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自尊心の問題

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#8093

プライドの整理

自分が個人的に30代最大の年代特有の課題と考えている「プライド」の問題。
しかしこの言葉に対する自分の理解があいまいなせいで、ブログで取り扱っている話題が多岐にわたり、
同じ言葉なのにさまざまな意味が混在してしまっているように見受けられます。
そこで、問題解決の前段としてまずは言葉の意味とそれに対する現時点の認識を整理したいと思います。


まず、辞書的意味は以下のとおりです。


【プライド(pride)】
自分の才能や個性、また、業績などに自信を持ち、他の人によって、自分の優越性・能力が正当に評価されることを求める気持。また、そのために品位ある態度をくずすまいとすること。誇り。自尊心。自負心。矜持(きょうじ)。(精選版日本国語大辞典)

【自尊心(じそんしん)】
自尊の気持。自分を尊び他からの干渉をうけないで、品位を保とうとする心理や態度。プライド。(同上)

一般に「プライド」と言ったときはこのような肯定的なニュアンスを含む意味になりますが、
一方で「傲慢である」という否定的なニュアンスを含むこともあります。
いちおう「傲慢」についても辞書を引くと以下のとおりです。


【傲慢(ごうまん)】
おごりたかぶって、人をあなどること。人をみくだして礼儀を欠くこと。また、そのさま。(同上)

ブログを遡ると、まず10〜20代の自分はプライドを「客観的に見て不合理なこだわり」という意味で使っています。
「ゲームの〇〇を(あえて)解禁していなかったがプライドを捨てて解禁した」という感じですね。
自分は昔からゲームの一部分のコンテンツなどの「とっておき」を
あえて着手しないことで神聖視してコンテンツ全体の価値を高めようとする癖がありました。
この意味のプライドを捨てられないがためにクリエイティブな行動が抑制される問題については、
このブログでは「タコウインナー問題」と名付けて考察してきました(#07454 / 2024年05月14日)。
タコウインナー問題では、好きだからこそ着手できないという心理に立ち向かっています。
ただ、これは辞書的意味のプライドとはちょっと毛色が違います。


一方、タコウインナー問題に似て行動抑制に関する問題として、
「やるからにはここまでやらなければならないというハードルの高さによって着手を阻まれる」という心理もあり、
これも当ブログではプライドと呼んでいます(#07960 / 2025年10月01日)。
ただし、これは辞書的意味がいうところの「才能や個性、業績」といった客観的に提示できる事実とは関係なく、
どちらかというと「自分はこうでありたい」という自己像が不当に高すぎるという問題であり、
これもまたいわゆるプライドとはちょっと違う話です。
この問題は「この年齢ならこうあるべき」といった外圧の影響もあって深刻さを増していることを自覚しているので、
30代で解決を見たいということは以前も書いています(#07756 / 2025年03月12日)。


自己像との乖離による行動抑制はそれはそれで大きな問題であり、
最近は不当に上がりすぎた理想を引き摺り下ろそうとする「無能主義」的思想が台頭してきました(#07600 / 2024年10月07日)。
が、それは2025年の1年間を通じて破綻したことを実感しています。
できて当然のことをやるだけの人生に意味を見出すのは難しいというのがその理由。
とはいえ、だからといって理想が高ければ良いというわけではないと考えています。


しかしプライドの問題で本当に重要なのはそこではありません。
自分の実績が「他人に正当に評価されているかどうか」が問題であって、それ自体は理想の高さは関係ないわけです。
これまで悩んできたタコウインナー問題や無能問題というのはいわば「行動できない」という悩みであり、
それは実績を積み上げて誰かに評価してもらう以前の問題です。
つまり、(理想との対比で)手元にある実績があまりにも貧弱であることは認めざるを得ないところがある。
それが近年深刻化する他者に対する負の感情、
特に格下だと思っている相手に対して高慢な態度を拭えないという事態につながっているのではないかと。


こう考えると理想が不当に高いことそのものが問題というより、
それとの相対で実績がしょぼく見えるので卑屈になりやすいことが問題なのかも?
ただ、いずれにしろ自己承認だけでは解決できないと思っていて、
他者承認を求めるプロセスからは逃れられないと思っています。
そのためにはまず、自分の実績を正直ベースで認識することが重要なのかもしれません。


#8012

好きという感情への不信

昨今の自分は、コンテンツに対する「好き」という感情に対する疑念が拭えずにいます。
果たしてそれは本当に「好き」なのかと。
たとえば何らかの推し概念(キャラクターや作品など)と出会って「これは好きだな」と思ったとして、
それを「素直に行使」することができないと感じる。
直近だと『カービィのエアライダー』です。
これはゲームとしてはかなりの期待作であることは間違いないんですが、
一方でタイムアタック、スコアアタックの選択肢が多いことから
自分が運営しているゲームのスコア集計サイトのフォーク(コピー)を作ることに適しているタイトルでもあります。
もしそういう需要があるならサイト運営の承認基盤としてエアライダーを「利用」したいという機運がある。
しかし実際には自分を名指しして「ぜひ作ってほしい」と言ってくれる人なんて存在しない。
そんな不確実な状況で新規サイトを立ち上げられるようなモチベーションもなく、結局頓挫することになります。
そうすると、ゲームそのものに対する情熱にも確実に悪影響を与える。
これはゲームに対する「好き」を承認欲求や自尊心というより強い感情に飲み込まれてしまった例です。


