愛と承認の話
2003年から20年以上もの間ネット活動を続けてきた僕は、ここ数年で分岐路に差し掛かっていると感じる。
それは一言で言えば「認めてもらうための活動」が完全に行き詰まり、
方針転換せざるを得なくなったということである。
ブログ、webサイト、動画、SNSなど、活動のための媒体はさまざまなれど、
いずれも当初の目的は自分という存在を他者に認めてもらうことだった。
そしてこの20年余りを振り返ると、どの活動も認められているという実感は無い。
短期的には認められたと感じることはあったけれども、いずれまた喉が乾くということを延々繰り返している。
こういう活動を続けるかぎり、僕は何歳になっても承認欲求不満であり続けるのだろう。
ネット社会で承認欲求を満たすことのみを目的とするならば、モラルを逸脱するのが手っ取り早いと思っている。
きわめて善良で平凡な意見が(多数派だからこそ)見向きもされない一方で、
告発系のYouTuberが同接ランキングの上位を独占したり、センシティブな投稿が桁違いのインプレッションを稼いでいる。
このSNS社会では、本当にただ注目されたいだけなら「悪い人」になってしまうのが手軽で合理的なのだろう。
僕はかつて、ネット社会というものは努力に比例して成果が認められる純粋な実力主義社会なのだと思っていた。
しかし、それはあまりにも甘すぎる考えだったと言わざるを得ない。
良くも悪くも尖っている人ほど目につきやすいという構造の都合上、
狡猾な人が上に立つというのは振り返れば昔からずっとそうだったと思う。
尖った才能の無い僕はそこで馬鹿正直に戦い続けることに、正直そろそろ疲れていた。
かといってモラルの壁を越える度胸も無い。
これまでのネット活動の目的は常にその意味での承認欲求のみが目的だったわけではないと信じたい。
僕はいつからか、「いいね」の数よりも質を重視するようになった。
単に数を求めるだけでは承認欲求は際限なく肥大化していき、あっという間に自分のキャパシティを超える。
そこで自分の活動を好意的に捉えてくれる人との関係を重視し、そのためにこそネット活動は存続してきた。
しかし、隣に自分よりも多い「いいね」を稼ぐフォロワーがいるかぎり結局満足することはなく、
心構えを変えたところでさほど意味は無いのだと思い知った。
人はある程度は失敗しても認めてくれるという安全性が担保されて初めて、そこでのびのびと活動できるものである。
認められないこともあるという状態は「条件付きの承認」に過ぎず、それだけでは活動を盤石にしない。
ネット活動におけるほとんどの個々の他者承認はこれに該当する。
ネット活動をする人々は心のどこかで「認められないかもしれない」「否定されるかもしれない」
という自己否定感や無力感、あるいはプレッシャーと戦いながら成果を求めていく。
そのストレスを前に、表に出すことを諦めた活動は数知れない。
評価される以前の活動はたいてい、受けるストレスと実際に得られる承認が釣り合わない。
自己否定感を払拭したいからこそ承認を求め、認められなければ自己否定感はさらに強まり、
それを「解呪」するためだけにわずかな他者承認を渇望するようになる。
そうして人は、他者承認を求めるかぎり多重債務のような悪循環にズブズブとはまっていくのだ。
活動のための努力は、「きっと承認されるだろう」という期待があってこそ実践できる。
条件付き承認に対する不信が募れば人はいつしか努力さえできなくなり、
究極的には努力はできないが誰かに認めてほしいという、無条件の承認を期待するようになっていく。
「無条件の承認」とは要するに愛であり、自分がただ存在するだけで承認してくれるということである。
ここでいう愛は本人の能力、努力、実績、個性などとはまるで関係ない文脈で成立しなければならない。
無条件の承認を与えるのは本来家族やパートナーなど代替不可能な関係性を持つ人の役目であって、
赤の他人で顔さえ見えないネットの向こうにいる人にそれを求めるのは非合理と言わざるを得ない。
僕は、かつては信頼を得るべく少ない可能性に賭けて努力していたかもしれないが、
いつしかその心も折れ、無条件の承認をネットの向こうに求めていた側面が否めない。
ネット活動が割に合わないと感じるようになった原因はきっとこの非合理性にあるのだろう。
ネットの向こうの人間はどんなに「自分」を承認したくても成果が見えないかぎりは物理的に承認できず、
承認されるためには少なくともなんらかの能動的な活動成果が必要になる。
しかし、成果に求められるクオリティはSNS社会の拡大や自分自身の実績の増加に伴ってインフレしていき、
同じような承認を得られても結局負荷は高まる運命にある。
これは活動の持続性を考えたとき、
「他者が承認を与えるかどうかは不確実だから」ということ以上に深刻な悩みになる。
やがては努力できなければこの関係性を維持できないような無力感に苛まれることになる。
元も子もないことを言えば、自分という人間をただ全面的に肯定されたいだけなら、
ネット活動に血道を上げるより最初から家族などリアルの関係と向き合うべきだったということになる。
しかしそこに希望を見出せるならとっくに行動しているはずで、現実もそう甘くはない。
家族のことを思えばこそ、僕に上京しないという選択肢は無かったといまでも信じている。
いくら親に愛されているからといって、永遠に自立しないわけにもいかない。
ネット活動は、身元を隠しているかぎりオフラインの自分を承認してくれることは永遠に無い。
しかし裏を返せば、オフラインである間はオンラインの人々に否定されることなく過ごせるということでもある。
ネットにはネットの、仕事には仕事の、プライベートにはプライベートの承認相手が存在し、
「自分」はその多面的な世の中をせわしなく行き来している。
そのバランスを保つことが特定の承認への依存を軽減する、いわばリスクヘッジになるのだろう。
ネットに過剰な承認を求めていた僕の現状は、そのバランスを見失っていた状態であるとも言える。
信頼している家族やパートナーから「無条件の承認」を得て、
その安定した基盤の上でネットや仕事、プライベート活動に勤しむのが基本的には理想と言えそうだ。
そしてその基盤をネットに求めるのはお門違いであり、ネットの向こうの人への過剰な期待はネット活動そのものを蝕む。
では家族やパートナーを持たない人に救いは無いのだろうか?
