祖父の話
山々に囲まれたその古い家には、春先に玄関の戸を開けていると時折ツバメが入ってくる。
祖父はよくそれを疎ましく思い、追い散らしていたそうだ。
何度追い散らされても春になると必ずツバメはやってくる。
しかし、今年の春は不思議といつまで経っても来ない。
来るようになったのは、その日を過ぎてからのことだったという。
04月15日、祖父が亡くなった。86歳だった。
先月下旬、検診で膵臓がんが見つかり余命1〜3ヶ月程度と宣告されたらしい。
直前に来訪した親戚たちが言うには、とてもそのことが信じられないほど本人は元気だったという。
しかし04月14日に容態が急変し、言葉を発することができなくなった。
祖母の言葉を理解はしているような素振りは見せるのだが、口が動かないのか頭が働かないのか。
痛みを止める処置の副作用で寝たり起きたりを繰り返していたが、
最期には祖母を呼ぼうとして2日ぶりに言葉にならない声を発しようとしたあと、息を引き取ったのだそうだ。
僕は04月17日に母を通してその事実を知り、翌日から3営業日分の忌引き休暇を取って新幹線で向かった。
二親等以内の訃報はこれが初めてである。
久々に対面した祖父の顔は驚くほどに痩せこけていた。まだ実感は無かった。
出棺前の時間になると近隣住民が次々と弔問に訪れた。この町にこれほどの人が住んでいたのか、と思うほど。
僕や従姉妹の旦那などの男手8人によって出棺し、形式的な霊柩車に運び込む。
斎場では受付を担当したが、これもまた驚かされるほどの人数が弔問に訪れた。市の代表職員まで来た。
こういう田舎では地域ぐるみで故人を弔う習慣が残っているらしいが、
後に知ったことを合わせて考えるとこれが祖父の人徳だったのかもしれないとも思う。
通夜はつつがなく終わり、夜は祖父母家のいつもの部屋で限られた親戚やその家族で夕食会を行った。
酒も良い感じに進んできたところで父がおもむろにマムシ酒を取り出した。
祖父宛に、つい3日前に送られてきたのだという。
祖父はもしかしたら、ゴールデンウィークにみんなと会ったときにこれを振る舞う予定だったのかもしれない。
きっと、このものすごく不味い酒をみんなと飲んで元気を取り戻したかったのだろう。
2日目、葬式も特にトラブルは無く無事に終わった。最後に献花のために棺が開けられた。
開けられた棺に親戚の一人一人がそっと花を手向け、祖父は静かに眠ったまま動かないでいる。
すすり泣く声も聞こえてくる中、僕もじんわりと腹の奥から悲しみが上ってくるのを感じた。
* * *
祖父は典型的な戦中生まれの呑んべえである。それ以外に祖父を形容する言葉が思いつかない。
祖父との記憶は物心ついてすぐの頃からあるが、
どの時代を切り取っても、酒を飲んでは怒鳴り散らし、周囲を敵に回して喧嘩していた記憶ばかりだ。
もっと若い頃には酔った勢いで祖母に手が出るようなことも多かったのだという。
当然、幼心にはもちろん成人してからもそれに対する心証は悪かった。むしろ嫌いな人間だったとも言える。
毎年、年始を迎えた直後には泥酔した祖父が親戚家族の前でスピーチするのが恒例だったが、
真面目に聞いている孫はいなかっただろうし、僕も何一つ覚えていない。
このような人間関係の清算をさらに難しくしてしまったのが、2017年に発生した、
孫世代は全員結婚しろと言う祖父と、結婚は指図されてするものではないと考える孫世代の対立だったと思う。
孫と明確に対立してしまった祖父はその正月、
みんなが帰る日の朝もずっと呑んでいて見送りすらしようとしなかった。
他に誰もいない部屋で静かに呂律の回らない愚痴を呟いていたのがとても印象的だった。
ただでさえ未成年時代からずっと心証が悪いのに、
社会人になってからもあんなに情けない姿を見せられてはたまったものではない。
それから僕はしばらく祖父母家に行くことをやめ、結婚という言葉はNGワードのような扱いになった。
女子たちは期待に応えるようにそこからの7年で全員結婚し出産したが、
祖父は本当は男子にこそ結婚して欲しかったに違いない。
この出来事がきっかけになって年初恒例のスピーチの習慣も終わり、
祖父母家へ久々に行っても上辺の世間話しかしないようになり、本当にただの呑んべえでしかなくなってしまった。
祖父との直接的な思い出は残念なことに本当にこれしか無い。
酒だけが好きな、独善的で嫌われがちな昭和のダメダメオヤジ。
一方で、叔父が言うには祖父は若いころ町会議員を何期も経験するほどの政治家のやり手でもあった。
農業を継ぐように言う曽祖父に「下がり続ける米価を見る限り、農業に先は無い」と反対し、
壮年時代には紡績の会社を立ち上げた。
ところがバブル崩壊をきっかけに紡績業も日本よりはるかに安く製造できる中国に需要を奪われるようになり、
それに巻き込まれる形で祖父の事業は結局大失敗に終わったそうだ。
老後はそこから巻き返すこともできず、縋れるのは趣味のゲートボールくらいのものだった。
町会議員として町民からチヤホヤされた輝かしい若年〜中年時代から一転、
事業の失敗でどうしようもなく転落してしまった人生。それが祖父という人間の大まかな歴史である。
孫である僕は転げ落ちてからの祖父しか知らず、このことを知ったのは今回が初めてだった。
* * *
献花のときに込み上げた悲しみは、
「死」という概念に対する漠然とした恐怖なのか、祖父に対する憐みなのか。
それとも人間関係を精算することが間に合わなかったことに対する後悔なのか。
いや、これは一人の孫として祖父という一人の人間と向き合おうと勇気を出した結果なのだと思いたい。
思うに、人間にとって他人のことはあらゆる現象や事情が文字通り他人事であり、
それを受け入れるかどうかは個々人の選択に委ねられている。それは「死」とて例外ではない。
「自分ごと」とは違って他人事はその事実がなんであろうと受け入れないという選択が残されている。
事実を受け入れる選択をしないかぎり、それは「自分」にとっての事実にならないということだ。
このときも、祖父は居なくなったが記憶の中で生き続けているんだ、
などという使い古されたセリフを引っ張り回して現実を受け入れないという選択もできた。
祖父のこういうところが嫌いだったから、などと理由をつけて逃げるのは至極簡単だが、
他者との関係にある諸々の事情を受け入れ、他人を愛するという選択をするにはそれなりの勇気が要る。
このときにこぼれ落ちた涙は、今更でも祖父を愛そうと勇気を振り絞った結果なのではなかろうか。
それは許すとか許さないとか、人として正しいとか正しくないとか、そういう次元の話ではない。
酔っ払っては叔父と喧嘩し、孫に対しては素直になれず自らの人生を語ることもなかった祖父。
記憶の青写真はどこを切り取っても酔っ払っている情けない姿ばかりである。
しかし、よくよく思い返すと僕に向けられた表情はいつどんなときも笑顔であったことに気づく。
僕は祖父をずっと嫌っていてぶっきらぼうに接していたにもかかわらず。
いまとなっては分からないが、もしかしたら祖父の孫を愛したいという気持ちは本物だったのかもしれない。
どんなに不運で不器用で頑固で酔いどれでも、僕らにとってはかけがえのないおじいちゃんだった。