見ない自由
これは周期的に巡ってくるような気がするのですが、
最近は自分に直接関係あるわけでもない他人の言動について、短絡的に非難したくなる時期に入っています。
ここでいう「他人の言動」は、ほとんどがSNSにおける日常的な投稿です。
実際に非難してしまえばトラブルになるのが明白なので、さすがに近年は感情的な投稿はしなくなりました。
この手の言動が鼻につくようになるというのは、過去の経験則から言って自責論的には2つの原因があります。
ひとつは短期的に強い承認欲求不足に陥っているという可能性。
自分も話したいことがさまざまあるが
テーマの都合上話しにくい、身近な人間関係の都合で適切な話し相手がいないなど、
それがなかなかうまく消化できずにわだかまっているような状況でよく当てはまります。
承認欲求不足ではあるが、アイデンティティーの問題から手放しにそれを発言するわけにはいかない。
そういうときに空気を読まず無粋な発言をしている人を見ると嫉妬に近い苛立ちを感じるというわけですね。
自分はルールを守っているのにあいつは守っていないじゃないか、と。
まあこういうのを「ルール」と言い切ってしまうのは別の問題がありますが。
もうひとつは経緯を知らずに結論だけ目にしているために誤解しているという可能性。
もうサービス名を書いちゃいますが、この問題は短文投稿を主旨とするTwitterにおいて頻発しやすいです。
そしてTwitterのような短文投稿サービスというのはあまりにも誤解を生じやすいシステムだと自分は思います。
自分はもう2015年くらいから一貫してアンチTwitterですが、その主な根拠がこれです。
まず大前提として、人の考えは140文字で経緯まで含めて説明できるわけがありません。
「その人がどういう経緯でその結論に至ったのか」を受け手に全部任せた上で結論だけ投げておいて、
それで他者に理解を期待するというのはあまりにも無謀な行動だと言わざるを得ない。
受け手が期待されている通りに理解するには、そもそもかなりその人自身を理解している必要があると思います。
そして個人的にはそのレベルの他者理解はTwitter単独では不可能だと考えています。
なので2022年以降の自分は基本的にAクラスタのアカウントならAについてしか語らない人の投稿しか読まず、
思想を込めた日常的なつぶやき(ネガポジ関係なく)をする人は
どのクラスタでも割と容赦無くリムブロミュートしています。
が、実はここだけの話、一部のアカウントはリトマス試験紙用にあえてミュートせずに残しています。
その人のつぶやきに対してイラッと来たら「あ、承認欲求不足に陥っているな」と判断できるので便利なんです。
ただこれには致命的な問題があり、単純にフォローがどんどん減っていきさらなる欲求不満を起こしやすいです。
そのため結局はリアル交流によるコミュニケーションが大事になってくるわけですが、
一方で昔ミュートした人もコンプラ意識が高まって許容範囲内に収まっているかもしれない。
そういう可能性を確認するために年1回くらいはミュートリストの棚卸しをした方がいいのかもとふと思いました。
こう書くとなんというか一部の属性の人に「上から目線だ」と批判されかねないと思うのですが、
もちろんそれは誤解で、他者が自分をミュート等する自由もあると思うので普通にお互い様だと思っています。
この辺はこの10年でSNSの相互フォロー関係における距離感の取り方が変わった影響なのではないかと。
以前はあまりにも距離が近すぎたので、それを適切な距離まで遠ざけようという感じですね。
投稿する自由があるのなら、それと同じくらいそれを「見ない自由」も認められるべきだと思っています。
インターネット文化黎明期からある「嫌なら見るな」というやつですね。
この辺は大きなテーマになるのでこれ以上深掘りしませんが、
昨今のコンプラ意識の高まりはいままで距離感が近すぎたことへの反動も大いに関係しているのではないでしょうか。