嫌悪感の微かなサイン
何日か前に、あるSNSで相互フォローしているがほぼ絡みが無い人が
別名義で推している人の直筆サインをアップして自慢しているのを見て、絶妙にモヤったという体験をしました。
これがいわゆる同担拒否というやつか、とも思いましたが、心を探っていくと微妙に違う気もするので分析してみます。
同担拒否とは、自分と同じ推しとの交流を拒む傾向のことを言います。
その心理としては推しへの愛を競争原理に持ち込みたくない、マウントを取られたくないという気持ちがあるそうです。
ちなみに対義語として「同担歓迎」があります。
確かにこのときの自分はマウントを取られたと解釈することも可能でした。
正直言って「別名義で推している人」は最初期によく活動をウォッチしていたというだけで、
最近はほぼ見ていませんでした。推しのその分野としての主観的評価はあまり高くはなく、
近年はより評価の高い別の方に流れていたという事実があります。
さすがにいまになって直筆サインをゲットしに行くほどの気概は無かったわけです。
そのため、この感情は「悔しい」とはちょっと違う。
確かに推しへの本気度で負けたのは事実かもしれないが、そもそも自分はリングに上がった覚えがありません。
なのでマウントを取られたかと言われると違う気がします。
この状況でマウントを取られたと言い切ってしまうのは病的な自意識過剰と言わざるを得ませんが、
さすがにそこまでではないということはわかっています。
ただ、一方で嫌悪感みたいなものは確かにある。
そもそも自分に同担拒否的な傾向があるかと言われると怪しいと思っています。
例えばまったく関係ないコミュニティで自分が好きな配信者を好きだと言っている人と出会ったら普通に嬉しいと思う。
そこで「直筆サイン持ってるよ」と言われたら素直に賞賛できる気がします。
なので、今回のケースだと「SNSでフォローしているがほぼ絡みが無い」というのがポイントなのかなと。
有り体に言ってしまえば、その人のことが嫌いだから推しに言及されたことに対して嫌悪感を覚えるのかなと。
めちゃくちゃストレートな言葉にすると「お前なんかに推しのサインを持っていて欲しくない」ということですね。
思春期の黒歴史である「独占欲」に若干近いような気がしなくもない。
とはいえ、記憶の隅にこびりついているような明確に嫌いな人と違って、
その人は反社会的だったり実害を及ぼしたりというようなことはなく、人として嫌いと言い切るには微妙な気はします。
ただ「自分だったらしないこと」を堂々と実践している人でもあり、
その意味で「ちょっと嫌だな」という感じは確かに前々からかすかにあった。
その気持ちが、推しのサインというアイテムの提示によって浮き彫りになった感じでしょうか。
この人ではなく、同じ界隈のもう少し近しい人だったら嫌悪感を抱いたとは思えないので、
やはりこれは推しとの距離感というよりこの人との距離感の問題のような気がする。
こういう心の動きは「心が狭い」と責めるには十分なほどに自己中心的だと思うし、
本人に面と向かって表明したら最後トラブルになるのが目に見えています。もちろんそんな余計なことはしません。
ただ一方でこういう心の動きがあったことは事実として「感じてしまったこと」であり、
この気持ちに嘘をつくことはできません。
この情報過多社会で多方面にアンテナを張っているとどうしても起きてしまう不慮の事故みたいなものですが、
一方で「この人さえ推していれば!」という確固たる気持ちが無く迷っているがゆえの心の弱さでもあると思います。
去年から本格化したいわゆる「推し活動」ですが、
この件でまだまだ気持ち的には確立していないのだと思わされました。
あとは、やはり他者との距離感を適切に取ることは自衛のためにもトラブル防止のためにも重要なんだなと。