Chrononglyph

社会性の問題

#7778

ネット活動の意義を探る

4年前当時、ネットコミュニティにおける「疎外感」をどう凌ぐかについて考察しました(#06284 / 2021年03月02日)。
これは、4年前時点のさらに4年前に考えていた「孤独感」に関する考察の続きであり(#04900 / 2017年06月04日)、
一連の言説はなにげにここ9年くらいの自分の考え方を端的にまとめ上げたものになっています。


2017年当時の記事は大きく分けて2つの主張があり、
まず「9連休という大きな時間的自由が与えられていながら『新しい挑戦』を何一つ着手できなかった不甲斐ない自分」
に対する反省というのが念頭にあります。
当時はいまよりもよっぽど社畜でしたが、珍しくGWは9日も休めることになったのでいろいろなことを計画しました。
既存の活動に行き詰まりを感じていたので、新しいことに挑戦したいという機運が強くあったんですね。
しかし、結局なんだかんだでどれもこれも着手することができなかったと。
この「なんだかんだ」の部分についてはいまだに克服できたという実感があるわけではありません。
ちょうど2025年正月休みに溜まっていたやりたいことに片っ端から着手できた経験がありますが、
ここ9年で明確に殻を破れた経験はそれくらいで、そういう意味ではタイムリーな課題です。
ただ、これは今回の主題からやや逸れるのでこれくらいにしておきましょう。


2017年の言説の後半では、当時の迷走の根源は「孤独感」ではないかと予想し、その正体を暴こうとしました。
つまり、自分が新しいスキルを身につけようとする目的は結局新たに他人を魅了する何かを作ることであり、
要するに承認欲求を満たすことにある。
なぜ既存のものを捨てて新しい何かでそれを満たそうとするのかといえば、
既存のコミュニティは自分を認めてくれない、あるいは成果に対して十分な承認を与えてくれないからだ。
一方でそこでは精力的に活動している他人同士では十分に認め合っているように感じられ、疎外感を感じる。
このギャップこそが孤独感(えも言えぬ寂しさ)の正体であり、
孤独感を払拭したいならコミュニティから距離を取るのが差し当たり実践できる最善策なのではないか、と考えました。
実際に2017年以降は主にTwitterからは不定期で距離を取る期間を設けるようになり、いまもまさに距離を取っています。
ただし、それ自体は対処療法的な行動に過ぎず他者承認不満という根本的問題は解決しませんでした。


2021年の自分は、そもそもそれは「自分から他人の作った輪に入っていけない」せいであり、
言い換えれば自分は「自分の作った輪に他人の方から入ってきてほしい」という信念があるのでは、と考えました。
だから他人が輪を作ると嫉妬する。自分の輪に入ってきてくれないと疎外感を感じる。
ネットコミュニティとうまくやっていけないのはこうした(非合理な)信念があるからなのではなかろうかと。
webサイトという「島」を作ってそこからコミュニティを広げようとする基本的な立ち回りや、
いつぞやの黒歴史であるオフ会論争などもこの信念が大きく関わっていると思っています。
これはブログでたまに「独占欲」と表現している、幼少期の家庭環境から強く影響を受けているかなり深い信念であり、
それを明瞭に言語化している2021年の記事は実は自分にとって値千金の情報だったりします
(これこそがブログを続けるメリットなのかもしれない……)。


2017年と2021年の各記事は昔の自分といまの自分を繋ぐ結節点のようなものとして大いに存在意義があります。
これらを読むと、昔の自分の苦しみが昨日のことのように思い出せる。
一方、それらは完全に解決したわけではなくまだまだ付き合わなくてはならない課題でもあります。
つまり2025年現在もまだ「途中」であり、未来の自分にバトンを回す義務があると言えるでしょう。


