他人への期待と自己愛
「他人に期待しない」というのはここ数年で得た最大の教訓であり、
なおかつ精神を健全にするために必要な意識改革の骨子と言っても過言ではない重要なことですが、
それが必ずしも文字通りに常に正しいというわけではありません。
たとえば期待を前提とした人間関係というのも実生活では多くあるわけで、
これを根本的に否定するとなると生活が根本から揺らぐことにもなりかねません。
なので、この教訓についてはこれからもよく考え、必要なら矯正する必要があると思います。
他人に期待するのがなぜダメなのかというと、
まず第一にその「期待」は往々にして期待する側の価値観が強く反映されていて、
期待される側の事情が考慮されていないという問題があります。
親が子に対して、無条件に「自分の子は優秀な子であってほしい」と思うような場合ですね。
そういう一方的な理想の押し付けに応えることは大きな負担になるし、
そもそも理想が高ければ高いほど他人はそれに応えられないことの方が多いわけです。
期待を抱いた側は失望したり、
期待された側も期待に応えられなかったことを不甲斐なく思ったりしてロクなことがありません。
場合によっては人間関係に亀裂を入れる原因になり得ます。
これは相互理解不足から起きるよくあるトラブルだと思います。
期待を抱いた側は失望すると書きましたが、この失望にもさまざまな程度があると思います。
そもそも一方的に理想を押し付けている時点でその期待は正当性に欠けるわけですが、
期待する側が「達成して当然」と思っていたり、
「頑張れば達成できるかもしれない」と思っていたり、そのレベルはさまざまなわけです。
そしてその期待レベルが低いにもかかわらず達成されないと、やはり失望の気持ちは大きくなる。
そこには多くの場合他責の念が含まれるわけですが、
「あいつは思っていたより能力が低かったのか」などと思うようならまだマシで、
「この程度の期待にすら背くということは自分に対して悪意があるんじゃないだろうか?」
などと考え出すと結構深刻な部類に入ると思います。
自己愛が強く自分が思っていることは実現してしかるべき、
という信念を持っているような場合、そういう思考へ至るのは特別なことではありません。
むしろ日常の些細なことからもそういう「悪意」を感じとっている可能性もあります。
なぜそんな分析に至るのか。
それは言わずもがな、自分がそういう自己愛に偏った価値観を持っていたと思っているからです。
おそらく長男という立場を利用して独善的な振る舞いが許されていた幼少期から
そういう価値観はすでにあったのではないかと考えています。
2018年以前の自分はメンヘラなところがありましたが、
その自己中心的な振る舞いの根本にこういうゆがんだ自己愛があったのではないかと思っています。
だからこそ「他人に期待してはいけない」という価値観を正とみなしているのだと思います。
十分な相互理解に基づく適切な期待ができていた実績があるならば、
そもそも「他人に期待すること」が無条件に悪いものだという認識に至るはずがありません。
なのでこの教訓は広く世間一般に通用するものというよりは、
自分という個人にのみ特別に効き目のある処方箋のようなものとして機能するのだと思います。
こういう心の奥底の汚い部分に手を突っ込んで原因を受け入れるのは非常に大事なことで、
それをするかしないかでQOLや人間関係がかなり変わってくると思います。
自分はそれをする覚悟を成熟させるのにずいぶんと長い時間を要したし
手遅れになった人間関係もありますが、
残っている人生の長さを考えると、この時点で気づけただけまだマシなのかもしれません。