Chrononglyph

我が家の猫

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#7909

背中で語る愛

今日の出来事我が家の猫

絶対にQOLが上がることが分かっているが行動に移せないことがひとつあります。
それは猫をお迎えすること。


実家社会人時代当時、特に2015〜2017年や2018年の一部繁忙期は帰るのが23時前後になることがよくありました。
その場合、家族は先に夕食を済ませていて自分の分だけが台所に残されていて、
自分はそれをよくリビングではなく台所で食べて済ませていました。
すると、たいてい当時のニャーさんが台所にのそのそとやってきて、近くで座って待っているんですね。
こちらを見ているというよりは、背を向けて待っているという感じでした。
別にニャーさん自身のごはんを催促しにきたわけではなく、台所にいるとずっと一緒にいてくれました。


深夜にPCデスクの前に座って作業しているときも同様で、よく隣でがっつりへそ天してリラックスしていました。
たいてい、自分以外の家族が寝静まったような時間帯にそうなることが多かったように思います。
単に寂しかったのか、ボディーガードのつもりでいてくれたのか、その真意は分かりません。
当時はそれが日常だったので恩恵を実感することは無かったですが、
当時の自分はそれだけでものすごく幸せだったといまは思います。
いまと比べると心理的負荷も相当多かった実家時代ですが、
やはり心が本当に壊れてしまわずに踏みとどまれたのはニャーさんの存在が大きかったんだろうなと思います。


いま、もし同じように猫と暮らせたらその幸せを噛み締めることができると思います。
そしてそれは、この生活では永遠に埋まらないであろうある種の穴を確実に埋めてくれることでしょう。
ではなぜそれを実行しないのかというと、猫のお世話ができる自信が皆無だからです。
実家時代、定期検診やトイレの後始末など、面倒なことは結局ほとんど親がやっていました。
そもそも直接の「飼い主」は親であり、自分はそのおこぼれをもらっていたに過ぎません。
猫という動物に強い愛情を抱いているのはその良い側面しか見ていないからという事情も多分にあるでしょう。
そもそも一人暮らし独身で猫を飼うのはリスキーであり、現状お迎えする資格は無いだろうと思っています。


じゃあ猫カフェに行けばいいじゃないかという意見もあるかもしれません。
しかし猫カフェの猫は人間慣れしているものの自分という個人に対して馴れることはないわけで、
実家のニャーさんのように背中から愛を感じるようなことはあり得ないでしょう。
確かに猫と触れ合えるというのは魅力的ですが、愛を感じられないなら本質的には意味は無いように思います。
ものすごくクリーンなイメージの風俗店みたいなもの。


自分の猫好きな思想に同調してくれる女子と結婚して子どもは作らず、代わりに猫を迎えるというのはアリかも。
トイレの処理などといった面倒な部分は妻と折半できるので負担は半分。
人間の子どもと比べても身体的・精神的負担はかなり少ないと思います。
まぁそこまでやるなら人間を愛せよという話ではあるか。


いずれにしろ、「自分は何かに愛されている」という実感は人の心を救うと思います。
その対象は猫のような非人間でも成り立つのだから、愛に高度な知性や言語は必要無いということなのでしょう。
それが無かったら生きる価値は無いなどと言うつもりはありませんが、
まだおそらく40年近く残っている人生で精神を盤石にするためには、
「愛」をどうやって得るか、あるいは行使するかという問題はやはり逃げられない予感がしています。


#7333

さよなら

2007年06月10日生まれのその猫が我が家に来たのはその年の冬のことだった。
長毛種のラグドールという品種だが、模様が不適格で血統書をもらうことができなかったらしい。
それで、ブリーダーとうちの母の縁で我が家が引き取ることになった。
とても明快ににゃーと鳴くので安直に「ニャーさん」と呼ばれるようになった。


彼は先住のクロ(2005年生まれのミニチュアシュナウザー)と違って最初から家の中で放し飼いにされ、
誰からもすぐに愛されるようになった。
そして愛されるがまま、わがままになり、家族にさまざまなことを要求するようになった。
先住のクロは良い遊び相手だったが、寝床を急に奪うなどあまり対等のようには見えなかった。
要するにニャーさんは偉かったのである。すでに1歳で不動の地位を築いていた。
ご飯が欲しければニャーといい、遊んで欲しければニャーという。
とにかく遠慮はしなかったし、こちらもそれに十分応えてきたつもりだった。
ご機嫌なときはドテンとひっくり返って、その見事な長毛に覆われた腹を見せたりもした。
そしてゴロゴロと喉を鳴らしながら、こちらが撫でてやるのを待っているのだった。


2020年、コロナ禍初期にクロが先に逝ったとき、当然ニャーさんもいつかは同じ橋を渡るのだと思った。
その「いつか」が必ず来ることは紛れもない事実だったが、当時はそれを受け入れられなかった。
猫は長生きというし、その「いつか」が来るとしても十年近く先のことだろう、と思うようにしていた。
いつか別れることを意識してしまうと存分に愛せないと思ったからだ。


しかし今日、その「いつか」が思っていたより早くやってきたのに、ちっとも泣けやしない。
この実感の無さは遠く離れた土地にいるからだろうか、それとも……。


クロが逝ったときも今日と同じように一人暮らしの最中だったが、
クロの場合は2014年に医者からも見放されるほど重篤になり、それに居合わせた経験があった。
そのときに抱いた悲しみを7年後に解放する余地があったから泣けたのだと思う。
ニャーさんの場合は、実家暮らし中に危機的な状況に陥ったことはなくいつも元気だった。
調子を崩したという連絡が届いても、次に実家に行けばケロッとしているのが当たり前だった。


