Chrononglyph

このブログは、"こっぱちゃ"の日記系個人ブログです。2004年より連載中。毎日00時更新、掲載は7日遅延します。執筆に際しAI不使用。 記事を読んだら「いいね 」押して頂けると執筆の励みになります。
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#8167

入手困難な最速環境

今日の出来事Wii-U

久々に(おそらく上京以来初?)Wii Uを取り出して起動してみました。
ピクミンコミュニティでWii Uについての話になり、たまに起動しないと故障リスクが上がると聞いてのことです。


Wii Uは2012年発売の任天堂ハードで、事実上2006年発売の「Wii」の上位互換的なポジションです。
Wiiソフトも起動でき、Wii特有の操作であるWiiリモコンを接続することもできる。
Wii Uではそれに加えてタブレット的な端末が加わり、据え置きゲームにしてマルチ画面という画期的な遊び方を提案しました。
バーチャルコンソールを配信していた最後の世代でもあり、
ニンテンドーDSのバーチャルコンソールを遊べるのはこの機種が唯一となっています。
世間的には「失敗ハード」という評価が定着しており、Wiiが約1億台、Switch1が約1.5億台売っているの対し、
Wii Uは1桁少ない1356万台にとどまっています。
14年前のハードということで当然修理サポートは終わっているし、新品の入手は困難です。
ざっと調べたところジャンクに近い中古品ならメルカリで3,000〜6,000円程度で買えそう。


ところでピクミンのやり込み世界ではRTAが活発なのですが、
その中でも特に奥深いとされる(自分調べ)RTAとして『ピクミン2』のお宝全回収RTAがあります。
このRTAは走者があまり多くないのですが、
その理由としてハードルの高さはもとより最速環境を揃えるのが困難という事情があるんですよね。
『ピクミン2』はゲームキューブ版、Wii版、Nintendo Switch版とプラットフォーム別だけで3種類あるのですが、
そのうちWii版のダウンロード版がかつてWii Uに配信されており、現在はこれが最速とされています。
本当はSwitch版がロード速度の観点から最速になってもおかしくなかったのですが、
Switch版ピクミン2はなぜか本編のみ意図的にロードを早くしないように抑制する仕組みが含まれており、
さらにお宝重い海外版準拠&主要バグも潰されていることからRTAでこれを選ぶ人はほぼいない状況です。


しかし現状最速のWii U版はかなりの入手困難であるという事情があります。
Wii U本体は手に入っても、当然ながらストアは閉鎖されているのでダウンロード版の新規購入はもう不可能。
現状は持っていると判明している人から譲ってもらうか、
中古のWii Uを片っ端から買ってきてたまたまピクミンが入っているのを祈るしかないような状況です。
ダウンロード版の販売はWii U末期で、確かもうNintendo Switchが登場してから今更のように出てきたと記憶しています。
ただでさえ売れなかったWii Uなのに当時のアクティブユーザーは輪をかけて少ないと思われ、
さらにピクミンのニッチさを考慮するとダウンロード版自体あまり世に出回っていない可能性も十分あります。


自分はこのダウンロード版をたまたま(RTAをやる予定もないのに)買ったという経緯があり、
貴重なWii U版プレイ環境が手元にあります。まだ起動したことさえありません。
しかしこれも本体が壊れてしまったらそれまでなので、
壊れる予兆を感じたら速やかにデータ引っ越しをしなければなりません。
保全することを真面目に考えるなら未使用品のWii Uを手に入れたいところですが、果たして手に入るのか……。


ダウンロード専売のゲームタイトルは基本的にストアの閉鎖とともに世の中から消える運命にあります。
ピクミンに限らず、他のやり込み界隈でもDLソフトの入手困難性に悩みストアの復活を望む人は多くいそうですが、
しかし任天堂がこれを救済するのは相当難しいような気もします。
こういうことを避けるために、欲しいものは欲しいと思ったときに手に入れるのが鉄則なんですよね。
それはDL専売ゲームに限らずCDや書籍でも似たようなことが言え、
コンテンツが供給過剰だからこそ1つのコンテンツを大切に扱わなければならない時代なのだと改めて思います。


