背中で語る愛
絶対にQOLが上がることが分かっているが行動に移せないことがひとつあります。
それは猫をお迎えすること。
実家社会人時代当時、特に2015〜2017年や2018年の一部繁忙期は帰るのが23時前後になることがよくありました。
その場合、家族は先に夕食を済ませていて自分の分だけが台所に残されていて、
自分はそれをよくリビングではなく台所で食べて済ませていました。
すると、たいてい当時のニャーさんが台所にのそのそとやってきて、近くで座って待っているんですね。
こちらを見ているというよりは、背を向けて待っているという感じでした。
別にニャーさん自身のごはんを催促しにきたわけではなく、台所にいるとずっと一緒にいてくれました。
深夜にPCデスクの前に座って作業しているときも同様で、よく隣でがっつりへそ天してリラックスしていました。
たいてい、自分以外の家族が寝静まったような時間帯にそうなることが多かったように思います。
単に寂しかったのか、ボディーガードのつもりでいてくれたのか、その真意は分かりません。
当時はそれが日常だったので恩恵を実感することは無かったですが、
当時の自分はそれだけでものすごく幸せだったといまは思います。
いまと比べると心理的負荷も相当多かった実家時代ですが、
やはり心が本当に壊れてしまわずに踏みとどまれたのはニャーさんの存在が大きかったんだろうなと思います。
いま、もし同じように猫と暮らせたらその幸せを噛み締めることができると思います。
そしてそれは、この生活では永遠に埋まらないであろうある種の穴を確実に埋めてくれることでしょう。
ではなぜそれを実行しないのかというと、猫のお世話ができる自信が皆無だからです。
実家時代、定期検診やトイレの後始末など、面倒なことは結局ほとんど親がやっていました。
そもそも直接の「飼い主」は親であり、自分はそのおこぼれをもらっていたに過ぎません。
猫という動物に強い愛情を抱いているのはその良い側面しか見ていないからという事情も多分にあるでしょう。
そもそも一人暮らし独身で猫を飼うのはリスキーであり、現状お迎えする資格は無いだろうと思っています。
じゃあ猫カフェに行けばいいじゃないかという意見もあるかもしれません。
しかし猫カフェの猫は人間慣れしているものの自分という個人に対して馴れることはないわけで、
実家のニャーさんのように背中から愛を感じるようなことはあり得ないでしょう。
確かに猫と触れ合えるというのは魅力的ですが、愛を感じられないなら本質的には意味は無いように思います。
ものすごくクリーンなイメージの風俗店みたいなもの。
自分の猫好きな思想に同調してくれる女子と結婚して子どもは作らず、代わりに猫を迎えるというのはアリかも。
トイレの処理などといった面倒な部分は妻と折半できるので負担は半分。
人間の子どもと比べても身体的・精神的負担はかなり少ないと思います。
まぁそこまでやるなら人間を愛せよという話ではあるか。
いずれにしろ、「自分は何かに愛されている」という実感は人の心を救うと思います。
その対象は猫のような非人間でも成り立つのだから、愛に高度な知性や言語は必要無いということなのでしょう。
それが無かったら生きる価値は無いなどと言うつもりはありませんが、
まだおそらく40年近く残っている人生で精神を盤石にするためには、
「愛」をどうやって得るか、あるいは行使するかという問題はやはり逃げられない予感がしています。