)新しい展開がなかなか見えて来ず、行き詰まり感が漂い始めたからです。
では長期展望が無いからダメなのかというと、決してそういうわけではありません。
むしろ長期展望があるのに機能していないからこその この悩みです。
週間・月間・年間計画はいちおう形にしているし、年間よりも広いレンジのロードマップもいちおうある。
それに対して「解像度が低い」という指摘はできそうですが、
長期展望をめちゃくちゃ具体的に書けばモチベが回復するわけでもないでしょう。
どちらかというと不足しているのは、それぞれのレンジ同士に納得感のある関連性があるのかどうかなのかもなと。


この週間計画をこなすと月間計画のここを部分的にクリアしたことになる。
ということは年間計画がこれだけ進んで、当初やりたかったことの実現にこれだけ近づく。
というようなイメージができているかどうかが、思っているよりも大切なのではないかということです。
月間計画の進捗に影響を与えない定常的な活動に追われて進捗に寄与することができていないという事実が、
いまの「ややネガティブなマインド」に少なからず影響を与えているんじゃないかなと。
ここでいう「定常的な活動」は一般的には生活を維持するための諸々のタスクや仕事が該当しますが、
自分の場合はそれにブログ執筆も含まれます。運動習慣がある人はそれも含まれるでしょう。
ブログや運動は超長期的な展望に基づく活動とも言えますが、月間計画のような中期レンジとは結びついておらず、
そういう意味で「納得感のある関連性」は見出しにくい活動です。


人はどうしても日々に進展を見出せないと心が閉じていってしまう生き物です。
そしてこの意味の進展は24時間から睡眠食事その他生活維持のための行動、仕事、超長期的な習慣等々を差し引き、
それでも残った自由時間と余力でできることからしか見出せないものなのではないでしょうか。
もちろんこれを厳密に言いすぎるとすべての娯楽を否定しかねないので「ときと場合による」のでしょうが、
こと自分に関してはもう少し中長期的な計画と地続きになっている活動を重視してもいいのかもしれません。


#8150

生活リズムの意外な適応

今日の出来事生活リズム

プロジェクト変更により仕事の時間が少し変化し、生活リズムもそれに合わせざるをえなくなりました。
この業界にいるとこういうことが(一般職と比べて)頻繁に起こりうるというのは、
生活リズム維持の観点でハンデを抱えている自分にとっては憂鬱なことです。


前年度末まではまず月・金曜のみ出社で、その日は08時10分起床→09時45分会社着→20時半ごろ帰宅という感じでした。
始業がやや遅いので朝は出社するにしては遅くまで眠れる分、帰宅時間が遅かったわけですね。
そしてテレワークの火・水・木曜は09時50分起床→19時終業でした。
翌日がテレワーク or 休日の月・火・水・金・土は03時くらいまでの夜更かしが許されていました。
休日は12〜13時ごろに起きることが多かったですね。
ちなみに自分は寝起きの負荷を減らすために起床直後のタスクは極限まで短縮しているので、
寝起きから家を出るまでは10分しかかかりません。


一方、新年度からは月・水・金曜出社で、その日は06時30分起床→08時35分会社着→19時半ごろ帰宅という感じです。
またテレワークの火・木曜は08時35分起床→18時ごろ終業となっています。
月・水・金・土はある程度の夜更かしが許されていますが、前年度ほどド深夜まで起きているのは危険になりました。
そもそも出社日は朝早く起きているので深夜まで起きていられません。
このように早起きせざるを得ないリズムに矯正されたことから、休日は09〜11時ごろに起きるようになりました。
ちなみに新年度は起床から会社着までの時間が延びていますが、これは各駅停車に乗る区間が多いためです。
そのおかげで40分くらい読書に集中する時間を確保できているので、これ自体はデメリットとは捉えていません。
が、3年前の自分なら読書よりも睡眠時間を少しでも長く確保することを優先していたような気がします。


かつて運動不足やストレスで起立性調整障害を強く疑う症状によって押しても引いても起きられなくなったことがあり、
それによって会社とトラブルさえ起こしたことのある自分にとって、朝無事に起きられるかどうかは重大な関心ごとです。
出社でさえ08時起床だった前年度と違い今年度は06時台に起きる必要があるため、
本当に朝起きられるのかという不安はかなりあったのですが、いまのところ難なくクリアできています。
前にも書きましたが、自分は近年、夜明けの時間帯にほぼ確実に中途覚醒してしまう傾向にあります。
いまのところその後二度寝できているので支障は無いと放置しているのですが、
この「夜明けに確実に一度起きる」という習性が06時に起きなければならない事情とぴったり噛み合い、
出社日は中途覚醒したらそのまま起きて出勤、テレワーク・休日は二度寝するという運用ができています。
これのおかげで、いまのところ新年度の生活リズムには自分でも意外なくらい適応できています。


このブログの最初の18年は睡眠についての悩みを書く日記だったと言っても過言ではないくらい、
かつては睡眠について深刻に悩んでいたし、それについてさまざまな迷走をしてきました。
しかし非ベンゾ系睡眠薬の適切な服用、朝の準備を極限まで削ること、ストレスと向き合うこと、睡眠環境、
習慣的な運動として出社機会を確保すること、仕事に対する責任感、一週間全体で生活リズムの平均化を意識することなど、
あらゆる方策や意識改革を試した末に、ついに安定してきたと言える時代が来たのかもしれません。
自分が2010年ごろから抱えてきた睡眠の問題をついに克服したかもと初めて実感したのは2023年末ですが、
いまのところそこから順調にさらなる改善を続けていると思います。
あとは連続出社に耐えられるかどうかですが、これだけ順調なら普通に耐えられそう。


コロナ以降、睡眠の問題があるかぎりは
テレワークできない職場には勤められない半社会不適合者という自覚がありましたが、
もしかしたらその問題はここに至ってかなり寛解してきたと言えるのかもしれません。