#8166

宿題としての哲学

今日の出来事哲学

去年、生涯を通じて1冊でいいから本格的な哲学書を読みたいと思ったことがありました。
当初はカントの『実践理性批判』への興味が強かったのですが、
次第に承認不安について考えている時間が長い自分はヘーゲルの『精神現象学』の方が合っていると思うようになり、
ヘーゲルに関する入門書もいくつか積んでいます。
が、最近どうもこの計画はこのままだと単に一過性の興味として過ぎ去ってしまいそうな予感がしています。


確かに古典を学ぶことの意義は小さくないと思います。
カントにしろヘーゲルにしろ、その他の哲学者にしろ、実際に生涯を賭けて読解に取り組んでいる研究者は多い。
ただ、自分個人がそれをする意義があるのかと言われるとそこは微妙なのかなと。
これは先日の、社会的欲求と個人的欲求を完全に切り分ける(#08152 / 2026年04月11日)という発想から来ています。
つまり〈既存の哲学〉について学ぶのは他人に褒められたいという気持ちを否定できないわけです。
自分はヘーゲルを読んだことがあるというステータスが欲しい、ということですね。
それは決して純粋にヘーゲルの思想を学びたいと思っているとは言えません。
そんな気持ちで哲学書に臨んだところで序章も乗り越えられないであろうことは言うまでもありませんが、
仮に読破したとしても、その苦労に見合う評価を得られるのか甚だ疑問です。
昨今の自分は、こういう徹底した一種の他者不信に立脚しているところがあります。
それもどうかというご指摘はあると思いますが、いったんここはその前提で話を進めさせてください。


もし、「自分が哲学書を読むこと」それ自体が確実に社会貢献になるなら、
他人に認められるかどうかはさておき、利他行為と割り切ってそれを実践する価値はあると思います(#07800 / 2025年04月25日)。
ただ、おそらく哲学書を読むことはそれにも該当しないような気がします。
となるとあとは純粋に自分にとっての「実利」を追い求めるしかない。
思えば近年の自分はこれら「他者承認」「社会貢献」「実利」の3すくみの狭間でことごとく迷走している気がしますが、
それは哲学的な営みでさえ例外ではないということです。


哲学が「答えのない抽象的なことに答えを出そうとすること」なら、自分はすでに哲学を実践しています。
「既存の哲学者の思想を学ぶこと」なら、まだ一度足りとも実践したことがありません。
このブログは前者の意味の哲学をすると割り切っていてそういう意味では実利に振り切っているとも言えますが、
単に自分のために考えることそのものが楽しいのでやっている活動であるとも言えます。
教養をつけること全般に言えることですが、
哲学書を読む意義を見出すとしたらそれをサポートする存在として心強いのは確かだろうなと。
そして、そういう実存について参考にするなら少なくともヘーゲルの思想は自分の興味関心に被っていて、有望なのは確か。
「生涯を賭けて精読する価値がある」とまではいかないものの、
実利の観点で読む価値はかなりありそうな気はしています。
ただ、実利といってもどこまで価値があるのかさえ未知数でありハードルが高いのは確か。


生涯を賭けて取り組みたい、というスタンスで哲学本を見定めようとするともっと良い本があるのではないかと考え、
永遠に取り組めないジレンマがありますが、この件はいったん実利のためと割り切ってしまおうかなと思っています。
今年の読書ブームの行先にいずれ哲学書を読むフェーズがやってくるかもしれません。


#8165

作曲への羨望

今日の出来事音楽制作

久々に新規ジャンルで物欲を掻き立てられるニュースがありました。
カシオがポータブルスタンドアロンサンプラー「SXC-1 」を発表。店頭価格39,930円、05月28日発売予定。
持ち運べる軽さ・小ささながら16個のパッドとミニディスプレイを備え、これ一台でサンプリングから作曲まで完結でき、
スマホ連携でデータの入出力もできるという、作曲経験の無い初心者向けのポータブルサンプラーです。
ゲーミフィケーション感覚で学べるチュートリアル動画パッケージ付き。


