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#7167

思春期から続くエンドレスな活動

20年前の今日、初代ブログの開設をもって自分のネット活動が本格化しました。
初代ブログに関する思い出は同じ節目の日に何度も何度も書いてさすがにこれ以上ネタが無いので、
今回は「20年続けること」の是非について考えてみたいと思います。


1つのことを20年間続けるというのは、もちろん並大抵のことではありません。
しかも自分の場合、14歳からスタートしているため思春期のうちかなりの範囲をカバーしています。
だからこそ20年続けられているんだろうなという気はします。
これは聞きかじりの知識と経験則による教訓ですが、
人は良くも悪くも思春期から継続している活動はいつまでも続きやすいし、
思春期にやりたくてできなかったことは大人になってからいつまでも未練がましく追い求めやすいと思います。
自分もこの傾向は当てはまると思っているし、
大人になってから始めて知った文化はなかなか長続きしない一方で、
思春期以前から馴染みのある文化はいまだ強く生活に根付いています。


この「いつまでも」というのがどのくらいの期間を指すのか、自分はいままで真剣に考えたことがありませんでした。
ネット文化が数年周期で匿名掲示板、ブログ、SNS、動画と移行してきた経緯を考えると、
数年、長くても十数年単位で流行り廃りのサイクルがあるのだとなんとなく考えてきました。
ところが、ある程度定着した文化は世間の流行り廃りとは関係なくどこどこまでも続いていく。
このブログもそのひとつです。
世間から見た「ブログ」という文化自体は2005年の流行語大賞ノミネートをピークにずっと下り坂を走っているし、
アフィリエイト目的で考えても、もうオワコンと言わざるを得ません。
しかし、個人の活動はそういった世間の動向などとはまったく無関係に続いていく。
なんなら本人の意思とは別に、続けざるを得ないようなところさえあると思っています。
それだけ思春期から続けている活動というのは個人に深く根ざしている。


「いつまでも」というのがどのくらいの期間を指すのか……
それに対して現時点の答えを見出すとしたら、それは「物理的に活動できなくなるまで」なのではないかと思います。
今年05月に非公開化に踏み切ってもなお執筆自体は継続していることによって、
自分にとってブログはもはやインターネットに繋がなくても継続できることが分かってしまいました。
オフラインでいいのであれば究極的にはパソコン1台あれば物理的に活動し続けることはできるため、
あとはもう体力的に衰えるまでずっと続けていくことになるのではないかと思います。
それが幸運なことなのか不幸なことなのかは分かりません。
強制的に続けられなくなるような障壁があったらブログ以外の活動に注力できていたかもしれないし、
そっちの方がより成功できていた可能性はあると思います。
このブログは社会的成功を諦めているという点では生産的な活動とは言い難く、
これだけでは自分の人生は満たされないという重大な課題を抱えています。
しかし、そこまで分かっていても今更やめることはできない。
まあ、普通に考えてブログを捨てたところで社会人になってから始めた活動がうまくいく保証がないので、
軽率にやめないのは合理的だとは思いますが。


そういうわけで、20周年というのはとんでもなく長い活動期間のように思えますが、
実際にはそれはエンドレスに続いていく運命であり、人生全体からすると20年は通過点でしかないのだと思います。
ブランドやIPの生誕20周年とはわけが違うということですね。


#7168

正義を振りかざす「極端な人」の正体

今日の出来事読書録

『正義を振りかざす「極端な人」の正体』(山口真一、光文社新書、2020年)
という本をざっと読みました。もう読書録をがっつり書く気力はないのですが、
ネットの情報収集の危うさについて考えされる事実があったのでメモ程度で感想を書きます。


この本は、いわゆるネット上で起きる炎上事件の加害者について統計的な手法で分析した本です。
ここでの炎上事件とは、いわゆる有名人や企業の不祥事に対して
批判的なコメントが殺到することを言います。
特に本書では2020年に多数の誹謗中傷を受けて自殺した
女子プロレスラー木村花さんの事件をピックアップして、その内実を明らかにしようとしています。


そこではいくつか炎上事件に対するイメージとは異なる事実も明らかになっています。
まず第一に誹謗中傷をしている人は全体のうちごくごく僅かであるということ。
そういう人たちがサブアカを使い分けることで普通の人の数倍のコメントを送りつけることにより、
あたかも傍目には多数の人に誹謗中傷されているように見えます。
第二に、そういった「極端な人」は誹謗中傷を「正しいこと」と認識している、
つまり不祥事を起こした被害者こそが悪であって
自分はあくまでも正しいことをしているという考え方を強く持っていることが多いということ。
そもそも木村花さんの事件は、当初『テラスハウス』という番組内で
共同生活していた男性が誤って木村さんの大切なコスチュームを洗濯してダメにしてしまった際、
木村さんが番組内でその男性に対して強い罵声を浴びせたことがきっかけになっています。
そのことを当初から木村さんのアンチが非難していたわけですが、
その後も放映された『テラスハウス』で木村さんの態度が改まることはなかったので
どんどんTwitter上の木村さんのアカウントに対するアンチの誹謗中傷がヒートアップした結果、
それに苦しんだ木村さんが自殺してしまったと。
すごいのは、自殺後もアンチの活動は止まらなかったことです。
そしてそれは遺族の懸命な活動によって開示請求が行われるにいたり、
その結果、世間の注目度からすると驚くほどに少数派であることがわかっています。


木村花さんの件については、
そもそも男性に罵声を浴びせたことすら「番組の指示」であることがわかっていて、
木村さんの意思で強い罵声を浴びせたわけではないということが自殺後の調査で明らかになりました。
そういう事実が後から出てきたところで人が死んでしまってはもう遅いわけです。
この件は国際社会からもかなり非難され、誹謗中傷に対する罰則を強くする法改正もされました。
しかしこの事件から3年経ったいま、
いわゆる炎上事件は減っていないどころかさらに増えているように見えます。


本書によれば、「極端な人」は普通の人、とりわけ社会で成功している人に多いそうです。
直感的にはニート・引きこもり等の社会的弱者が
強者を引きずりおろすために誹謗中傷しているというイメージですが
(実際にそういう人がネットで問題を起こしているケースもあるというのは事実)、
実は50代以上で十分な地位と年収のあるような人こそが誹謗中傷を繰り広げているそうです。
またそれ以外の社会的属性にも分け隔てなく誹謗中傷による加害経験を持つ人はいて、
一般人だから無縁、といったことは無いと言えます。誰もが加害者になりうるのでしょう。


「極端な人」は共通して社会に対する不満を感じており、それに基づいた情報発信をするようです。
そしてネットではサイレントマジョリティの情報発信量に対して、
そういったノイジーマイノリティの情報発信量の方が圧倒的に多い。
ゆえにSNSにおける思想はかなり偏っていると考えられます。
多数派はいちいち自分の意見を表明しません。
これで何が問題になるのかというと、
日常生活に対するネット利用率が高いと無意識にノイジーマイノリティの思想に染まってしまい、
しかもそれに気づくのがなかなか難しいということです。
これは自分もかなり心当たりがあります。この本を読んだことで初めてその可能性に気づきました。


最近全然本を読む余裕がありませんでしたが、
久々に読んだ本にしては本書は当たりだったと思います。
ネットばかり見て他から情報をインプットしないような生活にならないよう気をつけたいところ。
まして自分が「極端な人」になるなんて論外ですが、
何も意識しなければ自分も加害者になる危険性はわりと高いのではないかと改めて思いました。


#7169

こだわりを否定するようになった

今日の出来事こだわり

2023年に大きく変化した心構えのひとつに、「こだわりをもたなくなった」というのがあります。
思春期から近年までは「記念すべき〇〇」みたいなこだわりを見出して、
それの実現可能性としっかり向き合っていなかった傾向があると思っていて、
それが今年に入ってかなり緩和された実感があるということです。
一番多いのはブログでも何度か言及しているように「日付への執着」ですね。
この日はキリが良いからこの日までの完成を目指そうとか、
アニバーサリーなどの記念日には何かしらの成果を出したいとか。
それ自体は立派なことなので非合理性を疑うのにものすごい時間がかかりましたが、
昨今はようやくそれが非合理的であることも受け入れるれるようになってきたと思います。
そして、最近これに付随してもうひとつ自分を客観視できるという点で良い変化に気付きました。
それは「最初のインスピレーションに対する客観的評価」ができるようになったということ。


人間にはいろいろなステータスがありますが、自分は「発想力」を結構重く見ています。
これは何も無根拠に(それこそ「こだわり」で)そう思っているだけではなくて、
実際にweb制作などの作業や趣味を遂行するに当たって必要とする場面が多いからです。
これまでもさまざまな発想に基づいて行動計画を立ててきたという意味では、
発想力とは自分の根源のようなものと言えるかもしれません。
「着想メモ」でそれを記録する営みを長年続けてきたことも重視している表れだと思います。


しかし、発想力をかなり重視しているからこそ、
そのアイデアが妥当なのか否かをチェックする習慣が根付かなかったのも事実だと思います。
結構最近までの自分は、なにかを閃いたら基本的にそれをそのままタスクとして管理していました。
良い閃きは行動に移さなければ意味が無いので、タスクとして管理する意義はもちろんあります。
しかしこれも先述のこだわりと同じで、
それ自体が本当に実行するものとして妥当かどうかはその時点ではまだ分からない。
現行よりは絶対改善するように感じられるアイデアが多いので疑うのもなかなか難しいのですが、
閃いた時点で知らなかったことで実現が難しかったりすることも多々あるわけです。
にもかかわらず、アイデアをそのままタスクとして管理すると挫折の連続になってしまう。
2019年ごろの自分が悩んでいた
「『やりたい』がいつの間にか『やらなければならない』になっている」というのも、
実はこの辺のアイデアからタスクへの横流しに根本的な問題があるような気がしてなりません。


アイデアをアウトプットするのは大事なのでそれはそれで取っておく意味はあります。
しかし、そこからタスク(やること)に昇華するなら、
本当に実現する価値があるのかどうかをしっかり吟味しなければならない。
そういうプロセスが自分には不足しているのだと改めて思いました。
だからタスクも何もかも山積みになって精神的負荷だけが高まっていくんじゃないかと。
こういう考えに基づいて、アイデアとタスクの管理方法もさらに磨いていく必要がありそうです。
この閃き自体、果たしてタスクにする価値があるのかどうかはさておき。


#7170

こだわりという名の免罪符

今日の出来事こだわり

昨日(#07169 / 2023年08月03日)では過去の自分の「こだわり」について
最初の発想を重視し過ぎていたという自己批判をしましたが、
同じ「こだわり」に対する批判でもうひとつの切り口について書いておかねばならないと思ったので
そちらについても書いておきます。それは、一言で言えば「免罪符」として使っていたのではないかと。


あることを成し遂げたいが自分の能力の低さと向き合えないので、
その「あること」に自ら足枷を追加することでさらに実現を困難にさせることによって、
正攻法ではできなくても「こういう縛りの範疇でなら自分は頑張った方だろう」
と言い聞かせることができる。その足枷こそが「こだわり」だったのではないかということです。
こだわらずに取り組んで結果が出なかったら言い訳ができないけれども、
こだわっていれば「まあこの足枷があるからしょうがないね」と言うことはできてしまう。


高校時代最大の黒歴史といえば、受験期直前のクラスメイトとのポケモン勝負です。
当時自分は自分なりに戦略を考えて勝つことを想定して準備に臨んだわけですが、
その戦略はチェリムという可愛いポケモンを使った完全に独自かつ結構無理のあるものでした。
いわゆる正攻法というか、王道の戦略を敢えて採らなかったわけです。
確か1戦目は味方がフォローするどころか足を引っ張るようなことをしたので
かろうじて味方のせいにすることができて事なきを得たのですが、
2戦目でも結局同じように戦略が破綻して格下だと思っていたクラスメイトに散々煽られ敗北するという、
たぶん現時点から遡っても一番と言っていいほどプライドを傷つけられる経験をしました。


そもそもこれがきっかけになって「こだわり」がさらに強くなったという見方もできますが、
この時点でマイナー構成を使っていた辺り、
すでに免罪符としてのこだわりはこの勝負にも反映されていたのではないかと思っています。
つまり、免罪符として使うこだわりはもっと昔、幼少の頃から備わっていた悪癖とも言えます。
おそらくですが、長男坊で年下と遊ぶことが圧倒的に多かったこともあり、
その年齢差から勝負事になれば基本的には勝つのが当たり前で負け慣れていなかったのが原因かなと。
とにかく是が非でも負けたくない。
そのためには強くならねばならないわけですが、
言い訳の余地があれば負けても心理的ダメージを大きく緩和できると気づいてしまったのでしょう。
真剣に挑むことはリスクを背負うことでしかなかったわけです。


結局、この考え方が自分の後人生に影を落としているような気がしてなりません。
負け組人生を歩むことになった根本原因と言っても過言ではないかもしれない。
でも……だからと言ってどうしようもなかったことではありますけどね。
思春期はプライドが高いのが当たり前で、高校時代まではそれで仕方なかったのかもしれない。
ただその後、このことに気づくまでが遅すぎたとは思います。
せめて社会人3年目までに気づきたかったですね……。


#7171

小さくて多機能なもの

今日の出来事好きなもの

自分は昔から小さくて多機能なものを好きになる傾向があり、
ある意味では自分の根本を構成している価値観なのではないかと思っています。
そういえば、いままで数多のブログ記事で自分語りをしてきましたが
これについてはほとんど言及してこなかった気がします。
なんとなく感覚としてはあるけれど言語化が難しいからなのでしょうか。
2005年にゲームボーイミクロを題材にこの感覚について語ろうと試みていますが(#00454 / 2005年09月13日)、
文章力が低すぎる上にまだ慣れていない随筆形式で気取りすぎて、
もはやアイタタすぎて読んでいられないレベルに留まっています。
当時のほうが、この感覚に対する気持ちの強さは大きいと思うんですけどね。
ともあれ、18年ぶりにこの「小さなものへの愛おしさ」を分析してみることにしましょう。