ただ、2022年夏頃に便秘によって肛門が損傷し大腸に穴が空いてしまうという信じがたい障害が残り、
それ以来ニャーさんはずっとオムツと包帯が欠かせない生活になっていた。
ニャーさんは生まれつき便秘がちで、いつぞやに数日にわたってトイレをせず、
ついには猫用トイレでうずくまったので親が動物病院へ駆け込んだことがある。
医師が言うには、大腸のほとんどに便が詰まっていてあと少し遅ければ危なかったとのことだ。
あのときのことが長い伏線になっていたのかもしれない。


いままで散々愛されてきたニャーさんは、オムツ生活になってから必ずしもそうではなくなった。
猫の糞はものすごく臭いが、人間側がそれを嫌がらなくても彼自身が辛かったのだろう。
いつものように構ってあげてもそっけない態度を取るようになった。
オムツ生活が始まってから、僕は「いつか」のことを覚悟する準備を無意識に始めていたのだと思う。
ニャーさんは賢いから、もしかしたらそれを察知してぶっきらぼうに振る舞っていたのかもしれない。
今日、ちっとも泣けないのはそうやって1年半かけて心の準備をしてきたからだと思う。


昨夜、まったくご飯を食べなくなり不審に思った親が動物病院へと搬送すると、
脱水と腎不全で症状はかなり悪いと言われたらしい。相当に高齢なので回復は望めないとも。
点滴を受けたニャーさんは幾分か体力も戻ったのか気持ちよさそうに四肢を伸ばして寝ていたという。
そして病院から帰ってきて一夜明けた今日、クロがいるところへと旅立っていった。


ニャーさんにとっては、最後の1年半に心残りがある猫生だったと悔やんでいることだろう。
それが生まれつきの天命だとして、僕らはその命に十分応えられただろうか。
ニャーさんは我が家に来て幸せだったのか、それは我々現世の人間にはわからない。
でもひとつだけ絶対に言えることがある。
それは、


#7115

上京の真意

今日の出来事我が家の猫

2019年に上京の憧れから当時の職場を辞めたとき、
当然ながら次も地元企業に就職するという選択肢はまったく念頭にありませんでした。
東京に憧れているからといってそれ自体は本質的には移住する理由にはなりません。
それ以前も東京旅行という形で東京には行っていたし、
旅行先としての憧れも立派な憧れだと思います。
ただ、当時はそういうことを抜きにしても上京するメリットが大きすぎました。


東京じゃないとweb制作の仕事がなかなか無い、あったとしても給料が安すぎる、
給料が安くなかったとしても新潟での就職にはたいてい車が必須になる。
実家はこれ以上車を置いておく物理的余裕が無いため、
車通勤となると有料駐車場を確保してそこまで歩くか、職場近くで一人暮らしすることになります。
そんなことをするんだったらいっそのこと転職しない方がマシだったでしょう。


また、あんまり書きたくないので過去にも一度しか書いたことがないのですが、
実家にはいつもブログで「身内」と呼称している弟の他にも実家暮らし中の弟がおり、
こいつが現時点ですでに30歳を越えているのにいまだ正社員経験無しのプー太郎なんです。
仕事をしていない期間も随分長くなってきたので実質社会経験無しの無職と言ってもいいでしょう。
実家はもともと全員一人立ちする想定で建築したので、
大の大人が何人も悠々自適に生活するだけのスペースはありません。
ゆえにプライベートスペースの問題でお互いに随分とストレスを募らせていたし、
兄である自分が先に実家を出なければこいつは永遠に一人立ちしないという確信もありました。
2019年時点で上京するモチベーションが高かったのはそういう事情もあります。
逆に言えば、そいつがいなければ東京への憧れがあっても実家から出ることはできなかったでしょう。
なぜかと言えば、実家には自分が愛してやまない猫(通称、ニャーさん)もいるからです。


2019年時点で自分はニャーさんに十分愛情を伝えられている自信がありました。
二人きりになるとよく近くに来てくれたものです。
ニャーさんのことが好きだからこそ、上京はかなり迷ったというのも事実です。
しかし、そうして手をこまねいていたら一生を棒に振ることにもなりかねない。
「定期的に帰省すれば覚えていてくれるだろう」と期待して最終的には上京を決意しました。


ただ、結果的にそれがニャーさんを裏切る結果になってしまった事実は否めません。
上京はあくまでも人間の都合であり、猫の都合は無視されています。
最近、というか昔から猫動画をよく観るのですが、
いろんな猫をみているとやっぱり日常的に構ってあげることが重要なのは確かなようです。
その意味で、帰省するとはいっても年に数回しか会えない自分が
猫にとって十分な愛情を注ぐことはできない。
もちろん忘れられてはいないし、
2021年くらいまでは実家に帰るとすぐに目の前で寝転んで甘えてくれました。
ただ、去年辺りからすっかりそういうこともしてくれなくなった。
老齢になってうんちの制御ができなくなってしまいオムツ生活になってしまったのですが、
おむつ替えが相当嫌なようで、それで軽く人間不信になってしまっている感があります。


もし自分が2022年まで上京しなかったらこういうことにならなかった……
というのは少し高慢な考えかもしれませんが、
上京時にもっと深刻に猫のことを考えるべきだったとは思います。
2019年当時は知るよしもありませんでしたが翌年からコロナ禍でテレワークが普及したので、
上京したとしてももっと本気になってフルテレワーク案件を勝ち取って、
コロナ禍が完全に落ち着くまで新潟でテレワークをすればよかったのではないかと。
まあ、それだとそれはそれでプライベートスペースの問題が解決できないわけですが。


いずれにしろ、過ぎたことをどうこう言っても仕方ないので
いまの自分にせめてできることは帰省したら思いっきり可愛がってやることですね。


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