言うまでもなく自分は作曲経験がありません。
電子音楽を聴いてきた歴史はそれなりに長くなってきましたが、基本的に聴き専で満足しています。
イラスト制作やゲーム制作などと違って作曲は幼少期から続く創作との関連性が薄いのもあって、
音楽は好きだし作曲家を尊敬はしているものの、「自分も作曲したい!」とはなかなか思わなかったという経緯があります。
長年の活動遍歴を遡っても、作曲は完全に未知の領域。
しかしだからこそ、自分の領分やステータスとはまったく関係ない動線の「遊び」として成り立つ魅力がありそうです。
つまり、何か意義があるからとか野望を叶えるためとかといった欲求とは関係なく、
単にちょっと高価なおもちゃとして「遊ぶため」に欲しい。
まぁ、あわよくばこれで作曲の基本を身につけたいというスケベ心も無いわけではないですが……。
そこはあんまり重視すべきではないのかなとも思います。


作曲経験は無いですが、実はこの手のガジェットでできることに近い遊びはやったことがあります。
1年を通してiPod touch/iPhoneアプリに夢中だった2010年の暮れ、
ただタップするだけで作曲できてしまうアプリ「TonePad」と出会ってわりとハマっていました(#02486 / 2010年12月14日)。
このアプリはヤマハの「TENORI-ON(テノリオン)」というガジェットに触発されて作られたものだそうです。
「TonePad」でなんちゃって作曲に魅力を感じた当時の自分は
年が明けてすぐに「Music Studio」という本格的なDAWアプリを購入することを決意しますが、結末はお察し。
あと細かいところでは家族間でBMSが流行っていた当時、ほんのちょっとだけ作曲しようとしたことがありますね。
どういう曲を作りたいのか何もイメージできずにあっさり諦めましたが。


いずれにしろ、本格的な作曲は基礎知識が根本的に抜け落ちているのでハードルが高いのは確かです。
が、そのハードルをとっぱらったおもちゃなら過去にもハマった実績がありポテンシャルを感じます。
まぁSXC-1はおもちゃと割り切るにはちょっと高価な感じもするので迷いどころではあるのですが、
今後はこういうものにも手を出せるくらいの余裕は欲しいところです。


#8164

アサーション再び

今日の出来事心理学

もしかしたら、いまの自分にこそ「アサーション」の理解が必要なのではとふと思いました。
アサーションとは認知行動療法(#04865 / 2017年05月01日)でも実践されているコミュニケーション技法のひとつで、
自分も相手も自己表現したいという前提を理解した上で、相手を尊重しつつ適切な自己表現を目指すというもの。
会話の主導権を相手にすべて渡して聴き専に回ってしまうのは「ノン・アサーティブ(非主張的)」、
相手を尊重せずに自己表現するのは「アグレッシブ(攻撃的)」とし、そのどちらも避けることが良いとされています。


アサーションできていない=コミュ障、とぶった切るのはかなり乱暴な言い方になりますが、
そういう意味では自分はかつて、ノン・アサーティブでありアグレッシブでもある深刻なコミュ障だったと自覚しています。
例の長年の付き合いが消えた2件の人間関係トラブルも、
思い返せば一方はノン・アサーティブだったから欲求不満が溜まりすぎて起きたトラブルであり、
もう一方はアグレッシブだったから相手の尊厳に傷をつけてしまい起きたトラブルであると考えることができるからです。
そして諸々の反省を踏まえて、いまようやくアグレッシブなコミュ障傾向はかなり改善してきたと思っています。


一方、ノン・アサーティブな傾向は必ずしも改善していません。
だからこそ欲求不満に陥って「第5のコミュニティに属したい」などという気持ちが湧き上がってくるのだと思います。
既存の人間関係で特にトラブルは起こしていないのにそれを見限って新たな出会いを求めたくなる姿勢は、
客観的に見れば本人に問題があるからそうしているのだという可能性を否定できません。
つまり、ノン・アサーティブなコミュニケーションしかできないから自己主張できていないという不満が静かに溜まっていく。
その欲求は適切な人間関係によって解消できる(他者に解消してもらえる)という期待があればこそ、
「既存の人間関係ではダメなんだろう」という発想に至るわけです。
もしこの原因がノン・アサーティブなコミュニケーションをしている自分にあるのだとしたら、
仮に新しい人間関係を結んだとしても、この問題は解決しない可能性が高いと思われます。