まずこの感覚の対象として挙げられるものは何かというと、
幼少期〜思春期に出会った実物で言えば多色ボールペン、飲み薬に付属する計量カップ、秘密基地など。
ゲーム体験の中で言えば『モンスターハンター クロス』のニャンター、
『ウィザードリィ エンパイア』の666Fにあるワープポイントがなぜか印象深いです(説明は後で)。
他にも『どうぶつの森』におけるファミコン家具、『メイドインワリオ』のドクターワリオなど。
ゲームボーイミクロももちろん含まれます。ポケモンミニも同様ですね。
近年で言えば型落ちスマホに入っている昔のゲームアプリ(モンハンとか)もこれに含まれると思います。
黎明期のスマホ「WILLDOM 03」はこれに含まれると思いますが、
最新のiPhoneは含まれないような気がします。でもiPhoneに入っている「a-shell」「Pythonista」や
各種クリエイティブ系のゲームアプリは含まれると思います。
ただ、クリエイティブ系でもオンラインで完結するタイプはコレジャナイ感はある。


こうやって挙げてみてまず考えられるのが、
「同等の機能を持つ何か」を機能はそのままに小さくしたものが挙げられやすいということですね。
家に対する秘密基地、複数のボールペンに対する多色ボールペン、といった関係性はとても分かりやすいです。
WILLCOM 03は「ごく小さなパソコン」という認識があったからこそこれに含まれ、
iPhoneは時代的にそれ自体が代替不可能なデバイスとして確立したので含まれないのだと思います。
ゲームボーイミクロやポケモンミニなど物理的に小さいものもこの範疇に含まれます。


あとは、「同列の何かよりも著しく多機能」であるというパターンもありそうです。
『ウィザードリィ エンパイア』では最深階層である666Fに1マスだけ
座標Aに踏み込むとワープする先の座標Bも、同様に踏み込むと座標Cにワープする設定になっています。
最深階層以外にもワープする座標は数あれど重複しているのはここしかありません。
ワープポイントは踏み込んでもそのマスに移動した記録はされないためマップは穴が空いたままですが、
ワープポイントにワープした場合だけそのマスに立つことができるという仕様になっています。
そのため、ゲーム内ではこのたった1マスのだけためにワープアイコンが設定されていて、
それがすごく好きだったんですよね。これは他の大多数のマスには無い機能が含まれているからです。
(でも転移の指輪で能動的にワープしまくれば他のワープポイントもアイコンがつくかもしれない……。)


『どうぶつの森e+』のファミコン家具は実際にファミコンを遊べるという特殊な家具で、
置くだけで何もできない他の大多数の家具よりも明らかに多機能です。
『メイドインワリオ』の収録ゲームはどれも3秒で終わってしまいますが、
「ドクターワリオ」だけはファミコンの『ドクターマリオ』がほぼまるごと入っているという点で別格です。
汎用コマンドラインアプリ「a-shell」など上記に挙げた各種アプリは、
それだけで数年費やせるくらいの奥深さといろんなことに使える活用の幅広さを内包しているという点で
1サービス=1アプリの原則を守っている大多数のアプリと比べると別格です。


「小さな何かの中に多機能な何かが内包されている」というパターンもあるかも。
上に挙げた中で言うと飲み薬の計量カップがそれですね。刺繍セットなんかも当てはまるか。
iPhone 5は最新のiPhoneと比べると明らかに小さい型落ちのスマホですが、
実はその端末でモンハンが丸ごと遊べるというのは非常にこの感覚をくすぐられます。
これは前段の定義にも当てはまりますね。
もしこの定義が正しいのなら、秘密基地に多機能な何か(ラジオ等)を持ち込めばそれだけでこれが成立します。


こうしてみると、小さくて多機能と一口に言ってもいろいろな類型がありそうです。
ただ、「小さいこと」と「多機能であること」のどちらがこの価値観を形成しているのかは分かりません。
両方備わって初めて見出すものなのでしょうか。
当然ですが根源的なところでは所有欲が深く関わっていると思います。
なので自分が所有できない概念に対してこの感情を抱くことはありません。
だからクラウドで完結する概念に対しては一見当てはまりそうでも当てはまらないわけですね。


また、多機能であると書いていますが、それが必ずしも合理的だったり優れているわけではない、
というのも面白いところです。要は機能があるという事実に満足するわけですね。
飲み薬に付属する計量カップは厳密に本来の計量カップの機能を果たすわけではありませんが、
飲み薬を飲む際に活躍するという事実さえあれば満足します。


この価値観はかなり幼い頃からあって、何がきっかけだったのかが明らかになることはないでしょう。
もしかしたら日本男児の本能的な気質なのかもしれないし、自分独特の感性なのかもしれない。
まあでも、こういう価値観が好きだということはこれまでの人生で一貫しているので、
今後もこれが自分のいろいろなことに影響を与えていくのだろうと思います。


#7172

めちゃすごの出現条件

幼少時、『カービィのきらきらきっず』というスーファミのパズルゲームにハマっていた時期がありました。
もともとゲームボーイの作品で、
自分がプレイしたのはそれではなく1999年発売のスーファミ版です。
ただ当時リアルタイムで買ったかどうかは微妙なところ。
N64で遊ぶようになったのが2000年末からと記憶しているので、1999年なら時系列的に矛盾しません。
ただ、なんとなく21世紀になってからスーファミを引っ張り出して遊んでいたような気がしないでもない。
内容としてはかなりハマっていた記憶があります。
家族と毎日のように対戦モードで対戦していた思い出。
こういう「パズルでひたすら対戦」という光景は我が家では結構あって、
2003年に『ニンテンドーパズルコレクション』から2014年の『ぷよぷよテトリス』まで、
よくもまあ飽きもせず遊んでいたものです。
母親も『ドクターマリオ』が好きだったりするのでパズルが好きな家系なのかもしれません。


『カービィのきらきらきっず』は3色のパネル(リック、クー、カイン)のうち同一のものを、
2つ以上揃えると消えるというシンプルな落ちものパズルです。
2つ揃えたときに間が空いていても、
その間が「星パネル」(お邪魔パネル的な立ち位置のパネル)で埋まっていればそれも消えます。
2連鎖以上するとターン終了時に着地した瞬間に消える星パネルが降ってきて、
これによって同色パネル間が埋まってパネルが消えれば連鎖は継続となります。
あとは他のタイトルと同じで連鎖の大きさに応じて相手のフィールドを迫り上げるという仕組み。
『ぷよぷよ通』と違って相殺システムはありません。
そのため上級者同士の戦いでは攻めると同時に迫り上げられても負けないようにする立ち回りが重要です。
中央2マス以外はいくら迫り上げられても負けにならないので、
基本的には中央2マスをなるべく低くするような積み方がセオリーだと思います。


このタイトルは4段階の難易度があり、通常は「ふつう」「たいへん」「すごい」しか選べず、
それぞれで最大競り上げ段数の制限があります。確かそれぞれ3、5、7段です。
隠し要素として最上難易度の「めちゃすご」があり、こちらは段数が11段となっています。
この上限11段でバチバチに戦うのがとても面白かった記憶。
これを一度体験してしまうと7段では物足りなくなります。


ただ、1999年当時(?)はどうにかして「めちゃすご」を出現させたのですが、
一度データが消えてしまってからはその出現条件がわからず、
たまにやりたいと思って起動しても「めちゃすご」が無いのですぐやめてしまう、
といったことを繰り返していました。WiiVC版も買いましたが同様の理由で続きませんでした。


改めてネットで出現条件を調べてみると「対戦30勝」だそうで、
思ったよりめちゃすごな難易度でもないっぽい。
ただ本来の目的ではない7段制限の対戦を30回もやるのかと言われると難しいと思うので、
これは出現条件を知っていないと出せなかったかもしれませんね。
SwitchOnline版としても存在するので、気が向いたらCOMと30戦しておくのもアリかも。


ちなみに、カービィシリーズの御多分に洩れず音楽も素晴らしいです。
個人的にはデデデ戦とグリル戦の超ハイテンポなBGMが好き。
落ちものパズルとしてはマイナーな部類かもしれませんが、隠れた名作のひとつではないでしょうか。


#7173

他者を非難するための条件

今日の出来事批判の問題

ある人や文化、意見や事実を第三者の立場から叩く(非難する)ためには、
叩く側にはどのような条件があるのでしょうか。


自分は、これは「対象に関する事情について無知であること」だと思っています。
基本的に部外者がわざわざそれを非難したくなるのは、
それが自分の信念や信条、正しいと思っていることに反しているからだと思います。
その正しさをサポートする根拠(同意見の人が多い、法律等に規定されているなど)があると、
非難する行為にはより一層の正当性が与えられているように感じられます。
そして同意見の人が多ければその正義感とも言うべき感情は伝播し、
相乗効果でさらに大規模なものになっていく。
これがいわゆる炎上の仕組みなのではないかと個人的に思っています。
つまり叩く側は「叩くに値する根拠があるかどうか」が唯一のものさしであって、
しかもそのものさしは個々人の正義感、価値観、倫理観などに委ねられている。


当然、公の場では相応に客観性のあるものさしを用いるべきで、
個人的にムカついたから叩くなどということは基本的に許されません。
しかし一方でアンダーグラウンドな場所であればあるほど、それが通用することもあります。
プラットフォーム自体が小規模な底辺SNSや、誹謗中傷の聖地5ちゃんねるなどでは、
個人の思い込みを根拠にした侮辱的な書き込みはさも当然のように行われています。


そしてそれはネットを離れた人間関係においても似たようなことが言えます。
「あいつは〇〇だから気持ち悪い」みたいなことを一度思い始めてしまうと、
その〇〇が確かに道徳的にネガティブな要素を持っていたりすると、
それを明確に否定する根拠を手に入れることができないかぎりは一方的に悪感情が募っていきます。
この〇〇には、たとえば怠慢による無職、メンヘラやうつ病などの精神疾患、DVや虐待等の加害者、
迷惑系YouTuberなど反社勢力、極端なところでは犯罪者などが当てはまります。
自分も社会人3年目〜5年目くらいまではニートに対する強い偏見がありました。


その熱が随分引いたいまも、いわゆるニートに対する偏見がゼロになったわけではありません。
ただ、なぜ人は働きたくなくなるのか、働けないと思い込むのか……
といったことを考えたとき、当然ですが個々人によってさまざまな事情があるわけで、
一緒くたに叩くことは難しいという結論に行き着きます。
そして、あるニートがそれに至る事情を知ったとき、
その人を頭ごなしに叩けるのかと言われると非常に難しいものがあると思います。
これは当事者に一番近い親が何も手を出せないケースが少なくないことからも言えると思います。


事情を知らないと誰もが叩くのに、事情を知っているとそういう気にならなくなる。
これらの違いは、叩くかどうかを決めるものさしがまったく違うものになったから、
なのではないでしょうか。
あえてそれらを分類すれば、
事情を知らない公の場の意見に使われるものさしは社会のそれであって、
事情を知っているものさしは当事者のそれです。
これは、ニート問題がそうであるように結構簡単に矛盾するので、
板挟みの苦労に苛まれることも少なくないと想像します。
社会にとっては間違っていても、個人としてはこれ以上どうしようもないということはよくあること。
そのときにどういう立場を取るのが正解なのか……。
これは個々のケースにもよると思うのでなんとも言えませんが、
どちらかといえば社会のものさしを重視するのが正しいという道徳観があるような気がします。
無職やうつ病はともかく、DVや迷惑系YouTuberは直接的な被害者が存在するわけで、
そんなのを「個人の事情があるから」などと許していたら世の中めちゃくちゃになりますからね。


でも、じゃあ無職こどおじは社会に迷惑をかけていないので正しいかというと、
親に負担をかけている等、個別の事情で他者に迷惑をかけているなら当然非難されるべきだし、
まったくそういう事情も無いなら堂々としていればいいと思います。
ただ、こうして考えてみると「どこからどこまでが悪なのか」という基準は
個人が思っているよりも曖昧なんじゃないかと改めて思った次第です。
よくニュースで悪人とされる人が報道されてネットユーザーがこぞって叩きまくっているけど、
あの中には本当は叩くに値しないのに叩かれている人も少なくないんじゃないかなと。


#7174

コミュ障の本質

Instagramでこんなことが書かれた投稿が回ってきました。



本当のコミュ障は「言いたいことが出てこない人」ではなく、「言わなくていいことを黙っていられない人」です。



似たようなことを旧Twitterでも見たことがあり、結構なインプレッションを稼いでいるようです。
この主張にはまずいくつかのツッコミどころがあります。
コミュ障というのはいわゆる医学用語ではなくネットスラングを指しているものと思われますが、
その意味では前者も立派なコミュ障です。
そして後者こそがコミュ障だと言っていますが、
これは発達障害の一種であるASDのよくある症状です。いわゆる「空気が読めない」というやつ。
これがそれなりにバズるというのは、大人社会にもASD的な人が少なくないことを示唆しています。
そして自分もおそらくその一人だと思っています。それなりに寛解していますが。


これについては頭の隅にこびりついている苦い思い出があります。
20年近く前、年末年始に祖父母家へ遊びに行った際、祖母が年越しそばを作ってくれていました。
しかしそれは元日になってからだったので、
「年越しそばって年越してから食べても意味ないよ」
みたいなことを作ってくれた張本人へわざわざ言いに行った記憶があります。
祖母は「……そう」と冷めた反応を返しただけでした。
その反応を当時の自分がどう思ったのか覚えていませんが、
バカなのでもしかしたら冷たい反応をされたことに対して憤慨していたかもしれません。
これは明らかに「言わなくていいことを黙っていられなかった」という良い例です。


当時の自分は祖母に不愉快になってほしくてそんなことを言ったはずもなく、
むしろ善意からの発言だったと認識しています。
年越し前に作るのが正しいのを理解してほしかった的な。だってそれが正しいから。
しかし祖母にしてみれば今更そんなことを言われてもどうしようもないわけで、
むしろあんたらのために作ってやってるのにそんな無粋なことを言われても……
と困惑したことでしょう。
当時の自分が、そう思われるであろうことを推察する頭すら無かったのはもはや明白です。
要は筋金入りのバカだったというわけです。
コミュ障とかASDというと「本人は悪くない」というニュアンスが少なからず含まれますが、
個人的にはこの意味でのコミュ障がバカで愚かじゃなければなんなんだと思っています。


