異性観の分水嶺
高校3年生当時少し関わりのあった女子が数年前にめでたく結婚し出産されていることを唐突に知りました。
基本的に他者のことは書かないが原則の当ブログですが、
ブログの成り立ちにも関わりがある人なのでプライバシーに配慮しつつ思い出話を書かせてください。
高校時代といえば厨二病全盛期である意味ゲーム趣味も全盛期、そしてこの本家ブログの始まりの時代です。
思春期における女子との距離感は小5〜中3までは非常にデリケートかつ面倒くさかったため、
自分みたいな下層の男子にはほとんど異性とのコミュニケーションの余地はありませんでした。
幼馴染の従姉妹でさえこの頃だけは距離を置いていたので本当に難しい時期だったのだと思います。
しかし高校2〜3年のクラスは比較的人間関係が良好で男女間の垣根が低く、
特に中堅カースト同士の男女は3年生後半にはわりとよく放課後一緒に雑談をするようになっていた記憶があります。
これは本当に良いことであのクラスで良かったというのはいまでも思っています。
とはいえ自分は当時ひそかにトップカーストの女子のひとりに魅了され(#07165 / 2023年07月30日)、
異性はその人しか眼中になく、機会があっても他の女子とはあんまり積極的に話そうともしませんでした。
なんなら文化祭準備か何かで女子多数男1人みたいな状況になりかけて空気を読まずに逃げたような記憶があります
(いま思えばめちゃくちゃ貴重なチャンスだったのに本当にバカですね)。
まあ免疫が無かったころだし、そもそもコミュ障だったので無理もない……。
ガチコミュ障なので「交友関係を自分から広げる」という発想自体が無かったし、
まして異性なんてどう関わればいいのか分からなかったのでしょう。
同性との交流でさえ、過去の失敗経験もあって絶対安全と納得した相手にしか胸襟を開かないという典型的な根暗でした。
この思想があるかぎり絶対にこちらから働きかけることはできない。
そんな殻に籠った状態で向こうから働きかけてくれた人というのは自分にとっては神のような存在でした。
そういう人はしっかり思い返せば何人かいるのですが、この人もそのうちの一人です。
中堅カースト(という表現はあんまり適切ではないですが)の中にも恋愛事情がいろいろあり、
3年生の卒業間近になってある1人の女子を巡ってクラス内に三角関係が成立し面倒くさくなったことがあります。
1人の女子をクラス内の2人の男子が好きになってしまったというんですね。
まぁその辺の細かい話はうろ覚えだし自分には関係ないのでどうでもいいのですが、
これの影響で卒業間際の中堅男子グループが若干ギスったことがある記憶。
そしてそのモテモテな当事者の女子がある日自分にブログのアドレスを教えてほしいと言ってきました。
びっくりしましたが、切り離しできるメモにおそるおそる超絶丁寧に書いて渡した記憶があります。
いま思うとメアド(現代で言うLINE)ほどプライベートではない絶妙な感じがありますね。
メアドだったらバカな自分はもっと舞い上がって120%勘違いしていたと思います。
その後、ブログのコメント欄を通じてその人のブログも知り、他のクラスメイトは知らない密かな交流が始まり、
高校卒業から2年目の2008年にその人のブログが更新停止するまでは不定期に続きました。
何度かチラッと書いていますが、このブログで下世話な話を長年タブーとしてきたのは、
女子に見られている以上は最低限紳士(?)でなければならないという意識がそのまま慣習化したという経緯があります。
結果的にそれはのちのコンプライアンスの確立にも少なくない好影響を及ぼしており、
ある意味でこの人はブログの比較的真面目なスタイルを決定づけるのに大きな影響を与えた人物であると言えます。
……まあ、2023年にはそれこそ上記のリンク先記事を契機にタブーを解禁してしまいましたが。
(追記:やっぱりここでコンプラを緩めるのは負けな気がしたので上記記事は準非公開になりました)
東北にある大学へ進学すると聞いていたので、2011年に東日本大震災が起こったとき、
東北にいる唯一の既知の人ということもありかなり心配になったことがあります。
その当時だけはこの人のことばかり考えていたような気がします。
しかしその数年後に無事であることを人伝に知り、
そして今日改めて幸せに生きていることを知り胸を撫で下ろしたというわけです。
この人と交流が始まったのは卒業間近だったため対面でまともに話したことは結局一度もありませんでした。
ブログの件も直接言ってきたのではなく、わざわざ他の女子を経由していたような記憶があります。
これがもしもっと前から始まっていて在学中にちゃんとした対面交流の機会があったら、
たとえそれ自体が恋愛に発展しなかったとしても自分の異性観はひっくり返っていたと思います。
自分は、異性という概念は基本的にショーウィンドウの向こう側にある「憧憬」であり、
自分はその文化的側面を一方的に摂取しているだけの存在ということを否定できません。
漫画等の作品しかり、数多のキャラゲーしかり、VTuberなどの2.5次元文化しかり、最近アツい萌え絵界隈しかり。
その価値観のもとで究極のKAWAIIを追い求めオタク界隈を走り回ることに人生のそこそこの割合を費やしていて、
片想いとその文化で得られたものだけが自分にとっての異性のすべてです。
つまり、対等に交流できる「同じ人間である」という意識が軽薄というべきか。
だからこそ性差によって違う価値観などへの理解度が圧倒的に足りないと感じます。
しかし思春期にまともな異性との交流機会があったら そもそもこの前提自体が成り立っていないだろうなと。
こう考えるとやはり自分の異性観は相当歪んでいて広義のセクマイに当てはまりそうな気もしますが、
当時と違っていまはオタク界隈もかなりポップな文化になり市場もめちゃくちゃ大きくなってしまったので、
「これもこれで人生エンジョイしていると言えるのでは?」
と言っても許されそうな雰囲気があるし、今更価値観を変えねばダメだとも思いません。
どちらの未来の方が良かったのかなどと考える暇があるくらいならまだKAWAIIを追求した方が有意義でしょう。
ここ1〜2年で自分はもう生涯独身を受け入れる方向に強く舵を切ってしまったので未練もありません。
しかし一方でこのエピソードで感じた異性が自分なんかに興味を持ってくれた嬉しさ、
絶対にこの人の期待に応えたいという気持ち、
そういった若かりし日の生々しい情熱も大切であるということは忘れないようにしたいところです。
生身の異性との交流を完全に諦めて生きるというのは
人として極めて重要な何かが欠落していると言わざるを得ませんが、
それだけ思春期という期間、ひいてはそこで生まれた人間関係というのは人生を大きく左右するんだろうなと。