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言葉の定義

#8203

センスについて

今日の出来事言葉の定義

個人的には、AI時代の到来によって「語彙力」「言語化能力」はかなり価値が上がったかなと思います。
自分のやりたいことを正確に言語化できれば、あとはAIがなんでもやってくれるような時代。
しかし個人の「やりたいこと」を言語化するまでのプロセスはAIはまだ十分にアシストできません。
それをも丸投げすることはできなくはないですが、そうすると成果物に対して自分が生み出したとは言えなくなり、
ある意味では言語化能力は人間に託された最後の役割のようなところがあると思います。
この最後のプロセスは、「センス」などと呼ばれることもあるでしょう。
センスだけは、AIに任せられない最後の砦のような気がします。


しかし改めて考えるとセンスという言葉も簡単なようでよく分からない概念です。
辞書で引くと、以下のように書いてあります。



センス【sense】


物事の微妙な感じや機微を感じとる能力・判断力。感覚。(大辞林第三版)




きび【機微】


表面からは知りにくい微妙な心の動きや物事の趣。(同上)




びみょう【微妙】


① なんともいえない味わいや美しさがあって、おもむき深いこと(さま)。
② はっきりととらえられないほど細かく、複雑で難しいこと(さま)。
〔自分の意見や判断をはっきり言いたくない場合や、婉曲に断ったり否定的に言ったりする場合に用いられることがある。〕
(同上)



個人的には、センスという概念はこうした辞書的意味だけでは説明しきれない側面があると思っています。
確かに、物事や人間心理の機微を正確に読み取って
それを芸術作品等のアウトプットに反映するのを「センスがある」と言うことに異論はありません。
しかし一方で、コンテキスト(文脈)を正確に読み取った上で、
「この部分にはこういう表現が一番しっくり来る」と多くの人が納得するようなアウトプットができることも、
個人的にはセンスがあってこそなせる業なのかなとも思います。
前者はアウトプットする対象概念を読み取って反映することを言うのに対して、
後者は対象概念の前後・周囲にある概念との相対的な位置関係を考慮しているという点で、大きく異なります。
文学で言えばある〈微妙〉な事象を説明するのに巧みな表現を使っていればそれは前者の意味のセンスだし、
前後の文脈を踏まえて物語を流れるように展開し読者を引き込むのは後者のセンスでしょう。


音楽でも、すぐれた作品は「ここでこの音源を使うのは分かってるね!」と思わずうなるような展開をするものです。
それは作曲家の音源的なボキャブラリーが豊富だからこそ為せる業なのでしょう。それもセンスだと思います。
こういうことは文学や音楽に限らず、ゲームや漫画、ファッションや家電製品までさまざまな芸術にも言えることです。
webデザインにだって言えると思います。
デザイン的にすぐれたwebサイトは、余白、色使い、フォント、レイアウトに統一的なコンセプトが感じられ、
あらゆるデザインパーツがその文脈を逸脱しないように設計されているものです。
実際にサイトを作っていると、
「このフォントはしっくり来ないな……」「この色はこのサイトらしいかも!」などといった試行錯誤をするものです。
webサイトは(芸術とみなした場合)どちらかというと後者的なセンスを重んじるものなのかもしれません。


この「文脈」というのは必ずしも作品内の関係性だけで言えるものではなく、
その芸術を味わう人の世界観にも大きく影響されます。
大衆文化ならその時代の大衆にとって「しっくりくる何か」を表現することが求められるし、
あるクラスタに向けた作品であれば、その属性のコンセンサスをしっかり守っていることが求められるわけです。


直感的には、消費する人に迎合できればセンスがあると言い切れるものでもないような気がしますが、
少なくとも従来世界は「機微な情景」を表現できる人はセンスがあるとみなされてきたと思います。
しかし今後、コンテキストを読み取って答えを出すのはAIの仕事になると思われ、
そういう意味ではAIで生み出せば従来型のセンスはあって当たり前の時代になるのかもしれません。
特にwebサイトのような簡単にAIが量産できる分野は、逆に大衆迎合的なデザインは忌避される可能性さえあります。
AIイラストの世界はただめちゃくちゃハイクオリティなだけで没個性な顔は「マスピ顔」と言って忌避されており、
すでにそこからいかに崩して個性を盛り込むかという世界になってきています。
もしかしたら、20年後くらいには「センス」という辞書的意味も大きく変わっているのかもしれません。


