記事番号のボトルネック
近年あんまり言及していなかったような気がするこのブログのカテゴリとしての「独り言」の存在意義について。
「独り言」は、だ・である調で書くいわゆる随筆で、
通常の記事テーマよりも比較的「重い」テーマ、つまり深刻な悩みやネガティブな出来事、
人生における方針や反省、自分哲学、アイデンティティー、社会との軋轢や正義などについて考えてきました。
記事番号を数え始めた2代目ブログの黎明期からあり、記念すべき最初のテーマは片想いでした(#00014 / 2004年09月14日)。
最初期の一部記事はもともと「長編」というカテゴリで「〜の思い出」というタイトルになる法則があります。
実はこれは黎明期の(サイトタイトルとは別の)ブログタイトルとも関わりがあるのですが、
それ自体が3代目移転にともない形骸化してしまったためいまとなってはあまり語ることもありません。
また、黎明期から「独り言」だった記事は「〜の話」というタイトルが付くことが多いですが、
こちらは当時好きだった『キノの旅』というライトノベルのタイトル規則を意識しています。
「独り言」というカテゴリ自体は、本来は考えて考えて悩みつくすという営みを追求しないと生み出せません。
そのハードルの高さが本当に妥当なのかはちょっと怪しいところがありますが、
慣例的には一般記事であるところの「今日の出来事」よりも相対的に重いテーマを真面目に書く、
というコンセプトに従い、おおむね一般記事の4〜10倍くらいの時間をかけて書いてきたように思います。
もちろん記事によってピンキリで、一般記事とほぼ同じノリで書いてしまったような記事もあるでしょうし、
逆に1ヶ月くらい悩んで生み落としたような記事もあります。
皮肉なことに、たいてい後者は後年の自分が読んだときにとっ散らかりすぎていて理解することができません。
あまりにも考えすぎると収拾が付かなくなってしまうのでしょう。
そして最近は書こうと思っても書き切る前に収拾が付かなくなってしまい結局生み出せない、
というような事態が圧倒的に増えています。
深く考える機会は大切で、できればほどほどに今後も生み出したいという気持ちはあります。
ではどのくらいの頻度が妥当なのか。これは基本的にそのときどきに考えていることにも依りますが、
いまは事実上「100本に1本書く」というルールになっています。
これは100の倍数に当たる記事番号の記事はちょっと特別にするキリ番記事というルールが黎明期からあり、
特別という意味で一般記事に当たるカテゴリはもう「その他」と「独り言」しか無いからです。
まあ年に3〜4本程度ならむしろ書けないとダメだろう、となんとか維持してきたのですが……。
一方で通常記事すら危うい近年はあきらかにブログ維持のボトルネックになっている現実があります。
その影響で最近は思考の残りカスの寄せ集めみたいな記事しか書けていません。
よくよく考えれば、こんな本末転倒な慣習を維持していること自体おかしなことです。
キリ番記事はその目的から「『独り言』を書かなくてはならない」というルールではないため、
代替となるプチ特集的な記事を書ければ必ずしも「独り言」を書く必要はありません。
これまでは、プチ特集よりも「独り言」の方がまだ書きやすいと盲目的に考えていましたが、
改めて考えてみるともはやそうではない可能性も大いにありそうです。
7700番は95日後に迎えますが、ここから先はプチ特集で代替することも視野に検討してみるつもり。
もし実現したら「独り言」を書く機会は激減してしまうと思います。
それ自体はあんまり望ましくありませんが不本意に絞りカスのような文章を書くよりはマシだよね、という。
キリ番記事のボトルネックのせいで4代目も早々に更新が止まりかけてしまったので待ったなしですね……。