ゲームに関してはネット利用遍歴の都合上、どうしてもネット活動との結びつきが強く、
どうしてもこんなふうに承認欲求に飲み込まれては頓挫するということをしてしまいがちです。
ただ単にゲームを楽しむという当たり前のことがなかなかできていない。
ネット活動に関しても、近年の傾向は10〜20代のそれよりも狂ってきているように感じています。
昔の自分ならニーズなんて考えずにとりあえずフォークを作っていたことでしょう。
そして利用者がまったく入って来ずに爆死するということを繰り返していた。
しかし「まず作ってみる」という気概がせめてあったおかげでさまざまな挑戦はできていたと思います。
いまやそういうことさえできなくなり、ただただ心にわだかまりが溜まっていく一方になりつつある。
ネット社会も社会なのだから確実にニーズのある活動をするべきだ(#07900 / 2025年08月02日)という考えはあるものの、
「ニーズがあるかも」という程度の確実性では実際に行動するにはかなりの勇気が必要になります。


一方、ネット活動と結びついていないコンテンツは比較的「好き」という感情に素直になれている部分がある。
今年も先月〜今月上旬にエレクトロニカへの興味が再燃しましたが、
この音楽ジャンルについては出会って以降折に触れて「好き」を再確認する機会があり、
その遍歴を考えると本当に好きなんだろうなぁという気はします。
これは好きという感情が純粋か、あるいは情熱が大きいかといったことよりも、
承認欲求に阻害されていないという事実が素直に「好き」を行使できる要因になっていると思われます。
より好きになったというよりは、好きという感情に付随する自尊心を否定される機会が無いというべきか。


ゲームも、本当は好きなんだと思います。
ただネット活動に結びつけてしまうとそこがどうしてもぼやけてしまう。
好きという感情が不明瞭なら活動として体をなさないのも当然の話で、二兎を追って共倒れしているのが現状です。
確かに「自分が好き×承認欲求を満たせる=モチベーションが爆上がり」という図式は間違っていないと思いますが、
好きを発掘するたびにそれを狙っていくのは現実的ではないし、共倒れリスクもあります。
この辺は改めて線引きをするのが無難なのかもしれない。
一定の情熱未満なら完全にローカル&プライベートで楽しむものとして割り切る、
そのラインを明確に越えているなら余りある情熱を使ってネット活動に結びつけてみるという感じですね。
このラインは、ざっくり体感でゲームタイトルなら3〜5年に1本出れば上出来というレベルだと思います。
『カービィのエアライダー』は今年の期待作ですが、ネット活動に結びつけるのは不適切ということでしょう。


これはなにもゼロヒャクで考える必要はなくて、
ゲーム内でゆるやかに他人と関わりあうMMOやソシャゲのようなゲームも存在するし、
ラインを越えていなくてもSNSで1投稿するだけならできるというようなケースもあるでしょう。
そういう両極端ではない いいとこ取りのコンテンツと出会えれば、それが転機になるのかもしれない。
ここ最近、ゲーム周りは迷走を続けているので視点を変えつつ試行錯誤したいところではあります。
少なくともSwitch 2を転機に新作ゲームを追うだけでは解決にならないと実感しました。
それをもって「ゲームはもうダメだ」と諦めることは簡単ですが、
まだ全部投げ捨てるのが正しいと言える段階ではないような気はする。


#7960

文化の享受を阻害するプライド

これは特に根拠もなく漠然と思っていたことですが、
30代になったらプライドも鳴りを潜めてやりたいことを変に考えすぎずにできるようになると思っていました。
少なくとも10代や20代は真逆で、プライドの言いなりだったと思います。
しかし現実には30代もそこそこの年数を重ねてきているのにそうはなっていない。
いまだにプライド(=自尊心)はそれなりに権力を持っていて、
「やりたいことをやる」というシンプルな行動原理を実践できずにいるという実感があります。
このプライドとどう折り合いをつけていくか、というのは次の大きなテーマになりそうな気はする。
ここ最近、おそらく07月以降はブログもずっと深入りしない低空飛行を続けていますが、
そろそろこういう混み行ったことを考えていくフェーズに入りたいものです。


直感的には、「やりたいことをやる」という行動原理を阻害するものは完璧主義だと思っています。
そしてなぜ完璧主義がのさばっているのかというと、
成功体験の不足、自己肯定感の低さなどから来る劣等感が自分の底に横たわっているからではないかと。
そしてこの図式は加齢に伴って緩和するどころかより盤石になってきているように思います。
直近の自分の思想として、実利主義的な考え方が台頭していることからもそれが伺えます。


たとえば何か暇つぶしになるような新しい文化に触れたいと思ったとき。
ゲームでもその他の趣味でもなんでもいいと思いますが、
着手することそのものは本来そこまでハードルは低くないはずなのに、
「やるからには〇〇までは行かないと意味はない」と考えて結局やめてしまうんですよね。
これはまさにプライドによる行動阻害と考えられるし、また完璧主義の現れとも言えます。
そして〇〇に当てはまるのはたいてい、他人から認められるとか、金銭が得られるといったインセンティブです。
それらが得られないならやる意味は無いと考えているわけですね。


こういう考え方は、その文化を楽しむという姿勢がごっそり抜け落ちています。
本来は趣味は楽しいからやるのであって、楽しければ実利は追い求めないことこそが趣味とも言えます。
実利を追い求めてナンボの世界はそれは趣味というより仕事でしょう。
趣味に対して仕事のような何かを追い求めてしまう原因は、先述のように劣等感も多分にあると思いますが、
SNSで全世界的な競争社会にさらされていることも関係しているのかもしれません。
ただ職に就くだけでは不十分で、趣味面でも実利が得られるレベルの地位に就きたいという焦りがある。


