Chrononglyph

信念の問題

#8037

誠実さを積み上げる

今日の出来事信念の問題

2023〜2024年の自分の中で支配的だった「無能な自分を受け入れる」という考えは、
2025年を無気力な1年にしてしまったという反省によって事実上破綻したと思っています。
できて当然のことだけをやる人生に意味を見出すのは難しいということですね。
しかし一方で、そういった発想とそこからの実践によって得た「収穫」も確かにあると思っていて、
これに対して自覚的になることはかなり重要なのではないかと思っています。


そもそも自分が上記のような思想に染まったのは、
それ以前は「自分はこうあるべき」という信念が自分の能力を根拠とするものではなかったという事実があり、
そこからの矯正を目指すためにもまずは自分の能力を正直ベースで自覚しようと思ったからでした。
信念が自分の能力を無視したもので構成されていたのは、
ひとえに考え方が自立していなかったから、つまり他人(社会)の価値観で自分の理想を規定していたからだと思います。
たとえばXX歳になったら〇〇するべき、そうでない人はクズだというような考えです。
しかしできないことをできないと卑下したところで、永遠に解決は望めません。
だったら自分は何ができて、何をすべきなのかをゼロベースから考え直すべきなんじゃないか、
というのが「無能な自分を受け入れる」という思想の根底にあります。
しかし、それをただ愚直に実践しても何も生まないのだということは何度も書いてきました。
やはり人は「いまはできないが頑張ればできそう」な目標があってこそ生きる意味を見出せるのではないかと。


この3年、無能な自分と向き合うことそのものは失敗だったかもしれませんが、
一方で確かな収穫もあると感じています。
それは、最低限やるべきことから目を逸らさない習慣が形成されつつあるということ。
2022年以前の自分はそもそもそれができていませんでした。
睡眠の問題が発生した時期における出勤も然り、3代目ブログ末期におけるブログの存続危機問題然り。
小さいところでは交通費精算書の提出や日用品のストック、病院の予約など。
「最低限やらなければならないこと」が目の前にあるとき、
損失を覚悟してでもそこから逃げ出してしまう決定的な意志の弱さというものが昔の自分には確かにあったと思います。
そしてそれはこの3年で確かに改善してきた。
日課としてのブログは、2024年の4代目移転以降下書きを溜めてしまうような事態には一度も陥っていません。
逃げようと思えば逃げられるけれども、逃げたらどうなるかを痛感しているので逃げずに済んでいる。


つまり、この3年は決して無意味だったわけではなく、
誠実さを積み上げてきたという点においては確かに「成果」と言えるところまで来たのかなと思っています。
また、なによりも最低限やるべきことはやるという基盤の上で活動していると、
諸活動が安定的に発展し続けているという実感があり、これは大きな収穫かなと思っています。
2022年以前の自分はメンタルが沈めばすべてを投げ出してしまっていたので積み上がるものはありませんでした。
そういう不合理な行動は確かに減ったかなと思います。


短期的にはまだまだ誠実になりきれていないところはあるかもしれませんが、
長期的には改善していると言い切れる自信がある。これは強みだと思っています。
そういう意味では、無能な自分からゼロベースで再出発した営みそのものは間違っていなかったのかもしれません。
それをそのままタスク管理に適用しなければいいというだけで。


#7400

続・努力できない人の話

2021年の東京オリンピックの開幕前、
「努力は必ず報われる」という言葉に対して少なからず否定的な意見があることを知った。
いくら努力しても報われない人はいる、そういう人に対する配慮に欠けるというのが主な根拠だそうだ。
僕も数年前まではそれに同調するスタンスだった。
世の中には目に見えない「才能」というステータスがあり、それによって努力できる・できないが決まるのだと。
しかしいまはその考えは捨てた。
そもそも報われない人は努力の仕方や認識そのものが間違っているのだと思う。


