Chrononglyph

こだわり

#7208

ルート構築に見る価値観の変化

『ピクミン4』、本編1周目クリア後はしばらくダンドリバトルばかりやっていましたが、
そろそろハイスコアもいい感じになってきたので次のカテゴリに移ることにしました。
本編2周目もやりたかったのですが、今回はひとまずダンドリチャレンジをすることに。
本編はやはり攻略本を見ながらルート構築したい。なかなか攻略本が出てきませんが……。


ダンドリチャレンジは、言うなれば『ピクミン3』のミッションモードとほぼ同じ。
ただし、今作は基本12ステージに加えて
残り時間で競う「葉っぱ仙人の挑戦状」というエンドコンテンツが10ステージあります。
まあそれでも実は前作の方がボリュームでは勝るのですが、それはさておき。
今日はそのうち第1ステージである「ダンドリ養成場」のスコア更新に挑みました。
自己ベストは本編1周目クリア直後にとりあえずプラチナメダルだけ取っておいたものなので、
これを超えるのは非常に容易いです。
が、せっかくならピクチャレ大会でそれなりの順位は目指したいところ。
これがもうとにかくレベルが高いので、1ステージ目から試行錯誤の泥沼にハマっています。
でも、楽しいんだこれが。このダンドリの試行錯誤こそがピクミンの醍醐味だと思います本当に。
ダンドリバトルもとっさの判断能力やアドリブでのルート構築力が問われますが、
こちらは妨害してくるCOMもいないのでひたすら良いルートを突き詰めることになります。
一通りやってみてできたルートで目標に達しなかったらどこに改善の余地があるのかを考える。
それをやってみたら別の場所でうまくいかなかったのでさらに改善を重ねる……。その繰り返し。
いまのところ目標は330点としていますが、これでもかなりハードルが高いです。


いわゆるルート構築を伴うピクミンは実はかなり久々で、実質2013年以来10年ぶりとなります。
2013年当時はミッションモード全36ステージのプレイ動画を公開するべく、
それぞれのステージでひたすらルート構築のために試行錯誤していました。
基本的にスコアよりも週当たり2ステージ掲載するというルールを優先して連載していたため
めちゃくちゃ突き詰めたステージは多くありませんが、それでも夢中になってプレイしていました。


ただ、それ以降はTwitterにおける現在のピクミン界隈コミュニティが成立し、
ほどなく『ピクミン2』チャレンジモードの人気が高まり自分もそちらにシフトしたことで、
ルート構築を伴う遊び方はしばらく離れていました。
さらに2018〜2019年はピクミン界隈からも離れがちでモチベーションの低空飛行が続きます。
『ピクミン3デラックス』発売とその前の不正疑惑騒動をきっかけにピクミン界隈へ復帰したものの、
デラックスで追加された14ステージをやり込むモチベはどうしても絞り出せませんでした。


そして紆余曲折を経て10年経ってやっとルート構築を伴うピクミンに復帰したわけですが、
自分のルート構築に対する考え方が大きく変わっている印象を受けました。
10年前の自分は、一度ルートが固定化したらそれを変えるのは心理的に困難だったように思います。
時間をかけて作ったルートを捨てるのが惜しくて、それを捨てるのは勿体無いと感じたのでしょう。
だから2013年当時の自分はルートは最初のインスピレーションによって見出すもので、
あとはひたすら操作精度の向上や原生生物への対応の素早さで詰めていったようなイメージ。
1ステージで100時間以上リトライを繰り返して世界記録を取った
「原生の杜(原生生物をたおせ!)」なんてまさにそれです。
あれは100時間のうちルート構築に費やした時間は最初の数時間に過ぎなかったと思います。


一方、2023年現在の自分の考え方は、
既存ルートに限界を感じたらどこかに改善の余地があると考えるのが自然で、
既存ルートに固執する理由はどこにも無いという感じです。
必ずしも2013年のやり方が間違っているとはかぎりませんが(仮にもWRを取った実績もあるし)、
これについては2023年の方が明らかに合理的だと思います。
これはピクミンが上手くなったからではなく、
この10年で自分自身の「こだわり」に対する考え方が大きく変わったからではないかと。