また、ASDの特徴に当てはまるというと先天的で治療不可能な病気のように思われがちですが、
「空気を読む」ということ自体はそれなりに高度なコミュニケーションスキルであり、
定型発達でもコミュニケーションの場数を踏んでこなければ身につけるのは難しいと思います
(それを「定型発達」と言い切れるかどうかについてはなんとも言えませんが)。
たとえば毒親だったりイジメだったりで思春期にネガティブな経験を多くしてきて
結果的に人間不信になれば、この手のスキルを磨くのは
本人の能力にかかわらず結構難しくなるんじゃないでしょうか。
自分も思春期は相当に強い承認欲求不満があって他人を思いやる余裕なんてありませんでした。
コミュニケーションスキルの経験値が溜まってきた実感を得られたのは社会人になってからで、
とりわけここ数年の上京以降の経験を経てようやく人並みになった感があります。
話すことを考えながら同時に相手の目線でどう受け取られるかを考えるだけの余裕を
意識的に持てるようになりました。
2021年以前もそういうことは一部の人(仕事の同僚や異性など)にはできていたと思いますが、
誰に対してもそれをしようと心がけていたかと言われると怪しいところがあります。


こういうことは、ある程度信頼関係のある相手と
コミュニケーションを積み重ねていかないと身につかない部分も多いのではないかと思います。
しかし無粋なことばかり言う人はそもそも誰かと信頼関係を築くこと自体が困難でしょうから、
結局なにひとつスキルアップしないまま年齢だけ重ねていく恐れがあります。
でも、社会はある程度の年齢になればそれは身につけて当たり前と言い、
身につけていない人は面接などの社会のシステムによって容赦なく淘汰されていきます。
職業訓練や義務教育のカリキュラムにあるなら本人のせいと言うこともできますが、
そういう制度も無いのに(もしかしたら2023年現在はあるのかもしれませんが)
一方的に社会から弾かれるのは理不尽のような気がしなくもない。
これって何気に人によっては深刻な現代社会の闇のような気がするんですが、どうなんでしょうか。


#7175

現実逃避手段としての整理作業

今日の出来事大学時代

いま思えば、大学時代の自分は非生産的なことばかりやろうとしていたように思います。
確かに何か企画を考えてクリエイトしようと頑張っていた時期もないわけではないけれども、
全体からするとそうでない作業の方がかなり多いイメージ。
いまは非合理的なことは最初からやらないというスタイルが定着して久しいので、
逆に大学時代の頃が新鮮に感じられなくもないです。


非合理的な作業、と言い切ってしまうのも語弊があって、必要でやっていると言えばそうです。
有意義といえば有意義なのかもしれない。でも、他にもっと大切なことあるよね、というもの。
その代表例が整理やどうでもいいリストを作るような作業です。
PCの中身を再編成しようとか、ブログの文字数統計を作ろうとか。
現在その中で唯一続いている「音楽再生数統計」も大学時代初期に生まれた定期タスクです。
とにかく当時の自分は、何かを整理し、一覧化することに余念がありませんでした。
なぜか?
そうしたかったからというのもまあ間違いではないでしょうが、
いまの自分に言わせれば、それは「本当に重要なタスクからの逃避手段」だったと思います。
当時の自分にとって就活と卒業論文、あるいは社会経験としてのアルバイトは最重要課題でした。
それと比べれば整理作業や一覧化作業というのは優先度に天と地ほどの差があります。
さらに、その中間にはよりクリエイティブなタスクが待ち受けていましたが、
これらが大学時代に対して芽が出なかったのも結局整理系作業を優先していたのが一因です。


当時の自分もさすがに、整理系作業より就活の方が大事であることはわかっていたはず。
それを十分承知してはいるけれども、就活やその他諸々はどうしても勇気が出ないからやりたくない。
これは精神的に弱かったというのも当然ありますが、
睡眠障害によって常に意識が朦朧として「まともに物事を考える」ということ自体が難しかったため、
そもそも重要課題に取り組められるような状況では無かったというのもあります。
これは大学時代最大の障壁と言っても過言ではないのですが、なかなか理解され難いところでしょう。
とはいえ「何もしない」ではいかにも逃げているようだから、
せめてそのどん底の最底辺に陥らないために自己満足作業に打ち込んでいたのではないかと。
自分は肩書き上は引きこもりニートになったことはありませんが、
大学時代の精神はほとんどそれに近い状態に陥っていたのではないかと思います。
以前、大学なんて行く意味が無かった高卒後すぐ就職していればもっと良いキャリアを作れたのに、
などと後悔する記事を書きましたが、
ぶっちゃけ高卒の段階の精神で社会に無理やり出たところで、
普通に引きこもっていたのではないかと思います。
そういう意味では、
高い学費を払って大学に行ったのは無限に続く無職の泥沼を回避するだけの価値はあったのかも。


嫌なことから逃げ続けている状態というのは、自分がそれと向き合うまで終わることがありません。
大学時代は4年というリミットがあったから、いつか向き合わざるを得なかっただけマシでしょう。
高卒後に就活するという名目で実家暮らしを始めたらそれは実質無期限なわけで、
自分自身に覚悟が芽生えなければ何年でも何十年でも同じように逃げ続ける毎日が続いてしまう。
「無職とは夏休み最後の日を一生繰り返すようなもの」とはよく言ったものです。
いまでこそ上京して自活している自分ですが、
大学時代の自分のクズっぷりを鑑みると結構紙一重だったんじゃないかと改めて思います。


ちなみに就活については結局4年で結果が出ずに大学院に持ち越し、
そこで今度は修士論文という新たな課題に精神を破壊されて延長2年もフイにしてしまい、
実は卒業直後の04月はまさに上述の泥沼にまさに片足突っ込んだところでした。
あのまま何も無かったら「院卒ニート」というクズの中のクズが生まれていたことでしょう。
そこからどうにか抜け出したのは2013年04月17日にNintendo Directが放送され、
そこで『ピクミン3』の発売日が明らかにされたからです。
07月13日発売なのでいまからでも働かないとWii U本体を調達する資金を用意できなかったんです。
ただそれだけの理由ですが、そうやってリミットを与えてくれたおかげでいまの自分があります。
こう考えると自分の人生はピクミンに助けられてばかりだなと。


#7176

謎の貧血

今日の出来事体調不良

謎の息苦しさを感じたので困っていたのですが、
AI診断などを活用してみるかぎりでは、どうも貧血らしい。
猛暑で発汗が非常に多くなると鉄分が不足して貧血になるケースがあるそうで、おそらくこれかと。
頭に血が行っていないような感じがするほか、手先がちょっと冷たい感覚があります。
やっかいなのは頭に血が行かないので集中力が持たないことです。
わりと頻繁に意識を持っていかれそうになる感覚に陥り作業どころではなくなります。
「意識を失いそうな気がする」だけで実際に意識を失うことはないのですが、
だとしても車の運転などは絶対やらない方がいいだろうなと思います。
まあ、上京してから一度たりとも車に乗る機会は無いのでその心配も無いんですけどね。
にしても貧血に陥ったのは初めてなので、こういう感覚なんだと改めて思いました。


そして、こういう明確な体調不良に陥ることで明らかにパフォーマンスが落ちるわけですが、
これによって非常にイライラしやすくなるというのを改めて実感します。
体調が正常ならイライラしないようなことに対してことあるごとにイライラしている自分がいる。
結局イライラする感情というのは体調に左右されるものなんだなと。
なのでここ最近イライラすることが無かったのはそれだけ健康に恵まれていたのだと思うし、
逆に胃潰瘍一歩手前まで追い詰められていた大学院時代なんかは
抱えていた問題の大きさ以前に、そもそも体調が悪かったのでしょう。


大学時代と現在の大きな違いは食事を外食に依存するか否かだと思っています。
大学時代の食費は高くても40,000円くらい、場合によっては30,000円を切っていたくらいでした。
これは当時の金銭的事情からそれ以上使うわけにいかなかったからです。
なので当時はレトルトパウチと実家から送られてきた米だけで凌ぐ日も少なくなく、
基本的に最寄りのスーパーに全面依存する生活でした。
コンビニすら贅沢という認識だったと思います。


いまは昼夜はほぼ外食で、毎食1,000円はかかるのでコーヒー代含めると月90,000円以上は行きます。
3倍近くになってしまっている食費に負担を感じることがないわけではないのですが、
いまさらレトルト生活に戻ったらパフォーマンスがめちゃくちゃ落ちるのは間違いないので、
もはやこれは生活維持のためのコストと割り切っています。
自炊すりゃいいじゃんという指摘もあるかもしれませんが、
独身男の自炊ほどタイムパフォーマンスが悪い行為も無いと自分は考えています。
スーパーで食材をしっかり揃えようとすると結局それなりにお金もかかりますしね。


ただ、今回はそこまでコストを払っていながら貧血になってしまったのはかなり痛手です。
鉄分不足ということが判明したので貧血用の市販薬を買ってきましたが、
長引くなら通院も視野に入れなければならないかもしれません。


#7177

現実逃避としての創作設定

今日の出来事創作計画

19年前のブログ開設直前からあるにもかかわらず、ほぼ進んでいないプロジェクトがあります。
それは「創作」。具体的には、2004年時点で頭の中に描いていた創作世界設定の具現化。
どうやって具体化するかについては時代ごとに移り変わっていて、
2006年前後は小説にすることを想定していたようです。
これはいちおう大キリ番記事によって脈々と受け継いでいると言えばそうなのですが、
いまとなっては小説という形をゴールにするのが妥当とはもはや思っていません。
しかし、いまはそんなことよりも19年という年月をかけて全然進んでいないことの方が深刻です。


厨二病の延長線上として生み出したものであることは否定できず、
大人になってしまったいま、そもそも具現化できるかどうか怪しいということもありますが、
いまのところ完全に諦めるという気持ちもありません。
なにしろこの創作世界設定は「自分の好きなものの集大成」ということになっていて重要度が高く、
安易な気持ちで諦めるというのは過去の自分への裏切りになるからです。
今後も優先度は非常に低いもののライフワークとして細々と続けていくことになるんじゃないかと思います。
創作活動の問題は、まさにその優先度の低さ。
なんと言ったって他人に見てもらう余地が皆無なので、モチベーションを得られない。
となるとどう考えても他者との関わりがある他の活動に優先度の点で勝ることができず、
めちゃくちゃ手持ち無沙汰で暇なときくらいしか進まないという実情があります。


あとこれは改善の余地がある考え方なのですが、創作はいわば自分にとっての「聖域」であり、
襟を正さなければその世界に入ってはいけない(=着手できない)という風習?があります。
これはつまり、現実でやるべきことをやっていない後ろめたいようなことがある場合は、
そのような状況の自分は創作について考えるのに相応しくない、と考えていたわけですね。
この変なプライドが創作関係の進行を相当妨げてきたという歴史があります。


また、創作(の世界設定などと向き合うこと)が捗るのは往々にして気持ちが沈んでいるとき、
つまり現実逃避手段として考えてきた傾向があります。
これは上記のプライドの問題とはまた別の心理的な問題で、両者は一見して矛盾するようにも見え、
結果的に創作をさらに停滞させる要因にもなっていると思います。
両者の条件をかいくぐれるのは例えば昼夜逆転しているようなとき。
その場においては唯一最大の「やるべきこと」が起き続けることであり、
なおかつ眠れない夜というのは現実逃避をするのにうってつけのシチュエーションです。
これは大学生活でよくありました。
だから創作の世界観もいまのところ大学時代の思考が反映されていることが多い。


結局、創作は着手するためのトリガーが複雑なため特に社会人になってからなおさら進みづらくなり、
具体的なタスクは何一つ進まないまま19年という歳月を過ごしてしまっている現状があります。
創作世界設定用のパーソナルWikiを作るとか、Stable Diffusionで世界観を反映した絵を生成するとか、
いまからでもできそうなタスクはいろいろあるとは思うんですけどね。


この辺も今後は意識を少しでも変えて、一歩ずつ進めていけるようにしていきたいところです。
着手条件になっている「現実逃避」も「聖域」としての立ち位置も両方否定していきたい。
年間計画のように普通に一般タスクとして取り扱っていけるようにしたいところです。
さすがに作業的な積み重ねが皆無のまま、かといって諦めるわけでもないというのは不毛すぎる。


#7178

ICPのミートアップに参加

今日の出来事暗号資産

「サトシ・ナカモト」なる人物によって生み出されたビットコインは、
ブロックチェーンという理論上改竄不可能な新しいデジタルネットワークを生み出しました。
ただしこれはいまとなってはブロックチェーンの中では原始的なもので、
次世代ブロックチェーンと言われているのがイーサリアム。
これはブロックチェーン内部でプログラムの実行を可能にし、
これを基礎とするさまざまなWeb3サービスが生まれつつあります。


そして、それよりもさらに発展させたのが「Internet Computer Protocol」と呼ばれるものです。
これはノードとなる物理サーバーを限定することで処理を大幅に高速化し、
イーサリアムを凌駕するほどのコストパフォーマンスを実現しています。
実際にICを使ったフルオンチェーンサービスもちらほら出てきています。
ただ、現状はまだWeb2(ここではAWSなど従来型のサーバーを指します)には勝てそうになく、
ロード時間がかなりかかりますが、とりあえずそれっぽいWebサービスならすでに作れます。


ICPは自分が仮想通貨を知って間もないころにBinanceに上場し、それ以来自分の中では最推し銘柄です。
ただ、一時期数千ドルだったトークン価格は現在では100分の1になってしまっており、
投資対象としてはお先真っ暗と言わざるを得ませんが……。
なので投機対象としての注目度は非常に低く、知名度もイーサリアムの足元にも及びません。
ただ、日本にもちらほら熱心なファンはいるようで、
このたび日本で初めて公式のミートアップが開催されるとのことで竹芝の会場まで足を運んできました。


すごいと思ったのが、ICではキャニスターがキャニスターを作れるという点ですね。
ICのブロックチェーンでは、WebAssemblyというプログラミング言語にコンパイルされたコンテナによって
さまざまなプログラムを実行できるようになっています。
これは従来で言うjavascriptのようにWeb上で簡単に実行でき環境に依存しません。
このコンテナのことを「キャニスター」と呼び、
ICではキャニスターごとにユニークな番地が割り振られています。
従来のインターネットでいうURLみたいなもの、と考えればわかりやすいかもしれません。


