会話をカードゲームに例えてみると
以前、Instagramで「コミュ障とは、言わなくていいことを黙っていられない人のことだ」
というような趣旨の投稿を見かけ、かなり感心したという記事を書きました(#07174 / 2023年08月08日)。
当時の記事ではこの意味でのコミュ障とはなんなのかというような若干的外れな考察をしていますが、
この言葉自体は科学的根拠があるかどうかは別としてかなり的を得ていると思っていて、
この言葉との巡り合ったおかげで自分の欠点を客観視でき、コミュ力が改善しているようにも感じます。
コミュニケーションというのは非常に高度なゲームであり、生半可な練習では習得は難しいと思います。
VTuberの雑談コラボ企画では話題の群を「会話デッキ」と呼ぶことがあるそうですが、
自分の中では最近、それに倣ってコミュニケーションをカードゲームになぞらえるのが流行っています。
一般常識や知識(デッキ)を溜め込んだ上で参加者との間に暗黙的に生じる「ローカルルール」を読み取り、
その場その場でどういう発言が求められているのかを推察し、
自分の手持ちカードからどれを選ぶのが適切なのかを判断し場に出していく、勝ち負けの無い協力性ゲーム。
それがコミュニケーションというカードゲームです。
ここで、最初のデッキの枚数は(一般的なカードゲームとは逆に)多い方が基本的には有利なのでしょう。
ただ、多いからといってなんでもかんでも場に出せるわけではない。
どういう発言が求められていないかも適切に読み取り、それに従ってカードを除外する必要があります。
要はデッキ圧縮ですね。結果的には一般的なカードゲームと同じく、カードはある程度絞った方がいいのでしょう。
その上でどこまで風呂敷を広げられるかについては
いわば話題と話題をチェーンさせるスキルが求められるところなのかもしれません。
これは今回のテーマよりもさらに高度な分野になるので割愛します。
デッキ枚数をあらかじめ増やして場に出すのはこのゲームの基本中の基本であり、
これができないという人はかなり少ないのではないかと思います。
しかし「蓄えた知識をただ出すだけ」ではbotや生成AIと変わらず、それは人間味のある所作とは言えないでしょう。
また、「話したい内容をただ発言するだけ」というのもローカルルールを無視していることになり、
非常に程度の低いコミュニケーションといえます。
上記アーカイブリンク先にある祖母とのエピソードなんていうのはまさにその典型例。
詭弁や一方的な価値観の押し付けで相手を困らせるのも、協力するという前提を無視しているため論外です。
ただ、相手を慮る必要のないようなある種のネットコミュニティでは
しばしばそうした低水準のコミュニケーションが行われているのも事実ですが……。
そこでもう一歩踏み込んで人間味のあるコミュニケーションを実現するために必要なのが、
カードゲームでいうところのデッキ圧縮というわけですね。
コミュニケーションというのは共同作業であり、自分が話したいことを一方的に話しても相手は面白くありません。
なので会話の参加者はその場で求められている発言を模索しながら会話に参加することが要請されるわけです。
当然、手持ちのデッキの中にはその場にふさわしくないテーマというのが多くあり、
非常に多くの枚数を所持していてもデッキ圧縮するとごっそり減ってしまうということがあります。
またゲームの進行によってローカルルールが変化し、除外したカードが帰還するケースも間々あります(逆も然り)。
一定の波長が合う相手と信頼関係をさらに高め合うために「お互いに帰還できるカードを探り合う」段階が
個人的にコミュニケーションの醍醐味というか、一番ゲームっぽい側面だなと思っています。
十分な信頼関係を築いたうえでしかも共通項が多い相手と話しているととても楽しいですが、
これは圧縮後のデッキの枚数が潤沢で、いくら話してもデッキの枚数が枯渇しないからだと思います。
デッキの枚数が多いに越したことはない。
ただ、だからと言って圧縮作業を軽視すると「空気が読めない」という印象を持たれがち。
この辺は「場」によって千差万別の対応方法がありうるので非常に奥が深いところですが、
基本的には人は各々の対人関係においてそれ専用のテーマデッキを持っているのが自然であり、
「圧縮後のデッキ」を充実させるために骨を折ることはコミュ力向上のためにかなり大切なことなのではないかと。
それはただただ知識を無差別に溜め込むこととは似ているようで全然違う作業であり、
情報収集の在り方もこの辺の意識の差でかなり変わってくるのではないかと改めて思いました。