ちょっと話が脱線しますが、
高校大学時代なんかは「こだわり」は言うなればモチベの根源だったんですよね。
好きな人と出会った日を記念してその日になにか特別なことをしたい、みたいな。
だからちょうどよい日付に締切を据えて、そこに向かって頑張るというようなことをよくしていました。
ブログのキリ番や誕生日と元日に特別記事を書くのは
ある意味その考え方で生み出された習慣の最後の生き残りです。


このブログではタコウインナーの法則と呼んでいますが、
本当に大切なものこそ遠ざけるというような姿勢や
自分が作ったあらゆるものが捨てられないというのもある意味「こだわり」の範疇です。
しかし社会人生活が始まってほどなくしてその魔法は切れてしまいます。
いつしか、むしろ「こだわり」による締切設定が枷にしか感じられなくなりました。
なにしろ、明らかに合理的な判断に反することが多いわけです。構築したルートへの未練もしかり。


最近はようやくそういう自分の性格を俯瞰して、
何がこだわりで何が合理的判断なのかを区別してその場に則した選択をできるようになってきました。
「あ、ここで変にこだわっても時間の無駄だな」とか。
「ここはむしろこだわってもいいのかもしれない」とか。
で、ピクミンチャレンジモードにおいて「ルートへのこだわり」は100%不要なものと判断できます。
2013年時点ではそうではなかったので、プレイ時に考え方が変わったと実感したのでしょう。


どちらがより良いのかは実際のところなんとも言えませんが、
やっていて楽しいのは確実に2023年のように「こだわらない」プレイスタイルです。
他人の動画を見たらパクりになるからダメだとか、そういうのもいい加減どうでもいいと思いますね。
まあこれに関しては自分のルート構築力を試したいので1周するまで動画は見ない方針ですが、
1周終わってさらにスコアを詰めるとなったら
それはもう他人のルートを参考にしないのは非合理だと思います。
にしても、こだわりに対する考え方の変化をこうも分かりやすく教えてくれるとは。
さすがピクミン。やっててよかったピクミン。


#7170

こだわりという名の免罪符

今日の出来事こだわり

昨日(#07169 / 2023年08月03日)では過去の自分の「こだわり」について
最初の発想を重視し過ぎていたという自己批判をしましたが、
同じ「こだわり」に対する批判でもうひとつの切り口について書いておかねばならないと思ったので
そちらについても書いておきます。それは、一言で言えば「免罪符」として使っていたのではないかと。


あることを成し遂げたいが自分の能力の低さと向き合えないので、
その「あること」に自ら足枷を追加することでさらに実現を困難にさせることによって、
正攻法ではできなくても「こういう縛りの範疇でなら自分は頑張った方だろう」
と言い聞かせることができる。その足枷こそが「こだわり」だったのではないかということです。
こだわらずに取り組んで結果が出なかったら言い訳ができないけれども、
こだわっていれば「まあこの足枷があるからしょうがないね」と言うことはできてしまう。


高校時代最大の黒歴史といえば、受験期直前のクラスメイトとのポケモン勝負です。
当時自分は自分なりに戦略を考えて勝つことを想定して準備に臨んだわけですが、
その戦略はチェリムという可愛いポケモンを使った完全に独自かつ結構無理のあるものでした。
いわゆる正攻法というか、王道の戦略を敢えて採らなかったわけです。
確か1戦目は味方がフォローするどころか足を引っ張るようなことをしたので
かろうじて味方のせいにすることができて事なきを得たのですが、
2戦目でも結局同じように戦略が破綻して格下だと思っていたクラスメイトに散々煽られ敗北するという、
たぶん現時点から遡っても一番と言っていいほどプライドを傷つけられる経験をしました。