たとえばキリスト教では神による愛はアガペー(ἀγάπη)といい、人は愛されるための条件をいっさい与えられていない。
神は「無条件の承認」によって、人の行為すべて、存在そのものを愛しているというのである。
つまりキリスト教徒はこれを信じるかぎり、生きる上で必要な承認基盤をすでに得ているとも言える。
そしてキリスト教では、神によって無償の愛を与えられたならば次にあなたは隣人を愛せよと言う。
隣人に差し迫った危機が生じているとき、あなたは隣人を助けなければならないと。
この利他行為の実践によって人はアガペーを自分ごととして捉えられるようになり、
また「自分にされたいことを他人にせよ」という黄金律は善い社会秩序を生み出しうる。
ネット活動における「認められるための活動」は、利己的な側面が強かったからこそ報われなかったのだろう。
これまでの僕のネット活動は、言うなれば選挙活動のようなものだったのだと思う。
それは自分らしいとか人として正しいとか実績が素晴らしいとか言う以前に、
他者の需要を推し量る余裕が無く、結果として他者にとって押し付けがましい活動だったという側面は否めない。
であれば、キリスト教の啓示を参考に利他行為に徹するのはどうだろうか?
突き詰めればモラルを逸脱する方が合理的になってしまう「より多くの注目を集められた方が良い」という考え、
あるいは認められないことによる消耗の果てに光回線の向こうの見知らぬ人に対して愛を求める不合理。
徹底した利他主義はこれらを遠ざけ、ネット社会の活動を持続可能なものに昇華できないだろうか。
これは、承認欲求を否定したアドラーが幸福の正体を「貢献感」だと言っていたことにも通じるように思う。
利他行為は他者に利することそれ自体が目的であり、活動の結果自分が世間に認められたかどうかは関係ない。
一方、他者承認のための活動は最後まで承認を得られるかどうか分からないという点でギャンブルに近い。
利他に徹するということは、そのギャンブルから脱出できるということだけ考えてもかなり有望に思える。
たとえば僕はこれまで自分の興味関心を「消費」して、
webサイトやブログ、SNSのネタとして成果を発表するのがせいぜいだった。
それは「自分の成果」でなければならないという暗黙の条件があった。
しかし利他を第一に考えるなら、質問サイトで困っている人に回答を書いてみる、誰かの投稿に「いいね」する、
SNSで誰かの相談に乗ってみる、Wikiを編集する、Githubにプルリクエストを投げてみるといった、
従来なら「自分が認められるわけではないから」と切って捨てていたような活動も積極的にできるようになる。
しかもそれらは、昔の自分がやっていた諸々の不毛な活動よりは明らかに社会的に有意義に思える。
利他行為は、不毛な自己愛やナルシズムから脱却して、社会へと確かに目を向けるための実践なのだと思う。
そして僕はこの利他行為を「推し活動」という形ですでにスタートを切っている。
推し絵師のブログには、内容がどんなにメンヘラじみたものであれ肯定的なコメントを残してきた。
「無条件の承認」には程遠いかもしれないが、
自分自身が誰かに「全肯定の承認」を与えられないだろうか、という試みである。
他方、2003年から継続してきた、ゲームのやり込みを大前提とする他者承認ありきの活動は静かに遠ざかりつつある。
この論に妥当性があればこそ、この流れはもう変えられないだろう。
自分一人はどうしようもなくちっぽけで、無力で、矮小な存在である。
しかし、社会がこの時代を生きる人々の歩く群れだとしたら、僕は確かにそのうちの一人であるということは疑えない。
そして群れの先頭になることはかなわなくても、自分が群れの一員であることを誇ることはできる。
この時代を歩くという壮大なプロジェクトからしてみれば、群れの先頭か途中かという問題は瑣末なことだ。
利己主義から利他主義への転換は、そうしてようやく世界へと目を向けるための第一歩なのかもしれない。