キャニスターはWebサイトをホストしたり、NFTに割り振られたりとさまざまな大きさで存在します。
そして今回のミートアップで知ったキャニスターはキャニスターを作ることができるという点。
これはAIと組み合わせて考えると既存とは一線を画するサービスを作れそうなポテンシャルを感じる機能です。
まあNFTマーケットプレイスのようなサービスを成り立たせている時点で
当たり前と言えば当たり前の機能ではあるのですが。


さらに突き詰めると、ICはキャニスター間で相互干渉できる仕組みがあるのではないでしょうか。
だからこそ特定サービス(キャニスターA)から各個人のウォレット(キャニスターB)へ
仮想通貨のエアドロップなどを実現することができるわけで。
これは作った企業関係なく中立かつセーフティな形でWebサービスを共通化できることを意味します。
従来ならサービスごとにIDとパスワードを用意するのが当たり前だったのが一元管理できたり、
YouTubeとTwitterのようなサービスをシームレスに連携できるようにしたり。
それはビッグテックの作ったインフラだけでなく、個人が作ったサービスにも同じことが言えます。
要はいまでいうAPIのようなものがより汎用的に応用できるような感じになるのではないでしょうか。


Web3という造語にはいままで正直ピンと来ていませんでしたが、
ICは確かにそのキーワードを実現するポテンシャルを秘めているように感じました。
もちろん競合プロジェクトも多くあり(MATIC、SOL、COSMOSなどなど)、
将来的にどれが生き残るかはなんとも言えません。
ただ、個人的にはICはこれからも応援していきたいと思うし、
黎明期以前のこの段階で関われたことは光栄に思っています。


#7179

Pixivの劣化について考える

今日の出来事ネット文化

特定の分野を独占しているようなwebサービスの運営期間が長くなってくると、
なぜかどんどん改悪してユーザーにとって使いにくくなっていくのはよくあることです。
競合相手不在による運営の怠慢なのか、ユーザーが増えすぎて対処しきれなくなるのか、
原因は定かではないですが、改悪するケースがかなり多いのは確か。
GAFAの主力サービスだってここ数年で改悪されたとよく言われますしね。


'00年代からイラスト投稿サイトとして続いている「pixiv」もそのひとつです。
pixivはその性質上、同人活動のプラットフォームとして機能している側面もあり、
それは昔からいまも変わっていません。漫画家の卵が作品を投稿していたり、
イラストレーターを目指すユーザーが練習絵をアップしていたりします。
クリエイター側から見て重要なのは言わずもがなですが、
それは利用者側から見て作品がタグによってまとめられるため、
特定クラスタの作品を探しやすい、ひいては推しのクリエイターを見つけやすい側面もあります。
近年は旧Twitterをメインの活動場にしているクリエイターは多いですが、
そういう人たちもpixivにも同時投稿するという人は多いように思います。


こうなるとpixivは特定キャラクターの作品を探す場所としてうってつけ……と思うじゃないですか。
実はこれは半分正しくて半分間違っています。
半分合っているというのは、プレミアム会員になれば確かにタグベースでの検索は機能します。
逆に言えば、課金しなければそういう用途では使えないということです。
どういうことなのか。


pixivでは、検索結果は常に「投稿が新しい順」で表示されます。古い順でもいちおうできます。
しかし時系列によるソートはほとんど意味がありません。
なぜなら投稿者の中には悪意の有無はさておき、
とんでもなくヘタクソな絵をアップする人が少なくないからです。むしろ圧倒的多数派です。
その低クオリティで精一杯なのか、人を不快にしようとしてアップしているのか、
投稿者の思惑は分かりませんが、いずれにしろ見る側はそんなのは見たくないわけです。
しかし、「いいねの多い順」等はプレミアム会員しか使えないので、
結局低クオリティの落書きを「見ないようにする」ということは無料の範囲ではできません。
(ちなみに単純な「いいねの多い順」はそれはそれで18禁絵だらけになってしまっているので、
pixivプレミアムの設定では「女子のいいねの多い順」でソートすることもできる)


いちおう、スパム対策にミュート機能というものもあります。
これを使えば特定ユーザーの投稿を非表示にできるというものです。
それならせめて、不愉快なユーザーを片っ端からミュートすれば平和になる……と思いきや、
なんとこれもプレミアム限定なんです。ここが一番腑に落ちない。
正確には無料ユーザーでも1人まではミュートできますが、もはや何の意味もありません。
運営はスパムまがいな不愉快な絵を投稿する人を擁護する立場なんでしょうか。


一所懸命に描いた上でクオリティが及ばない作品に不快感を感じることなど無いのですが、
pixivというのは性癖の博覧会みたいな側面もあり、
理解し難い特殊性癖の絵を恥ずかしげもなく全年齢指定で投稿する人も少なくありません。
特に近年は海外勢(英語圏)のユーザーにその傾向が強い。
ちょっと精神的にヤバい人なのか、
同じような構図のアブノーマルなヘタクソ絵をとんでもない数投稿しているんですよね。
Stable Diffusionで生成したわけでもなさそうなので全部手描きしているのでしょう。
しかもそういうユーザーが特定キャラクターのタグの検索結果に何人もいる。
最悪の場合、そういう投稿がほとんど占拠してしまっているようなタグもあります。
運営はこれらをセンシティブコンテンツ扱いしないどころかミュートさえさせないという。
なんでそういう方針にしてしまったのか理解しがたいです。
これのせいで好きなキャラクターの絵を探すことを諦めた人は多いのではないでしょうか。
閲覧者側が不快な気持ちになって去っていくだけで済むならともかく、
それは結局真面目に同人活動している側がファンを獲得する機会を減らしていることでもあり、
結構深刻な問題なのではないかと思います。
ある程度ファンを獲得した人は旧Twitterに移動するなどすれば対処できるかもしれませんが、
駆け出しの絵師なんかにとっては黎明期と比べると厳しい環境なのではないかと。


うーん、でもここまで書いておいてなんだけど
これって本質的には運営というよりも投稿者が全面的に悪いような気がする。
冒頭で長期運営しているサービスは改悪する傾向があると書きましたが、
Google検索の悪質サイト問題やAmazonのサクラ問題だって
サービスを悪いことに使っている人が消えればなんの問題もないわけですからね。
単にネットの治安が悪くなったというだけの話なのかも。
とはいえGoogle検索から悪質サイトを完全に締め出すのは結構難しそうです。
その点、Pixivはまだ対処が簡単な方のはずなので頑張ってほしいところ。
5いいね以上の作品のみ表示する、海外の投稿を非表示にする等やり方はいろいろあるはず。
試しにポケモントレーナーのリーフちゃんで検索して新しい順に80ページほど遡ったところ、
2016年以前は海外からのアブノーマルな投稿がまったく存在しないことが判明しました。
逆に2017年以降は完全に地獄です。この頃に何か転機があったのでしょうか……。


#7180

光沢タイプの保護ガラス

先日iPhoneを十数年ぶりに光沢タイプのフィルタに貼り替えたら
めちゃくちゃ画質が良くなったので、今度はiPadも同じように光沢タイプにしてみました。
iPadはやっぱり貼り替えが難しいですね。
貼り替えたことで画質は良くなったように思いますが、iPhoneほどではない感じ。
うーん、これなら映り込み防止を優先してノングレアフィルタの方がいい気がしなくもない。
光沢タイプだと指紋の跡がベタベタつくのも悩みどころです。


iPadのフィルタに関してはもうひとつ悩みがあって、それはキーボードの跡もつくんですよね。
キーボード一体型カバーのキーボードは閉じた際に画面と接するので、
キーの端っこなど鋭利な部分が画面フィルタを削ってしまうんです。
これのせいで前のノングレアフィルタはキズだらけでした。
光沢タイプのガラスフィルムだとそういうキズが目立たないのは良いことですが、
それだけのために光沢タイプを選ぶのも悩みどころです。


そもそもキーボード一体型ケースはそれなりに重いです。iPadと同じくらいの重さはありそう。
なのでミニPCとして机に置いてキーを叩くような運用なら問題になりませんが、
タブレットとして使う場合を想定すると無駄に重すぎるという欠点もあります。
軽くて取り回しの利便性が高いからiPadを選ぶのであって、
重量を問わないならMacbookを使えばいいじゃんという話になるわけで。


それらの事情を考えると、
キーボードの無い普通のカバーとノングレアフィルムを改めて買うのが現状ベターだろうか。
長文執筆作業をすぐにできなくなるという欠点が生まれますが、
そういうシーンはたいてい事前準備ができるので、そのときだけキーボードを用意すればOK。
最悪、iPadのソフトウェアキーボードでも長文執筆はできなくもないです。
こないだそれでブログ記事を1本書き上げられたので間違いない。
むしろこれを積極的に利用してマスターすればキーボードを持ち運ぶ必要も無くなって良さそう。
意外とハードウェアキーボードとの速度差も出ないです。ただミスタッチが多いかな。


自分はミニPCという端末自体が好きというフェチを持っているので、
そういう性格上やっぱりどうしてもキーボードつきの方を優先したくなってしまいます。
しかし、思えばiPad Airの頃からキーボード一体型カバーを試してはすぐ外す、
ということをなんだかんだで繰り返している気がする。
iPadにそういう使い方は適していないということなんでしょうかねえ。
そういう意味では、iPadとは別にポメラみたいな端末を買えば
ミニPC欲を良い感じに満たしつつ良い感じの棲み分けができるのかもしれない。


#7181

第二次世界大戦への興味

今日の出来事日本史

終戦記念日、ということで何気なく第二次世界大戦のことについて調べていました。
小中学校時代に習ったことなんてとっくに忘れてしまっていたのですが、
改めて原爆投下について知るとなんとも言えない気持ちになります。


戦争の最終盤だった1945年当時、日本が降伏を勧めるポツダム宣言を受理しなかったことで、
08月06日に広島へ、08月08日に長崎へ、それぞれ原爆が投下されて街は崩壊しました。
それによって日本政府は改めて降伏することを認め、08月15日に昭和天皇の声明によって終戦。
実はこのうち2発目は当初長崎ではなく小倉市(現在の北九州市)に投下される予定だったものの、
小倉上空は視界が悪かったので急遽長崎に変更されたというのは有名な話です。
ちなみに、長崎の次の候補は新潟市でした。


ではなぜ、広島に続いて長崎にも投下する必要があったのか?
一説では、ポツダム宣言の時点でアメリカは日本が受理しないことを見越していたようで、
この時点で原爆を投下することは決まっていました。
ポツダム宣言を出したのは、原爆投下によってアメリカが世界に非難された際に
日本が受理しなかったせいで原爆が投下されたと言い訳する余地を残したかったからだそうです。
また、2発投下したのはそれぞれの性能比較をしたかったから。
広島に投下した「リトルボーイ」はいわば従来型のウラン爆弾であるのに対し、
長崎に投下した「ファットマン」はポツダム宣言の直前にアメリカが開発に成功した、
当時の最新型(プルトニウム爆弾)でした。
アメリカとしては戦後世界を牛耳るには今後ソビエト連邦との対立は避けられないと考えていたため、
そのソ連にわが国で開発した最新兵器を誇示しておきたい。そんな思惑があったそうです。
だからこそ、ファットマンは山々に囲まれてそこまでの大被害とならない長崎が選ばれました
(他にも戦艦を製造する重要都市だったから、米軍捕虜がいないから等諸説あり)。
また、日本統治を見越していたからこそ、東京などの都市圏や文化財が多くある京都などは
日本国民の対米感情を刺激しすぎないようにあえて候補から外していたと言われています
(東京はそれとは別に東京大空襲の焼夷弾によってそれなりの被害を受けているわけですが)。


そういうわけで、世界で最初の原爆投下は市民の命を使った壮大な比較実験だったわけです。
こう考えるとつくづくとんでもない話ですね。
これを機に第二次世界大戦のことはもっと知っておいた方がいいのかもと改めて思いました。


#7182

YUKI「長い夢」の制作背景

今日の出来事j-pop

コンシューマーゲームに次いで長い趣味として音楽を聴くことがありますが、
自分の好きなジャンルはかなり偏っていて、
単に「音楽好き」というと邦楽しか聴かない人とは話が噛み合わなかったりします。
しかしだからといって洋楽に詳しいわけでもなく、自分の専門は自分でもよくわかりません。
まあにわかといったところでしょうか。
昔はエレクトロニカはまあ聴き込んでいると自称してもいいだろうと自負していましたが、
このジャンルも世界が広すぎて……。


というわけで一般的に音楽好きと言えば連想するような邦楽はあまり聴かない自分ですが、
2004〜2006年ごろのJ-POPに関しては唯一の例外です。
ブログでは何度か説明していますが、
これはブログ黎明期の2004年冬、
当時家が近かった中学時代からの友人と一緒にその親の車に乗せてもらって登校した日、
たまたま車のラジオから流れてきたのが
JUDY AND MARYの元ボーカルであるYUKIの新曲、『JOY』でした。
当時の自分はこれにいたく感動した記憶があります。
なんでそこまで感動したのかについては、単純に楽曲が良かったからというのもありますが、
ゲーム音楽しか知らなかった当時の自分にとっては、
当時から(今も)ゲーム音楽の最高峰と認識していた『Stickerbush Symphony』に
どことなくバックグラウンドの雰囲気が似ていたのも大きいかもしれません。


翌2005年、その出来事をきっかけに猛烈にラジオが欲しくなりSONY製のポータブルラジオを購入。
それから高校卒業と同時に地元を離れるまで、下校時に「FM PORT」を聴くのが日課になりました。
それを通じて当時最新のJ-POPを聴く機会が多かったので、
高校時代にリリースされたJ-POPだけはいまだによく聴くし、好きな曲が多いです。


そういうわけでYUKIをきっかけにラジオを聴くようになり、当然YUKIの新曲は楽しみにしていました。
そして待ちに待ってリリースされた新曲が『長い夢』という曲でした。
当時の自分は『JOY』は越えられないけどまあまあ良曲、というような位置付けでしたが、
いまはもしかすると『長い夢』の方が好きかもしれません。