この考え方が全部悪いとは言わないし、むしろ場合によってはとても重要な考え方だとは思います。
しかし一方で、目の前の物事を楽しむという視点が抜け落ちたまま生活をエンジョイできるとは思えません。
焦燥感を原動力にした生活は徐々に磨耗していって、いずれメンタルに深刻な打撃を与えそうな予感がします。
なので、「今回はこれを楽しむだけ」というような視点も、今後はできるだけ意識的に取り入れたいところではある。
それがつまるところ実践的なプライドとの折り合いの付け方になるんじゃないかと予感しています。


#7852

知らないことを楽しむ

『Balatro』にハマってしまったので、とりあえずVTuberがやってないかチェックしました。
ホロライブ所属の尾丸ポルカさんがやっているのを少し見ていたんですが、
それによってYouTubeのおすすめにBalatro関連の動画がどんどん出てくるように。
ほぼ海外プレイヤーによる提供で、「TASで最速クリア」「ゲームを破壊してnaneinf(計測不能≒ほぼ無限)を出す」
等のスーパープレイ動画がワラワラと出てくるんですね。
あの、申し訳ないんですけど自分としてはそういう尖った内容のコンテンツは蚊ほども興味ないわけですよ。
これは『Balatro』が好きだからこそ切実な問題です。
つまり、このゲームに関しては自分は「知らないことを楽しみたい」というスタンスなんですね。


こういうふうに、興味あることの一部を未知のままあえて触れずにとっておくというのは、
ブログでも「タコウインナー問題」としてそのネガティブな側面を考察してきた歴史があります(#07454 / 2024年05月14日)。
これはゲームの隠し要素などのいわゆる「とっておき」を過剰に神聖視し、
相対的に自分が不甲斐ないので着手する勇気を持ち得ない、というような文脈で批判してきました。
ネガティブな気持ちでポジティブなイメージの「好きなモノ」には着手できないのは当然のことで、
これはモノを愛する以前に、気の持ちように根本原因があるとも言えます。
昨今はようやく気持ちも整理できてきて好きなものも比較的遠慮なく着手できるようになってきました。
長年神聖視しすぎて着手できなかった創作が順調なのが良い例です。


タコウインナー問題がネガティブな文脈で語られるのは、
それに着手するのが合理的なのに自尊心その他の理由によって着手できない場合に限ります。
『Balatro』の過剰なやり込みプレイ情報をシャットアウトしたいという気持ちは、
そもそもそれに着手することが合理的に正しいとも言えないため一応の筋は通っていると思います。
「知らないことを楽しむ」主義の自分からしてみれば、むしろシャットアウトする方が合理的とすら言えます。


これは自分のゲームに対する一種の「こだわり」で、かなり昔から持っていることを自覚しています。
タコウインナー問題は、ある意味この「こだわり」を日常生活にも適用して失敗したのを矯正する試みだったのかも。
知らないことを楽しむというスタンスそれ自体に罪はないと思われます。


着手しないというこだわりはある意味行動しない言い訳にもなりうるのでリスクはありますが、
最近はこういう自分なりのこだわりこそが「本心」なのだという気づきもあり(#07838 / 2025年06月01日)、
こういう気持ちは自分のささやかなアイデンティティーとして大切にしていきたいと改めて思います。
もちろん着手する方が合理的な場面で適用するのは依然として間違いだと思っているので、
そこは混同しないように気をつけたいところ。


ちなみに『Balatro』はグリーンステークを突破して現在ブルーデッキでブラックステークに挑戦中。
このゲームは難易度が上がるごとに新しい制約が課されますが、
下位の難易度で課された制約も全部引き継がれるというエグい仕様があります。
ブラックステークはジョーカーを売ったり破壊したりできなくなる「エターナルシール」が付くことがあるモード。
これのおかげで迂闊に弱いジョーカーを買うと中盤ですら苦戦するため、
また立ち回りを考える必要がありそうです。
というかそもそもこの条件下でグリーンステーク(目標点数が上がる)も内包しているのがキツすぎる。
果たしてクリアできるのでしょうか。
個人的にはBalatroブームはまだしばらく続きそうな気配です。


#7756

自己否定感との戦い

やりたいことを阻む障壁について考えると、10代までは経済力と家庭環境、
20代までは生理的欲求(特に睡眠欲)だったと思います。
では30代まではなんなのかというと、自尊心なのではないかというのが現時点の結論です。
本当にこれが邪魔に思えることが増えた。


ここでいう自尊心は自己否定感と捉えてしまってもいいかもしれません。
生半可な成果を出すことを許さない、無様な結果を出すことを許さない。
それを遵守するために、そうなる可能性のあることはやらない。
結果として、「着手しようと思えばできるがスキル不足感が否めない新しい分野」に挑戦する機会が激減し、
既存のものをひたすら使い潰すきわめて保守的なライフスタイルが定着しつつあります。
近年は上京直後による意識の高まりが落ち着いた2022年以降にこの傾向が強くなっていると感じます。