ただし、自分よりさらにノン・アサーティブな傾向にある人と話す機会がある場合はこのかぎりではありません。
自分に会話の主導権を全部くれる人がいるなら、この問題は解決するかもしれない。
しかしそれは、同時に相手方にいま自分が抱いているような欲求不満を押し付けることを意味します。
それでは持続可能な人間関係を構築することはできないので、やはりある程度の自助努力は必要そうではある。
こう考えると、クリティカルに相性の良い「運命の相手」とさえ出会えれば人間関係の問題は一挙に改善する、
などという考えは現実にはありえない、自分が改善する努力を端から放棄した人の妄言なのだと分かります。


とはいえ、ノン・アサーティブを克服するのはそう簡単ではないような気がしています。
アグレッシブ(攻撃的)なコミュニケーションがダメというのは倫理的直感にも通じるので分かりやすいんですが、
ノン・アサーティブ(非主張的)なコミュニケーションがダメというのはそれと同じ文脈で説明できないどころか、
ある意味「道徳的に正しいこと」をいったん否定してみる必要性すらあるのではないかと予感しています。
つまり、聴き専に回るということ自体は、その人なりに相手を尊重している行動でもあるわけで。
ノン・アサーティブがダメと言われると「相手を尊重する〈正しさ〉より自分の欲求を優先しろと?」
とその人の誠実性を否定する話にもなりかねないと思っているのですが、
この辺は専門家の話を聞いてみないと実際どうなのかはわかりません。


実はアサーションに関する本は例の絶縁した知り合いに勧められて買って読んだことがあるのですが、
内容が陳腐に思えたのでメルカリで手放して「無かったことにした」という黒歴史があります。
知り合いが勧める本を否定してみることが、当時の自分なりに「ノン・アサーティブを超える実践」だったのかもしれません。
自己表現の機会に圧倒的な差が生じている人間関係では、
思想の相違や利害などとはまた違う文脈でそういう反抗的な気持ちも起こりうるのでしょう。
しかし6年を経て自尊心も周辺環境も一変したいま、アサーション自体は改めて学ぶ価値のある分野なのかも。
加齢によって膨張しすぎた自尊心をどう切り崩すかという問題も横たわっている昨今、
これがとっかかりになってくれればいいなとも思っています。


#8163

音楽体験のマンネリ化

音楽のマンネリ化がやや深刻な段階に入ってきたと思うので状況整理を。
自分にとって音楽は長らくiTunes Storeなどで能動的に探し、視聴などで購入候補を吟味し、
そして厳選した結果買うと決めた作品のCDアルバムを買ってライブラリに取り込んで育てていくものでした。
またライブラリを楽しむにあたってはその時点の趣向に沿った即興プレイリストを作るのが当たり前でした。
しかしタイパが大切な価値観になった昨今、これら選定作業はあまりにも手間がかかりすぎるという現実があり、
特に「アルバムを買う」という行動は上京してから大幅に衰退。
それによって新規楽曲があまり入ってこなくなり既存楽曲ばかり聴き回す時期が長く続いていましたが、
いよいよそれもマンネリ化してきて音楽趣味の滅亡を予感するようになったため、
2023年12月に長期契約を前提としてApple Musicのサブスクに加入しました。


これによって2024年は1年を通じて「音楽の年」と言えるほど音楽が再興しました。
以後、従来のマイレートとは別に「お気に入り」楽曲が蓄積していくことになり、
そこから自動再生(∞)プレイリスト機能によって似たような未知の楽曲を延々流すというスタイルが確立しました。
2025年の半ばくらいまではそれでおおむね満足していたのですが、
結局お気に入り楽曲から芋蔓式に見つける楽曲というのはそれぞれ似たようなベクトルの楽曲だったりするわけで、
いつしかお気に入りプレイリスト自体が似たり寄ったりの楽曲ばかりになってしまいました。
とはいえ、現状お気に入り以外から受動的に楽曲を発掘する方法が確立していないので、
手を打たないかぎりはマンネリから脱出できないという泥沼に陥ってしまっています。
そんな中、2007年末からずっと好きだったテクノポップ系統への飽きも少し自覚しつつありまずい状況です。
そこへ畳み掛けるようにmacOS 26におけるApple Musicの信じられないレベルのUI大改悪も重なり、
音楽関係のモチベーションは再び危険な状態です。