自分のネット活動の基本形としては、
①何かに挑戦し、②他人を迎え入れる輪を作り、③他者承認を満たすというのが一連の流れになります。
このうち①はこれまで暗黙的に既存の何かや他人がすでにやっていることは全否定していました。
それは、それらに向き合っても③は満たせなかったという経験則に依るものです。
しかし、完全にゼロからやって他人にチヤホヤされるレベルまで熟達する見通しがそう簡単に立つはずがありません。
2017年GWに「なんだかんだで」新しいことに着手できなかったのもその辺が主因なのではないかと思います。
これはもっと大胆にプライドを捨ててハードルも下げる必要があるでしょう。
②は推し活によって部分的に否定しつつありますが、完全否定する必要も無いのではないかと思っているところ。
ただ、一般的には輪を作るよりも誰かが作った輪に入っていくのが圧倒的に簡単なはずであり、
積極的に後者を選ぼうとしている自分が茨の道を選んでしまったのは確かです。
その結果報われないことも多々あるだろうし、
少なくともweb制作だけを起点にするのはもう無理なのでそうではない何かを探すことになりそうではある。


しかも、そこまでやって得られるのが他者承認というのがなんとも割に合わないんですよね。
だからこそ、ここ9年も結局は既存のコミュニティで満足する(せざるを得ない)という結論に至っているのでしょう。
既存のコミュニティもそれはそれで大事なんですが、
定期的に距離を取らざるを得ないくらい「割に合わない」活動であるということは否定しがたい事実です。
活動を割に合わないと感じているのはいわばLose-Loseの関係であり、望ましいとは言えません。
こう感じれば感じるほど活動自体も萎縮する一方なのでさっさとどうにかしないといけない。
せめてサブ活動的な新しいコミュニティを作るか入るかはしたいところではある。
2020〜2024年はゲーム会がそれに相当していたわけですが、
それも途切れてしまった2025年はある意味岐路に立たされています。


これがたとえばリアルの人間関係でも充足できるのか、推し活で代替できるのかはなんとも言えません。
既存コミュニティでは他者承認を得るための「コスパ」が悪いと思っていますが、
ここだけが特別にそうなのではなく、どこもそうなのかもしれないという予感もしています。
少なくとも言えるのは、webサイトを作ってそこを拠点にするというのが基本方針だった自分のネット活動は
22年目にして大きな転換点を迎えつつあるということです。
それくらい、昔ながらのやり方に限界を感じつつある。
本心を取り戻すというのがやはり鍵になってきそうだと思っていますが、果たして……。


#7743

ヤマアラシのジレンマ

いま思えば2020〜2021年はかなり意識が高かったと思うし、
その意味では黒歴史期と言ってしまってもいいかもしれません。
意識高いなりにエネルギーはすごくあったと思います。なんかいろんなことをやろうという気概はあった。
ただ、いかんせん妄想が作ったハードルの高さはそれをさらに凌駕するものだった。
結果的にこの期間に成し遂げられたことというのは自分の歴史の中でも決して多くはありません。
唯一、読書録をちゃんと書いていたことだけはいまでも良かったと思いますが……。


それから2022年に諸々の失敗によって意識の下方修正を余儀なくされ、
そこから立ち直る過程であまりにも高すぎた妄想のハードルを低くするという是正が行われました。
例の、去年一年を通して自己実現系のマイテーマになった
「無能であることを受け入れる」(#07601 / 2024年10月08日)というスローガンがそれをよく表しています。


そういうわけで現状、やりたいことの整理は以前と比べると明瞭になってきたように思います。
荒唐無稽な内容のものは切り捨て、やる理由があってしかも「できる」ものを選定したうえで、
それらをさらに細分化してより簡単にできるものに分解し、それぞれに優先度も設ける。
実際、これによってかつてほどタスクの後回しはしないようになってきているように感じますが……。
一方で「やれば確実にでき、しかもやる必要がある」というところまでお膳立てしているにもかかわらず、
どうしてもそれに着手できない心理的ハードルを感じることがあります。
結局、2025年は初速こそ最高だったもののこれのせいで二の次で足踏みをしてしている感がある。
さて、この躊躇の要因はなんなのでしょうか。