#7831

信頼と信用

今日の出来事言葉の定義

そういえばいままで頻繁に使いつつもあまり考えてこなかった「信用」と「信頼」の使い分けについて考えてみます。
この手の話題はまず辞書を引くところから始めましょう。


【信用(しんよう)】
1 確かなものと信じて受け入れること。「相手の言葉を—する」
2 それまでの行為・業績などから、信頼できると判断すること。また、世間が与える、そのような評価。「店の—に傷がつく」
3 現在の給付に対して、後日にその反対給付を行うことを認めること。当事者間に設定される債権・債務の関係。
(デジタル大辞林)

【信頼(しんらい)】
信じて頼りにすること。頼りになると信じること。また、その気持ち。「両親の—にこたえる」「医学を—する」
(同上)

長年お世話になっているgoo辞書から引きましたが、06月25日にサービス終了するそうです。お世話になりました。


基本的に信用は「過去・現在の実績に対する評価」、信頼は「これからすることに対する評価」だと思います。
住宅ローンは、今後の収入や活躍を見越して大金を貸してくれるわけではありません。
あくまでも現在・過去の収入状況に基づいて判断されるため、これは信用に基づく契約です。
難しいのは〈信用〉の②で、これまでやったことに基づいて信頼することは「信用」であると定義しています。
ではこの状況に当てはまらない〈信頼〉は成り立つのか?
それはつまり、過去の実績に関係なく他人を頼りにするということです。


一見するとそんなことはそうそう無いと思いがちですが、実はごく身近なところにも〈信頼〉はあります。
たとえば交通ルール。我々は青信号になれば道路を渡りますが、
それは見ず知らずの人が運転する車が「赤になれば止まる」ということを信頼しているから渡っているわけです。
我々はその見ず知らずの人の運転実績をあらかじめ知っているわけではありません。
これは公共交通機関における乗降のルールや、利用することについても同様です。
整列乗車は割り込まないと知っているから並ぶのだし、
バスや電車は運転士を無条件に〈信頼〉しているからこそそれらを利用しているとも言える。
つまり、期待通りに行為してくれるのが「当たり前」であるという暗黙の了解があるわけです。
これらは〈信用〉の②に当てはまらない〈信頼〉と言えるのではないでしょうか
(自分がそれを「利用」した実績に基づく〈信用〉と言えなくもないですが)。
ではなぜ自分は、見ず知らずの車を〈信頼〉できるのにより身近な他者を無条件で〈信頼〉できないのか?


信号が赤になれば止まらなければならないというのは常識であり法律で定められたルールです。
つまり、ここでの〈信頼〉はルールによって保証されているとも言える。
対人関係においては、基本的には交通ルールのような厳格なルールは存在しません。
世の中には倫理という形でそれらしきものがいちおうあるものの、遵守するかどうかは人次第なところがあります。
倫理に照らし合わせれば他人を不用意に侮辱したり、名誉を傷つけたりしてはいけないのは自明ですが、
一方で精神の未成熟などを要因として、それを破ることに快楽を覚えるような変態が世の中には少なくない。
特にネット社会はひどいもので、だからこそネットの向こうの人を無条件で〈信頼〉するのは難しいと思います。
それでもなお他者を〈信頼〉することに努めるべきかどうか、その価値があるかどうかはわかりません。


しかし他者を信頼できなければ活動が停滞するのもまた事実です。
特に他者に承認を求める場合、まずは他者を信頼しなければ何も始まらない。
これは所属するコミュニティの質などにも依存する話ですが、
結局足元の活動を盤石にするためには〈信用〉に基づく活動が無難だという話になってしまうわけです。
たとえば仕事などはそういう形で他者と関わっているわけで、
ネット活動も広義の仕事と思えばこういう形が適当であるという意見も捨てがたいところです。
ただし相手が不特定多数だともはやこの論理は通用しません。


いま、自分があらゆる方面において活動の停滞に陥っているのはこの辺も関係あるのかなと思っています。
昔はこうではなく、「頑張ればコミュニティの誰かが認めてくれるだろう」という無根拠の信頼感があった。
いつしか、それが途切れてしまったように思うんですね。
頑張っても認められなかった経験がある程度募った結果なのでしょうか。
結局それによって、信用してもらうために見返りゼロで成果を求めなければならない地点まで落ちてしまった。
ある程度の成果がすでにあればそれをベースに活動していけるのでまだ行動できると思うのですが、
そういうものがゼロであると認識してしまうと、途端にあらゆることができなくなってしまいます。


そもそもなぜ昔の自分が無根拠にコミュニティを信頼できていたのかどうかもまだ言語化できていませんが、
その辺に活動復活のヒントが隠されているような気はします。