Chrononglyph

哲学

#8166

宿題としての哲学

今日の出来事哲学

去年、生涯を通じて1冊でいいから本格的な哲学書を読みたいと思ったことがありました。
当初はカントの『実践理性批判』への興味が強かったのですが、
次第に承認不安について考えている時間が長い自分はヘーゲルの『精神現象学』の方が合っていると思うようになり、
ヘーゲルに関する入門書もいくつか積んでいます。
が、最近どうもこの計画はこのままだと単に一過性の興味として過ぎ去ってしまいそうな予感がしています。


確かに古典を学ぶことの意義は小さくないと思います。
カントにしろヘーゲルにしろ、その他の哲学者にしろ、実際に生涯を賭けて読解に取り組んでいる研究者は多い。
ただ、自分個人がそれをする意義があるのかと言われるとそこは微妙なのかなと。
これは先日の、社会的欲求と個人的欲求を完全に切り分ける(#08152 / 2026年04月11日)という発想から来ています。
つまり〈既存の哲学〉について学ぶのは他人に褒められたいという気持ちを否定できないわけです。
自分はヘーゲルを読んだことがあるというステータスが欲しい、ということですね。
それは決して純粋にヘーゲルの思想を学びたいと思っているとは言えません。
そんな気持ちで哲学書に臨んだところで序章も乗り越えられないであろうことは言うまでもありませんが、
仮に読破したとしても、その苦労に見合う評価を得られるのか甚だ疑問です。
昨今の自分は、こういう徹底した一種の他者不信に立脚しているところがあります。
それもどうかというご指摘はあると思いますが、いったんここはその前提で話を進めさせてください。


もし、「自分が哲学書を読むこと」それ自体が確実に社会貢献になるなら、
他人に認められるかどうかはさておき、利他行為と割り切ってそれを実践する価値はあると思います(#07800 / 2025年04月25日)。
ただ、おそらく哲学書を読むことはそれにも該当しないような気がします。
となるとあとは純粋に自分にとっての「実利」を追い求めるしかない。
思えば近年の自分はこれら「他者承認」「社会貢献」「実利」の3すくみの狭間でことごとく迷走している気がしますが、
それは哲学的な営みでさえ例外ではないということです。


哲学が「答えのない抽象的なことに答えを出そうとすること」なら、自分はすでに哲学を実践しています。
「既存の哲学者の思想を学ぶこと」なら、まだ一度足りとも実践したことがありません。
このブログは前者の意味の哲学をすると割り切っていてそういう意味では実利に振り切っているとも言えますが、
単に自分のために考えることそのものが楽しいのでやっている活動であるとも言えます。
教養をつけること全般に言えることですが、
哲学書を読む意義を見出すとしたらそれをサポートする存在として心強いのは確かだろうなと。
そして、そういう実存について参考にするなら少なくともヘーゲルの思想は自分の興味関心に被っていて、有望なのは確か。
「生涯を賭けて精読する価値がある」とまではいかないものの、
実利の観点で読む価値はかなりありそうな気はしています。
ただ、実利といってもどこまで価値があるのかさえ未知数でありハードルが高いのは確か。


生涯を賭けて取り組みたい、というスタンスで哲学本を見定めようとするともっと良い本があるのではないかと考え、
永遠に取り組めないジレンマがありますが、この件はいったん実利のためと割り切ってしまおうかなと思っています。
今年の読書ブームの行先にいずれ哲学書を読むフェーズがやってくるかもしれません。


#7810

次のステップとしての哲学

今日の出来事哲学

ある意味、読書ロマンの象徴的存在として昔から少し高いところにあり続けた「哲学」。
大学時代にマルティン・ハイデッカーを知り『存在と時間』に手を出してみるも当然のように玉砕、
大学院時代には『超訳 ニーチェの言葉』でニーチェを知り、その甘い言葉に陶酔していました。
一気に飛んで2021年にはウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』の構成に一目惚れし(#06271 / 2021年02月17日)、
このブログもこの本のような形式で集約できたらどんなに素晴らしいだろうと思いました。
ただ、それは決して分析哲学に興味があったというわけではありません。
また16年前に興味を持ったからといって、ハイデッガーにも適性があるとは思っていません。


基本的に自分が考えていることはあくまでも「自分哲学(個人的な哲学)」だという認識で、
特定の哲学者を参考にしたいといったようなモチベーションはありませんでした。
自分が自分なりに世界を認識し、その結果考えたことをブログという形で集約していく。
ある意味、その純粋な達成のためには著名な哲学思想はむしろ障壁にもなりえます。
しかし一方で、自分が考えているようなことは当然どこかで先達も考えているでしょう。
自分と同じ周波数で物事を論じている哲学者がいるなら、その思想は大いに参考にするべきだと思っています。
先達がすでに答えを出しているなら、車輪の再発明をするのは時間の無駄でしかない。


そして、ここに来てカントやヘーゲルなどの近代ドイツ哲学者に比較的近い周波数を感じています。
たとえばヘーゲルは『精神現象学』で、相互承認論なる概念を提唱しています。
これは他者に承認されることで自分が成り立つ以上、互いに自由で対等な存在として認め合うことが重要だ、
というような内容だそうです(書籍を読んでいるわけではないので知ったかぶりです)。
実はこれは、自分が考え抜いた末に2020年に特設サイトに掲載した「相互承認の基本理念」
(ネットコミュニティは、相互に承認し合うという風潮を作れないかぎりは必ず衰退するという考え)
にかなり通じるところがあります。
承認をどう考えるかについては、ヘーゲルに学ぶことが多くあるかもしれません。


また、自分はその承認について考えた結果、利他に注力すべしという結論に至りました(#07800 / 2025年04月25日)。
これは他者承認に関して自分がここ数年考えてきたことの自分なりの集大成です。
しかし、数年単位の集大成である「利他」も結局、心構えによってはすぐに形骸化する脆さがあることは否めません。
この点、近代ドイツ哲学者のカントは「善意志」「定言命法」など厳格な道徳を論じている哲学者であり、
その主著は大変難解ですが、自分にとって「思考の指針」として批判に耐えうる何かがあるような気がしてなりません。
これはいま読んでいる新書がカント哲学をテーマとしていて、それで感じたことです。
もちろん、実際にカントの主著を開いたわけではないので本当にそうなのかは分かりません。
カントに言及している本を読んだかぎりではそういう印象を受けるというだけです。
ただ、少なくとも博識ぶってハイデッガーやウィトゲンシュタインを読むのとはまったく違い、
自分の人生にとっての具体的な糧となりそうな予感はしています。
「知で武装する」というようなスタンスはAIの登場でトドメを刺され、哲学もしばらく遠ざかっていましたが、
ここに来てそういう見栄や高慢とは違う実用的な方向で哲学が必要になるというのは不思議なものです。


16年前に『存在と時間』に手を伸ばしたときは、本当にただの見栄や高慢でしかありませんでした。
20歳になった大学生が、好きでもないのに度数の高いアルコールに手を伸ばしたようなものです。
2009年といえば「自己分析」と称してこんにちまで続く自己批判的な自分哲学が始まった1年でしたが、
それから16年考え続けたいま、ようやく自分哲学も土台らしきものが出来てきたように感じ、
改めて哲学を人生のヒントとして「使う」準備が整ったのかもしれないと感じます。
いまなら哲学を学んでも「自分哲学」が飲まれずに済むのではないか、と。