昨日の記事で取り上げたタコウインナー問題も同じく「なんとなく着手できない」の解決を目指すものですが、
2024年当時は物事に着手できない原因を「やりたいことと心理状態にギャップがあるから」と推測しました。
では心理状態はどのようにあるべきなのかというと、当時の自分は「4つの自由」を提唱しています。
4つの自由とはすなわち、身体的・経済的・社会的・空間的自由です。
身体的自由というのは三大欲求などが「適度に」満たされていることを言います。
空腹ではパフォーマンスが落ちるのは当たり前ですが、満腹すぎるのも良くないということですね。
経済的自由は好きに使えるお金がある程度あること。
より正確には、経済的理由によって行動に制限を与えられないことを指します。
社会的自由は気ままかつコンスタントにコミュニケーションできる人がある程度存在すること。
空間的自由は自分だけのプライベートな空間・時間が確保されていること。
やりたいことをやる、言い換えれば自分らしく生きるための土台としてこれらが必要だということは、
自分にとって上京前後の7〜8年くらいの中で見出してきた生活教訓の集大成のようなものだと認識しています。
実際に、どれも上京前後に明確に失ったことがあり、失うたびに必要性を痛感したものばかりです。


2025年現在、東京一人暮らしによって身体的・経済的・空間的自由については十分確保できていると感じます。
これも上京3年目くらいまで不安定だったのは事実ですが、いまはさすがに安定していると言っていいと思う。
この点は実家暮らし時代と比べて明確に恵まれている……はず。
とすると、不足があるとしたら社会的自由でしょう。
特に、相手を慮ればこそ本音トークできないという現状が問題なのではないかということに改めて気づきました。


自分はいくつかの人間関係を踏み台にメンヘラ期を脱出する過程で、他者に配慮した言葉遣いを身につけようとしました。
その結果、それ以後に出会った人とは健全な人間関係を築けていると思うし、
それ自体は人として成長できた部分だと自負しています。
ブログもここ数年でかなりクリーンになったのではないでしょうか。
しかし一方で、自分の性格の深いところは、他人を傷つけて憚らないトゲトゲしたものなのだと思っています。
つまり、他人に配慮した物言いをする自分というのはいわば「演じている」状態であって、
本来は周囲が思っているより下衆な性格なのだということです。
しかしここ数年はクリーンさを保つことを重視した結果、
本心としての下衆な自分がいままで以上に日の目を見ることが少なくなりました。
昨今感じているストレスは、それによって無自覚な欲求不満になっているからではないかと。


「演じている自分」によって得られる人間関係では表面上の承認欲求は満たされても、本当の社会的自由は得られない。
なぜなら演じているかぎり本音ベースでの価値交換が実現することが無いからです。
クリーンな自分が求められているのは活動成果だけであり、他者はそれを評価する存在でしかありません。
それ以上のことに踏み込まないからこそ成り立っている関係とも言えます。
メンヘラ期以前の自分は、自身の社会的価値を顧みず「本来の自分」を他人に見せる機会があったからこそ、
ストレスがオーバーフローすることなく保てていたのかもしれません。
当時は本音トークをする相手がいなければ発散する先はTwitterやブログでした。
昨今は世間的なコンプライアンスや自分の道徳観の両面から
トゲトゲしたことを公共の場に発信することはあり得ないと思っているし、基本的にそれは間違ってないと思っています。
ここで本音を公共の場にぶちまけるのは、
クリーンな自分が積み上げてきた価値を破壊するような愚行と言わざるを得ない。
しかしだからこそ本心を発露する手段が狭まってしまい、より欲求不満に陥りやすくなっている面は否めません。


とはいえ、本音トークができる相手というのは探してもそうそう見つかるものではありません。
かといってクリーンな自分とは別人格として本音用のSNSアカウントを作ったとて、
フォロワーがいなければまったく意味はない。
結局のところある程度深い人間関係は必須ということになります。