実はこの曲には悲しい制作背景があります。
YUKIには当時もうすぐ2歳になる長男がいたのですが、
『長い夢』が完成した直後のある日の朝、突然亡くなっていたそうです。
前日まで何事もなく元気だったということなので、その悲しみたるや想像を絶します。
悲しみに暮れたYUKIはすでに完成していた『長い夢』の歌詞を大幅に書き直し、
タイトルも当初は『バイバイ』にしたそうですが、
それではあまりにも直接的に長男の死を想起させるということで変更になったそうです。


こうした背景に基づいて改めて楽曲を聴いてみると、メロディーはとても明るくてアップテンポで、
歌詞の多くはそれに呼応するようにメルヘンチックになっています(PVもそんな雰囲気)。
しかし、ところどころに最愛の息子の死を表現している箇所があり、
メルヘンチックでアップテンポなんだけどやっぱりこれはそのことを歌った歌なんだ、
ということに気付かされます。
気づいた上で改めてそのメルヘンチックな部分を聴いてみると、
それもまた息子の死を受け入れられないYUKIの悲しみが表現されているようでとても切なくなります。


ファンによるとこの『長い夢』前後の出来事をYUKIはしばらく受け入れられず、
その悲しみによって2年間ほどは歌詞に自分自身を登場させないことで心を閉ざしていたそうで、
その間にリリースされた曲はキャリア全体からすると異質なほどメルヘンチックに寄っています
(『ふがいないや』『ドラマチック』『星屑サンセット』など)。


そういう背景を踏まえると、やはり当時はとてつもない悲しみの中で書き切った曲なんだなと。
でも、だからと言って馬鹿正直にしんみりした楽曲になっているわけではない、
むしろめちゃくちゃ明るい曲に仕上がっているのがすごい。
そういう点で、なんというかシンガーソングライターの矜持を感じられる楽曲として、
自分の中では殿堂入りの音楽になっています。


#7183

お金が要らない人の就職必要性

なぜ仕事をするのかについては最初の会社を辞めたときから度々考えていますが、
自分の中ですっぽりと腑に落ちるような結論にはまだ辿り着いていません。
2019年時点では「仕事をしたいから仕事をする」というのが結論のような気がしていましたが、
当時の夢を叶えて上京しwebエンジニアになったいま、
仕事にそこまでの魅力を感じているかというとそうでもありません。
「無給でもやるのか」と言われたらやっぱりやらないと思います。
つまり、お金のためにやっているという側面を否定することはできていません。
まあ、それはそれで当たり前のことだとは思いますが。


じゃあ、仕事とはお金のためにやることなのか。これは当然「YES」が答えとなります。
それでは、お金に困っていなかったら仕事をする必要は無いのか。
これは意外と難しい問題です。
社会的地位を捨ててある意味後ろめたい存在になる代わりに、圧倒的な時間を得ることができる。
この時代、お金をかけなくても時間さえあればできることは無数にあります。
仕事をしている人よりも無職の方が精力的に活動しているケースもザラにあるでしょう。
その意味で、仕事とは活動という枠組みの一形態でしかないという見方もありえます。
「後ろめたい存在」と軽率なことを書きましたが、
働かなくても生活が満たされていて、生涯独身を受け入れていて、実家が裕福で、
かつ両親が死んで年金が打ち止めになってからも遺産で十分食っていけるのであれば、
それはもう他人が「働け」というのはむしろ野暮だと思います。
ただ、この社会でおそらくそういうケースはかなりまれなのではないかと思っていますが。


5ちゃんねるなどの匿名コミュニティにいる自称底辺がよく言っているのが、
「親が死んだら生活の見通しは立たなくなるが、
そうしたら自殺するか生活保護を受給するから別にいい」
というような主張です。
将来生活保護制度がまともに存続しているのかどうかはさておき、
こういう意見は本質的には問題の先送りをしているにすぎないわけですが、
一方で「無収入でも満足しているので働く意味が無い」という宣言にも聞こえます。
事実お金が無くても生活できているのでこれは「働かざるをえない状態」ではありません。
しかしだからといって仕事をしない方が本人にとって良いのかと言われると、それも違う気がする。
本人が知らない範疇を含めれば、間違いなく安定収入のある生活の方が豊かになる可能性は高いはず。
もちろん、それと対価に差し出す「労働力」「時間」によって生活が壊れる可能性もあるわけで、
往々にして生活保護を希望するような人は
能力的な問題で最低限の仕事さえできないことを自覚しているからこそ、
あえてショーウィンドウの向こう側を見ないようにしている部分もあると思います。
そういう人にまだ知らない裕福な生活を教えるのは残酷なのかもしれません。


ただ、もし健康で体力もあって働けるのであれば、それはやっぱり働いた方がいいのかなと。
世間体とかそういうことをベースに考えるといろいろややこしくなるこの問題ですが、
なんだかんだで適正の仕事に就くというのはコスパが良いと思います。
少なくとも向いていないのにYouTuberになったりポイ活に精を出すよりはマシでしょう。
だから働くのも世間体とか抜きにして、1年働いたらドライブ旅行用のクルマを買いたいとか、
冬ボナでめちゃくちゃ高級なヘッドホンを買いたいとか、そういう動機でいいと思うんです。
預貯金が十分あるのとそうではないのでは、思っている以上に生活の質が変わってくると思います。
ただただ基本無料コンテンツを漁る日々は本人にとっては毎日新鮮かもしれませんが、
お金を出して何かを手に入れる充足感にはかなわないのではないかと思います。
これはすでに働いている社会人も同じで、
生活できているからこれ以上は要らない、ではなく昇給はどんどん求めていっていいと思います。
そうしたら絶対に生活の質は上がるわけですから。
社会人がそうやって欲望に正直になってこそ経済も健全に回るというものです。


なんというか、もっと欲望に正直になってもいいのではないかと思う今日この頃です。
あたかもお金を使わないことを美徳とするような価値観は間違っていると自分は思います。
その辺がうすぼんやりしているからこそ、働く意義を見出せないのかもなと。


#7184

広告ブロックの現状

今日の出来事webブラウザ

広告フィルター、使っていますか。
自分はMac/PCのwebブラウザでは「uBlock Origin」というプラグインを、
iPhoneでは「NextDNS」というDNSフィルターを使っています。
個別プラットフォームではYouTubeのみどうしようもないのでサブスク登録しています。
Twitterに関してはメインアカウントはリストしか見ておらず、
リストには広告が表示されない仕様なので完全に広告とは無縁の使い方になっています。
ただし、サブアカウントはおすすめタイムラインを閲覧する関係で広告が出てくるため、
基本的に出てくるたびに「興味ない」ボタンを押しています。
前にも書きましたがInstagramに関しては広告の品質が良いため許容しています。


これで日常生活のほとんどは広告とは無縁のインターネットサーフィンを実現できます。
まれに広告フィルタが動いていると正常動作しないようなサイトに遭遇しますが、
その場合はそれだけプライベートモードで開き直せば特に問題なし。
iPhoneは端末の通信まるごとNextDNSを噛ませているので、
広告チェックに厳しい一部のアプリが動かなくなることがあります。
具体的には「SportsBull」などの無料動画配信サービスや
広告動画を見てポイントゲットと言った類のポイ活サービスですね。
後者はまず縁が無いのでいいのですが、
前者は甲子園シーズンでのみ使うのでその際はDNSを切っています。


こうした一部の例外を除けば、ほとんどの広告を排除することができています。
それゆえに、たまにDNSフィルタを解除したままうっかりwebブラウザを開いてしまったりすると、
圧倒的な広告の占有率に驚かされますね。昨今のネットはここまで無法地帯だったんだなと。
個人ブログや、最近専用ブラウザのサポートを失った5ちゃんねるなんかもひどいです。
もう画面のほとんどが広告で埋め尽くされていてめちゃくちゃの一言に尽きますね。
そんなんだから広告フィルタを外せないだよなあ……。


YouTubeは円安進行でいつの間にか月額1,500円くらいになってしまっており、
そこまで動画を見る機会が無い自分にとっては正直コスパは悪いです。
よく言われることですが、YouTube Musicなどの包括的なサービスなんて要らないから、
広告排除だけを独立してせめて980円くらいのサブスクにしてくれと思います。
YouTubeは広告フィルターによる減収を重く見ており、
最近は最新技術で絶対にスキップできない動画広告を再生するようにもしているらしいです。
それでInstagramみたいにそれなりのクオリティなら良いものの、
平然とアダルトコンテンツが流れたりしているみたいなので反発は強いでしょうね。
でも広告の審査を厳しくしたらそれはそれで収入減になるだろうしどうしようもないんだろうなぁ。


いつからかネットの世界はEUによる独断でCookieを扱う場合にユーザーの許可が必要になり、
Cookieを許可するかどうかというポップアップが全世界のサイトに搭載されるようになりました。
また、再来年からはEUで扱うモバイル機器はUSB-Cコネクタの搭載が義務になります。
EUごときがなんでこんな権限を持っているのか、その辺の力関係は知りませんが、
広告についてもいずれこういう巨大な組織が主導して
全世界で「フィルタは違法!」という流れに持っていくような気がしてなりません。


#7185

Minecraftのジレンマ

今日の出来事minecraft

2021年以来、定期的にマイクラやりたい欲がポツポツと湧き出てくるのですが、
結局ガッツリプレイするには至らないということを繰り返しています。
いったい、マイクラの何が自分を惹きつけるのだろうか。
そしてどうやらその「惹きつける何か」は引力が若干弱いようです。


今年ついにエンダードラゴン討伐という表向き最大の目的を達成してしまったマイクラ。
しかし他にもやることは結構あり、エンダードラゴンのその先のフィールドはもちろん、
実装以来行きたいと思いつつも準備のハードルが高くてなかなか手がでない海底神殿、
強さではエンダードラゴンを超えるとされる「ウォーデン」の住むエリアで入手できるとされる
音波に反応するレッドストーン装置の入手、そして実績の解除などなど、まだコンテンツはあります。
要は、エンダードラゴンを倒したら終わりというわけではないと。


にもかかわらずなかなか手が出ないのは一緒にやる相手がいないというのもありますが、
そもそも残りのコンテンツがエンダードラゴンほどのインパクトに欠ける、
というのは否定しがたいところです。なので、これだけを理由にはなかなか再開できない。
結局マイクラは作ってナンボのゲームであり、それであれば可能性は無限にあります。
なので何かを作れたらきっと楽しいという確信めいた期待はあるわけで、
それがマイクラやりたい欲の正体なのかもしれません。


ただ問題は、じゃあ何を作るのかという問いに対する答えがなかなか出ない。
なんらかの装置を作るにしても、それを作るメリットが欲しいものです。
作ることそのものを目的にすることはなかなかできない。
この心理的ハードルを取っ払ってしまえれば楽なんでしょうが、自分はできないタイプのようです。
結局このジレンマに陥ってしまうので、
やりたいけどできないということを延々繰り返しているのでしょう。


今年初頭、そのジレンマを一度だけ乗り越えて全自動タマゴ回収機の制作に取り組んだことがありましたが、
あれは年間で考えても『ピクミン4』初見プレイの次にどハマりしました。
なんならのめり込み具合で言えば上京以来全体で考えても2位かもしれない。
やはりジレンマを解消できれば没頭できるのは確かなんですよね。
『Minecraft』にはそれだけのポテンシャルがあると薄々分かっているからこそ気になるのでしょう。
ただ、タマゴ回収機もマルチプレイだったからこそなのでソロプレイではやはり厳しいかも。
ここに、自分はやはり承認欲求を原動力としている面を垣間見るわけですが。


どうにかしてソロプレイでも楽しめる方法を見出せればいいんですが、性格上難しそうな気はします。
あるいは、作りたい装置や建物を真面目に考えればプレイ人数関係なく没頭できるものなんだろうか?
タマゴ回収機も制作過程自体はソロプレイだったのでワンチャンある気がする。


#7186

竜泉寺の湯 八王子みなみ野店

今日の出来事温泉

スーパー銭湯に行くようになって2年半ほど経ちましたが、最近になって最高の店を見つけました。
それは八王子市にある「竜泉寺の湯」。全国にある系列店です。
前々から気にはなっていたのですが、既知のお店で満足していたのでスルーしていました。
しかし京王高尾線の京王片倉駅から徒歩15分で行けることに気づき、
それなりの規模みたいなので土日でも行けるかもしれないということで行ってみたのですが、
その読みは当たり、土日でも行けるほどのポテンシャルがあるスーパー銭湯でした。


「土日でも行ける」というのはどういうことかというと、
立地などの諸条件に対して風呂場面積が十分でないようなスーパー銭湯の場合、
土日の夕方以降は人が多すぎてまともに湯船に入ることさえできないことがあるんです。
これは主に都内の問題ですが、都心は土日どころか平日も厳しい場合があるため、
平日は基本的にセーフティな多摩地域に特有の問題なのかもしれません。
大江戸温泉物語のようなめちゃくちゃ大きいスーパー銭湯はまた例外なのでしょうが……。


自分がいままで行ってきた南武線沿線のスーパー銭湯各種は「土日に行けない」部類です。
高尾山口駅にあるスーパー銭湯は土日もそれなりに空いているため穴場ですが、
それは冬限定の話であり、この時期は登山シーズンなので土日は登山客で相当混んでいるはず。


というわけで土日に行ける銭湯を探していたのですが、「竜泉寺の湯」がまさにそれでした。
都内でありながら郊外型の大規模なスーパー銭湯で、
お風呂のテーマパークかと思うくらい面積が広いです。
都内トップクラスの人気店舗なため人混みがひどいのは確かなのですが、
それを受け入れてあまりあるポテンシャルがあるため問題になりませんでした。
八王子まで電車で行ってそこからさらに徒歩15分は遠いと言えば遠いですが、
それをカバーしてあまりある魅力的な店舗なのでしばらくヘビロテすることになりそうです。
来月から南多摩の「季乃彩(ときのいろどり)」がリニューアル工事で一時閉店してしまうため、
その代替として機能してくれそうです。