まぁ、結局のところスマートプレイリスト等で小手先の改善はできても、
長期的に音楽を楽しみ続けるには能動的に楽曲に興味を持ち、探すという手間を払うことは不可欠なのでしょう。
ライブラリは基本的に最後に手入れをしたときの価値観で固定化される傾向にあり、
いまの自分の「お気に入り」プレイリストもVTuberへの期待が高かったころの価値観がそのままパッケージされています。
一方、自分自身の興味関心は移ろい続けるわけで、
音楽もそれに合わせて変えていかねばどうしても本心から楽しみ続けることはできない。
これは音楽に限らないことですが、やはり長期で楽しみたいならその都度メンテすることが重要なのだろうなと。


いま、音楽に関する作業は毎月10日のライブラリバックアップのみですが、
ライブラリの点検と新曲探しも定常作業として入れようかなと思っています。
それが続くかどうかはなんとも言えませんが。


#8162

頼りにならない表題

今日の出来事読書

03月上旬からスタートした2026年の読書は、今日で7冊目を読み終わりました。
いまのところ月4冊ペースで読み進めているので、このままいくと2020年比で3倍もの冊数を読めることになります。
年間計画の当初の予定ではこのうち4冊について精読して読書録を書きたいという方針になっているので、
単純計算で9冊に1冊精読すればよいという割合になります。
が、ただ闇雲にたくさん読めばそれでよいというわけでもないので、
ここでいったん「本の選び方」について改めて考えることにします。


7冊の内訳はすべて新書で、基本的には03月の読書開始前に整備したTwitterの読書アカウントを頼りに
タイムラインに流れてくる書影を見てまずはフィーリングで「いいね」していき、
定期的にいいね欄を読み返して興味関心にマッチしているか等を勘案して「読みきれそうか」を吟味した上で、
まあ行けるだろうと判断した書籍を実店舗で探しています。
つまり、いいね→興味関心・ボリューム感→実店舗の在庫有無という3段階のチェックを経ているわけですね。
ちなみに「本を買ったという実感」を大切にしたいので、
実店舗に在庫が無いケースではAmazon等にあったとしてもいまのところ諦めています。
が、これはいずれ方針転換せざるをえないかもしれません。


このフィルタリングはまず書影(カバーイラスト、タイトル)とそれに付随する書評で絞ることになるわけですが、
7冊読んで思ったのはここが結構当てにならないということですね。
まず、新刊を紹介するアカウントは当たり前ですが新刊のことを絶対に悪く言いません。
それどころか、あらゆる語彙を総動員して内容を褒めまくるというのが通例のようです。
当然、その語彙のインパクトや評価者の影響力などによってタイムラインに出やすい・出にくいも決まるわけで、
インパクトが強い投稿ほど露出しやすいでしょう。
しかし、実際に読んでみるとそういう投稿で釣られた書籍ほど肩透かしを食うケースが多い。


これは帯についてもほぼ同様のことが言えるのですが(少なくとも帯の寄稿者の肩書きはほぼほぼ当てにならない)、
帯だけでなく「タイトルそのもの」も似たようなことが言えます。
タイトルから抱く期待は読む前が最高潮で、そこからずっと右肩下がりになるケースは結構多い。
タイトルで示唆しているテーマについて扱うのは書籍のうちほんの一部というケースもありました。
タイトルに直接紐づいたテーマで1冊がっつり語っていたらそれだけで当たりの部類という印象です。


まだたった7冊ですが、ひとまずTwitterの書評やタイトルはあまり当てにならないことがわかったので、
今後は書店で本を探す時間をもう少し意図的に増やそうかなと思っています。
あらゆる本の内容を事前チェックするのはいろいろな意味で不可能なので書影の印象からある程度絞ることはしますが、
書店の場合は気になったらその場ですぐ手に取れるので、最低でも目次は目を通す。できれば前書きも読む。
それで良さそうな候補はその場で買ってしまうのもアリだとは思いますが、
それだと購入冊数が無駄に増えそうなのでいったんタイトルをメモってネットで書評を読むのがベターかなと。


