やる気は内発的動機づけ?
前年度末当時、去年夏から参画していたノンプログラミングの現場を契約更新せざるを得なくなったとき、
このままではキャリアプランが破綻するのではないかと心配して相談したことがありました。
「君は趣味でもweb開発をしていると言うし、それをしている限りスキルアップ面は問題ない」
と断言するキャリアアドバイザーとあれこれ議論したことがありました(#07371 / 2024年02月21日)。
自分が「趣味はモチベありきでやっているので、モチベが出なければ成果が出ない日が続くこともある。
モチベが枯渇した場合に全く進まないそれを実績と言うのはやはり無理があるのでは」というような主張をすると、
アドバイザーは「モチベを捻り出して活動していること自体が素晴らしいという考え方もある。
なぜなら仕事というものはやるべきことをやっているだけで、そこに本来やる気は必要ないからだ」
というようなことを言い、
前半の主張はともかく仕事にやる気は必要ないという視点が自分にとっては斬新だったという印象があります。
また、先月中旬にはTwitterでバズった
「やる気は存在しない」という言説に反論したことがありました(#07613 / 2024年10月18日)。
「やる気が出たらやる」という文脈でのやる気というのは言い訳にしかすぎず、
本当にやる人はやるべきことをシステム化しているのでそんなことをそもそも考えない。
本来やる気というのは初めてみてから「もっとやろうかな」と思うエンジンのことを言うのだと。
自分はこの言説に対して、その場合の「やる気が出たらやる」は言外の要求に応えるつもりはないという方便で、
そもそも本人の能動的な意志が内在しなければそこにはやる気は文字通りに「無い」のだと書きました。
ここでいうやる気とは気分的な何かではなく使命感や社会的責任を背景にした自律的、能動的な行動力なのではないかと。
そしてその意味のやる気は存在すると言えるのではないかという話を書きました。
実はこれらの話は社会心理学では「外発的動機づけ」「内発的動機づけ」というキーワードで説明できます。
外発的動機づけとは、ざっくり言えば報酬があるからとか叱られたくないからとかといった、
「外部」の要因によって左右される動機づけのことで、
基本的に当ブログで「やる気」「モチベ」と書いたときはこの意味で使っていることの方が多いと思います。
つまり、必ず目的がありそのためにしている行為であるということ。
上記のweb制作の話もまさに、趣味におけるweb制作は外発的動機づけによって存続しているのだと認めています。
一方、内発的動機づけによる行動はいわばそれ自体が目的で賞罰の有無に依存しません。
つまり、単に知的好奇心などによって「それをしたいからする」というのが内発的動機づけです。
このブログでも「能動的行動」「自己満足」等のキーワードで近い概念は登場していたと思います。
キャリアアドバイザーの言っていた「仕事にやる気は必要ない」というのは、
やる気とは内発的動機づけであるという前提を踏まえるときれいに理解することができます。
仕事は給料や社会的責任など外発的動機づけがきわめて強いので内発的動機づけは必要ないということですね。
もちろん、賞罰に依存しない内発的動機づけを持っている人の方が「強い」のは確かですが。
やる気は存在しない云々のくだりで言っている「システム」というのは、
賞罰を適切にコーディネートして外発的動機づけによってのみ行動するものと割り切る、というような解釈もできます。
こうして考えると、自分は当初内発的動機づけによって興味を持った文化を
いつの間にかリターンを得るための手段にすり替え、
外発的動機づけによってしか進めなくなってしまったケースが多いように思われます。
いろいろな趣味がそれに当てはまりますが、最近とても低迷しているコンシューマーゲームなんかはまさにそう。
幼少期はただゲームが楽しいからやっていたのだと思いますが、
2007年の動画サイト黎明期辺りから外発的動機づけによってしかやらなくなり、
いつしかゲームをするという行為自体が賞賛を得るための道具にしかなくなっていたのだとすると……
まあこんなふうに衰退するのも当然だよなと。
ただ、こうした単純な切り分けは危険で、
ゲームをすることも当初から外発的動機づけが皆無だったわけではないでしょうし、
同じように2007年以降も内発的動機づけによってゲームをすることがゼロだったわけではないと思います。
最近だとソロプレイ回帰がそれですかね。まあ、あんまり勢いが無いのは確かですが……。
ちなみに内発的動機づけの原理のひとつとして有能性、
つまりそれができそうだからやりたいという欲求があるそうです。
「自分は有能なので、きっとこれならできるだろう」と思うということですね。これは確かに納得感がある。
そしてこの考え方は自分の無能性を積極的に受け入れようとする昨今の自分の思想と真逆であり、
この辺はもしかしたら昨今の意欲低迷の鍵を解くヒントになるのかもしれません。
直感的には、無能性を受け入れようとするというのは
これまでに自分も有能感によって「きっとこれならできるだろう」と思うことはあったものの
その見通しがあまりにも甘すぎて挫折する経験が多すぎたので、
自分の有能性に対する信用を損なったのだと理解しています。
なのでいまはそれを矯正しようとしている段階なのではないかと。
こうなると「自信」とか「自己肯定感」とかといったワードも見え隠れしてきますが、
それらは実は内発的動機づけを適切に行使できるかどうかを評価する概念だったのだろうか……?