他者を非難するための条件
ある人や文化、意見や事実を第三者の立場から叩く(非難する)ためには、
叩く側にはどのような条件があるのでしょうか。
自分は、これは「対象に関する事情について無知であること」だと思っています。
基本的に部外者がわざわざそれを非難したくなるのは、
それが自分の信念や信条、正しいと思っていることに反しているからだと思います。
その正しさをサポートする根拠(同意見の人が多い、法律等に規定されているなど)があると、
非難する行為にはより一層の正当性が与えられているように感じられます。
そして同意見の人が多ければその正義感とも言うべき感情は伝播し、
相乗効果でさらに大規模なものになっていく。
これがいわゆる炎上の仕組みなのではないかと個人的に思っています。
つまり叩く側は「叩くに値する根拠があるかどうか」が唯一のものさしであって、
しかもそのものさしは個々人の正義感、価値観、倫理観などに委ねられている。
当然、公の場では相応に客観性のあるものさしを用いるべきで、
個人的にムカついたから叩くなどということは基本的に許されません。
しかし一方でアンダーグラウンドな場所であればあるほど、それが通用することもあります。
プラットフォーム自体が小規模な底辺SNSや、誹謗中傷の聖地5ちゃんねるなどでは、
個人の思い込みを根拠にした侮辱的な書き込みはさも当然のように行われています。
そしてそれはネットを離れた人間関係においても似たようなことが言えます。
「あいつは〇〇だから気持ち悪い」みたいなことを一度思い始めてしまうと、
その〇〇が確かに道徳的にネガティブな要素を持っていたりすると、
それを明確に否定する根拠を手に入れることができないかぎりは一方的に悪感情が募っていきます。
この〇〇には、たとえば怠慢による無職、メンヘラやうつ病などの精神疾患、DVや虐待等の加害者、
迷惑系YouTuberなど反社勢力、極端なところでは犯罪者などが当てはまります。
自分も社会人3年目〜5年目くらいまではニートに対する強い偏見がありました。
その熱が随分引いたいまも、いわゆるニートに対する偏見がゼロになったわけではありません。
ただ、なぜ人は働きたくなくなるのか、働けないと思い込むのか……
といったことを考えたとき、当然ですが個々人によってさまざまな事情があるわけで、
一緒くたに叩くことは難しいという結論に行き着きます。
そして、あるニートがそれに至る事情を知ったとき、
その人を頭ごなしに叩けるのかと言われると非常に難しいものがあると思います。
これは当事者に一番近い親が何も手を出せないケースが少なくないことからも言えると思います。
事情を知らないと誰もが叩くのに、事情を知っているとそういう気にならなくなる。
これらの違いは、叩くかどうかを決めるものさしがまったく違うものになったから、
なのではないでしょうか。
あえてそれらを分類すれば、
事情を知らない公の場の意見に使われるものさしは社会のそれであって、
事情を知っているものさしは当事者のそれです。
これは、ニート問題がそうであるように結構簡単に矛盾するので、
板挟みの苦労に苛まれることも少なくないと想像します。
社会にとっては間違っていても、個人としてはこれ以上どうしようもないということはよくあること。
そのときにどういう立場を取るのが正解なのか……。
これは個々のケースにもよると思うのでなんとも言えませんが、
どちらかといえば社会のものさしを重視するのが正しいという道徳観があるような気がします。
無職やうつ病はともかく、DVや迷惑系YouTuberは直接的な被害者が存在するわけで、
そんなのを「個人の事情があるから」などと許していたら世の中めちゃくちゃになりますからね。
でも、じゃあ無職こどおじは社会に迷惑をかけていないので正しいかというと、
親に負担をかけている等、個別の事情で他者に迷惑をかけているなら当然非難されるべきだし、
まったくそういう事情も無いなら堂々としていればいいと思います。
ただ、こうして考えてみると「どこからどこまでが悪なのか」という基準は
個人が思っているよりも曖昧なんじゃないかと改めて思った次第です。
よくニュースで悪人とされる人が報道されてネットユーザーがこぞって叩きまくっているけど、
あの中には本当は叩くに値しないのに叩かれている人も少なくないんじゃないかなと。