こうした保守的な価値観は成功体験のあまりの少なさが要因としてあることは否めません。
つまり、何かに挑戦しようとして上手くいった経験よりも挫折した経験の方が圧倒的に多いので、
「新しい挑戦をする=上手くいく」という図式を信じられないというわけですね。
これは保守的になればなるほど挑戦の機会が減り、当然に成功体験はますます遠ざかる悪循環になります。
この問題は年齢を重ねれば重ねるほどより一層深刻になり、また解決を難しくするでしょう。
最近特に思うのは、このままライフスタイルを変えずに40代、50代を迎えたときの絶望は計り知れないなと。
特に定年がきわめて大きなターニングポイントになると思います。
現状から仕事という社会とのつながりを断ち切られたら、もはやマトモでいられる自信がありません。
わりと本気で死んだ方がマシと思ってしまうのではと考えています。
そう考えると、自尊心の問題はせめて30代のうちに活路を見出したいものです。


ここで言う成功体験は、昨日の記事の「達成感」とほぼイコールと捉えてもいいのかもしれません(#07755 / 2025年03月11日)。
達成感とは、その時点で必ずしも自分ができる保証が無い物事に挑戦し、
望んでいた結果を勝ち取ったときに湧く感情です。たぶん、ドーパミンとか諸々の脳内物質が出ているのでしょう。
それが圧倒的に足りていないので不戦勝を重ねすぎて脳が枯れてしまっているというのが現状の自分で、
達成感を一定期間ごとに補給することで多少なり改善するのではないかと考えています。


この問題で唯一救いなのが、おそらく達成感は他者承認を必要としないということです。
メテオス20周年の「レイヤーゼロ」との戦いがまさにそうでした。
あれは20周年の記念に何かしたいというこだわりがすべてで、誰かに見られることを想定していたわけではありません。
もちろんTwitterにアップすることは前提条件としてありましたが、
「いいね」が欲しいならわざわざめちゃくちゃマイナーなメテオスの動画をアップする必要は無いわけです。
これまで、この問題はしばしば承認欲求の問題として捉えていた節があると思いますが、
実は別個の問題なのだと認識を改められたのはここに来て一歩前進したと言えるかもしれません。
ただし、まだ別個の問題と認識したばかりなので本当に切り離すことができるかどうかはここから。


直感的には、本心に対して従順に行動できるかどうかというのがポイントになると予想しています。
「せっかくの20周年だから何かやりたい」が本心だったからこそチャレンジング精神も生まれた。
ブログを遡ると、2020年当時も承認欲求を求めすぎないために本心を大事にするべきなのではないか、
ということを考えたことがあり(#06200 / 2020年12月09日)、長い時間を経て結局ここに立ち戻るのかもしれません。


「誰かに認められるかどうか」よりも「自分がやりたいかどうか」に重きを置くというのはわかりやすい指針です。
が、ことはそう単純ではないため今後もさらに深掘りしていく必要があるでしょう。
そもそも本心とは何なのかなど、考えるべきことは山のようにあります。


#7746

優越感について

以前、それほど「優先度」が高くない推しのサインをどうでもいい人に自慢(?)された結果、
微妙にモヤモヤするという心理傾向について自己分析しました(#07736 / 2025年02月20日)。
それはいわゆる同担拒否的な気持ちというより、
好意的な気持ちがあるわけでもないのに日常的なつぶやきを覗き見ている表面的なつながりに対して、
「人として興味が無いのに距離が近すぎる」ことに対する副作用なのだと分析しました。


その後日、最近は社会的自由が足りておらず、
特に心の闇の部分を表に出していないのでストレスが溜まっているのかもしれないと内省しました(#07743 / 2025年02月27日)。
そのときは自分の闇を他者に理解してもらうためには合理的に考えて自分も他者の闇を受容できなければならず、
これまでそれができていなかったので深い人間関係を築けなかったのではないかと結びました。


これらを踏まえて昨今の自分を客観視してみると、
他者を見下したいという闇の部分が強くなっているように感じられました。
「見下している」というとまるで悪人のような印象を持たれるかもしれませんが、
要するに他者の関係に対して優越感を求めやすい傾向にあるということですね。
道徳的、社会的、あるいはさまざまな尺度で自分より劣っている人に対して、
「なんでこんなことをしているんだろう」と憤慨したり、殊更に否定したくなったりする。要するに侮っている。
今回特筆すべきだと思っているのは、他者が好きだと暗黙的に表明しているものこそをディスりたくなる心の動きです。
これは明らかに合理的ではないと考えられますが、こう考えてしまう要因はどこにあるのか。
昨今は「表面的な交流」が増加傾向にあるため、それを維持・発展させていくためにこの感情は明らかに障害になります。
事故を起こしてしまう前にどうにかできないだろうか。


まず、なぜ優越感を求めるために殊更に他者の成果や興味関心を否定したくなるのか。
それは自分を見てほしいという欲求(他者承認)が満たされていないということと、
自分はこれさえやっていればいいと言えるようなアイデンティティーが確立していないことが原因であると思われます。
そしてこの2つの不満を解消するためには、自分が「成果」を出し他人に認められれば良い。
つまり昨今の自分は成果を出せていないことが他者否定的な思考に陥っている原因なのではないかと。
他人の成果を否定することで相対的に自分の価値を補強しようとしているわけですね。


こうなると「成果を出す」ことが解決策のように思われますが、それは次の3つの観点から不適切と考えられます。
まず、現状としては当然成果を出したいが出せないことに思い悩んでいる側面もあるため、
そういう状況に対して「それでもどうにか成果を出さなければ解決できない」はただのゴリ押し感情論でしかありません。
また、そもそも成果を出したところで他者が期待通りに承認してくれるともかぎりません。
そこが不明瞭である以上、成果を出せば救われると信じることにはリスクがあると言わざるを得ないでしょう。
さらに、成果を出せば優越感を求めすぎる傾向が解消されるともかぎりません。
むしろ成果を出したことで成果を出せていない人に対して見下しマインドが増強する可能性さえあります。
それでは表面的な交流を破綻させないという当初の目的は達成できません。


