不自由な隙間時間の意義
出社日がある方が精神的にも良いというのは今年の教訓から間違いないのですが、
それは単に出退勤で歩くから、会社という箱の中で仕事をするからといった月並みな理由のほかにも、
電車移動往復2時間の移動時間という
スマホをいじる以外何もできない時間があるということも大きいのではないかとふと思いました。
言い換えれば、何もしなくても確実に許される時間が必ずあることで精神的余裕を生み出しているのではないかと。
通勤が復活すると決まってこの隙間時間の有効活用方法を模索するのですが、
たいていあれやこれやと候補を選出するだけして定着しないのがお決まりになっています。
それは、電車内だからできることがかぎられているという事情ももちろんありますが、
何もやらなくても許される時間がこれくらいしかない、という精神的猶予の都合もあるのかもしれません。
これにかぎらず、不自由であるであることによって却って精神的自由を感じることは少なからずあります。
逆に言えば、過剰な自由は精神を蝕む可能性があるということでもあります。
この辺は性格によるところも大きいと思いますが、自分の場合はその傾向がかなり顕著です。
だから先の九連休は全然充実させられなかったし、充実感も無かったし、9日も要らないとさえ思っていました。
ただ自由を与えられるだけでは「何かをしなくてはならない」という義務感が無意識のうちに芽生えるのでしょう。
この思い込みは自分にとっていまだ否定できない根強いスキーマとして存在しています。
それは、基本的にやるべきことをやることでしか払拭することはできません。
なので近年、特に2019年以降は「やるべきこと」のハードルを落とすことによって
それを払拭しやすくしようと努めてきました。
しかし自由に対して脊髄反射的に焦りが生じる以上、根本的な解決は望めなさそうです。
そうであるかぎり、自分は休日を本当の意味で「休みの日」として認識することはないでしょう。
だからこそ、物理的に不自由であることによってその「焦り」から心理的に解放されることが、
自分にとって少なくない救いになっている側面があるのだと思っています。
いまの生活でいえば、それに該当する主なイベントが電車通勤というわけですね。
少し前でいえばスーパー銭湯での長風呂もこれに当てはまるイベントだったと言えるかもしれません。
自由時間を増やせばいいというものでもなく、あえて「何もできない時間」を意図的に作るという手もあることは
少し意識しておいてもいいかもと改めて思う今日この頃です。