推し活動の脆弱性
承認欲求のために活動することは、成果を生み出す段階では報われるかどうかわからないという意味でギャンブルであり、
そうした活動からギャンブル性を払拭するための実践として利他活動は有望なのではないか、
というようなことをここ2年くらい繰り返し論じてきました。
利他活動(自分の利益を一切求めない、他人のためにする活動)によって「自分は社会貢献している」と実感できれば、
少なくとも活動は他人に認められないと無意味だ、というような文脈の活動よりも持続しやすいのではないかと。
そして当時の自分は「推し活動」を利他活動のひとつとして挙げました。
推し活動、つまり誰かの活動を(多くの場合金銭的に)サポートするという活動です。
パトロンサイトで課金制のファンクラブに入ってブログに全肯定的なコメントを残したり、コミケでグッズを買ったり。
推し活動が利他活動と言えるのかどうかについてはかなり厳しいような気はしていますが、
いずれにしろこれらの考えの根底には「自分が社会に埋没することに対する恐れ」から脱したいという願いがあり、
その視点からすると推し活動は「承認欲求ありきの活動」よりは若干マシのように見えます。
承認欲求ありきの活動は、認められるかどうかは他人次第であり活動主体はコントロールできません。
そのため頑張っても頑張っても認められないという経験が累積すると他者不信に陥り頑張れなくなります。
これは本人のスキルだけに必ずしも依存しません。時代の価値観、運、人間関係にも大いに左右されるでしょう。
そして自分は20年のネット活動の末にもはや頑張れなくなってしまったという事情がまず念頭にあります。
その点、「推し活動」は憧れている人に自分を重ねることによって、
憧れている人が社会に認められたとき、他者に褒められたとき、成果を発表したとき、
それらをあたかも自分ごととして捉えることで欲求を満たすことができます。
しかも、自分自身はファンクラブのサブスクにさえ入っておけば主体的に努力する必要もありません。
語弊があるかもしれませんが、承認欲求の投資信託みたいなイメージです。
しかしそれがいかに脆弱であるかということは、2024〜2025年にVTuber界隈を見渡して痛感しました。
推される側は、推す側の期待によって敷かれた見えないレールの上を正確に歩くことを求められていて、
そこから少しでも逸脱すると「解釈不一致だ」と叩かれます。まずこの難しさがある。
また、推しが叩かれるとそれを推している人もあたかも否定されたかのような気持ちになることは避けられません。
ホロライブ界隈はこれに派閥や不祥事の問題が加わっているので泥沼の戦争みたいなことを裏でやっているわけです。
そして決定的なのは、ファンが多い人やキャラの推しをやっていても、
ただそれだけでは「社会に埋没することへの恐れ」は払拭できないということです。
ちょっと母数が減っただけで、結局ファンクラブ内では有象無象の一人であるということは否定できない。
そこから抜け出したいと思ったらファンとして主体的に「認められないかもしれない活動」をするしかないわけで、
結局冒頭の地点に戻ってしまいます。
この問題は、「どの程度欲求が満たされれば満足できるのか」というボーダーラインを見極める必要がありそう。
埋没している・していないという観点でこの問題を考えてしまうと、解決は不可能なのではないかということです。
それは自分が推していたVTuberもYouTube配信界隈では埋没している1人の配信者にすぎないことからも明らかです。
もしかしたらこの問題は、視点が高すぎてなんでも他人の成果を俯瞰できるからこそ深刻に思える問題なのかも。
ネット社会はそういう視点の高さがデフォルト設定だからこそ こういう悩みが深刻になっていますが、
実社会の仕事においては、自分は社会に埋没しているという事実を否定できない一方、
たとえば同じ会社でも隣の部署の人が何をやっているのかさえクローズドであるからこそ
自分の領分に集中できているというような側面もありそうです。
実社会をヒントにネット社会における立ち回りを今一度見直してみる、というのはひとつの方針としてアリだと思います。