月4冊というハイペースな読書スタイルは本を読むことのハードルを下げてくれるので
これについては慣れてくるまでもうしばらく維持していこうと思っていますが、
それはそれとして精読に値する書籍とも出会いたいので、本の選び方はどんどんブラッシュアップしていきたいですね。


#8161

手がかりとしてのスマホ環境

今日の出来事ai

Codexを導入して3ヶ月ちょい経ちましたが、使い方によって明暗が分かれています。
まず、真っ当な使い方としての開発エージェントとしての使い方はおおむね順調かなと思っています。
Codexがいなかったら何ヶ月かかっていたんだろう、という難解なタスクもあっさりできるようになった。
イチから大規模なアプリを作る実践はまだですが、複雑な要件でなければなんとかなりそうな気はしています。
ただし、「理解負債」という新しい概念も登場していてこれは折りに触れて対処したいところ。
Codexに任せれば任せるほど自分のリポジトリなのに自分が理解できない部分というのが増えていくため、
意識的にキャッチアップしないといずれ初歩的な改修でさえ人力では行き詰まってしまいます。
幸い、キャッチアップ自体もCodexが補助してくれるので解決の見通しは立てやすいですが、
実務的には時短したい欲求との戦いになりそうな気がしています。
まぁ、過信は禁物ですがその辺も人間が入力するプロンプト次第なところもあり、便利なツールであることは確か。


一方、あまり順調とは言えないのがナレッジベースのアシスタントとしての運用。
自分は創作に関する設定メモをかつてはアナログノート、2010年以降は主に着想メモとしてEvernoteに溜めていましたが、
今年初頭にこれをプライベートリポジトリ化してプロジェクトとしてまとめました。
こうすることによりCodexは横断的に情報を探索することができるため、
情報の整理(矛盾がないかどうか等)、断片的な情報の集約、創作に関する壁打ち相手などに応用できるようになります。
これで創作はさらに発展する……かに思えたのですが、実際にはあまり捗っていません。
絶対にいままでよりも合理化が進んでいるのになぜ?


これは、シンプルに「スマホに対応していない」というのが原因のひとつであると思っています。
創作活動自体は腰を据えてPC環境でするのが当たり前かもしれませんが、
「創作設定を練る」という行為自体はいつどこでも発生しうる着想によって進展するものであるため、
思いついたらさっと取り出してさっとやめられるスマホの方が相性は良いです。
実際、これまで創作設定が発展してきたのは最速メモアプリ「Drafts」のおかげといっても過言ではなく、
そういう意味ではもう創作活動(の下地作り)はここ16年ほどはスマホが舞台なんですよね。


しかしCodexは現時点でスマホに対応していません。
web版なら対応していないわけではないものの、ネイティブ対応でない時点で利便性は劣るのが現実です。
じゃあ「2025年は創作が捗った」というのはなんだったのかという話になるわけですが、
Codex導入以前はChatGPT Projectsという機能で創作の壁打ちをしていたのでスマホでの創作設定が捗っていたんですね。
いまでもそれはできるんですが、こっちで進めてしまうとCodex側との情報に差が出てしまうし、
かといって現状ProjectsとGitリポジトリを同期する手段は存在しないのでどうにもならないという状況です。
まぁ、こうした現状を踏まえるといったんCodexは考えないでProjectsに絞るのが無難な気はしますが。
確かにナレッジベースを作れるのは魅力的ではあるものの、
それも「腰を据えて取り組む」タイプのタスクということなのでしょう。
情報が散乱しているのは確かなので、その整理こそ腰を据えてやりたいというのは考えているのですが、
優先度が高いわけではないのでなかなか手が出ていないのが現状です。GW計画に組み込んでみてもいいかも。


というわけで「創作はスマホ環境必須」というのがここ3ヶ月で新たに生まれた反省です。
創作は去年と違って今年はマストの計画ではありませんが、去年の勢いを殺さない程度に続けたいところです。