しかも自分のトゲを受け入れてもらうためには、合理的に考えれば相手のトゲを自分が受容する必要もある
(そもそも相手が自分を「深い関係」であると認識する必要がある)。
それはそれで長い道のりかつストレスになりうるところで、
仮に相手がいたとしても本音ベースでの人間関係の維持はかなり難しいのではないかと。
実際、歴代の人間関係を振り返ってもある程度踏み込んで距離を縮めた相手とは長続きしない運命にある気がします。
「ヤマアラシのジレンマ」ってまさしくこういうことなんだろうなと。
クリーンな人間関係において一定以上は踏み込まないことの大事さを改めて認識させられますが、
それだけではこの問題は解決しないのでなかなか悩ましいところです。


#7694

愛でると愛する

日本語で「愛する」というと、まず思い浮かぶのは好きな人、要するに恋愛対象です。
一方、「愛でる」というと、モノも含まれるようなニュアンスになります。
もともと「愛でる」は「賞でる」とも書くそうで、漢字から想像できるように褒めるという意味合いも持ちます。
好きな異性などに対する強い気持ちは「愛する」であって「愛でる」ではないですが、
「愛する」は必ずしも異性だけを対象とした概念ではなく、たとえば「祖国を愛する」といった使われ方もします。
なんとなく対象が対等以上の存在で尊重しようとするニュアンスが含まれている気がしますね。
しかし、対象が無機物だと「愛でる」は適当ですが「愛する」は不適当な気がします。
同様に、二次元キャラ等の「推し」に対する気持ちはそれが異性であっても「愛でる」がしっくり来ます。
全体的には「愛でる」よりも「愛する」の方がより強い感情であるというニュアンスがある気がしますね。
趣味や推し活動も相当に突き詰めれば(尊愛の感情があれば?)「愛する」という表現を使っても許されうるでしょう。


さて、昨今の自分はこの「愛でる」感情が迷子になっている感じがします。
なにかを愛でたいが、その対象がいまいち定まらないので心がフワフワと落ち着かない感じ。
実家のねこさまを喪ってからこういう気持ちが徐々に湧いてきたのかなと思っています。
思えばそれとほぼ同時にいわゆる推し活動が本格化したのは偶然ではないのかもしれません。
しかし、考えてみれば当然ですが推し活動がねこさまの代替になれるわけがない。
だからこそ欲求不満に陥っているわけです。
代替は存在し得ないので基本的にはもう2023年以前の状況には戻れなくなってしまったわけですが、
だからといって諦めるわけにもいかず、できれば現状手が届く範囲でベターな何かを見つけたいところではあります。
とはいえ文字通りの代替としてペットを飼うのは一人暮らしにはあまりにもハードルが高すぎる。
百歩譲って猫カフェとかならアリかもしれませんが……。


現実的な範疇でこの欲求をある程度充足できるのが「物欲」だと思っていましたが、
この1年で物欲も半ば消えてしまったように思います。
去年くらいまでは心が踊るような欲しいものを一定周期で見つけることができていたのに、
最近はめっきりなくなってしまった。
もしこれがペットロスによる影響なのだとしたら、それは自分が思っている以上に大きな影響があるのかも。
ただ、物欲も完全に消えたわけではないため、残っている欲求をうまく育てていきたいと思っています。


この文脈でいまの自分に欠けた何かを充足するものがあるとしたらなんだろうと考えてみたのですが、
360枚あるねこの写真と改めて向き合い愛でることが一番の正攻法になるのかなと思いました。
ただ鑑賞するだけで満足できないならiPhoneの純正「写真」アプリの機能にあるメモ機能を使って
各写真にキーワードを付与するとか、AIを使ってエンハンス(超高画質化)するとかやることはいろいろあります。
あとは、存命のうちに3Dスキャンすることはできませんでしたが、
最近は静止画を3D化する技術もあるそうなのでそれを使って3DCG化してみるとか……?


とにかく愛でるものの代替が存在しない以上、そうやって遺されたものに縋っていくしかないのかなと思います。
自分で言うのもなんですが、自分はこういうところはかなり一途なところがあると思っています。