趣味と興味関心の違い
以前、近年の自分は興味関心の対象が「浅く広すぎる」ためにひとつのことを練達できず、
結果として納得できる成果を生み出す、
あるいは他人に認められるような段階に行くこともできず中途半端に陥っていることを
「趣味の浮気性」と表現し、自己批判しました(#07270 / 2023年11月12日)。
これはたとえば2009年はモーショングラフィックス、2010年はイラスト、2011年は作曲というように、
まともに着手もしないまま創作の手段をコロコロと乗り換えていた大学時代に特に顕著ですが、
最近の自分に当てはめてこれを言うにはもう1段階考えないといけないような気がしたので、
改めて批判的に考えてみます。
まず、趣味の浮気性を戒めようとする姿勢の内情として、
既存の活動の結果を出す前にモチベが減衰して他へ興味関心が移ってしまうということが念頭にあります。
ここでいう既存の活動とは、自分にとってはピクチャレ大会開発等のピクミン活動を指すことが多いです
(もうひとつの「既存の活動」であるこのブログは、そもそも他人に認められることを想定していないため)。
その文脈において「結果」とは、既存サイトに新機能を加えたものを公開する、イベントを開催する、
あるいはプレイヤーとして自己ベストを出すといった(自他問わず)承認欲求の充足が期待できる成果を言います。
活動の目的が承認欲求を満たすことならば、結果を出す前に挫折してしまうとそれまでの活動が無意味になり、
それを繰り返すようなやり方は不毛だと、そういう批判はまあできると思います。
これらは、ピクミン活動=趣味=承認欲求を満たすための媒体、という等式が前提としてあります。
「趣味の浮気性」は、別の趣味へ興味関心が移ったせいで
どちらも中途半端に陥り結果を出せないというニュアンスが含まれているわけですが、
果たしてしばしばピクミン活動の代替として挙がる浮気先の何かは「趣味」と言えるのでしょうか。
日本語の【趣味(しゅみ)】には明確に程度を規定するニュアンスはなく(広辞苑、大辞林)、
(専門・仕事とは別に)楽しみとしていること、という程度の意味合いしかありません。
しかし英語で【hobby】と言った場合、それは本来ある程度技能を要する本格的な物事に限定されるそうです。
よくマッチングアプリで無趣味の人がプロフィールに書くと言われる
カフェ巡りや読書、あるいは昼寝、ウォーキング等はhobbyとは言えないわけですね。
そういう(技能の要不要という点において)程度の低い物事は【insterst】【like】等が用いられるようです。
日本語で言うと興味がある、好きだ、と言ったニュアンスになるということです。
このように言葉の定義を整理した上で考えると、
自分にとって浮気前の趣味(=ピクミン活動)と浮気先の泡沫的な興味関心は必ずしも対等ではありません。
趣味というのは少なくとも習慣的に、可能な限り中長期的に行う活動であるべきであって、
1週間やそこらで次の対象に移るような興味を趣味とは言えないわけです。
興味の対象が広く浅いということは、個々の活動で成果を上げられるかどうかとは関係ないのでは、という。
そもそも論としてピクミン活動(サイト制作)に関しては好きでやっているという名目になっていますが、
実情としては仕事に近いですしね。他の興味関心を仕事ができない言い訳に使えるのかという……。
趣味の浮気性は、もう少し本質的なところでは「飽きっぽい」という性格上の問題でもあり、
これは歳を重ねれば重ねるほど深刻になってきている気がします。
特にエンターテイメントの分野は供給過剰なところもあって
1粒を噛み締めるような楽しみ方は近年全然していない。
ゲームなんかは、ゲームというプラットフォームそのものに飽きてきているような実感すらあります。
これは、『風来のシレン6』で一度挫折したときにも強く感じました(#07359 / 2024年02月09日)。
ただ、これは楽しみ方やタイトルの探し方に問題が無いとも言い切れないため
単に加齢のせいでゲームそのものに飽きたと断言できるものでもないのですが。
飽きっぽいので成果を出す前にやめてしまう、というのが不毛だというのはそうだと思います。
成果が出るまで努力できるようになるにはある程度の訓練も必要でしょうし、
そういう地力が無いからこそのこの迷走なのかもしれません。
が、少なくともAという活動が停滞したのはBに関心が移ったからだ、という短絡的な決めつけば良くないですね。
短期的に興味関心が移っていくことは情報収集過多なこの時代としては当然とも言えるわけで、
それと仕事や趣味は割り切って考える姿勢はより大事になってきているのかもと改めて思いました。