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ネガティブ思考の問題

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#7772

負の感情をどう消化するか

なんというかじわじわとストレスが閾値に達しつつあるという実感があるのですが、
これといって解消方法があるわけでもなく悩んでいます。
なんというか、他人のちょっとしたモラルを逸脱する行為が気になるようになってしまった。


ストレスは身体的なものと精神的なものがあるわけですが、
後者の場合は嫉妬にしろ劣等感にしろ、たいてい自己完結的に思えることでも念頭に「誰か」がいて、
すべては人間関係の悩みであるというアドラーの主張を否定できません。
人間関係の歯車が噛み合わない場合に生じるストレスは、
たとえば温泉に行くなどの身体的なストレス緩和策はあまり有効に働かないわけです。
人間関係で生じたストレスとうまく折り合いをつけていくには、やはり健全な人間関係が必須ではなかろうかと。
しかし、そもそもそれがあったらストレスで悩んでいないという矛盾があります。


もう少ししたらAIカウンセリングみたいな技術が確立してこの矛盾もテクノロジーが乗り越えそうですが、
いまのところは自力で解決しなければならない課題だと思います。
そしてこの課題の根本的な原因はなんなのかというと、自分自身の性格の歪みだと思うんですね。


自分の場合、上京前の人間関係はほぼ消滅したと言ってもいいと思っていますが、
いまのところ上京以後にできた人間関係で不可逆的にこじらせてしまったというケースはありません。
一方で自分の心のより深いところにはサディスティックな部分が少なからずあると思っていて(#07743 / 2025年02月27日)、
親密になればなるほどその闇を見せてしまう傾向にあります。
要するに、許されるならばできるだけ皮肉や中傷などを冗談混じりに言いたがる性格だということです。
これについてはまだまだ自己理解が足りておらず、
年齢的に手遅れ感はありますがいまからでも対策を見出すべき大きな課題になると思っています。
一方で結論が出ようが出るまいがいまある人間関係を維持することは目下の課題でもあるため、
結果的に「自分からそっと距離を置く」ことによって応急処置的な人間関係の維持に努めている状況です。


道徳が許すなら誰かを叩きたいという気持ちがあるということは残念ながらあります。
かつてはブログがそういった心の負の側面の掃き溜めとして機能していましたが、
20周年の4代目移転に際してブログのあり方を見つめ直す中でブログの地位が明確に向上したことや、
底辺ブログなのでやや自意識過剰気味ではあるものの、やはり昨今のネットモラルを考慮すると
掃き溜めとしての運用は望ましくないというところに行き着いており、これはいまさら下げられません。
いわゆる「裏ブログ」的なものを運用しようにも、表の運営で手一杯なので無理だと思います。


ふと思ったのは、メディアにおけるゴシップなどの報道はこうした問題の受け皿でもあるのかなと。
法人や政治家や有名人といった「自分よりも確実に価値の高い(没落してくれると正直嬉しい)他者」に対して、
不祥事や事故などにより道徳的な観点からその人を正当に叩く理由を与えられることによって、
「誰かを叩きたい」というモヤモヤを近辺の人間へ確実に迷惑をかけずに消化することができる。
より大規模な炎上であればみんなで叩いているというある種の一体感をも味わうことができるわけで、
言い方は最悪ですがこれ以上ないエンターテイメントだと思います。
そしてSNS(というよりネット)は構造的にそれとの相性が抜群です。そりゃあ炎上も無くならないよなと。
自分は2024年初頭にそういう風潮に半ば嫌気がさしてオールドメディアや各種アプリとの決別を決心したわけですが、
これがじわじわとストレス増加の要因になっていると言われると否定はできません。


とはいえ「ゴシップ叩きで誰にも迷惑かけずにストレス解消になるから積極的に匿名掲示板で誹謗中傷しよう」
というようなことを主張するつもりはありません。
この手のエンタメ(?)はやはり道徳的な問題があり、触れずに済むなら絶対にそっちの方がいい。
いまのところ、その代案として有望なのが冒頭に書いたように自分から率先して他者との距離を置くということ。
心の闇を出したくなってきたら距離感を間違えていたものと観念して少し引いてみるということですね。


いやいや逆だろうという意見もあるかもしれません。
確かに、人間関係で不満を感じるとむしろごく近い距離感でヨシヨシしてもらうのが手っ取り早いように直感します。
(行ったことないですが)いわゆるガールズバーやキャバクラなどの風俗は
そういう問題を一時的に解決するための即効性のあるサービスだと言えなくもない。
しかし、現実問題として心の闇は「誰かと繋がりたい」「誰かを否定したい」という道徳のジレンマで悩んでいるわけで、
その根本には精神が幼稚である可能性があると思っています。
本物の幼児と違い、幼児性のある大人はそもそも自立が求められている以上、
たとえばキャバ嬢のような「自分を全肯定してくれる存在」がただいるだけでは解決になりません。
まぁ、そういう人がいる場でそこにいない人の悪口を言うのがせいぜいでしょう。
それはそれである程度効果はありそうですが、「闇を曝け出す自分」も肯定されてしまうようでは更生は望めません。
なぜなら世の中の人々は自分を全肯定してくれないのが当たり前だからです。
ともすればヨシヨシされればされるほど世間とのギャップが広がり、ゆえに厭世観が強くなり、
全肯定してくれる人への依存がどんどん増していくだけではないでしょうか。


