Chrononglyph

Twitter投稿批判

#7669

不必要な基準のインフレ

さて、万バズ批判のコーナーです。
微妙に弱者叩きみたいな流れになると思うのでコンプラ的に微妙なのですが、
Twitterに以下のようなツイートが万バズ(執筆時点で6.6万いいね)しており、
内容を読んでそんなことはないでしょと思ったので自戒を込めて批判したいと思います。



日本における普通の社会人の基準がインフレすぎる


  • マルチタスクできて当然
  • エスパー並みの察する力
  • 残業、はい喜んでの精神がある
  • 外見、雰囲気、顔面がよい
  • お上に絶対服従できる
  • 即戦力になれる能力

そしてこれらを、新卒や未経験者にも平気で要求するのが、今の日本。
@QSeSlEN6j1YAKO



まあほぼ詭弁しかないというか、「これぞ弱者の叫び!!」という感じで滑稽ですね。
クソデカ主語はTwitterにいるペテン師の常套句なので論外として、部分的に正しいところもあると思います。
マルチタスクはまあできて当然と言えなくはないし、察する能力も無いと困る場面が多い。
残業は慢性的に続くとブラックかもとは思いますが、する必要が生じればするのは責任上当たり前。
外見、雰囲気、顔面が求められるのはそれが利益に直結する仕事ならば当たり前……
ですが多くの職場は当てはまりません。
お上に絶対服従というのは持っている権限や責任の差からこれも当たり前で、
即戦力になれるかどうかは、面接で訊いて本人が「できます」と言ったなら雇い主は即戦力としてカウントするでしょう。
平成昭和の時代から求められるコンプラが「インフレ」しているかどうかはなんとも言えません。


察する力を「エスパー並み」と言っていることからこの人はガチで社会適応能力が皆無なんだろうと思われますが、
それはさておきここで求められているのはごくごく一部の企業であり、
それを「日本における普通の社会人」の基準として挙げるにはあまりにも暴論すぎます。
上2つはまあマストかもしれませんが、それ以外は当てはまらない職場の方が多いのではないでしょうか。
もちろん、いくつか当てはまるブラック企業が存在するのも知っていますが、
そんなところはさっさと辞めればいいわけです。


まあそもそも、マルチタスクできなくて、察する力も皆無で、残業は一切したくない、
臭くて不潔で、上司の言うことが聞けず、チュートリアルを懇切丁寧にしないといけない人材に対し、
最低時給相当以上の給料が出せる企業というのはなかなか無いのではないでしょうか。
企業からしてみればこういう人材はいわゆるモンスター社員として恐れられてそうだし、
解雇規制によって易々と解雇できない以上、
モンスターに食い潰されないようにするためにもやはり一定のハードルは必要なのでしょう。
雇う側や教える側からしてみれば、この万バズツイートはむしろ警戒心を新たにする契機になるのでは。


こういう言説を支持する人というのは要するに心底働きたくないわけです。
めちゃくちゃ高い基準をさも「できて当たり前」のように主張することによって、
「それができない自分は働けなくても仕方ないよね」という言い訳をどうにかして成り立たせようとしている。
個人ではなく社会の問題として捉えることで、個人の責任から逃れようとしているわけです。
この万バズした人がもし本心ではちゃんと働くべきだと思っていて、
自己欺瞞からこの発言をしてたまたまバズったのだとしたらものすごい不幸なことだと思います。
6.6万いいねは「社会から全面的に賛同を得た」と思い込むには十分すぎる勢いがあり、
このたった1ツイートが人生を狂わせる要因にもなりかねません。


それはそれとして、この「必要最低限」のラインを不必要に高く持っていくことによって、
それを行動しない言い訳に使うというのは自分も心当たりがあり、気をつけなければと改めて思いました。


#7624

護身用の反論

旧Twitterでこんなツイートが万バズしていました。



いいかい、学生さん。
微妙に失礼なことを言われてモヤッとしたら 「それってどういう意味ですか?」 と聞くんだよ。
適当に流されそうになったら 「本当に分からないんですけど、どういう意味なんです?」 と追撃するんだ。
誤解ならそれで良し、ナメてくる輩には小さな反撃で自分を守るんだよ。
@jelly_fish003