強いて不満を言えば、脱衣所の飲料水や自販機の飲み物が明らかに冷えていないことですかね。
休憩所内にドリンクを売っているお店があるので基本そこで買えということなのかもしれませんが、
せめて飲料水はそれなりの冷たさにしてほしいところ。
あと、風呂場はともかく休憩所は女子もいるため単純計算で浴場の2倍混んでいることになり、
こちらは最悪の場合座る場所が無いという事態もありそうな雰囲気です。今回は座れましたが。
別料金の岩盤浴エリアが実質VIPゾーンみたいな扱いになっているため、
確実にゆったり休憩したい場合は岩盤浴込みで計画するといいかもしれません。
温泉だけなら割安ですが岩盤浴込みだと他のどの施設よりも高いという値段設定は悩ましいです。


とにかく久々に新規開拓できて満足度が高かったです。
以前、スパ銭はそろそろ飽きたなんて書きましたが、しばらくは八王子に通うことになりそうです。


#7187

ピクミン4プレイ計画

今日の出来事ピクミン4

なんだかんだでゲームどころではない状況が続いているため、
せっかく発売された10年ぶり新作の『ピクミン4』もあまり本腰入れて取り組めていません。
幸いにして発売前後はまだ余裕がある状況だったこともあり、
本編初周クリアまでは夢中になってプレイできたし、その体験はとても良かったと思います。
が、やはりこの辺は社会人の宿命なのか、
その後のやり込み界隈の発展にはなかなかついていけていないのが現状です。
まあそれは覚悟していたことなので、自分のペースでプレイしていけばいいと思っているのですが、
その自分なりのプレイという範疇においてもペースダウンが見られるのが困ったところ。
まあそれでも1ヶ月で70時間なので社会人以降のプレイ遍歴で言うとかなり多い方か。
残業時間で置き換えて考えると70時間ってかなり多いですしね。


『ピクミン4』のクリア後やり込みは、大きく分けて5つのジャンルに分けられます。
「本編最短攻略」「本編RTA」「ダンドリチャレンジ」「ダンドリバトル」「オリマー遭難記」
の5つです。本編の最短日数攻略とRTAはまるでアプローチが異なってくるので、
自分の中ではまったく異なるカテゴリと考えています。
一方、旧ミッションモードに相当する「ダンドリチャレンジ」には
エンドコンテンツの「葉っぱ仙人の挑戦状」も含まれます。ルール的には同じですしね。
「ダンドリバトル」はCPU戦でハイスコアを追い求める遊び方ができ、
これは旧来のチャレンジモードやミッションモードとはまた違うため別ジャンルかと。
オリマー遭難記は事実上のもうひとつの本編ですが、
最短日数攻略はもうかなり理論値の報告が上がっているのでそれほど難しくはなさそう。
おそらく長期的にはRTAとしてやり込まれるカテゴリだと思います。


いま、自分が着手しているのは「ダンドリバトル」です。
これはこれまでのタイトルに存在しなかったやり込み要素なので、やはり新鮮で楽しい。
収録ステージ数は6ステージで『ピクミン2』チャレンジモード30ステージや
『ピクミン3』ミッションモード36ステージと比べると量的に見劣りするのも事実ですが、
その少ないステージの中でもそれぞれでしっかり差別化されていて、
序盤、中盤、終盤であたかも別のゲームかのように思えるくらい奥深いです。
まずはこのカテゴリの総合点数をそれなりのところまで持っていくことが当面の目標。


これが終わったら次は当然「ダンドリチャレンジ」の22ステージを伸ばすことになるでしょう。
こちらはCPUが邪魔してこないだけ気楽にプレイすることができそうですが、
それは裏を返せば自分のルート構築力が求められる世界と言うこともできます。
ピクチャレ大会のダンドリチャレンジランキングはすでに相当ハイレベルな領域に達しており、
せっかくスコアを出してもあまりにも下位ならやり直さざるを得ません。
ステージ数も相まってそれなりに時間がかかりそうなカテゴリです。
ちなみに前作のリメイク(2020年)では14ステージが追加され、
同じようにそこそこのスコアを出すという目標を掲げていましたが見事に頓挫してしまいました。
今作はリメイクではなく完全新作なのでさすがに頓挫はしたくないところですが、
1ヶ月経ってまだダンドリバトルも消化できていない現状を考えるとちょっと厳しいかも……。


もし、それも終わったら次にやりたいのは本編2周目です。
ピクミン4の本編は本当に面白かったので、これを1周で終わらせる理由はどこにもありません。
攻略日数を減らしていくという楽しみができるのもこのゲームの醍醐味だし。
とはいえ、やはり優先はまずスコアタ系である程度の記録を出して腕前を上げること。
その間に攻略本が出たら、それを読み倒して本編攻略プランを考えるのを楽しみにしています。
2周目で最短攻略はちょっとハードルが高すぎるので、もう少し緩めるのが妥当かな。
理論上の最短は13日なのでとりあえず20日での攻略を目指すとか。
『ピクミン2』も最短攻略をする前には7周くらいしていた気がするし。


ピクミン4は売れに売れたので、
最近の任天堂タイトルの傾向から言って追加DLCはかなり期待できると思います。
理想的なスケジュールは追加DLCの前に上述の本編2周目までを全部終わらせることですが、
それを目標とするとなるとダンドリチャレンジ22ステージがかなりネックになると思うので
もう少しペースアップしていきたいところ。
ダンドリバトルもかなり上の方を目指してやりこんでいるけれど、
ほどほどにして次に行ってしまってもいいのかもしれない。どうせガチ勢には勝てないんだし。


というわけでピクミン4はもう少し頑張っていきたいところですが、
いまはどちらかというとせっかく11ヶ月かけて作った新ピクチャレ大会の開発が止まっていて
モチベの維持に苦しんでいる方が問題だったり。
マストと考えている機能のいくつかがいまだに着手できていないんですよね。
利用者に愛想を尽かされる前にこちらも早くなんとかしないと……。


#7188

承認欲求についての再考

長年自分を悩ませ続ける「承認欲求」という欲求。
それは自分が未熟であればあるほど、黒歴史の根本原因であり続けてきました。
だからこそ、長らく承認欲求は悪い欲求であると思っていたものです。
しかし最終的には、承認欲求を否定して生きることはできずどこかで向き合う必要がある、
という結論に至っています。
いまは、承認欲求に対して客観的に制御することにもずいぶん慣れてきたので
これ自体が黒歴史の原因になることは無くなっているように思います。


その上で改めて承認欲求について考えてみると、
昔の自分が承認欲求と言っていた欲求には細かく分けるといくつかに分類できそうです。
例えば「誰かに認められたい」という欲求があったとして、
どんな自分を誰かに認められたいのか、あるいはどういう人に認められたいのか。
特にその前者は「理想的な自分」なのか「ありのままの自分」なのかでずいぶん違います。


また、単に「誰かに認められたい」と言っても、
それはいわゆる世間や特定のコミュニティで特別な地位を築きたいということなのか、
単に世間やコミュニティの仲間入りをすれば満足なのかで全然事情が変わってきます。
このうち前者寄りの欲求があり、才能や努力がそれに及ばない人は奇異な行動をしがちだと思います。
また、ここでの対象が「世間」ならば、それは単なる承認欲求というよりは、
実社会で自分ならではの役割を持ちたいという社会的欲求と言うこともできると思います。
そうなるとそれは仕事をする理由にもなり得ると言う意味では健全な欲求です。むしろ無いと困る。


要するに承認欲求ありきの行動と一口で言っても、それは極めて自分本位であることもあれば、
社会貢献と見なすこともできるのではないかと。
その後者は「認められたい」というよりは「誰かの為になりたい」と言う方が適切でしょうか。


他者の都合を無視して自分が認められることしか考えていなかったら、
そりゃあ煙たがれるわけですよ。奇異な言動であればなおさらです。
あるいは認められることを最優先してモラルや暗黙の了解を無視したり。
でもそれは承認欲求というよりもっと根源的な、その人の人格に問題があるような気がしますが。
いわゆる不良やいじめっ子になるのはこの辺が原因なんじゃないかなと。


なのでまあ、結論としては昔の自分は承認欲求不満が強かったと考えていたけれども、
むしろその欲求に他人を慮る気持ちが付随していなかったことが問題だったのではないかと。
長い年月を経てスキルが欲求に追いついてきた傾向にあったり、
コミュニケーションの経験値が溜まって人格的な問題が(おそらく)改善してきているからこそ
こうして俯瞰的に承認欲求のことを考えられるようになったんじゃないかなあ、と。
また黒歴史を生み出しそうになったとき、この考察を思い出せるようにしておきたいものです。


#7189

Obsidianに見る次世代ブログの可能性

ついにプライベート運営への移行を決断してしまったこのブログですが、
舌も乾かぬうちにたまたま偶然ブログ運営にとってポジティブな情報をゲットしました。
というのも偶然見つけた『Obsidian』というアプリが凄すぎて、
自分が従来このブログでやりたいと思っていた
「全記事のシームレスな関連付け」を実現してしまうポテンシャルを感じたからです。


これは簡単に言うとMarkdownメモアプリなのですが、
メモ間のつながりを重要視している特徴があります。しかもそのつながりをグラフ化までできる。
メモタイトルを入力でリンクするのはもちろん、
メモタイトルが含まれているリンクを一括で抽出することもできるみたい。
当然タグ管理もできるし、メタ情報はもっと深いところまでいじれるようになっています。
またコミュニティが活発でさまざまなプラグインが開発されているようで、
探せばさらに便利になる機能を追加することもできそうです。
Javascriptで作れるのでいざとなったら自分専用のプラグインを作ることもできるかも。
この時点で従来から使っている『Ulysses』はすでに引き離しているほど高機能です。
ブログのアーカイブをただObsidianに移行するだけでも有意義なのではないかとさえ思います。
横断検索やタグ検索は爆速になるし、いままで不明瞭だったバックリンクも可視化できるし。
過去記事の関連付けができるというのは、長く日記系ブログを書いてきた者にとって非常に有用です。


しかし、もちろんエディタが変わったらまたすぐにブログ復帰ができるのか、
というとそうではありません。
Markdownエディタでしかも記事間のつながりも維持したままwebサービスにポストするとなると、
かなりいろいろな難関を潜らなければ実現できないと思います。
個人的にブログを継続するとしたら、
使うプラットフォームはWordPressではなくヘッドレスCMSにするのが妥当だと思っているのですが、
ObsidianからヘッドレスCMSへの移行はプラグインが無いわけでは無いものの、
プラグインの更新が活発とは言えず、これに全部を託すのはちょっと無理があるのが現状です。


実はUlyssesはすべてにおいて劣っているわけではなくて、
ヘッドレスCMSへの投稿機能を公式が備えているという点では明確にObsidianに優っています。
なので、検索するとCMSへの投稿はUlyssesを経由するという方法を採っている人もいるようです。
ただ、冷静に考えて自分がそこまでしてObsidianを使う必要があるのかと言われると……。
記事間ネットワークはあくまで構想上の話で現段階ではいっさい形になっていません。
これもこれで今後ChatGPTなどを活用して過去記事を加工してやっていかなければならないことです。
それができて初めてObsidianに移設する意味が生まれますが、現時点ではそれも無い。
ブログ復帰だけが目的ならまずはUlyssesからポストする方法を模索するのが無難な気もします。
それですら、ただエディタを変えただけでは復帰できるとも限らないので怪しいんですが。


いずれにしろ、2022〜2023年の過去最大のブログ衰退は明確に大きな爪痕を残してしまいましたが、
Obsidianを見つけたときのワクワク感を鑑みるに、
執筆意欲の灯火はまだかろうじて消えていないのではないかと改めて思いました。
現にこのエントリーも普通に書けていますし。
とはいえ課題はあまりにも山積しているので、復帰にどれほどかかるかは未知数です。
仮に20周年までの目標に据えたとして実現できるのかどうか……。


#7190

テレワークの問題点あれこれ

新型コロナ禍によってIT企業に定着したテレワークという働き方。
もうテレワークをするようになってそれなりに経っていますが、
いまだ適応できていない感があります。特に2022年以降からの現場が立て続けでひどい。
2022年以降で3つテレワークありの現場を経験していますが、それぞれで違う問題が起きています。
1つ目は文字コミュニケーションで意見が対立したことで大きなトラブルになったという問題。
IT企業のテレワークは「Slack」「Chatwork」「Microsoft Teams」などのツールを使って
チャット式での連絡を取ることが多いですが、
チャットだと相手の顔が見えないこともあって語気が強くなりがちというか。
(そういえばメールではこういう問題は起きない気がする。なんでだろう?)
まあこれは当時、匿名掲示板への書き込みをしていたことも悪影響を及ぼしている気がしますが、
とにかく絶対逆らってはいけないお局様とレスバしてしまったのが運の尽きでした。
口頭コミュニケーションしかしないスタイルだったらまず起きなかったトラブルだと思います。


2つ目の現場では、2日連続での出社を指示されても朝起きられないという問題に直面。
当時は月木金がテレワーク、火水が出社と定められていました。
この出社日というのがツラいのなんの。特に水曜日。
これは、木〜月曜日は始業直前まで寝ることができるのに、
出社日だけはそれよりも2時間以上早く起きなければならないのが主な原因だと思っています。
つまり、同じ週内で起きなければならない時間にギャップがあることに適応できない状態。
全部出社や全部テレワークなら起床すべき時間がどうであれ問題にならないと思います。
事実2021年は全部出社でしたが起床時にここまで起きられないということはありませんでした。
これはもう長年睡眠の問題と闘ってきたことによる弊害としか思えないのですが、
それを他人に理解してもらうことの難しさも感じています。


3つ目の現場は当初フルテレワークという話だったので、
起床時間のギャップ問題は発生しなくなるという点ではかなり期待していました。
入場の直前になって水曜日だけ出社になったことは不運というか理不尽に感じましたが、
まあそれでも週に1日しか出社しなくていいならなんとか適応できるかもしれない。
そう思って取り組んでいたのですが、今度は仕事のモチベに悩まされています。
テレワークの比率が非常に大きいので他の社員とのコミュニケーション機会が極めて限定的で、
それゆえに仕事をしているという実感が無くなってしまうんですよね。
ずーっと自室にいるので仕事モードのON/OFFの切り替えもかなり難しいと思っています。
これについては、月極契約しているコワーキングスペースは趣味系作業を、
自宅では仕事を、という割り切りでスイッチの切り替えをするように努力しているつもりですが、
それでも本来自宅は仕事をする場所ではない、という固定観念が未だ根強くあります。