そこでもう一歩踏み込んで2つの解決策を考えます。
まず、自分自身が成果を生み出し他者に承認されるというプロセスは常にうまくいくとはかぎらないので、
逆に他者の成果に対して自分が承認するというプロセスを確立しようというアイデア。
つまり、他人を褒めることによって「価値あるものを承認する自分」を肯定的に捉えようという営みです。
これは成果を出してそれを認められるほど欲求が充足するわけではないけれども、
欲求を確実に埋めつつ、しかも他者否定的な思考を断ち切るという点では
今回の悩みに対してかなり効果的なアプローチであると考えられます。
ただし、「他者を褒めている自分は偉い」というような思考に陥ってしまうと元の木阿弥なので気をつけたいところ。


2つ目は、そもそも「成果を出す」という表面的な結論はそれを完成させるという暗黙的な条件がありますが、
他者否定的な思考に陥らないために求められているのは本質的には物事の完成ではなく、
「自分がここまではやるべき」と考えている信念に対して誠実に行為できたかどうかなのではないかという視点。
つまり、「誠実である」と納得できるのであれば、それが完成していなくても心理的充足感は感じられるはず。
それを得られないということは、信念に対して誠実さを欠いているのではないかと。


どの程度の活動をすれば「誠実」であると言えるのか。
これは所属しているコミュニティの数や自分自身の性格にも依ると思いますが、
たとえば自分個人が絶対譲れないボーダーラインはブログ記事1本だと思っています。
これをもすっぽかして1日を終えてしまうと、明らかに怠惰が勝り誠実さから遠ざかっている感覚がある。
ただ、ブログを書く・書かないは完全に個人の問題であり、他者否定的な思考とはおそらく関係ありません。
ある人に対して殊更に否定的な感情を抱くときは、その人と自分が共通するコミュニティや属性において、
自分がするべきことをしていないという事実が念頭にあるのではないかと。
つまりコミュニティにおける活動状態が「不甲斐ない」状態であると自覚しているということですね。
何もしていないのに承認欲求を満たしたいだけでコミュニティに参加していると鬱憤が溜まる一方なのでしょう。
ただし、それは「自分はこのコミュニティ内で特別な地位にいたい・いるべきだ」
というような所属欲求があってこそであるとも言え、
こういう欲求が無ければそもそもこうした問題は起こり得ないのかもしれません。


いずれにしろ、これは自分の自尊心と「どこまでなら頑張れるか」という意欲の問題であり、
他者に認められるか否か以前に自己解決できる問題なのではないかと思っています。
この知見を念頭に所属するそれぞれのコミュニティについてひとつずつ考えてみる時間を作ってもいいのかも……。


余談ですが、今回考えたことは「承認欲求に対する不信」という切り口で、
過去にかなり似たような考察に行き着いた記事を書いていました(#06388 / 2021年06月13日)。
何かに悩んだとき、過去記事には少なからずヒントが落ちている可能性が高いということはもっと意識してもいいのかも。


#7695

続・嫉妬心について

最近改めて思うのは、嫉妬や焦燥感などの負の感情こそが行動力の源泉なのではないか、ということです。
そしてそれは常に他人に与えられるものであり、
人は結局のところ人間関係に揉まれながらも自分の地位を少しでも向上させるためにこそ行動するのではないか、と。
一人でいてもどこからか湧き上がってくる、知的好奇心などのいわゆる「能動的なやる気」などというものは、
実はそうした負の感情とは比べ物にならないほど弱いのではないかと。
いや、この言い方だとあまりにもネガティブなので言い直しましょう。
知的好奇心も立派なやる気の源泉だが、しかし負の感情はそれを凌駕するパワーを持っていると。


いままでの人生経験、とりわけ恋愛周りで起こる嫉妬心は、
「本当は自分もその成果が欲しいのに、
それに対して誠実に行動できていない不甲斐なさに気付かされたときの自分に対する羞恥心」
なのだと考えてきました(#05885 / 2020年01月30日)。
他者の成功を観測することにより、相対的に自分が成功のためにできるはずの行動をしていない現実を突きつけられ、
それに対して恥ずかしさを感じるということですね。
嫉妬するということは、他者が手にした成功と同じものを自分も本心から欲しいと感じていることに他なりません。
にも関わらず、これまで嫉妬感情とはなかなか折り合いが付けられず、
それを行動力の原動力にすることはできてきませんでした。それはなぜなのでしょうか。


恋愛観に関して言えば、それは
「恋愛という神聖な行為の発端が、嫉妬などという穢れた感情であってほしくない」
という考えに基づいているのだと思っています。
そしてこれは、恋愛に限らずクリエイティブな活動を含むさまざまな活動が当てはまります。
自分にとって大切な物事ほど生半可な気持ちでは着手できない心理があるからです(#07454 / 2024年05月14日)。
その活動がもし価値の大きなものに成長したとき、
「この活動は嫉妬が発端でした」などと説明したくないと思ってしまうわけです。
そんなことを始める前から考えるのは自意識過剰としか言いようがありませんが、
もし本当にそうなったときのことを考えるとなかなか拭えません。これこそ自尊心の厄介なところです。
だからこそ2004年の「あの日」以降の自分は、記念日などのポジティブな節目を意図的に多く作ることにより、
少しでも「特別な地点」から踏み出そうとしていました。
いまも続いている長期の活動、そのすべてがキリの良い日付からスタートしているのは偶然ではありません。


