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#7810

次のステップとしての哲学

今日の出来事哲学

ある意味、読書ロマンの象徴的存在として昔から少し高いところにあり続けた「哲学」。
大学時代にマルティン・ハイデッカーを知り『存在と時間』に手を出してみるも当然のように玉砕、
大学院時代には『超訳 ニーチェの言葉』でニーチェを知り、その甘い言葉に陶酔していました。
一気に飛んで2021年にはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の構成に一目惚れし(#06271 / 2021年02月17日)、
このブログもこの本のような形式で集約できたらどんなに素晴らしいだろうと思いました。
ただ、それは決して分析哲学に興味があったというわけではありません。
また16年前に興味を持ったからといって、ハイデッガーにも適性があるとは思っていません。


基本的に自分が考えていることはあくまでも「自分哲学(個人的な哲学)」だという認識で、
特定の哲学者を参考にしたいといったようなモチベーションはありませんでした。
自分が自分なりに世界を認識し、その結果考えたことをブログという形で集約していく。
ある意味、その純粋な達成のためには著名な哲学思想はむしろ障壁にもなりえます。
しかし一方で、自分が考えているようなことは当然どこかで先達も考えているでしょう。
自分と同じ周波数で物事を論じている哲学者がいるなら、その思想は大いに参考にするべきだと思っています。
先達がすでに答えを出しているなら、車輪の再発明をするのは時間の無駄でしかない。


そして、ここに来てカントやヘーゲルなどの近代ドイツ哲学者に比較的近い周波数を感じています。
たとえばヘーゲルは『精神現象学』で、相互承認論なる概念を提唱しています。
これは他者に承認されることで自分が成り立つ以上、互いに自由で対等な存在として認め合うことが重要だ、
というような内容だそうです(書籍を読んでいるわけではないので知ったかぶりです)。
実はこれは、自分が考え抜いた末に2020年に特設サイトに掲載した「相互承認の基本理念」
(ネットコミュニティは、相互に承認し合うという風潮を作れないかぎりは必ず衰退するという考え)
にかなり通じるところがあります。
承認をどう考えるかについては、ヘーゲルに学ぶことが多くあるかもしれません。


また、自分はその承認について考えた結果、利他に注力すべしという結論に至りました(#07800 / 2025年04月25日)。
これは他者承認に関して自分がここ数年考えてきたことの自分なりの集大成です。
しかし、数年単位の集大成である「利他」も結局、心構えによってはすぐに形骸化する脆さがあることは否めません。
この点、近代ドイツ哲学者のカントは「善意志」「定言命法」など厳格な道徳を論じている哲学者であり、
その主著は大変難解ですが、自分にとって「思考の指針」として批判に耐えうる何かがあるような気がしてなりません。
これはいま読んでいる新書がカント哲学をテーマとしていて、それで感じたことです。
もちろん、実際にカントの主著を開いたわけではないので本当にそうなのかは分かりません。
カントに言及している本を読んだかぎりではそういう印象を受けるというだけです。
ただ、少なくとも博識ぶってハイデッガーやウィトゲンシュタインを読むのとはまったく違い、
自分の人生にとっての具体的な糧となりそうな予感はしています。
「知で武装する」というようなスタンスはAIの登場でトドメを刺され、哲学もしばらく遠ざかっていましたが、
ここに来てそういう見栄や高慢とは違う実用的な方向で哲学が必要になるというのは不思議なものです。


16年前に『存在と時間』に手を伸ばしたときは、本当にただの見栄や高慢でしかありませんでした。
20歳になった大学生が、好きでもないのに度数の高いアルコールに手を伸ばしたようなものです。
2009年といえば「自己分析」と称してこんにちまで続く自己批判的な自分哲学が始まった1年でしたが、
それから16年考え続けたいま、ようやく自分哲学も土台らしきものが出来てきたように感じ、
改めて哲学を人生のヒントとして「使う」準備が整ったのかもしれないと感じます。
いまなら哲学を学んでも「自分哲学」が飲まれずに済むのではないか、と。



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