ということで、テレワークでは自分の性格と身体の都合により3つも問題を抱えています。
「チャットだけだと喧嘩になりやすい問題」については、
可能な限り音声通話でコミュニケーションする、アンガーマネジメントを心がける、
といった心構えである程度なんとかなると認識しています。
事実あれから同様の問題は起きていませんし。まあこれは現場ガチャにも左右されるところですが。
例のお局様みたいな人と当たったらこの問題は再発しかねません。


「テレワークと出社が混在している場合の出社日の朝がツラい問題」については、
以前、目覚ましをスマホと置き時計で別々の時間にセットしておいて、
さらに置き時計は寝床から離れた場所に置くといった対策でなんとかなっていた気がするので、
それを再び実践することでもしかしたら改善する……かも?
あと夜更かしせずに決まった時間に就寝するのはもはや必須条件であり、
夜眠れない問題が発生したらこの問題もより深刻になると思います。


「テレワーク中に仕事の意欲が湧かない問題」については、
これまで明確に解決した試しが無いのである意味一番厄介な問題です。
改めて自分は誰も見ていなかったらできるだけサボってしまう人間なのだと痛感します。
これもまともな人が同僚にいるならば積極的なコミュニケーションである程度改善はしそうだけど、
いまの現場はそもそもやりたいことからかなり遠いジャンルなので(web制作ではありません)、
そもそも仕事の内容的に興味を持てないという問題も抱えています。
これは、やりたいかどうかよりもフルテレワークを優先した自分のせいなのですが……。
さらにマズいことに、趣味でやっているweb制作の方がやり甲斐を感じるので
それとのギャップもあるという。


これらはすべて、テレワークならではの問題です。
なので2021年のように週5出社の現場に出勤するようになれば自ずと改善すると思います。
ただ、これまでいくつか都心の現場に出勤することがありましたが、
都心だと通勤ラッシュ地獄はもとより、なんだかんだで通勤に時間がかかるのが痛いんですよね。
あまりに遠いと相応に早起きしなければならず、それはそれで睡眠の問題を起こしかねません。
なので、多摩地域に住んでいる以上は多摩地域で仕事をしたいというのが本音です。
それがかなわないなら、脱テレワークの風潮になってきた辺りで都心へ引っ越さざるを得ない。
やっぱり仕事があるのは圧倒的に都心ですからね……。


今日はこの辺の悩みを解決するために所属支社へ赴いて面談を受けてきました。
が、思いの外話がいろいろな分野に広がって結論を得ることができず、
続きをまた再来週に開催することになりました。その辺の結論が出たらまたまとめたいと思います。


#7191

子沢山は居づらい社会

今日の出来事社会批判

自分が住んでいる多摩地域はベッドタウンとしての性格が強く、それゆえ子どもが多いです。
この街に住んでいると少子化問題なんて別の国の話なのではないかと思うくらいです。
ほとんどの親子に問題は見られないのですが、
昨今ネット上でよく問題になる「毒親」のような親もたまに見かけます。
子どもを論理的に詰めて困らせている母親が多いですね。
さすがに暴力は見たことがないですが、そんなことしたら即通報されるのが現代です。
そしてほとんどの親子は親1〜2人+子1人という組み合わせが多いです。
まれに2人連れている親も見かけますが、3人というのは見たことがない。
しかし先日、初めて3人以上連れている親子を発見しました。


ガパオライスを食べに牛丼チェーンの松屋へ行ったら、
テーブルを3台占拠した親子が談笑していました。
かなり若いママ2人はおそらくママ友の類なのでしょう、そしてそれらの子どもが5人。
2世帯で5人なのでどちらかは必ず3人以上です。
それがまーうるさいのなんの。7人が周りの目を気にせず大ボリュームでしゃべるわけですからね。
加えて、ママ友2人は終始ジャニーズの話に夢中で子どもには目もくれない。ほぼ放置状態です。
かと思えば、トイレに行きたいと一人がせがむと
「ああ? 本当にトイレなの? 本当なんでしょうね?」となぜかキレだす始末。
そんなことで責める必要あるんでしょうか。ああ、これが毒親ってやつなのか……と思うと同時に、
自分にはこの厳しいコンプライアンスの世の中で子育てするのは絶対無理だと改めて思いました。


昭和〜平成中期までは多産も珍しくないのでこういう光景は市民も慣れていたのかもしれません。
しかし、いまとなってはそんな状況はレアもレアなわけです。
そしてレアケースだからこそ実際に出くわすとけっこう不快感というか、抵抗感が強い。
あんなに公共の場で騒いでいたらどこかでトラブルになるに決まっています。
そして、親がそれを避けたいと周囲の人を慮って神経を尖らせていたとしてもどうにもならない。
叱ったり殴ったりしたらそれはそれでまた問題になるからです。


そういう、求められる倫理と子どもの特性の矛盾した状態での板挟みの結果が、
ああいう毒親体質というか、放任体質につながっていくのでは……と少し思いました。
まあそれにしても松屋みたいな格安飲食店に来て子ども5人放置してジャニーズの話すんなよ……
とも思いましたが。


こう考えると保育士って本当にすごい職業ですよね。
現代人がなるべく避けたい子どもの喚き声を一身に引き受けてくれるのですから。
その保育士が生きていくのも精一杯なくらい待遇が悪かったり、
老人たちに保育園の建設を猛反対されて断念したりしているのは本当に現代の闇だと思います。
自分さえ良ければそれでいい、という価値観の世の中で子育てをするのはあまりにも息苦しい。


#7192

代引き詐欺

少し前のことですが、
実家の母親から突然「代引きで荷物が届いたけど?」と連絡が来ました。
どうやら、住所=実家、宛名=自分でAmazonから荷物が届いたようです。
Amazonには実家の住所が残っているので直近の注文で間違えて実家を指定した可能性はあるものの、
注文履歴にはそんな形跡は無いし、そもそも自分はAmazonで代引きを使ったことがありません。
実家の猫へのプレゼントという名目で実家に猫グッズを贈ることはたまにありますが、
それもAmazonから直接送るのではなく、
一度東京で受け取ってから再梱包して郵送するようにしています。
ということはこの代引きはいったいなんなのだろうか?


調べてみると、これは「送りつけ詐欺」と言って近年問題になっている詐欺の一種だそうです。
Amazon等のEC(通販)サイトに捨てアカウントを作成し、
どこからか入手したターゲットの住所と名前を登録しておいて代引きで買い物をする。
Amazonや宅配業者はそれを詐欺と知らないまま配送してしまうわけです。
ただ、この方法は代引きで支払ったお金が捨てアカウントに入るわけではなく、
問い合わせたところ詐欺であることが確認されれば代引き料金は即時返還するとのことでした。
商品は受け取った被害者がもらってもいいし、嫌なら処分することになります。
じゃあ、攻撃者側になんの旨味がなくない?
となるわけですが、これに関してはいろいろな説があるようです。
有力なのは、代引き料金を支払うと捨てアカウントに購入時のポイントが付与されるので、
入手した個人情報リストを使って片っ端から代引きで送ることでポイントを得ようとするもの。
また、受け取らなかった被害者に接触し、
「クーリングオフはできない。とにかく指定の振込先に至急振込んでくれ」
などと偽って自分の口座に振り込ませるというような手口もあるようです。
とにかく住所と名前さえ入手できれば容易にできる非常に厄介な詐欺です。
やられた側は、どこから個人情報を入手されたのかと不気味に思うしとにかく不快感が強いです。
自分も、よりによって実家をターゲットにされたことに強い憤りを感じます。
被害例を調べてみるとTwitterなどではほぼ毎日のように同様の報告が上がっているため、
Amazonが対策をしていないいまはほとんどやりたい放題の状況のようです。


この件はどこから個人情報を入手したのかが非常に気になるところですが、
実際にはヒントが少なすぎるので特定は困難です。
ただ実家時代の自分の個人情報を参照していることは確かなので、
上京前の実家暮らし時代にどこかから漏洩した個人情報を使われている可能性は高そう。
もし、自分が上京したことを知っていて親が代わりに受け取るだろうと想定し送りつけたのだとしたら
逆に上京以後に漏洩したことになりますが、
上京後に実家の住所を入力した機会はほぼ皆無です。会社の緊急連絡先くらいしか覚えが無い。
あとはAmazonから流出したらあり得ますが、もしそうならかなりの大問題です。


また、この手口は電話番号がデタラメなのが特徴のようです。
今回の場合も電話番号はまったく見覚えのないもので、9から始まる番号であることが気になります。
電話番号はご存知の通り携帯も固定電話も必ず「0」から始まります。
これは国内線であることを示しており、国際電話をかける際はこの0を取って、
代わりに先頭に「+」と国コード(日本の場合は81)を入れるという決まりになっています。


国内の業者であれば、偽の番号を入力するにしてもわざわざ先頭0を取る理由はありません。
なので、これは海外の業者が個人情報リストを入手し、
海外にとっての外国である日本の電話番号を管理する際に自動的に0を取る設定にしていた、
と考える方がまだしっくりきます。
(Excelで数値書式にしていたので勝手に先頭ゼロが取れていた可能性も否定できないですが)


実際に中国から国際便で送られてきたという被害例もあるようで、
中国の業者であると断定はできませんが、国際的な詐欺グループの手口である可能性は高そうです。
ただ、実は実家から昨日2回目の被害の報告があり、
2回目は代引きでもなく送り元は(配送センターではない)渋谷からだったそうです。
これについては詳しく話を聞かないまま親が事前に受取拒否で対処したため
電話番号などの詳細情報は手に入れていませんが、本当に不気味です。
可能性としては1回目を受け取ってしまったのでホワイトリストに入り、
そのホワイトリストをまた別の手口の業者に売られてしまった可能性があると思っています。


これについてはもはや個人ではどうにもならないので、
政府やAmazonなどのプラットフォーマー、物流業者が対処してくれるのを待つしかありません。
法改正は2021年に一度しているようですが、Amazonが放置している以上被害が減るはずもなく。
どうにかしてほしいものです。


#7193

iPhoneがフリーズした

今日の出来事iphone

以前iPhoneのバッテリー交換の際に一時的にスマホを一切使えなくなり、
手元にネットワーク機器が無いことの心細さを改めて実感しました。
そしてそんな現象が再び起きてしまったので備忘録として書き残しておきます。


というのも、ふとした拍子にiPhoneがバグってアプリを一切起動できなくなったんです。
こういうあからさまなハングアップはiPhoneでは本当に滅多にお目にかかれないので、
いざ遭遇すると結構焦ります。
今回の事例ではセルラー通信でSpotlight検索したらGoogle検索結果がなかなか表示されず、
何度もリロードしても応答がないのでWi-Fiを切ったり、セルラー通信を切ったりしました。
それでも応答しないので別アプリではどうかと仮想通貨取引アプリを起動したところ、
画面がステータスバーを除いてすべて真っ黒に。
通知センターやウィジェット、検索は問題なく表示されますが、
それらからアプリを起動しようとするとまったく反応しない。
サイドボタンを押してもスリープしない。これはかなりヤバそうです。


さらに、こういうときの最終手段として強制シャットダウンがありますが、それも効かない。
何度か強制再起動を試そうとしたらSOS発信をしてしまっていました。ヤバい。
ただ、そもそもモバイル通信が不通のようなので実際に救急を呼んだわけではなさそうです。


こういうとき、当然解決方法はネットに求めることになるわけですが、
電車に乗っているのでタブレットからWi-Fiに繋げることもできず。
たまたま乗っているのが京王ライナーという指定席特急で
フリーWi-Fiを備えている車両だったのですが、電車が動き出すと切断するという無能っぷり。
京王電鉄さん、これでは使い物になりません……。


このままだとモバイルSuicaで改札を通れるかどうかも怪しいので焦っていましたが、
停車中に素早くiPadをWi-Fiに繋いで操作することでどうにか解決方法に辿り着くことができました。
その解決方法とは、



ボリュームアップボタン短押し→ボリュームダウンボタン短押し→サイドボタン長押し



というもの。これで通常シャットダウンできないような状況でも強制的に再起動します。
コツとしては音量ボタンは押してすぐに離すことです。
ちなみにシャットダウンはボリュームアップ+サイドボタン同時長押しですが、
これをずっと長押ししたままにするとSOS発信となります。
また、電源ボタンの5回押しでもSOS発信をすることができます。
実際の用途では後者の方が素早くできて通報手段としては適しているような気がするので、
長押しで通報はこの際オフにしてもいいかなと思っています。
ちなみに正常時に間違ってSOS発信を起動した場合でも、
カウントダウンが終わる前にキャンセルボタンを押すことで発信を止めることができます。
一度くらいは5回押しをしてシミュレートしてみるのもアリかと。


にしても、iOS16はちょっと動作不安定な傾向にある気がしますね。
強制再起動まで至ったのは今回が初めてですが、
アプリが起動しなくなって強制シャットダウンみたいなケースはここ1年で数回あります。
スマホの重要度がどんどん増している中、OSの安定感はかつてなく重要になっています。
無責任なことを言いますが、Appleにはもう少し頑張ってほしいところ。
あと接続できない状態を放置しているiPadのセルラー回線はさっさと再契約しようっと……。


#7194

クジラの手のひらで踊らされる

今日の出来事暗号資産

可処分所得を増やす目的で1ヶ月ぶりに仮想通貨取引に手を出しました。
で、まあ芳しくないわけです、成績が。
最初何も知らずに少額でポジったTARA(Taraxa)という魚みたいな銘柄が
どういうわけかマージン価格からは考えられないくらいボラティリティが大きく、
レンジ相場に振り落とされる形で強制退場。
次にLPT(Lifepeer)の伸びが非常に良かったのでしっかりトレンド転換を待って入り、
こちらは最初300ドル程度の勝ちになりました。
一度下落の様子を見せたのでそこでいったん自主退場し、下落幅をウォッチ。
全然下がらずにまた上昇してきたので「これはもう一儲けできるかも」と思って
今度はそれなりの金額で再度ロングで入りました。
どう考えても誰がみてもテクニカル的には上向きだったと思います。ところが。