このような考え方は一歩目をいかに最小化するかという行動力推進の考え方と真逆であり、
だからこそ大切な物事ほど着手しがたく、また嫉妬はなるべく遠ざけた方が良いという考えに至りました。
その考えが自分をSNSや一部の人間関係と距離を置く根本的な要因にもなりました。
しかし嫉妬することがなくなってからは、ますます行動することもなくなってしまいました。
しかもそれに対して危機感さえ抱かなくなったという点では以前よりも重篤な状況にあると言えるかもしれません。


「一歩目」を重視しすぎることはこのようにさまざまな副作用があるわけですが、
考え方のクセみたいな側面もあるため一朝一夕で矯正できるとも思えません。
ただ、今年の年始ブーストを経て「とりあえずやってみる」を次々に実践したことによって、
その殻にもしかしたらヒビを入れることができたのかも、とは思っています。
嫉妬はある意味本心と向き合うためにきわめてわかりやすいマーカーであり、
これもうまく利用できるようになれたらいいなと思っています。
そして、結局そのためには人間関係の渦中に身を投じることもある程度必要なことなんだろうなと。


#7556

身近にある蛙化現象

タコウインナーの法則(#07454 / 2024年05月14日)の別視点からの切り口として、
些細な欠点を過剰に重視することによってやらない理由を探しているという考え方もできるのではとふと思いました。


ずっと憧れていた好きな何かに接近できたときにかぎって、
むしろそれの欠点が悪目立ちしてしまって「好き」の感情が冷めてしまうという現象。
最近、ティーンエイジャーの女子たちの間ではこの現象を「蛙化現象」と呼んでいるようです。
もともと「蛙化現象」とは熱烈な片想いをしていた相手に好かれるようになると
かえって気持ち悪いと感じるようになる、自己肯定感に乏しい女子に陥りがちのメンヘラ現象でした。
しかし昨今では、付き合っているパートナーが
恋人に求められる常識的な行動を少し逸脱しただけで恋愛感情が冷めてしまうことを言うそうです。
ここで言う冷められる行動というのは一般的には食事マナーなどが当てはまると思うのですが、
「自動改札をスマートに通れなかった」みたいな極端な事例がよく挙げられ、
どちらかというとパートナーに求める理想が高すぎる女子側を揶揄するためによく使われているようなイメージ。
もしかするとこれも偏向報道の賜物で、実際にティーンエイジャーは使っていないのかもしれません。
「ゆとり世代は円周率を約3で習っている」と同じようなものなのかも。


この令和版蛙化現象がもともとの定義から逸脱している、誤用だという意見はさておき、
同じようなことは恋愛にかぎらずいろいろな興味関心にブレーキをかけるものとして起こりうると思います。
要は、それが好きである(興味がある)という「自分」そのものは否定したくない。
しかし実際にそれを受け入れる(着手する)だけの行動力や経済力、自己肯定感などを持ち合わせていない。
そこで些細な欠点をあげつらうことによって受け入れない理由をでっち上げ、
現状維持のためにひたすら「保留」し続けるということが往々にしてあります。


最近の自分の例で言えば、たとえばAphex TwinのSAW IIがリイシューするというニュースを知って、
エレクトロニカへの興味が再燃したことがありました(#07490 / 2024年06月19日)。
しかし「再燃」したのは内的な興味だけで
そこからライブラリに楽曲を追加するという行動に移したわけではありません
(いちおう『IDM Definitive 1958-2018』を読み返して気になる楽曲を試聴するくらいのことはしましたが)。
なぜなら現状契約しているApple Musicはいわゆるステーション機能が絶妙に使いにくく、
これまでSpotifyの同等機能で楽曲を探してきた自分にはマッチしていないからです。
なのでApple Musicでは効率的に楽曲探しができない。
かといってそれだけのためにSpotifyも契約するのはコスパが悪いし……みたいなことを当時は書いています。


これは明らかに合理的な判断とは言えません。
Apple Musicのみ契約しているという条件下では、
メインジャンルではないエレクトロニカというジャンルを深掘りするためにはステーション機能は不十分である。
であればまずApple Musicにあるステーション機能以外の可能性を検討するべきであって、
契約する気も無いSpotifyでしか深掘りはできないという結論へ安易に結びつけるのは無理があります。
要は「いまは行動できないのは仕方ない!」と
面倒くさいのを言い訳できるよう恣意的に誘導しているような節がある。
エレクトロニカという文化は自分の中ではやや神聖性が高いので、
自尊心の都合で雑に着手できない事情がありどうしてもこうなりがちです。


こういう意図せず論理的に間違った展開をすることを誤謬といい、
他者の意見をリアルタイムで参考にできないブログしかり、脳内会議など単身でする思考で陥りがちな罠です。
誠実さが求められる他人とのリアルタイムな会話ではこんな恣意的な誘導はおいそれとできないでしょう。
まあ、会話においても一人称特権などを併用すればできなくはないんですけどね……。


これはわかりやすい事例ですが、新しい何かに挑戦するときや身銭を切って何かを買うとき、
結構陥りがちな思考なのではないでしょうか。
「好きだけど心理的ハードルが高い」ものは結構あり、
それらに着手しようと思えば着手できる下地があることも間々ある。
しかし、往々にしてハードルを飛ぶための勇気や行動力、キャパシティを持ち合わせていないことが多い。
かといってそれらを軽々に否定することもしたくない。
こういうときに「やらない理由」があるととりあえず逃げられるので便利なわけです。
そうすることで機会損失になったりウィッシュリストが溜まりすぎて収拾がつかなくなったりするわけですが、
分かっていてもなかなか次々に行動を起こすことはできない。
このブレーキは何か理由があって働いているのだと思いますが、現時点ではまだその正体は分かりません。


