Chrononglyph

自尊心の問題

#7344

無能を受け入れることへの疑念

「できないことを思い描くのは不毛なのだから、
自分の無能さを受け入れてそれでもできることをひとつずつやるべき」
というのがここ最近の自分の考え方です。これはまあまあ合理的だと思います。
できもしないことを思い描いて、できないことを言い訳に何もしないのは愚の骨頂ですから。
それよりは最低限確実にできることに目を向けてやった方がいい。
それはある意味事実だといまも思います。


しかし、それがそのまま人生の指針になるかというとそうでもないような気がしてきました。
というのも、人は「できることをする」だけでは心が充足しない場合があるからです。
いや……むしろできるからこそそれをやろうと思えないとすら言えるかもしれない。
現時点でできないことを思い描き、そのゴールに向かっていくときにこそ活力が生まれる、
というようなこともあり得るのではないでしょうか。
つまり、「できることをやるしかない」という正論を粛々と実行する人生はつまらないということです。
これはゲームをするときなんかによく当てはまりますが、現実も同じことが言えるのではないでしょうか。


もちろん、幻想を思い描いて何もしないのが愚かだという考えに変わりはありません。
しかし、その考えはできないことを思い描くことを否定しているわけではない。
努力できるかどうかは別にして、それを思い描かないとそもそも努力の必要性すら判断できない。
その地点にいるかぎり、
現時点でできることのみで構成されたルーティンでひたすら人生を消費していくことになるわけです。


そもそも無能を受け入れる云々という話は、
30代に夢を追いかけても体力的、社会的な意味で遅すぎるという話でした。
それを本当にやりたいなら20代までの29年間で少なからず着手しているはずで、
それをしていないということは結局ただ妄想として思い描いていたいだけなのではないか、
であればそろそろ現実逃避は辞める時期に来ているのではないか、と。
それはひとつの戒めとして正しいと思うし、現実を見ることを否定しているわけではありません。


ただ、無能であることを受け入れる意識が強かったここ数ヶ月の自分を思い返すと、
意識の変化により多少なりとも小さなタスクを早く消化できるようになったものの、
この考え方の副作用の方が強く出ている気がしないでもないです。
つまり、明らかに各方面におけるやる気、のみならず知的好奇心まで削がれている気がする。
このままでは趣味が崩壊しかねません。


「いまはできないけどいつかはやりたい」という妄想を思い描くことは、
それ自体は否定しない方がいいのかもしれません。
合理的な結論に辿り着くとあたかもそれが絶対的に正しいように思いますが、
そもそもの話、人の心がそもそも合理的にできていないという前提には気をつけないといけない、
と改めて思いました。


#7229

マウントを取られやすい人の問題点

以前、「マウントを取る」ということに対する反発は多くの場合被害妄想に過ぎず、
例外はあるものの基本的には言われる側に原因があるという話を書きました(#07119 / 2023年06月14日)。
ところがネットでこれと全く逆のことを主張する記事があったので考察してみます。


「マウントをとられやすい人」の特徴と実際に効果てきめんだった「返し方」
という記事では、マウントを取られた際の様子を漫画で再現しています。
それをセリフだけ引用してみると次のような感じです。



A「バッグ買ったの? 私も買ってもらったんだー」
主人公「どうせ自分で買いましたよ!」
B「のんびりできてうらやましー 私なんて予定ぎっしりー」
主人公「どうせ友達いませんよ!」
C「温泉行ったの? 私は来月、ハワイ行くよー」
主人公「どうせお金ないですよ!」

主人公「私はマウントをとられやすい。」


【まんが】「マウントをとられやすい人」の特徴と実際に効果てきめんだった「返し方」



自分はこれを読んで、率直にこの主人公みたいな人とは関わりたくないと思いました。
この人は「恋人がいない」「友達もいない」「お金もない」というコンプレックスに対して敏感で、
それに結びつきうる発言をどれもこれも「マウントを取ってきている」と解釈しているわけです。
これを「マウントをとられやすい人」のモデルとするならば、
マウントを取られる人(見下されていると感じやすい人)は劣等感の塊ということになってしまう。
まあここまで社会的ステータスの低い人がこういうマウントの取られ方をすることがあるのか?
とも思いますが。若干、というかかなり作り話くさい。


それはともかく、この記事はこの漫画を引き合いに出しているにも関わらず、
「マウントを取られる側は一切悪くない」と断言しています。
まあコンプレックスを不必要に刺激するのはコミュニケーションルール違反というのはわかる。
けど、ことあるごとに他者の発言を拡大解釈してコンプレックスに結びつけるのを
「一切悪くない」と言うのは無理があるように思われます。
交通事故は轢いた方が悪いのが基本ですが、この場合は自分から轢かれにいったようなものです。
有吉弘行が言ったとされる名言に「弱点も振りかざせば暴力になる」という言葉がありますが、
まさにマウントを取られる側の被害妄想からの正当化ムーブはある種の暴力でしょう。


自分はマウントを取られていると感じていた時期もあったし、逆に加害者(?)になったこともあり、
その結果いくつかの人間関係が断ち消えました。
少し前まで自分も上記の主人公のような面倒くさい人間だったことは否定できない事実です。
ある程度それを客観視し反省できるようになったいまの自分が改めて思うのは、
マウントを取られるなどメンタルに傷がつきやすい人というのは、
その弱い自分をまずその人自身が受け入れられていないところに根本要因があるような気がします。
メンタルが正常な人に同じことを言ってもそもそもマウントと認識されないかもしれません。


そして、心の弱さはあるべき自分を達成できていない不甲斐なさから来るのではないかと。
しかし往々にして社会経験、特に挫折の経験に乏しいと
年齢を重ねても「あるべき自分」の条件を修正(特に下方修正)できず、
子どもの頃に思い描いた高い理想を持ち続けていることが少なくありません。
「自分は本当は恋人がいて友達もいてお金持ちであるべきなんだ!」
という根拠なき妄想をあたかも達成しなければならない当然の目標のように錯覚していて、
そこに至らない自分を無限に責め続けているわけです。
しかし別に自分がそこに至らなくてもいいんだ、と気づくことで一気に世界が変わります。


結局、マウントを取る・取られるという文脈で人間関係を捉えているような人こそが
あわよくば他者を見下したい、マウントを取りたいという競争原理に囚われているのではないでしょうか。
上記の記事では心理学者を自称する記者が
「実はマウントを取る人こそが劣等感を感じることが多い」と指摘していますが、
それは本来マウントを取られるようなメンヘラがステータスを手にした結果に過ぎないのでは……
と思ってしまいます。