Chrononglyph

夢と目標

#7662

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先の帰省前日、幼少期から書き続けてきた数千枚のルーズリーフを数年ぶりにパラパラとめくってみた。
そこには、これまでの多くの足跡と夢と目標、そして僕が何を好きだったのかが克明に書かれていた。
これらを知ることができ、それらすべてに共感できるのは僕しかない。
ということはつまり、これらを実現できるのは世界で自分ただ一人しかいないのだ、と改めて実感した。


昨日の記事で、来年の計画としてゲーム制作、web制作、創作という3本柱が果たして妥当なのか、
という話を書いた。それらは過去の実績の延長線上にある目標に過ぎず、
制作過程を楽しめないのであれば年間目標にしたとしてもただの「義務」にしかならないのではないかと。
果たして、そこまでして他人に見向きもされない自己満足の活動を推進する意味はあるのかと。


確かに、他者承認というインセンティブを第一に考えるならばそれらは不毛だと言わざるを得ない。
しかし一方で、この3本柱が僕の「好き」を体現した概念であることは過去の足跡からも明らかである。
思春期に浴びるように体験したさまざまな憧れを取り込み、
自分もそれを提供する側になりたいと思ったのは必然的なことだった。
僕の場合はそれがこの3つの概念として導出されたのだが、
それらは環境とスキル、あるいは精神失調や自尊心の壁によって長年実現を阻まれてきた。
そこで不眠症も克服し、AIによって技術革新が進み、諸々の壁がかなり低くなった昨今、
改めていまこそ思春期の未練を果たそうというのが2025年に3本柱を掲げた大義名分である。
思春期の自分に成り代わって、彼に自慢できるような何かを作りたいと。


しかし、それは思い出に基づく信念に過ぎなかった。
「好き」の原動力であるところの思春期の情熱は20年以上前の薄い記憶と化し、
もはやそれだけでは擦れた大人となってしまったいまの僕を突き動かすことはできない。
「いまの自分」も率直に好きだと感じ、それを実現したいと思う率直な気持ちがなくてはならない。
昔の思い出だけではもはや実感のある情熱を捻出できないのである。
思い出を重視しいまの気持ちを軽視してきたことがいかに悪手だったかは、
社会人以降の計画実現率の低さを見れば明らかである。


思春期の夢には非常に強い思い出補正がかかっており、それ自体が本当に実現すべきものかどうかは怪しい。
しかし、それと「いまの『好き』な何か」を突き合わせたとき、
その最大公約数的な何かに僕がいまもなお実現したいことのヒントが隠されているような気はする。
3本柱のうちweb制作と創作はすでに進んでいるプロジェクトのいわば延長線上に過ぎない。
これらは、むしろ過去と未来を繋げるための活動としてなら年間計画として妥当性はあると思う。
「ゲーム制作」は、数千枚のルーズリーフの中に書かれた夢の中でも一番古いものであり、しかもまだ動き出せていない。
過去20年の未練が詰まっていると思うと、年間計画としては重すぎるのではないかという気持ちはある。
仮に着手するとしても、年間でできる範囲に切り分けるのが妥当だろう。
そして忘れてはならないのは、「いまの自分」は本当にそれをやりたいのか、という視点である。


結局のところ、大切なのは消費者として他者が実現した夢を体験してきたかどうか、ということなのだろう。
自分の夢や目標を計画する以前に、まず目の前のエンターテイメントを純粋に楽しめてこれたかどうか。
世俗を絶てば、これらすべての夢や目標は存在し得ない。
その意味で、どこまで自己満足だったとしてもそれが社会の中にあることを否定できない。
自分が何かをしたいと願うのは他人の成果に触れたからであって、
膨大な積みゲーを横目に良いゲームが作れるかと言えば、作れないのである。


料理を覚えたいのなら、まずは料理の味を知らなければ話にならない。
「料理ができるようになりたい」という欲求そのものは、あらゆるノウハウも教えてはくれない。
ステータスを盛りたいというのは単に他者よりも優越性を持っていたいという劣等感であり、
劣等感自体は「好き」や「憧れ」とは本質的に関係ない以上、何も生み出しはしないのである。


僕がいまやるべきことは、年間計画や夢や目標の妥当性を云々する前に、
まずは目の前に広がっている無数のエンターテイメントを本心から味わうことなのかもしれない。