#7454

タコウインナーのその先

往年の課題でもあるモチベーションの問題に根ざしている、
「本当に好きだと思えばこそ後回しにしてしまい、それに触れる勇気が出ない」という問題。
このブログではこれをタコウインナーの法則と呼び、不定期に考察してきました。
2014年当時の自分は、「本当に好きだからこそ神聖視し、
それと『客観視した自分』の不甲斐なさのギャップがお互いの間に壁を作っている」
というような分析をしました(#03900 / 2014年10月07日)。
対して6年後の再考察では、好きなのに着手できないのは
「着手することで理想通りにならない可能性から逃げ続けることができるから」
と考えました(#06097 / 2020年08月29日)。
両者の考えは見る角度が違うだけでたいていはどちらも当てはまっています。
根底には成功体験があまりにも少ないことによる自己否定感、自信のなさなどが関係しているのでしょう。


これは好きな人、好きな文化、好きな食べ物、好きな場所などさまざまな「好き」に関わる問題ですが、
さらに言えば自己実現にも関わっているところがあると思っています。
長年やりたかったことにもタコウインナーの法則は適用され、
自分の例で言えば「創作」に関わることは一番実現したいことであるという自負がありながら
実に20年近く着手できておらず、普通に考えてこのまま行けば実現することはできずに終わると思います。
一方で、未練みたいなものは確かに頭の隅にずっとあり、もうやらないという決断はできない。
こんな体たらくなのに「いつかは着手したい……」といまだに思い続けている自分がいるわけです。
我ながら「だったらやればいいのに」と心底思うのですが、ここまで分かっていてもできないんです。


これらを踏まえた上で昨今改めて感じるのは、
人は心の状態と行動に矛盾が生じるような行動は強く抑制されるのではないか、 ということです。
好きなことをする、というのはその人にとって少なからずポジティブな意味合いのある行動です。
そういった行動は本来「嬉しい」「楽しい」「ワクワクする」といったポジティブな感情が伴うものであり、
真逆の感情、つまりストレスなど心理的負荷がかかった状態でポジティブな行動ができないのは当然と言えます。


つまり好きなことに向き合うには、ある種の心の余裕が必須になると。
さらに、その心の余裕を得るために身体的・金銭的・社会的・時間的自由を確保することが重要と考えています。


  • 身体的自由は3大欲求が適度に満たされていること(食べ過ぎ・寝過ぎなど過剰に満たされているのもNG)。
  • 金銭的自由はある程度自由に使えるお金が手元にありお金に関する心配が無いこと。
  • 社会的自由は年齢相応にやるべきことをやっていて人間関係に関する心配事が無いこと。
  • 時間的自由は自分専用の自由時間がある程度確保できていること。

ハラスメントや貧困に悩んでいるような状況で、推し活を心の底から楽しめるとは思えません。
人は楽しいことよりも心配事の方に心を引っ張られがちです。これは種の生存戦略から来る本能でしょう。
つまり、タコウインナーの法則による行動抑制を克服したいのであれば、
やるべきことをやっていない後ろめたさ、あるいは生活を脅かす心配事を整理する必要があるわけです。
それらから逃げ続けてきたことこそが、好きなモノと向き合えない要因になっているのではないかと。
このことから、好きな何かを思い浮かべることを阻害されている場合は心の余裕が無いと判断することができます。


自分はかつて、好きなものを想像するとインモラルな描写によって無理やり阻害されるという、
電波を受信しているんじゃないかというような症状に困っていたことがありましたが(#06903 / 2022年11月10日)、
それも潜在的に強い切迫感、不安、心配があったからなのだと納得できます。
それ以来、創作に関する着想や愛猫の写真・動画などの心の底から好きな概念と向き合えるかどうかというのは
心の状態を測るリトマス紙として機能しています。


これらのことは少なくとも自分のこれまでの人生には大小様々な形でよく当てはまっています。
大学生活では、2024年現在もなおこの世で一番だと思っている異性との出会いがありましたが、
一方で当時はバイトしないといけないのにしない、
生活リズムは崩壊して単位は落とすなど大学生としては散々だったため、
それに対する後ろめたさ、劣等感などは非常に強くありました。
もし、それらが無く一端の大学生として堂々としていられる前提があったなら、
2011年のあの局面で告白しないという選択肢はあり得なかったと思います。


そしてその後もなんだかんだで人間関係トラブルや健康の問題、負の感情との戦いが続いてきました。
2024年現在、フルテレワークによる睡眠の問題の改善に加えここ数年のコミュ力の向上と自尊心の変化で
主に人間関係を原因とするネガティブな問題はかなりきれいになりましたが、
一方で上京後には収入が増えたことでむしろ負荷が大きくなった金銭問題や
テレワークを起因とする仕事のやり甲斐の問題が新たに浮上しており、
まだまだ心の余裕を実現できそうにありません。
唯一2021年のみ、人間関係もある程度清算した上でまだ金銭問題もさほど深刻になっていなかったので、
だからこそあの1年間はさまざまなことに興味を抱き、そしてそれに行動力も伴っていたのでしょう。
あの好奇心に溢れている状態こそが本来の自分だと信じたいものです。


