愛でると愛する
日本語で「愛する」というと、まず思い浮かぶのは好きな人、要するに恋愛対象です。
一方、「愛でる」というと、モノも含まれるようなニュアンスになります。
もともと「愛でる」は「賞でる」とも書くそうで、漢字から想像できるように褒めるという意味合いも持ちます。
好きな異性などに対する強い気持ちは「愛する」であって「愛でる」ではないですが、
「愛する」は必ずしも異性だけを対象とした概念ではなく、たとえば「祖国を愛する」といった使われ方もします。
なんとなく対象が対等以上の存在で尊重しようとするニュアンスが含まれている気がしますね。
しかし、対象が無機物だと「愛でる」は適当ですが「愛する」は不適当な気がします。
同様に、二次元キャラ等の「推し」に対する気持ちはそれが異性であっても「愛でる」がしっくり来ます。
全体的には「愛でる」よりも「愛する」の方がより強い感情であるというニュアンスがある気がしますね。
趣味や推し活動も相当に突き詰めれば(尊愛の感情があれば?)「愛する」という表現を使っても許されうるでしょう。
さて、昨今の自分はこの「愛でる」感情が迷子になっている感じがします。
なにかを愛でたいが、その対象がいまいち定まらないので心がフワフワと落ち着かない感じ。
実家のねこさまを喪ってからこういう気持ちが徐々に湧いてきたのかなと思っています。
思えばそれとほぼ同時にいわゆる推し活動が本格化したのは偶然ではないのかもしれません。
しかし、考えてみれば当然ですが推し活動がねこさまの代替になれるわけがない。
だからこそ欲求不満に陥っているわけです。
代替は存在し得ないので基本的にはもう2023年以前の状況には戻れなくなってしまったわけですが、
だからといって諦めるわけにもいかず、できれば現状手が届く範囲でベターな何かを見つけたいところではあります。
とはいえ文字通りの代替としてペットを飼うのは一人暮らしにはあまりにもハードルが高すぎる。
百歩譲って猫カフェとかならアリかもしれませんが……。
現実的な範疇でこの欲求をある程度充足できるのが「物欲」だと思っていましたが、
この1年で物欲も半ば消えてしまったように思います。
去年くらいまでは心が踊るような欲しいものを一定周期で見つけることができていたのに、
最近はめっきりなくなってしまった。
もしこれがペットロスによる影響なのだとしたら、それは自分が思っている以上に大きな影響があるのかも。
ただ、物欲も完全に消えたわけではないため、残っている欲求をうまく育てていきたいと思っています。
この文脈でいまの自分に欠けた何かを充足するものがあるとしたらなんだろうと考えてみたのですが、
360枚あるねこの写真と改めて向き合い愛でることが一番の正攻法になるのかなと思いました。
ただ鑑賞するだけで満足できないならiPhoneの純正「写真」アプリの機能にあるメモ機能を使って
各写真にキーワードを付与するとか、AIを使ってエンハンス(超高画質化)するとかやることはいろいろあります。
あとは、存命のうちに3Dスキャンすることはできませんでしたが、
最近は静止画を3D化する技術もあるそうなのでそれを使って3DCG化してみるとか……?
とにかく愛でるものの代替が存在しない以上、そうやって遺されたものに縋っていくしかないのかなと思います。
自分で言うのもなんですが、自分はこういうところはかなり一途なところがあると思っています。