無能を受け入れることへの疑念
「できないことを思い描くのは不毛なのだから、
自分の無能さを受け入れてそれでもできることをひとつずつやるべき」
というのがここ最近の自分の考え方です。これはまあまあ合理的だと思います。
できもしないことを思い描いて、できないことを言い訳に何もしないのは愚の骨頂ですから。
それよりは最低限確実にできることに目を向けてやった方がいい。
それはある意味事実だといまも思います。
しかし、それがそのまま人生の指針になるかというとそうでもないような気がしてきました。
というのも、人は「できることをする」だけでは心が充足しない場合があるからです。
いや……むしろできるからこそそれをやろうと思えないとすら言えるかもしれない。
現時点でできないことを思い描き、そのゴールに向かっていくときにこそ活力が生まれる、
というようなこともあり得るのではないでしょうか。
つまり、「できることをやるしかない」という正論を粛々と実行する人生はつまらないということです。
これはゲームをするときなんかによく当てはまりますが、現実も同じことが言えるのではないでしょうか。
もちろん、幻想を思い描いて何もしないのが愚かだという考えに変わりはありません。
しかし、その考えはできないことを思い描くことを否定しているわけではない。
努力できるかどうかは別にして、それを思い描かないとそもそも努力の必要性すら判断できない。
その地点にいるかぎり、
現時点でできることのみで構成されたルーティンでひたすら人生を消費していくことになるわけです。
そもそも無能を受け入れる云々という話は、
30代に夢を追いかけても体力的、社会的な意味で遅すぎるという話でした。
それを本当にやりたいなら20代までの29年間で少なからず着手しているはずで、
それをしていないということは結局ただ妄想として思い描いていたいだけなのではないか、
であればそろそろ現実逃避は辞める時期に来ているのではないか、と。
それはひとつの戒めとして正しいと思うし、現実を見ることを否定しているわけではありません。
ただ、無能であることを受け入れる意識が強かったここ数ヶ月の自分を思い返すと、
意識の変化により多少なりとも小さなタスクを早く消化できるようになったものの、
この考え方の副作用の方が強く出ている気がしないでもないです。
つまり、明らかに各方面におけるやる気、のみならず知的好奇心まで削がれている気がする。
このままでは趣味が崩壊しかねません。
「いまはできないけどいつかはやりたい」という妄想を思い描くことは、
それ自体は否定しない方がいいのかもしれません。
合理的な結論に辿り着くとあたかもそれが絶対的に正しいように思いますが、
そもそもの話、人の心がそもそも合理的にできていないという前提には気をつけないといけない、
と改めて思いました。