そもそもこれがきっかけになって「こだわり」がさらに強くなったという見方もできますが、
この時点でマイナー構成を使っていた辺り、
すでに免罪符としてのこだわりはこの勝負にも反映されていたのではないかと思っています。
つまり、免罪符として使うこだわりはもっと昔、幼少の頃から備わっていた悪癖とも言えます。
おそらくですが、長男坊で年下と遊ぶことが圧倒的に多かったこともあり、
その年齢差から勝負事になれば基本的には勝つのが当たり前で負け慣れていなかったのが原因かなと。
とにかく是が非でも負けたくない。
そのためには強くならねばならないわけですが、
言い訳の余地があれば負けても心理的ダメージを大きく緩和できると気づいてしまったのでしょう。
真剣に挑むことはリスクを背負うことでしかなかったわけです。


結局、この考え方が自分の後人生に影を落としているような気がしてなりません。
負け組人生を歩むことになった根本原因と言っても過言ではないかもしれない。
でも……だからと言ってどうしようもなかったことではありますけどね。
思春期はプライドが高いのが当たり前で、高校時代まではそれで仕方なかったのかもしれない。
ただその後、このことに気づくまでが遅すぎたとは思います。
せめて社会人3年目までに気づきたかったですね……。


#7169

こだわりを否定するようになった

今日の出来事こだわり

2023年に大きく変化した心構えのひとつに、「こだわりをもたなくなった」というのがあります。
思春期から近年までは「記念すべき〇〇」みたいなこだわりを見出して、
それの実現可能性としっかり向き合っていなかった傾向があると思っていて、
それが今年に入ってかなり緩和された実感があるということです。
一番多いのはブログでも何度か言及しているように「日付への執着」ですね。
この日はキリが良いからこの日までの完成を目指そうとか、
アニバーサリーなどの記念日には何かしらの成果を出したいとか。
それ自体は立派なことなので非合理性を疑うのにものすごい時間がかかりましたが、
昨今はようやくそれが非合理的であることも受け入れるれるようになってきたと思います。
そして、最近これに付随してもうひとつ自分を客観視できるという点で良い変化に気付きました。
それは「最初のインスピレーションに対する客観的評価」ができるようになったということ。


人間にはいろいろなステータスがありますが、自分は「発想力」を結構重く見ています。
これは何も無根拠に(それこそ「こだわり」で)そう思っているだけではなくて、
実際にweb制作などの作業や趣味を遂行するに当たって必要とする場面が多いからです。
これまでもさまざまな発想に基づいて行動計画を立ててきたという意味では、
発想力とは自分の根源のようなものと言えるかもしれません。
「着想メモ」でそれを記録する営みを長年続けてきたことも重視している表れだと思います。


しかし、発想力をかなり重視しているからこそ、
そのアイデアが妥当なのか否かをチェックする習慣が根付かなかったのも事実だと思います。
結構最近までの自分は、なにかを閃いたら基本的にそれをそのままタスクとして管理していました。
良い閃きは行動に移さなければ意味が無いので、タスクとして管理する意義はもちろんあります。
しかしこれも先述のこだわりと同じで、
それ自体が本当に実行するものとして妥当かどうかはその時点ではまだ分からない。
現行よりは絶対改善するように感じられるアイデアが多いので疑うのもなかなか難しいのですが、
閃いた時点で知らなかったことで実現が難しかったりすることも多々あるわけです。
にもかかわらず、アイデアをそのままタスクとして管理すると挫折の連続になってしまう。
2019年ごろの自分が悩んでいた
「『やりたい』がいつの間にか『やらなければならない』になっている」というのも、
実はこの辺のアイデアからタスクへの横流しに根本的な問題があるような気がしてなりません。


アイデアをアウトプットするのは大事なのでそれはそれで取っておく意味はあります。
しかし、そこからタスク(やること)に昇華するなら、
本当に実現する価値があるのかどうかをしっかり吟味しなければならない。
そういうプロセスが自分には不足しているのだと改めて思いました。
だからタスクも何もかも山積みになって精神的負荷だけが高まっていくんじゃないかと。
こういう考えに基づいて、アイデアとタスクの管理方法もさらに磨いていく必要がありそうです。
この閃き自体、果たしてタスクにする価値があるのかどうかはさておき。