#8160

自責論の隙を探す

自分はどちらかというとかなりの自責論者であると思っています。
これは基本的に議論というのは自分にとって「よりよくするための足掛かり」を得ることを目指すものであり、
であればこそ「もう変えられないことに原因を求めることは不毛である」(#07491 / 2024年06月20日)という信念があるからです。
つまり、自分という個人は基本的に社会を変えられないのだから、社会に原因を求めても仕方がない。
さらに言えば、社会だけでなくその構成要素であるところの「他人」も同様です。
他人は基本的に変えられない(干渉できない)。
何かできるとしたら、他人との関わり方に関して自分の行動様式を変えるだけです。
自分のこの考え方は、2018年以降の脱メンヘラ期において
他人(社会)には基本的に期待できないんだという価値観が経験則によって強化されてきたことに依るものと思われます。
自分が抱く「他人にこうあってほしい」という願望は願望でしかないと分かってきたということですね。


とはいえ自責論も無敵ではなく、どんな議論も自分に原因を求めれば良いということでもありません。
たとえば過去の行動、あるいはそれに基づく価値観などは変えようがありますが、
一方で「自分」の中にも自分が望んで得たわけではない変えられない特性というものがあり、
これも基本的に「変えられない」ので議論の場では社会や他人と同じような扱いになります。
要するにある問題や改善点について議論するとき、それは単に自他というラインで原因や責任を切り分けているのではなく、
「変えられる何かをどう変えるか」という筋に沿った議論のことを有意義な議論だと捉えているということです。


ただ、ある概念に対して変えられるか否かというのは、個々の立場や価値観にかなり依存しそうな予感がします。
自分は社会は個人では変えられないと思っていますが、社会問題に対して意識の高い人はそうは思わないかもしれません。
個々人ができる範囲で活動すればそれが累積して社会を変えるんだ、という主張も理屈としては分かります。
つまり、ここで変えられる・変えられないと言っているのは本人の切実度にけっこう依存するんじゃないかなと。
自分が実践している自責論的な議論というのは、足元のメンテナンスにすぎないのではないかと改めて思います。
とはいえ、それ自体が大きく間違っているとも思っていません。
個人ができるのはせいぜいそういう積み重ねで少しずつ改善することくらいだと思っているので。


ただ、それはそれとして、変えられないと直感したものをただそれだけで議論の舞台からおろすのではなく、
いちおう「見る側の視点を変えたらもしかしたら変えられるかも?」と考えてみることはやってみてもいいのかも。
自分には他人にも通用するような真理を追い求める余裕もキャパシティも無いですが、
あまりにも個人的すぎることを延々考えるのもそれはそれで不毛と思われ、
説得力を持たせたいと思えばこそ、もう少し客観視することに骨を折ってみてもいいのかなと思った次第です。


#8159

久々の自然睡眠

昨夜、数年ぶりに自然睡眠で寝付くことができました。
自分は幼少期からの夜更かし癖によって生活リズムが異常に破綻しやすい特性を持っており(#07714 / 2025年01月29日)、
大学時代のような社会適応が必要ないライフステージでは概日リズムが根本的に壊れた生活を送っていました。
朝に起きたら翌朝まで起き続け、そして夕方に起きたら次は夕方まで起き続けるというような生活です。
こうした生活は「起きている時間が一般的でないだけ」と捉えられるかもしれませんが、
実際には崩壊した生活リズムで明確に覚醒しているのは起床後1〜2時間程度がせいぜいであり、
あとはめちゃくちゃ眠いのに眠れない、というような地獄が延々と続くというのが実態です。
自分は貴重な趣味第一の生活ができる大学時代の7割くらいをこれによって浪費してしまったという黒歴史があります。


基本的に幼少期〜思春期をこのように過ごしてしまうともうサポートなしで社会適応するのは難しいという現実があり、
自分は2019年から非ベンゾ系の睡眠薬を服用することによって、なかば無理やり睡眠リズムを矯正し続けています。
睡眠薬はざっくり言うと昔からあるベンゾジアゼピン系と呼ばれる依存性の強い薬と、
抗うつ作用が弱い代わりに催眠に特化し、比較的依存性が弱いとされている非ベンゾジアゼピン系睡眠薬に分かれます。
非ベンゾ系は「依存性が無い」と言われて処方されたものの、近年の研究では必ずしも依存性が無いわけではないらしく、
まあいずれにしろ睡眠薬に依存せずに生活できるならそれに越したことはありません。
しかし日常生活で寝るべきときに眠くなるという現象がまず起こらないので、頼らざるを得ない生活を続けてきました。
これはもともと生活リズムが崩れやすいという先述の個人的な事情に加え、
テレワークで起床時間が遅い、運動量が少ないなど眠くなりにくい環境を作り上げてしまっているせいもあると思います。
こうした事情から、もはや睡眠薬無しでは生活できない状況がだらだらと続いてしまっている現状があります。