だからこそ、あえて他人との距離を取ることで心の闇を出すリスクを最小限に抑えようというわけです。
長期的な視点で改善を望むなら、いまのところ実践可能な範囲でこれが一番ローリスクで無難であるような気がする。
意識せずとも心の闇を出さないのが当たり前、というところまで精神が成熟するまでやることになりそうです。
それが可能なのかどうか、あるいはどうすれば実現できるのかといった見通しは立っていませんが……。
たぶん、恵まれた家庭なら成人した時点でその「当たり前」の地点に立っていると思うんですよね。
この辺は幼少期〜思春期の人間関係が大いに影響を与えていると思っていますが、
そこまで風呂敷を広げてしまうと話が終わらないのでそれについてはまた今度。


#7736

嫌悪感の微かなサイン

何日か前に、あるSNSで相互フォローしているがほぼ絡みが無い人が
別名義で推している人の直筆サインをアップして自慢しているのを見て、絶妙にモヤったという体験をしました。
これがいわゆる同担拒否というやつか、とも思いましたが、心を探っていくと微妙に違う気もするので分析してみます。


同担拒否とは、自分と同じ推しとの交流を拒む傾向のことを言います。
その心理としては推しへの愛を競争原理に持ち込みたくない、マウントを取られたくないという気持ちがあるそうです。
ちなみに対義語として「同担歓迎」があります。


確かにこのときの自分はマウントを取られたと解釈することも可能でした。
正直言って「別名義で推している人」は最初期によく活動をウォッチしていたというだけで、
最近はほぼ見ていませんでした。推しのその分野としての主観的評価はあまり高くはなく、
近年はより評価の高い別の方に流れていたという事実があります。
さすがにいまになって直筆サインをゲットしに行くほどの気概は無かったわけです。
そのため、この感情は「悔しい」とはちょっと違う。
確かに推しへの本気度で負けたのは事実かもしれないが、そもそも自分はリングに上がった覚えがありません。
なのでマウントを取られたかと言われると違う気がします。
この状況でマウントを取られたと言い切ってしまうのは病的な自意識過剰と言わざるを得ませんが、
さすがにそこまでではないということはわかっています。
ただ、一方で嫌悪感みたいなものは確かにある。


そもそも自分に同担拒否的な傾向があるかと言われると怪しいと思っています。
例えばまったく関係ないコミュニティで自分が好きな配信者を好きだと言っている人と出会ったら普通に嬉しいと思う。
そこで「直筆サイン持ってるよ」と言われたら素直に賞賛できる気がします。
なので、今回のケースだと「SNSでフォローしているがほぼ絡みが無い」というのがポイントなのかなと。
有り体に言ってしまえば、その人のことが嫌いだから推しに言及されたことに対して嫌悪感を覚えるのかなと。
めちゃくちゃストレートな言葉にすると「お前なんかに推しのサインを持っていて欲しくない」ということですね。
思春期の黒歴史である「独占欲」に若干近いような気がしなくもない。


とはいえ、記憶の隅にこびりついているような明確に嫌いな人と違って、
その人は反社会的だったり実害を及ぼしたりというようなことはなく、人として嫌いと言い切るには微妙な気はします。
ただ「自分だったらしないこと」を堂々と実践している人でもあり、
その意味で「ちょっと嫌だな」という感じは確かに前々からかすかにあった。
その気持ちが、推しのサインというアイテムの提示によって浮き彫りになった感じでしょうか。
この人ではなく、同じ界隈のもう少し近しい人だったら嫌悪感を抱いたとは思えないので、
やはりこれは推しとの距離感というよりこの人との距離感の問題のような気がする。


こういう心の動きは「心が狭い」と責めるには十分なほどに自己中心的だと思うし、
本人に面と向かって表明したら最後トラブルになるのが目に見えています。もちろんそんな余計なことはしません。
ただ一方でこういう心の動きがあったことは事実として「感じてしまったこと」であり、
この気持ちに嘘をつくことはできません。
この情報過多社会で多方面にアンテナを張っているとどうしても起きてしまう不慮の事故みたいなものですが、
一方で「この人さえ推していれば!」という確固たる気持ちが無く迷っているがゆえの心の弱さでもあると思います。
去年から本格化したいわゆる「推し活動」ですが、
この件でまだまだ気持ち的には確立していないのだと思わされました。
あとは、やはり他者との距離感を適切に取ることは自衛のためにもトラブル防止のためにも重要なんだなと。


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