コミュ障の本質
Instagramでこんなことが書かれた投稿が回ってきました。
本当のコミュ障は「言いたいことが出てこない人」ではなく、「言わなくていいことを黙っていられない人」です。
似たようなことを旧Twitterでも見たことがあり、結構なインプレッションを稼いでいるようです。
この主張にはまずいくつかのツッコミどころがあります。
コミュ障というのはいわゆる医学用語ではなくネットスラングを指しているものと思われますが、
その意味では前者も立派なコミュ障です。
そして後者こそがコミュ障だと言っていますが、
これは発達障害の一種であるASDのよくある症状です。いわゆる「空気が読めない」というやつ。
これがそれなりにバズるというのは、大人社会にもASD的な人が少なくないことを示唆しています。
そして自分もおそらくその一人だと思っています。それなりに寛解していますが。
これについては頭の隅にこびりついている苦い思い出があります。
20年近く前、年末年始に祖父母家へ遊びに行った際、祖母が年越しそばを作ってくれていました。
しかしそれは元日になってからだったので、
「年越しそばって年越してから食べても意味ないよ」
みたいなことを作ってくれた張本人へわざわざ言いに行った記憶があります。
祖母は「……そう」と冷めた反応を返しただけでした。
その反応を当時の自分がどう思ったのか覚えていませんが、
バカなのでもしかしたら冷たい反応をされたことに対して憤慨していたかもしれません。
これは明らかに「言わなくていいことを黙っていられなかった」という良い例です。
当時の自分は祖母に不愉快になってほしくてそんなことを言ったはずもなく、
むしろ善意からの発言だったと認識しています。
年越し前に作るのが正しいのを理解してほしかった的な。だってそれが正しいから。
しかし祖母にしてみれば今更そんなことを言われてもどうしようもないわけで、
むしろあんたらのために作ってやってるのにそんな無粋なことを言われても……
と困惑したことでしょう。
当時の自分が、そう思われるであろうことを推察する頭すら無かったのはもはや明白です。
要は筋金入りのバカだったというわけです。
コミュ障とかASDというと「本人は悪くない」というニュアンスが少なからず含まれますが、
個人的にはこの意味でのコミュ障がバカで愚かじゃなければなんなんだと思っています。
また、ASDの特徴に当てはまるというと先天的で治療不可能な病気のように思われがちですが、
「空気を読む」ということ自体はそれなりに高度なコミュニケーションスキルであり、
定型発達でもコミュニケーションの場数を踏んでこなければ身につけるのは難しいと思います
(それを「定型発達」と言い切れるかどうかについてはなんとも言えませんが)。
たとえば毒親だったりイジメだったりで思春期にネガティブな経験を多くしてきて
結果的に人間不信になれば、この手のスキルを磨くのは
本人の能力にかかわらず結構難しくなるんじゃないでしょうか。
自分も思春期は相当に強い承認欲求不満があって他人を思いやる余裕なんてありませんでした。
コミュニケーションスキルの経験値が溜まってきた実感を得られたのは社会人になってからで、
とりわけここ数年の上京以降の経験を経てようやく人並みになった感があります。
話すことを考えながら同時に相手の目線でどう受け取られるかを考えるだけの余裕を
意識的に持てるようになりました。
2021年以前もそういうことは一部の人(仕事の同僚や異性など)にはできていたと思いますが、
誰に対してもそれをしようと心がけていたかと言われると怪しいところがあります。
こういうことは、ある程度信頼関係のある相手と
コミュニケーションを積み重ねていかないと身につかない部分も多いのではないかと思います。
しかし無粋なことばかり言う人はそもそも誰かと信頼関係を築くこと自体が困難でしょうから、
結局なにひとつスキルアップしないまま年齢だけ重ねていく恐れがあります。
でも、社会はある程度の年齢になればそれは身につけて当たり前と言い、
身につけていない人は面接などの社会のシステムによって容赦なく淘汰されていきます。
職業訓練や義務教育のカリキュラムにあるなら本人のせいと言うこともできますが、
そういう制度も無いのに(もしかしたら2023年現在はあるのかもしれませんが)
一方的に社会から弾かれるのは理不尽のような気がしなくもない。
これって何気に人によっては深刻な現代社会の闇のような気がするんですが、どうなんでしょうか。