さすがにこれは間違っているだろうと思い引用RTしたくなりましたが、
フォロワーに失望されるのも嫌なので陰で叩くとします。
それにしてもリプライが賛同の嵐でびっくりしました。引用RTに若干批判的な意見があるくらい。
システム上否定的な意見は見えなくなっているのか分かりませんが、これが世間の生の声だとしたらかなりの驚きです。


結論から言えばこの「それってどういう意味ですか?」という言葉自体が「微妙に失礼」であり、
後続の主張は一方的に正当化しているに過ぎない、と自分は考えています。
また、これに賛同すること自体人間関係に恵まれていないと言えるでしょう。
賛同できない自分はあくまで当事者ではない立場からの意見であり、
そういうポジションから何か言える時点で現状はかなり恵まれているのかもと気付かされました。


ポスト主は、他人の発言で心が傷ついたような場合は
「それってどういう意味ですか?」と率直に相手へその悪意の有無を問うことがささやかな反撃になると言います。
これは、自分に非が無く相手に100%悪意があると読み取れるような状況でしか正当性がありません。
それ以外の場合でこれを言うと自分の読解力の無さを棚に上げて相手に説明を迫る面倒くさい人でしかなく、
職場でこんなことを言えばすぐに腫れ物扱いされるでしょう。
もちろん、相手に明確な悪意がある状況で有効な反撃になることに異論はありません。
相手が生半可な覚悟でそれを言っていたなら「こいつに嫌味は言わない方がいい」と思わせる契機になるかもしれません。
ただ、そういうケースは結構限られるのではないでしょうか。


ニュアンス的にこれは主に職場の人間関係にフォーカスした議論だと思っているのですが、
そういう文脈で悪意のにじんだ言葉を投げかけるケースは
そもそも受け手側が十分な仕事をしていないというパターンが往々にしてあります。
そうでない状況でこんなことを言う必要性はどこにも無いわけで。
仕事ができない人に改善してほしいから、勉強ができない子どもに勉強してほしいから、
要は周囲の期待に応えられない人が悪意を受け取るケースが非常に多いのではないかと。
だからこそこれはそもそもの能力が低い弱者側の処世術なのではないかと思うわけです。
健全な職場環境で普通に仕事ができていればこんなことを考える必要性は皆無でしょう。
相手に責任を負わせるような言い分は、どこかでその人自身の後ろめたさを覆い隠そうとしているのではないかと。


もちろん、ブラックな職場環境などでは「他人の期待」が過剰で自分のキャパシティを超えるケースもあり、
そういう場合はどんなに頑張っても及ばないケースはあると思います。
ただ職場環境というのは基本的に代替可能であり、そういう場合は何も言わずにオサラバすればいい話。
そもそも分不相応ならいるべきではありません。
「それってどういう意味ですか?」なんて角の立つことをわざわざ言えばより敵対関係が明確になるだけです。


自分が100%勝てる正当性があり、かつケンカになっても構わない(信頼関係の構築は不要)という覚悟があり、
そしてケンカになった後の見通しもしっかり立っている場合にかぎってはこの言葉は使ってよいと思います。
しかし、そうでないなら使わない方がいい。
基本的に「使わないで済むならそれに越したことのない」類の言葉であり、
護身用のスタンガンのようなものでしょう。
それを学生に推奨する旨の投稿に5万いいねが付くということ自体、なんだかいろいろ考えさせられます。
世の中ってそんなに悪意に満ちているのかと。あるいは無能が多いことの裏返しなのか。
それといまの自分の職場環境に少なくないギャップがあったので、結構恵まれている方なのかも……と思った次第です。
地方時代なら意見は180度変わっていたかも。


と、こんなことをツイッタランドで言えばやれマウントだなんだと揚げ足を取られかねないので
やっぱりこういうことはブログでコソコソと書くのが一番ですね。


#7611

やる気は存在するのか

少し前に、「『やる気は存在しない』というのはマジでその通りだと思う」と添え、
以下の引用を切り抜いたツイートが12万いいねを稼いでいました。



よく「やる気ってどうしたら出るんですかね」なんて、よく分からない質問をしてくる人がいます。
多くの人は、やる気というのは行動を起こす原因だと勘違いしています。
実は、やる気は行動の原因ではなく「結果」です。だからやり始めない限り、やる気はでません。
やる気が出たから走るというのはダメで、まずその日走り始めることが大切なんです。
そうすると走りながら「じゃあ、もっと走ろうかな」と思ったりする。これがモチベーションなんです。


