続・嫉妬心について
最近改めて思うのは、嫉妬や焦燥感などの負の感情こそが行動力の源泉なのではないか、ということです。
そしてそれは常に他人に与えられるものであり、
人は結局のところ人間関係に揉まれながらも自分の地位を少しでも向上させるためにこそ行動するのではないか、と。
一人でいてもどこからか湧き上がってくる、知的好奇心などのいわゆる「能動的なやる気」などというものは、
実はそうした負の感情とは比べ物にならないほど弱いのではないかと。
いや、この言い方だとあまりにもネガティブなので言い直しましょう。
知的好奇心も立派なやる気の源泉だが、しかし負の感情はそれを凌駕するパワーを持っていると。
いままでの人生経験、とりわけ恋愛周りで起こる嫉妬心は、
「本当は自分もその成果が欲しいのに、
それに対して誠実に行動できていない不甲斐なさに気付かされたときの自分に対する羞恥心」
なのだと考えてきました(#05885 / 2020年01月30日)。
他者の成功を観測することにより、相対的に自分が成功のためにできるはずの行動をしていない現実を突きつけられ、
それに対して恥ずかしさを感じるということですね。
嫉妬するということは、他者が手にした成功と同じものを自分も本心から欲しいと感じていることに他なりません。
にも関わらず、これまで嫉妬感情とはなかなか折り合いが付けられず、
それを行動力の原動力にすることはできてきませんでした。それはなぜなのでしょうか。
恋愛観に関して言えば、それは
「恋愛という神聖な行為の発端が、嫉妬などという穢れた感情であってほしくない」
という考えに基づいているのだと思っています。
そしてこれは、恋愛に限らずクリエイティブな活動を含むさまざまな活動が当てはまります。
自分にとって大切な物事ほど生半可な気持ちでは着手できない心理があるからです(#07454 / 2024年05月14日)。
その活動がもし価値の大きなものに成長したとき、
「この活動は嫉妬が発端でした」などと説明したくないと思ってしまうわけです。
そんなことを始める前から考えるのは自意識過剰としか言いようがありませんが、
もし本当にそうなったときのことを考えるとなかなか拭えません。これこそ自尊心の厄介なところです。
だからこそ2004年の「あの日」以降の自分は、記念日などのポジティブな節目を意図的に多く作ることにより、
少しでも「特別な地点」から踏み出そうとしていました。
いまも続いている長期の活動、そのすべてがキリの良い日付からスタートしているのは偶然ではありません。
このような考え方は一歩目をいかに最小化するかという行動力推進の考え方と真逆であり、
だからこそ大切な物事ほど着手しがたく、また嫉妬はなるべく遠ざけた方が良いという考えに至りました。
その考えが自分をSNSや一部の人間関係と距離を置く根本的な要因にもなりました。
しかし嫉妬することがなくなってからは、ますます行動することもなくなってしまいました。
しかもそれに対して危機感さえ抱かなくなったという点では以前よりも重篤な状況にあると言えるかもしれません。
「一歩目」を重視しすぎることはこのようにさまざまな副作用があるわけですが、
考え方のクセみたいな側面もあるため一朝一夕で矯正できるとも思えません。
ただ、今年の年始ブーストを経て「とりあえずやってみる」を次々に実践したことによって、
その殻にもしかしたらヒビを入れることができたのかも、とは思っています。
嫉妬はある意味本心と向き合うためにきわめてわかりやすいマーカーであり、
これもうまく利用できるようになれたらいいなと思っています。
そして、結局そのためには人間関係の渦中に身を投じることもある程度必要なことなんだろうなと。