昨日は06時起きの出社日だったのに加えて、帰宅後すぐにDiscordのボイチャに深夜まで入り浸っていました。
そしてなんやかんやで02時まで起き続けていたのですが、猛烈に眠くなってきたので退室したら、
そのまますんなりと眠れたんですね。まあ、20時間起きていれば眠くなるのは当たり前と言えば当たり前なのですが……。
ふだんは夜更かしするとなると夜明けだろうがなんだろうが眠くならないので、
自分にしてはかなり珍しい現象だったと言えます。
新年度からの週3出勤は出社日に限り睡眠薬に依存しない生活を実現できるポテンシャルがあるかも、と思った次第です。


#8158

出社日の利活用

今日の出来事週間計画

新年度から週3出勤になって約3週間が経過しました。
週間計画の基礎になる「1週間のルーチン」について今一度ここで整理しておきたいと思います。
まず、直近の自分の考え方として、中期目標に直接結びつく活動を少しでも進めるために、
定常的な作業とは別に余暇で何か活動する「余地」を残しておくことは重要と考えています(#05171 / 2018年02月18日)。
ここで定常的な作業とは自分にとってブログと読書が当てはまります。
言わずもがなのことかもしれませんが、仕事もこれに含まれるでしょう。
ここ3週間の実績ベースで、ブログはざっくり10.5時間/週、読書は4時間/週ほど時間リソースを使っています。
読書は実質通勤時間内に含まれるのでほぼカウントしなくてもいいかもしれませんが、
ブログは電車内ではさすがに書けないので退勤後時間を使わざるを得ません。
現状、この10.5時間は週2日のテレワーク日の退勤後と土日で捻出しているという状況です。


作業時間を数値にすると「1日は24時間もあるんだから1.5時間/日なんて大したことないな」と思いがちですが、
経験上、24時間のうち実際に稼働できる活動時間というのは非常に少ないです。
これは各々のモチベーションやポテンシャルによって大きく左右されますが、
実際に怠惰に慣れてしまった低空飛行を続けているような状況では1.5時間の捻出もまあまあ難しいという実情があります。
そんな中で定常作業だけで10.5時間取られると、シンプルに「余地」が残らないんですよね。
いまのルーチンで言うと、テレワーク日に3時間/日確保できないとその皺寄せを土日で吸収することになるため、
結果的に土日は他に何も活動できていないということが起きがちです。


物事を進展させるためには、少なくとも1日は何をやってもいい日として確保しておきたいと思っています。
これは先週日曜日にそういう状況を作れたとき、ものすごく作業がはかどったことに依ります。
毎週これができるなら、かなり理想的なルーチンと言えそうではある。
そのために現状必要なのは、「出社日も定常作業に取り組む」という方針への転換なのではないかと考えています。
出社日は06時起きなので、帰宅するとドッと疲労感が出てくるので諸々の作業が進みにくいのは否めません。
しかし、帰宅する前なら多少の余地はありそう。
そこで、上京直後は毎日のようにやっていたものの最近ご無沙汰だった、
退勤前にカフェで作業をする習慣を復活させてみるというのがひとつ有望な施策になるんじゃないかなと。


いまの通勤先は大手町駅の数駅隣なので、退勤したらまず大手町駅で降りて東京駅まで歩き、
ノマドワーク拠点として使い慣れた東京駅で夕飯を済ませ、その他に必要な買い物も済ませ、
そしていくつかのカフェのうちその日の気分で使いたいカフェでガッツリ作業をする……というのが理想的です。
外食が1日2食になる上に会社に申告している以上の交通費がかかるので金銭的なロスは若干ありますが、
それで趣味系計画を進展させられる余地を作れるなら安い気がする。