続・努力できない人の話
2021年の東京オリンピックの開幕前、
「努力は必ず報われる」という言葉に対して少なからず否定的な意見があることを知った。
いくら努力しても報われない人はいる、そういう人に対する配慮に欠けるというのが主な根拠だそうだ。
僕も数年前まではそれに同調するスタンスだった。
世の中には目に見えない「才能」というステータスがあり、それによって努力できる・できないが決まるのだと。
しかしいまはその考えは捨てた。
そもそも報われない人は努力の仕方や認識そのものが間違っているのだと思う。
まず、人はなぜ努力するのだろうか。
努力の必須条件として目的がある。つまり実現したい「何か」がまず念頭になければならない。
目的を達するために乗り越えるべき課題をこなしていくのが努力だと言える。
目的は本来、その人が自分自身の能力を十分加味した上で合理的、主体的に決めるべきである。
誰もが東大を目指すべき、誰もが金メダルを目指すべきだというのは暴論に過ぎない。
同様に一流企業に入らなければ、年収うん百万円でなければ、結婚しなければ、子どもを作らなければ、
といった固定観念もすべて暗黙のうちに他者から与えられた目的であり、
それを目的とした努力ができないことは本来誰にも責められないはずである。
にもかかわらず、世の中には主体性を欠く目的をセットし続け、
努力できない、努力できないともがき苦しむ人が多いように思う。
なぜなら友人然り、親然り、ネットやマスコミを通じて知る社会常識然り、
その人に影響を与える他人がその人に「あなたはこうあるべきだ」と暗黙のうちに教えているからだ。
ひどいケースでは、それは単に本人というより他者自身の願望にすぎないことさえある。
そうと知らずに「普通の人」を目指して主体性を欠く目的のために苦しむことは努力とは言えない。
それはただただ他人のために生きることに辟易しているだけだ。
他人の人生を生きているかぎり、どんなに年齢を重ねてもそれは他責的な生き方にならざるを得ないと思う。
そこに果たして生きている意味があるのか、僕にはわからない。
他人の期待に応えないことは勇気が要るが、それを恐れていてはいつまでも主体的に生きることはできない。
僕は反抗期でその明暗が分かれるように思っている。
反抗期というのは、他人の要求を突っぱねて自分が主体的に生きることを試みる儀式のようなものである。
そこで徹底的に自由を与えられた子どもはようやく主体的に生きることの心細さや無力を思い知り、
社会の中の一人としての「自分」を確立し、自分が本当に成し遂げたいことを知るための一歩を踏み出す。
その結果、良い結果が得られたならこれまでの苦労を労う意味で「努力が報われた」と思いたいことはある。
しかしそれは単なる結果論で、必ずしも努力と結果が結びつくとは限らないということを多くの人は知っている。
「努力は必ず報われる」という言葉は正しいと信じたいが、
真っ当に努力することすらかなわない人がいるこの世では
もはや決して軽率に使ってはならないセンシティブな言葉に分類されるのだろう。
そういう世の中が「良い」のか否かについてはここでは言及しないでおく。