朝09時半、なんの前触れもなく突然仮想通貨のほとんどの銘柄が暴落しました。
おそらく大口の誰かがビットコインを大量売却したことが市場全体に波及したのでしょう。
おかげで昨夜から6時間かけて育てた300ドルの利益はほぼ一瞬にして消し飛び、
逆にマイナス600ドルになるという急転直下。それをきっかけにLPTも一気に売りトレンドに……。
仮想通貨市場ではわりと不定期にあることですが、正直そろそろうんざりしてきました。


以前仮想通貨取引はギャンブルじゃないと言い張っていた時期がありましたが、
あれは順当に勝っていたから言えるだけで、
資産と時間に余裕が無ければまず間違いなくギャンブルです。
なぜなら今回みたいな大口取引による暴落を予測するのは不可能だから。
こういう値動きをされるとテクニカルやファンダメンタルズはもはや無意味。
我々はクジラ(大口保有者)の手のひらの上で踊っているに過ぎません。
ただそれでも長い目で見ればクジラの売買も上下する波の範疇に収まっていることが多いので、
その長い目で見たときの波の大きさに耐えられるだけでの資産的時間的余裕があれば、
それはギャンブルではありません。
今回は先月のピクチャレ大会追い込みで2日欠勤してしまった関係で給料が目減りしており、
せめてその目減りした分を月末までに増やしたいと思って生活費を入れてしまったのですが、
こういう短期的な勝負をするのは間違いだといい加減気づかなければ自分はいつか破滅するでしょう。


仮想通貨取引についてはLUNAショックの敗北で得た教訓を活かして
可能なかぎりローリスクローリターンの副収入を、というのが今年前半の考え方でした。
しかし年初来の純益はおそらくほんのわずかなプラスに過ぎないであろうことと、
肝心なときに今回みたいな大暴落を経験すると精神的にも良くないことを考えると、
さすがにちょっと先物市場からは足を洗う時期が来たのかもしれない、と改めて思います。
やっぱり目先の利益の誘惑にはなかなか勝てない。そしてそれを追うと決まって損をする。
テクニカルを学んだからいけるだろうとか、そんな薄っぺらい考えでは餌食になるだけです。
もっともっと潤沢な資金があってその資金力を1割だけ増やしたいとかならアリかもしれない。
手持ちの資金を手っ取り早く倍にしたいなどと考えているようでは
どう足掻いてもリスク過多な方法を取らざるを得ないわけです。


先物の基本的な心構えとして、想定外の暴落に耐えられる潤沢な資金があり、
かつその資金は当面凍結しても問題ない余剰金であることは必須条件だと改めて思いました。
これは、資金は当然のことですが時間に余裕があることも相当大事という意味です。
これさえ守っていれば健全な取引ができると気づいてローリスク取引を確立していたはずなのに、
「即日爆益の可能性」に目が眩むと何度も初歩的な過ちを繰り返すのは人の性なんでしょうか。
実際、クジラのお遊びが無ければこの土日で20万円以上稼いでいたでしょうからね……。


怖いのは、いまはこう考えていても赤字が解消すると一気に手のひらを返すということです。
副収入を狙うのにもっとも手間要らずで手っ取り早いのは確かですからね。
本当にお金の誘惑というのは恐ろしい。


とにかく、先物市場はちょっと様子見して段階的に撤退していこうかと思っています。
がっつり副収入として取り組むのはちょっと無理がある気がしてきた。
せめてブロックチェーンゲームとかエアドロップ乞食に転職するのが無難そうです。
なんならパチスロ競馬の方がまだ健全まである。
そっちの方が楽に稼げたらどうしよう。いや、世の中そんな甘くもないか。


#7195

自己満足のエネルギーは有限

今日の出来事意欲の問題

ブログの下書き執筆に着手した08月25日から08月28日までの4日間、
なんと4日連続で4本以上の記事を執筆しています。
これができるなら誰がどう見てもストック記事の産出は実現可能であり、
なんでブログを一時閉鎖することになってしまったのか謎です。
それに対して何か言い訳を考えるとするなら、やはり意欲には波があるということなのかなと。
そしてその意欲の波とブログの「1日1本」というシステムが噛み合っていない。
だからまあ、復帰するなら書けるときに思いっきり書いておこうという方針なわけです。
いまはそれを実践できるかどうか実験している段階とも言えるかもしれない。


この「意欲には波がある」という問題はかなり昔から趣味を脅かしてきた厄介な問題でもあります。
自己満足という動機でのみやっていることに関して、
その「自己満足」というエネルギーが切れてしまうとしばらく休止せざるを得なくなる、
というのが意欲の波の正体だといまは解釈しています。
ひとつの物事に対する興味や好奇心などはどうしても長続きしないんです。
ある趣味が休止している間は別の趣味に関するエネルギーを消費するというサイクルになるため、
短い期間で次々に手を出しがちです。2021年なんかがわりとそんな傾向にありました。
これは自己満足によって動いている状態です。


一方、自己満足以外の動機、
特に他者承認が安定して供給される趣味に関してはエネルギー切れになりにくく、
かなり長期間にわたって続けることができる傾向にあります。
これは、自分の場合はコンシューマーゲームのやり込みが多く当てはまります。
メテオスランキングサイトに入り浸っていた頃の『メテオス』チャレンジモードや、
ピクミン界隈の(個人的な)全盛期における『ピクミン3』の各種やり込みなど。
昨今では、自分一人ならとっくの昔に辞めているであろう『Apex Legends』が当てはまります。
これはある意味元同僚との交流ハブとして機能している側面があり、
そのおかげで普通なら1ヶ月持てば良い方なのに3年以上も継続しています。
そのわりにはなかなか上達しませんが……。


長年の経験から言えることとして、自己満足を動力とする活動は基本的に1つしかできません。
これを否定すべくいろいろ抵抗してみましたが、いまは両立はできないものと観念しています。
ピクチャレ大会の開発も自己満足の範疇なので、
水面下のブログ執筆を再開してからは開発作業の方は事実上ストップしてしまっています。
本当ならこの活動も他者承認を求めていいような気がするのですが、それはさておき。
「自己満足の活動はひとつまで」「増やしたいなら他者との交流に動機を求める」
というのは、多方面で成果を上げるために重要な条件であるように思います。
もちろん、多方面に顔を出せば出すほどエネルギーが増えるわけでは無いのですが。
ブログの一時閉鎖はピクチャレ大会リメイクというプロジェクトを成功させるために、
いわばやむをえない犠牲だったわけですね。
たぶん、ブログが他者承認ありきの活動に発展していたらこうはならなかったでしょう。
その場合はおそらくリメイクプロジェクト自体が初期段階で頓挫していると思います。
そう考えると、結果的には需要の大きい方を生き残らせることには成功しているとも言えます。


「自己満足しか動機が無いから続かない」というのは、
解釈次第では「自分が活動できないのは認めてくれない他者のせい」
と取ることもでき、実際に2018年以前の自分はしばしばそういう思考に行き着いていました。
だから他人をディスったり、チヤホヤされている成功者に嫉妬したりしていたわけです。
しかしいうまでもなく需要の無い活動に他者承認を求めるのは不毛であり、
それは需要の無いコンテンツしか作れない自分に原因があると言わざるを得ません。
他人は自分を認めるだけために存在するカボチャではないのですから。


ブログにしろなんにしろ、自己満足で活動することそのものは否定しがたいし、
サイクルを作って活動を断続的に続けていくことにも意味はあるのでしょう。
ただ、これからはそれに加えて「どうやったら他者に喜んでもらえるか」
という視点からクオリティアップを目指すような努力もより一層重要になってくる気がします。
若い頃はこだわりが強かったのでゴリ押しで自己満足コンテンツを完成させられていましたが、
いまとなっては自己満足ありきの周年企画みたいなものはやろうとさえ思いませんからね。
代わりに、他人に資するようなコンテンツを作れる余地があるなら積極的に探したいと思うし、
これからは自己満足の代わりにそういうものを作っていくべきなのだと改めて思います。


とりあえず、ブログは今後しばらく自己満足の活動という限定的資源の中でもがくことになりそう。


#7196

30代後半をどう生きるか

今日の出来事人生観

自分は今年の冬で35歳、つまりアラフォーになります。
正直信じたくないし、受け入れられる自信もありません。
アラサーを受け入れられるようになったのもつい最近のように感じられるのに……。


また東京生活も来年で5年目に突入します。
5年というと実家時代に(バイトを除けば)働いていた期間と同じということになり、
現状は実家時代で言えば2018年、辞めよう辞めようと思い悩んでいたころです。
そして東京へのあこがれが強い時期でもありました。
現状、都内からさらにどこかへ転居する必要性は感じないので
6年目以降も同じような生活になっていると思います。ただ、それで本当に良いかと言われると……。


30代後半にやることとしてぼんやりと持っているイメージとしては、
39歳までにフリーランスとして通用するようになるという目標です。
それは30代前半にwebエンジニアとして積み上げた下地を使った第2のステップであり、
確立すれば脱サラリーマン生活が実現することになるため、いまより自由度が生まれると思います。
じゃあその自由な生活で何がしたいのかと言われると、そこはまだ明確な答えを持っていません。
ただ確かなのは、このまま受動的な生活を続けていると後人生で後悔しているであろうことです。


親族の説得を無視して生涯独身を貫く決心をする。それ自体は別に良いと思います。
しかし、じゃあ生涯独身になるとしてその死ぬまでの孤独な人生を何に費やすんだという話。
もうすぐ35歳という年齢になってその辺が確立していないのは非常に痛々しいと思います。
自分の可能性、社会的役割、その他諸々をひっくるめて俯瞰する機会が少なすぎたのでしょう。
結婚してしまえばそれは「家庭のため」と言い切ることができるのである意味楽ですが、
独身を貫く場合は人生の主軸となるものを自分なりに探していかなければなりません。


自分の場合、web制作がそれに相当するものだと思っていました。
しかし現状を冷静に考えてみると、実務シーンでバリバリ意欲的にやっていけているわけでもない。
ピクチャレ大会リメイクプロジェクトはリリースまでは順調でしたが、
その後のメンテナンスはやはりモチベーションとの戦いになってしまっている現状があります。
これではまだ長期的な活動として確立したとは言い難く、
一時的な自己満足の範疇から抜け出せていません。
その程度の活動を人生の主軸として今後も末永くやっていくのは難しいと思います。
10代〜20代はweb制作というよりもこのブログが人生全体の軸になることを期待していましたが、
オフライン運営になってしまったいまとなってはとてもそんなことは言えません。


そもそも人生の軸になるような活動を持っている人は相当に恵まれている人で、
多くの人はそんなものは持っていない、年齢問わず好きなことをやっていればそれでいい、
というような考え方もあると思います。刹那に生きる的な。
せっかくの一度きりの人生、もっと楽しまなければ損だというのは確かにそうです。
そういう意味においても、自分はただ単に好きなことをして過ごしているわけでもなく、
かといって社会的地位が確立しているわけでもなく中途半端なところを漂っている感があり、
それが巡り巡って歳を取ることへの不安につながっているのかもしれません。


30代後半をいかに過ごすかというのは、直近の大きな課題だと思います。
そういえば、ネタバレ厳禁の話題作『君たちはどう生きるか』には
その辺のヒントもあるのだろうか。なんかもっと若い人へのメッセージというイメージですが。


#7197

チョコボレーシングへの熱意

コンシューマーゲームではたいていゲーム機本体を買う(買ってもらう)きっかけになるソフトがあり、
当然ですがそれは他と比べても思い出深いタイトルになることが多いです。
自分の場合、スーファミは『星のカービィ スーパーデラックス』、N64は『ドンキーコング64』、
ゲームキューブは『大乱闘スマッシュブラザーズDX』といった感じ。
Wii Uの『ピクミン3』やPS4の『No Man's Sky』なんかもそれのために本体を買いました。
ニンテンドーDSはちょっと特別で本体そのものへの期待が高すぎて
ロンチタイトルを3本同時に買うという暴挙に出ましたが、その3本とも思い入れが深いです。
ニンテンドー3DSとNintendo Switchだけはあまりこの傾向には当てはまらないかな。
スイッチは『スーパーマリオ オデッセイ』が大本命だったものの、
それより前に身内間でプレイする『スプラトゥーン2』が発売されたので
なし崩し的にそのタイミングで本体を買った思い出。当然オデッセイの方がゲームとしては好きです。


これら本体同時購入タイトルの中でも、
「なんで当時はあんなに熱中していたんだろう?」と不可解なのが、
初代PlayStationの『チョコボレーシング』です。
チョコボレーシングはタイトルからも想像できる通りマリオカートのほぼパクりです。
多少のシステムの違いはありますがほぼマリオカートで、システム的な新しさはありません。
強いていえばストーリーモードをクリアするとその成績をボーナスポイントとして
カスタムキャラクターを作ってパラメータを割り振れる、というのが面白かったですね。
あとは隠しコマンドでぶっ飛んだ性能のキャラをアンロックできたり。あとBGMが良いです。


当時としても真新しさは無いと思うのですが、小学生だった自分は一時期これに熱中し、
これを持っているというクラスメイトの女子の家へ遊びに行ったりもしました。
ただ、なぜそこまで熱中していたのかはいまとなってはわかりません。
当時好きだったコロコロコミック連載の『チョコボのふしぎものがたり』の番外で
チョコボレーシングを扱った話に惹かれたから?
それともコロコロのチョコボレーシング攻略ページを見て面白そうだと思ったから?
最終ステージの「幻界」の雰囲気が好きだったから?


結局親にねだって買ってもらうのですが、買ってもらったのは『チョコボコレクション』でした。
これはチョコボレーシングを含む3作品が入った10周年記念パッケージであり、
『チョコボレーシング』単体ではもう売っていないので仕方なくこれにした記憶があります。
当然最初はチョコボレーシングをやっていたものの、
ほどなくして同時収録の『ダイスDEチョコボ』の方に熱中してしまいました。
これはチョコボコレクションにしか収録されていなかったボードゲームなのですが、
最終的に数百時間はプレイし、PSでもっともやり込んだタイトルになりました。


そういうわけなので結局チョコボレーシングへの熱意はなんだったんだろう……という話になるわけです。
チョコボが好きだったのでチョコボのゲームならなんでもよかった説もありそう。


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