これは学校の成績をおいても同じです。
モチベーションを待っている人は、できない人。できる人ほどシステムに従います。時間が来たから始めるとか。
「やる気」という単語は、できない人によって創作された言い逃れのための方便です(笑)。


池谷裕二(東京大学教授)「脳を活性化し、パフォーマンスを上げるランニングとは 」 - NewsPicks



「やる気が出たから行動できる」「やる気が出ないから行動できない」
という意味のやる気というのは実は言い訳でしかないという、最近意識高い系の間でよく聞く話です。
しかし自分はやる気という概念は存在すると考える立場なので少し批判を展開してみたいと思います。


こういう文脈(特に引用の後半)で「やる気」が批判される場合というのは、
その人が十分に評価(期待)されていて客観的に「できるだろう」と思われているとか、
あるいは周囲が骨を折ってお膳立てして「きっとできるだろう」という状態まで持ってきたのに、
それでもなお本人がやらないので周囲が腹を立てているような場面をよく想像します。


そういう場面での「やる気」という概念は
「できるのにやらない」という状況に対して周囲が攻撃するための藁人形としての存在でしかありません。
この場合、本人からしてみれば文字通りに「やる気がない」のであり、
しかし率直にそれを口にしてしまうと角が立つので、本人でさえもこの状況をやる気のせいにすることによって、
その場をとりあえず穏便に済ませようとしているわけです。
「行けたら行く」「善処します」みたいな、日本語によくある建前と本音がねじれている便利な言葉。


「できる人ほどシステムに従う」というのはまあ表面的にはその通りで、
自己実現にしろ仕事にしろ勉強にしろ、まずはシステムを作るところから始めるべきだとは思います。
無根拠なやる気は到底寿命まで続くものではなく、早ければ30代辺りでもう枯渇してしまいます。
そういう事態に備えてやる気に依存せずとも継続できるような仕組みを持っておくことは重要でしょう。
それは長期的な意味合いだけでなく、体調不良など短期的にポテンシャルを発揮できない場合にも役立ちます。
しかし、それだけではそこに十分な主体性が含まれているかどうかは保証されていません。
システムの奴隷になり実はもうやりたくないと薄々感じている心を殺しながら
半ばロボットのように継続するケースもあり得るのではないかと思います。


要するに、ここで言う「やる気」は使命感などのある種の社会的責任をバックグラウンドに
能動的・自律的に行動できる能力を指し、そういう意味でのやる気は存在すると自分は思います。
それは他人のお膳立てというよりはその人自身のそもそもの能力や過去の成功体験・失敗体験、
あるいは社会的成功によって生まれた責任の有無などによって左右されると思います。
それらによって醸成されたアイデンティティーが、それをやるべきか否かという主体的なやる気を決めている。
ゲームでのみ成功体験を得続け、勉強のことになれば叱られるなど嫌な思いをし続けた学生が
勉強の「やる気」が出ないのは当然のことだし、それはその時点で他人がどうお膳立てしても無意味でしょう。
(「報酬」によって半ば無理やり行動させることはできますが)


ちなみに本人が一見してそれをさも優先度第1位の物事として「やり遂げたい」と宣言しているのに
同時にそれを「やる気がない」と思い悩んでいるようなケースはもっと低次元で、
ちょっとした思いつきを「やるべき」リストに入れてしまっているケースや、
「やり遂げたい」と思っていることが願望レベルでしかなく、
一刻も早く自分の能力の低さを受け入れなくてはならない段階であることが往々にしてあります。
なぜそんなことをするのかというと、「何もしない」という怠惰から抜け出さない言い訳にできるからであり、
これは昔の自分によく当てはまっています。
小学校高学年くらいまでなら将来の夢にメジャーリーガーやパティシエと書いても許されると思いますが、
それを成人してから言うのはいかにも馬鹿馬鹿しいと誰もが思うことでしょう。
これをリアルで他人に言ってしまうとおそらく喧嘩になってしまうのでなかなかセンシティブな問題だとは思います。


かく言う自分も、自己実現に関わる大型のタスクでいまだ着手できていないものはいくつもあり……。
まあ、言葉にはできてもなかなか実践の難しい部類なのではないかと思います。