ヤマアラシのジレンマ
いま思えば2020〜2021年はかなり意識が高かったと思うし、
その意味では黒歴史期と言ってしまってもいいかもしれません。
意識高いなりにエネルギーはすごくあったと思います。なんかいろんなことをやろうという気概はあった。
ただ、いかんせん妄想が作ったハードルの高さはそれをさらに凌駕するものだった。
結果的にこの期間に成し遂げられたことというのは自分の歴史の中でも決して多くはありません。
唯一、読書録をちゃんと書いていたことだけはいまでも良かったと思いますが……。
それから2022年に諸々の失敗によって意識の下方修正を余儀なくされ、
そこから立ち直る過程であまりにも高すぎた妄想のハードルを低くするという是正が行われました。
例の、去年一年を通して自己実現系のマイテーマになった
「無能であることを受け入れる」(#07602 / 2024年10月08日)というスローガンがそれをよく表しています。
そういうわけで現状、やりたいことの整理は以前と比べると明瞭になってきたように思います。
荒唐無稽な内容のものは切り捨て、やる理由があってしかも「できる」ものを選定したうえで、
それらをさらに細分化してより簡単にできるものに分解し、それぞれに優先度も設ける。
実際、これによってかつてほどタスクの後回しはしないようになってきているように感じますが……。
一方で「やれば確実にでき、しかもやる必要がある」というところまでお膳立てしているにもかかわらず、
どうしてもそれに着手できない心理的ハードルを感じることがあります。
結局、2025年は初速こそ最高だったもののこれのせいで二の次で足踏みをしてしている感がある。
さて、この躊躇の要因はなんなのでしょうか。
昨日の記事で取り上げたタコウインナー問題も同じく「なんとなく着手できない」の解決を目指すものですが、
2024年当時は物事に着手できない原因を「やりたいことと心理状態にギャップがあるから」と推測しました。
では心理状態はどのようにあるべきなのかというと、当時の自分は「4つの自由」を提唱しています。
4つの自由とはすなわち、身体的・経済的・社会的・空間的自由です。
身体的自由というのは三大欲求などが「適度に」満たされていることを言います。
空腹ではパフォーマンスが落ちるのは当たり前ですが、満腹すぎるのも良くないということですね。
経済的自由は好きに使えるお金がある程度あること。
あるいは、経済的理由によって行動に制限を与えられないことを指します。
社会的自由は気ままかつコンスタントにコミュニケーションできる人がある程度存在すること。
空間的自由は自分だけのプライベートな空間・時間が確保されていること。
やりたいことをやる、言い換えれば自分らしく生きるための土台としてこれらが必要だということは、
自分にとって上京前後の7〜8年くらいの中で見出してきた生活教訓の集大成のようなものだと認識しています。
実際に、どれも上京前後に明確に失ったことがあり、失うたびに必要性を痛感したものばかりです。
2025年現在、東京一人暮らしによって身体的・経済的・空間的自由については十分確保できていると感じます。
これも上京3年目くらいまで不安定だったのは事実ですが、いまはさすがに安定していると言っていいと思う。
この点は実家暮らし時代と比べて明確に恵まれている……はず。
とすると、不足があるとしたら社会的自由でしょう。
特に、相手を慮ればこそ本音トークできないという現状が問題なのではないかということに改めて気づきました。
自分はいくつかの人間関係を踏み台にメンヘラ期を脱出する過程で、他者に配慮した言葉遣いを身につけようとしました。
その結果、それ以後に出会った人とは健全な人間関係を築けていると思うし、
それ自体は人として成長できた部分だと自負しています。
ブログもここ数年でかなりクリーンになったのではないでしょうか。
しかし一方で、自分の性格の深いところは、他人を傷つけて憚らないトゲトゲしたものなのだと思っています。
つまり、他人に配慮した物言いをする自分というのはいわば「演じている」状態であって、
本来は周囲が思っているより下衆な性格なのだということです。
しかしここ数年はクリーンさを保つことを重視した結果、
本心としての下衆な自分がいままで以上に日の目を見ることが少なくなりました。
昨今感じているストレスは、それによって無自覚な欲求不満になっているからではないかと。
「演じている自分」によって得られる人間関係では承認欲求は満たされても、社会的自由は満たされない。
なぜなら演じているかぎり本音ベースでの価値交換が実現することが無いからです。
クリーンな自分が求められているのは活動成果だけであり、他者はそれを評価する存在でしかありません。
それ以上のことに踏み込まないからこそ成り立っている関係とも言えます。
メンヘラ期以前の自分は、自身の社会的価値を顧みず「本来の自分」を他人に見せる機会があったからこそ、
ストレスがオーバーフローすることなく保てていたのかもしれません。
当時は本音トークをする相手がいなければ発散する先はTwitterやブログでした。
昨今は世間的なコンプライアンスや自分の道徳観の両面から
トゲトゲしたことを公共の場に発信することはあり得ないと思っているし、基本的にそれは間違ってないと思っています。
ここで本音を公共の場にぶちまけるのは、
クリーンな自分が積み上げてきた価値を破壊するような愚行と言わざるを得ない。
しかしだからこそ本心を発露する手段が狭まってしまい、より欲求不満に陥りやすくなっている面は否めません。
とはいえ、本音トークができる相手というのは探してもそうそう見つかるものではありません。
かといってクリーンな自分とは別人格として本音用のSNSアカウントを作ったとて、
フォロワーがいなければまったく意味はない。
結局のところある程度深い人間関係は必須ということになります。
しかも自分のトゲを受け入れてもらうためには、合理的に考えれば相手のトゲを自分が受容する必要もある
(そもそも相手が自分を「深い関係」であると認識する必要がある)。
それはそれで長い道のりかつストレスになりうるところで、
仮に相手がいたとしても本音ベースでの人間関係の維持はかなり難しいのではないかと。
実際、歴代の人間関係を振り返ってもある程度踏み込んで距離を縮めた相手とは長続きしない運命にある気がします。
「ヤマアラシのジレンマ」ってまさしくこういうことなんだろうなと。
クリーンな人間関係において一定以上は踏み込まないことの大事さを改めて認識させられますが、
それだけではこの問題は解決しないのでなかなか悩ましいところです。