発達障害という概念の功罪
一般に、発達障害といえばASD(自閉症スペクトラム)、ADHD(多動性障害)、
LD(学習障害)等を総称した生まれつき生きづらい特性を持つ障害のことを指します。
特別学級に入るほど重篤でもないし知能は問題ない(優れている場合すらある)ものの、
例えば「空気が読めない」等の非言語スキルが著しく低く、
友達を作るのが難しかったり、言語コミュニケーションが難しかったりします。
発達障害という言葉は自分が学生の頃は世間一般には広まっておらず、
ほんのここ10年ほどで急に出てきた言葉です。
最近は乳幼児期から何度も検査して早期発見できるようなシステムになっている一方、
子どもの頃にそういうシステムが無かった現行の社会人の中には明らかに発達障害的な人がいて、
俗に大人の発達障害などと言われています。
自分はかつて、身近に発達障害に詳しい人がいたので結構早い段階から興味を持ち、
関連書籍を読んだこともあります。
「自分は発達障害ではなかろうか」と思い悩んだこともあります。
何を持って発達障害とみなすかのかは非常に難しいので、
発達障害の特徴に当てはまるからといって発達障害だと言い切ることはできません。
むしろ、その特徴は万人が持っていて当たり前であり、
そもそもその特徴によって「社会生活が困難になること」が障害の定義だとすれば、
社会人の多くは当てはまりません。
この発達障害という言葉に対する自分の認識は年々変わり続けてきましたが、
昨今はどちらかというと、この言葉が存在すること自体が問題なのではないかというスタンスです。
発達障害の人を「努力不足」「働けない怠け者」と糾弾することは簡単にできる。
しかし一方で、10年前は普及していなかった概念が
急に多くの人に当てはまるようになったことが問題なのではないかと思うわけです。
つまり、社会人に求められるリテラシーや基本スキルが高くなりすぎたことが原因で、
そのハードルの高さの前に挫折してしまう人のことを「発達障害」と定義しているのではないかと。
それはある意味事実でもあります。
となれば、原因は発達障害者本人ではなくハードルを上げすぎた社会とも言えるわけです。
20年前の社会なら普通に働けたのに、という人は多いでしょう。
世間や専門家界隈がそっちを問題視しないのはなぜなんでしょうか。
一度ハードルが上がるともう下げるのは厳しいんだろうか?
自己責任論にした方が楽だから?
なんだかその辺に社会のタブーが隠れているような気がしてなりません。
とはいえ発達障害も非常に幅が広いので、
かぎりなく定型発達と変わらないのに発達障害認定されている人もいれば、
より重篤な知的障害や精神障害に近い、いわゆる障害者的なイメージの人もいます。
自分は実家時代に非正規社員の大量マネジメントをする中で後者のような人も見てきたので、
そういう人がなんのサポートも無しに就業するのが難しいというのはよくわかるし、
そういう人に社会福祉を充実させる必要性は感じます。
しかし発達障害であることを理由に働かない人の中にはそうではない人もたくさんいるはずです。
そういった人に関しては就業環境の方が変わることでわりと改善するんじゃないかなあと。
社会からしたら福祉コストは減るし、労働者数は増えるし良いことづくめのような気がします。
この辺、さらに20年経ったらどういう認識になっているんだろうか。