人間関係は性格を形成する
ここ5〜6年くらいの自分を振り返ってみて改めて感じるのは、
人は周囲の環境、というより人間関係によって性格そのものが顕著に変わるということです。
結構自分でも意外なくらい大きく変わる。
「自分の性格は人間関係によって決まる」というのは
性格が悪かったら他人のせいなのかと言われかねない脆弱性が一見してありますが、
まあでもそれも含めて事実なのではないかと思います。
毒親のもとで生まれた子どもは性格が歪みやすいですが、それ自体は当人のせいではありません。
強いて言うならそれは「親のせい」でいいと自分は思います。
もちろんそれは歪んだ性格を作り出した要因にのみ言えることで、本人の行動の責任は当然本人にあります。
ここでいう人間関係とは友達・家族・恋人・同僚といったある程度以上親しい間柄だけを指すわけではなく、
自分と社会を紐付ける関係であればかなりゆるい繋がりでも当てはまると思います。
もしかしたらマスメディアも広い意味では当てはまるかもしれません。
そこまで含めると「人間関係」という言葉をそれに当てはめること自体が不適切のような気がしますが。
個人はそうした広い関係の中で飛び交う無数の意見に基づいて、
社会の一員であるからにはこうありたい、こうするべきだといった常識を持つようになります。
それがいわゆる「性格の種」になるのではないかと思う次第です。
そしてそれを実践できているか否かで誠実さ、劣等感、嫉妬心などといった自尊心が揺れ動くと。
自分個人で言えば2022〜2023年は睡眠の問題等々によって常識に対してあまりにも誠実さが欠けていたため、
かなり攻撃的な性格だったと思っています。
いっぽう、2024年現在はそういったマイナスファクターはほぼ無い認識なので
そもそもイライラするということ自体が無くなり心が穏やかになった実感があります。
基本的に自分ができないことを「できて当たり前」と標榜するコミュニティにいても幸せになれません。
そういう意味で無駄な争いを避けるために「壁」はあってしかるべきだと思います。
2010年代のSNS黎明期はある意味その壁が無くなった混乱期です。
個人は複数のコミュニティに所属していることが当たり前なので、
あるコミュニティでは常識とされていることが他方ではタブー視されているようなこともあるでしょう。
そこに大きな矛盾が生じるようだと個人が板挟みになってしまいます。
だから人間関係を実力以上に広げることにはリスクを伴うし、逆に狭すぎるのも良くない。
自分は2010年代後半にピクミン界隈でいくつかの黒歴史を生み出してしまいましたが、
それは「この界隈以外に縋るところが無い」というのも要因としては大きかったと思います。
何よりもまず劣等感を想起させるようなコミュニティは勇気を出して離脱するべきでしょう。
それは、ここ数年の実体験を鑑みると個人が思っているよりも切迫している問題であるように思います。
自分はいま、誰との関係性がどの程度深くてその健全性はどうなのか……
というのは定期的に棚卸ししてもいいのではないかと改めて思います。
そういう意味で10年以上の付き合いだった高校時代のクラスメイトは
2021年に絶縁して本当に正解だったと思っています。もちろん、その人の善悪とは無関係にこちらの都合での話。
絶縁のきっかけになったトラブルは自分のメンヘラムーブに端を発しているので反省していますが、
他方で彼は意識がすごく高く、いわゆる社会の勝ち組を常識に据えた価値観で物事を話すので
それに遠く及ばない自分の劣等感を長年刺激され続けてきたのは彼がなんと言おうと事実です。
そして絶縁してから気持ちがめちゃくちゃ楽になったのも確かです。
この件は人間関係について考えるにあたり、本当に大きな教訓になったと思っています。
人としてのレベルが大きく異なる人と親密になるにはそれなりのリスクがあるのだと。
分相応な人間関係を維持するために骨を折ることは他でもなく本人を豊かにしますが、
SNS自体が迷走している昨今それを徹底するのは簡単ではありません。
コミュ力、SNSの使い分け、キュレーション対策などなどやることは無数にあります。
いまやティーンエイジャーの3人に1人が精神疾患と言われているこの地獄のような時代ですが、
幸いにして2024年現在の自分はここ数年の取捨選択の結果かなり安定したネットワークを築けていると思います。
他人といることが楽しいと心から思えたのは本当に最近になってからのような気がする。
どうにかこれを維持していきたいと改めて思う今日この頃です。