まず、人はなぜ努力するのだろうか。
努力の必須条件として目的がある。つまり実現したい「何か」がまず念頭になければならない。
目的を達するために乗り越えるべき課題をこなしていくのが努力だと言える。
目的は本来、その人が自分自身の能力を十分加味した上で合理的、主体的に決めるべきである。
誰もが東大を目指すべき、誰もが金メダルを目指すべきだというのは暴論に過ぎない。
同様に一流企業に入らなければ、年収うん百万円でなければ、結婚しなければ、子どもを作らなければ、
といった固定観念もすべて暗黙のうちに他者から与えられた目的であり、
それを目的とした努力ができないことは本来誰にも責められないはずである。
にもかかわらず、世の中には主体性を欠く目的をセットし続け、
努力できない、努力できないともがき苦しむ人が多いように思う。
なぜなら友人然り、親然り、ネットやマスコミを通じて知る社会常識然り、
その人に影響を与える他人がその人に「あなたはこうあるべきだ」と暗黙のうちに教えているからだ。
ひどいケースでは、それは単に本人というより他者自身の願望にすぎないことさえある。
そうと知らずに「普通の人」を目指して主体性を欠く目的のために苦しむことは努力とは言えない。
それはただただ他人のために生きることに辟易しているだけだ。
他人の人生を生きているかぎり、どんなに年齢を重ねてもそれは他責的な生き方にならざるを得ないと思う。
そこに果たして生きている意味があるのか、僕にはわからない。


他人の期待に応えないことは勇気が要るが、それを恐れていてはいつまでも主体的に生きることはできない。
僕は反抗期でその明暗が分かれるように思っている。
反抗期というのは、他人の要求を突っぱねて自分が主体的に生きることを試みる儀式のようなものである。
そこで徹底的に自由を与えられた子どもはようやく主体的に生きることの心細さや無力を思い知り、
社会の中の一人としての「自分」を確立し、自分が本当に成し遂げたいことを知るための一歩を踏み出す。
その結果、良い結果が得られたならこれまでの苦労を労う意味で「努力が報われた」と思いたいことはある。
しかしそれは単なる結果論で、必ずしも努力と結果が結びつくとは限らないということを多くの人は知っている。
「努力は必ず報われる」という言葉は正しいと信じたいが、
真っ当に努力することすらかなわない人がいるこの世では
もはや決して軽率に使ってはならないセンシティブな言葉に分類されるのだろう。
そういう世の中が「良い」のか否かについてはここでは言及しないでおく。


#7296

35

去年見出した「人は誠実であるべきだ」という教訓をもっとシンプルに掘り下げてみよう。
去年の自分が言うには、自分ができるはずで、かつやるべきだと信じていること(=信念)に対して、
それを怠惰や慢心などによって敢えてやらないという選択をしたとき、誠実さを欠くという。
その意味での信念は道徳的に正しいとか、社会が認めているとかといった価値観よりは、
自分自身が見出している価値観に重きが置かれている。
信念は人生の指針になりうるが、誠実さを欠くことでその存在意義が揺らぐ。


誠実さを欠く事態に陥ったとき、怠惰に原因を求めることは簡単だが
ヒトの本能と言っても過言ではない怠惰をただ否定することは理想論でしかなく現実味が無い。
ときには「やるべきだと信じていること」が本当に妥当なのかを疑う必要もあるだろう。
20代までの人生はまず理想が先行し、
そこから現実までのレールを敷くことで「やりたいこと」を導き出していたように思う。
この価値観では理想から現時点でできることを引いた部分が人生の課題となり、
その課題を克服するために必要なのが努力である。
理想ありきの この考え方は、必要な努力量と現実的に自分ができる量が乖離していることが多く、
理想と現実の引き算を埋め合わせることができずに苦しむことになる。
タスクマネジメントはこの苦しみを分割払いにしようという試みだが、たいていそれにも限界がある。


思春期までなら、夢を描いている「だけ」でも許されていたのかもしれない。
社会人になってからも20代前半くらいまではギリギリ許される余地があったと思う。
しかし、30代からはさすがにそうも言っていられないようだ。
どんなに素晴らしい夢も信念も実現できないなら虚勢でしかない。
30代になってもなおゴールへの見通しが立っていないようでは遅すぎるのだろう。
ただ理想を描けば良いという段階はとっくに終わりを告げており、
ここから先は今現在の自分は何ができて、残りは何が必要で、
これから何をすればいいのかを具体的に言語化していく必要がある。
そのためにはまず、理想から程遠い自分の無能さと改めて正面から向き合わなければならない。
これはここ1年で僕が見出した、信念を掲げるための信念である。


そうやって理想を否定し、自己を否定し、できないことはできないのだと納得していくと、
頭の中にあるあらゆる虚構やまがいものの夢が次々に消えていく中で、
「これだけは」という思いが宿っている信念がわずかに残る。
それこそが30代以降の人生にとってかけがえのないものなのではないだろうか。