自分の場合、長期的に見て一番大事なことから逃げ続けてきたという自覚があるので、
この負け組人生は自己責任だと思っているし、もうこれを根本的なところから覆すのは不可能だと観念しています。
ただ、ポジティブな行動を抑制する「心配事」は、
書類不備で返送された郵便物をまた出さないといけない、というような短期的に面倒くさいトラブルもあれば、
生まれつきの能力の低さでなかなか就職できない、交通事故で半身不随になった、
などといった独力ではどうしようもないことも多くあるわけです。
これらを一緒くたにして自己責任論に結びつけるのはあまりにも短絡的で乱暴なので、
どこかで一定の線を引く必要はあろうかと思います。解決可能か否かで分けるとかですね。
体感的に、ネガティブな物事が心配事になるかどうかの閾値は歳を取るほど上がっていく(心配事になりにくい)
ような気がしますが、この辺は主観的な経験則だけではなんとも言えません。
確かに言えるのは心配事から逃げれば逃げるほどそれの解決を難しくするということです。
年齢が上がれば経験値も積み重なって解決できるハードルは下がっていくのが自然ですが、
逃げ続けてきた人生では経験値が少ないのに心配事の難易度は上がる一方なので逆にハードルは上がると思います。
これもまた短絡的な考えかもしれませんが、この辺が人生の明暗を分ける要因なのかもしれません。


ここ15年くらいの自分は、心の底から物事を楽しめない、
上っ面だけで芯の通っていないような人生を歩んでいる実感がありました。
今回、長らく正体が分からなかったその原因についに腕を突っ込んだような気がします。
いや、ずっと目を背けていた原因とようやく向き合う覚悟ができたと言うべきか。


#7407

自分に期待しないということ

過去を振り返ると、2018年ごろから2022年までの自分はかなりのメンヘラ気質であったと思います。
2019年にブラック会社を辞めたことで明確に回復するわけですが、
この状況から本当に脱出したと初めて実感したのは2023年初頭に旧Twitterのタイムラインを久々にみたとき、
他人のつぶやきを偏見抜きで読めたと感じたときでした。
それまでの自分にとっては、旧Twitterは「自分ばかり認められない不公平な場所」であって、
そこにいるユーザーは「自分を認めてくれない人」「何かにつけてマウントを取る人」でしかなかったのが、
そういう認識は誤りだったということを実感を持って知ることができたわけです。


このことからも心の調子と他者承認は切っても切れない関係にあることは疑う余地もなく、
メンヘラ時代からの脱出するためのキーワードになったのが
『嫌われる勇気』を読んで学んだ「他者に期待しない」という考えでした。
この視点が無かったら自分はいまでもメンヘラであり続けたと思います。
しかし、「他者に期待しない」というのは本当に正しいのかどうかについては、まだ結論が出ていません。
部分的には人は他者に期待せざるを得ないところがあり、それに応えて然るべきときもあると思うし、
何もかも他者に期待しないということは、それはつまり信頼関係をも否定するということなのではないかと。


改めて「他者に期待しない」というのはどういうことかを整理してみます。
まず考えられるのは、自分の希望を達成するのに必要な要素が他者に依存してはいけないということ。
他者というのは基本的に自分がコントロールできない範囲の要素であり、
それが思い通りに動く前提で自分の希望を思い描くのは明らかに正しくありません。
まして、それがうまくいかなかったことを他者のせいにするのは筋違いも甚だしいわけです。


これは、善意に対する見返りを期待してはならないということでもあります。
自分が善意で他人に尽くしたとしても、
同じことを他人がしてくれなかったからと言って不平を言う権利はありません。
善意はあくまでも無償であって、見返りを期待するならそれは強いて言えばビジネスであり、
善意を与えたから善意を求めるというのは単なる価値観の押し付けでしかないわけです。
2023年初頭にヘラったイトコはこのケースなんじゃないかといまでも思っています。
これが正しいなら、いわゆる「良い子」に育つとメンヘラになりやすいのかもしれません。


これらの考え方は、いまのところ正しいと思っています。反例もすぐには思い浮かばない。
ただし一方で、徹底して他人に期待しないからこそ、生活がつまらなくなってしまうというのもあると思います。
要するに他者承認を否定しているわけですから、
この考え方だと他者承認を目的とする一切の活動は不毛だという結論に至るわけです。
ネット活動なんかは特によく当てはまります。
「いいね」をもらえたりもらえなかったりして一喜一憂するという以前に、そもそもつぶやかなくなる。
結局この考え方を推し進めると孤独になるのではないかと思う昨今です。
やはり人間は社会性あってこその動物である以上、
他人に期待することにリスクが内在するとしても、そうせざるをえないところがあるのではないかと。


そもそも他者承認に依存して心を病むのは、
他人への期待というより自分の期待に応えられない自分への失望に由来するのではないかと思います。
他人が認めてくれないというのは目に見える結果でしかなくて、
実はその裏にある自分の不甲斐なさにこそ心を病む原因があるのではないかと。
他人に期待しないというより「自分に期待しない」という方を意識する方がもしかしたら健全なのかもしれません。
これはここ最近の「無能であることを受け入れる」という考え方にも通じてきます。
ただ、これも言葉尻を捉えて愚直に実践すると無気力で自堕落な生活になると思います。
この辺はおそらく成功体験を積み重ねていくしかないのでしょうが、
それにしても期待するというのは自分にしろ他人にしろ難しいものだなと改めて思う今日この頃です。


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