Chrononglyph

活動方針の問題

#7863

自己承認としての自己紹介欄

これはブログで日々自省や自己批判をしている人の宿命だと思っているのですが、
たとえば「いま、自分はストレスの問題を抱えている」という自覚を抱えていると、
よりストレスを感じる場面に遭遇しやすいです。
ストレスという心の動きに対して意識がどうしても過敏になるわけですね。
同様に、昨今はアイデンティティーの問題を抱えているので、
他人と話すときに「この人はこういうアイデンティティーがある、反面自分はそういうものを持っていない」
という意識をほぼ反射的に行なってしまうので、心理的なダメージを負いやすいです。


一昨日、この問題のゴールは「〇〇の人」と認識してもらうことだということを書きました(#07861 / 2025年06月24日)。
しかしそれはあくまでも問題の終着点を据えただけに過ぎず、すぐ実践できるものではありません。
では足がかりとなるようなことは何かあるのかと考えてみると、
それは単純な推論ですが「何かをやること」そのものが答えなのではないかと感じました。
つまり、アイデンティティーが無いと感じるのは直近の活動停滞が主な原因なのではないかと。
言い換えれば、この悩みは本質的には「最近何もやっていない」ことに対する焦燥感であって、
アイデンティティー(自分らしさ)とは関係が無いのではないかと。
であれば、「〇〇の人」の〇〇に該当するような自分にとって高尚な活動をしなくても、
なんでもいいから活動を再開してしまうのが良いのではないかとふと思いました。


直近で言うと『原神』の第4次ブームやポケポケがある意味それに該当していたかもしれません。
それらは「心の拠りどころ」と言うにはあまりにも心許ないし、
その活動が他者に認知され、「〇〇の人」になれるような見込みもほぼ無い。
しかし、自分が欲しいと思うものを手に入れられる可能性のある具体的なタスクを与えられ、
それに向かって多少なりとも行動しているということ自体が虚無感から遠ざかる効果を持っているのではないかと。
そして、そういうことをやっていないと「自分はなぜ生きているのか」
などといった漠然とした不安を感じやすいのではないかと。


現実逃避と言ってしまえばそれまでですが、現実逃避はある意味現代の生き方でもあると思います。
埋没した個が不自由な自由社会で前向きに生きるためには、何かに酔っ払っていないとやっていられないのだろうと。
しかし文字通りに酒に溺れるわけにもいかないので、こうしてコンテンツを食い潰していくわけですね。
これはアイデンティティーが確立しているとはとても言えないし、
いい歳してまだこのフェーズにいること自体が恥ずかしいと言われれば否定はできません。
ただ一方で眼前の虚無感はどうにかしなければならない喫緊の課題であり、
そのためにコンテンツに身を預けることが有効なのもまた確かです。
何もしないよりはせめてそういうことをやった方が良いというのは一定の説得力はあるんじゃないかなと。


先月に出会った『Balatro』は『原神』のデイリークエスト(秘境最速クリア)よりもゲーム性が豊かで、
やっている分には面白いのは明らかです。
しかし、Balatroに出会ったからといって虚無感が払拭されたとも言えなさそう。
このことから、ゲームの面白さそれだけではこの問題の解決に寄与しないということが言えます。
『Balatro』に無くて『原神』やポケポケにあるものは何かと考えたときに真っ先に思いつくのはガチャです。
ゲーム内に「欲しいもの」が明確にあり、またそれを手に入れられる可能性も明白で、
その羨望を抱いているうちは「現実逃避」的な側面が機能するのではないかという説がまずあります。
『原神』は欲しかったキャラを手に入れた瞬間に下火になったので、
「まだ手に入っていない」ということが重要なのかもしれません。


あとはタスクが向こうから与えられているのも物事の継続性に大きく寄与します。
『原神』は毎日デイリークエストをこなせば課金石を60個(=120円分)もらえるというインセンティブがあり、
そういうものがあるからこそ継続する側面もあるでしょう。
要するにインセンティブがあるからやる副業(ポイ活?)みたいな立ち位置になるわけですね。
受動的にタスクが決まってしまうので、行動選択リソースを消費しないという点ではかなり楽です。


『原神』をしていたときは、Twitterのサブアカのbio(自己紹介欄)に原神のことを書いていました。
つまり、今春までは自分で自分を「原神の人」と認識していたことになります。
「他人に『〇〇の人』と認識してもらうことがゴールだ」ということを冒頭に書きましたが、
それがゴールなら、足がかりはまず自分で自分をある種の活動者として認めることなのかもしれません。
自分で自分を認めるだけなら苦労したエピソードも、華々しい実績も必要無いからです。
とはいえ、bioにクラスタ名を書く以上はそれなりに納得感が必要になるでしょう。
この「納得感」にどういう基準があるのかは個々人によって異なるでしょうが、これも単純な話ではないと思います。
「これは間違いなく好きだな」「最近これの優先度が高いな」という実感があるかどうかでしょうか。


いずれにしろ動機はなんでもよく、ガチャのためにデイリークエストをこなしているだけでも構わない。
とにかくbioに書けるくらい自分が「いまこれをやっている」と自覚することができれば、
現時点で自分が抱えているようなアイデンティティ拡散状態は払拭できるのではないかということです。
それを念頭に置いた上で、「インセンティブが生まれうるかどうか、アイデンティティになりうるかどうか」
などといった打算を考える前にもっと本能の赴くままに着手してみてもいいのかもしれません。


#7861

譲れない何かを探して

先日、アイデンティティーに関する本を読みましたが(#07857 / 2025年06月20日)、
たまたま手に取った本にしてはかなりいまの自分の悩みの本質に近いところを突いていると改めて思いました。
が、問題は解決していません。
あの本は問題提起ができただけで、著者も断っていたように解決方法は提示してくれませんでした。
それでは困るので、もっと深掘りして解決方法を探していかなければなりません。
そのためにより専門的な本を読むというアプローチもありますが、
こういう個人的な問題はブログを書いて自省することも比較的有効な手段です。


若い頃のアイデンティティーが失われているというのは、いまの自分にとってそれなりに深刻な問題です。
そしてこれは、青年期後期〜中年期に特有の問題なのでしょう。
かつての自分は、ゲームに対する愛のようなものがアイデンティティーとして確立していました。
幼少期〜思春期前期は家族であらゆるゲームが一番上手いプレイヤーとして、
スマホゲーム黎明期前後には情報収集強者として家族がプレイするゲームを提案する者としての立場がありました。
またそうやってプレイしてきた無数のゲームの中でも特に好きなゲームについては、
「これだけは譲れない」という気持ちから周囲の誰よりもやりこんだり、攻略サイトを作ったりしていました。


自立すると「周囲の人」は主にネットの向こうにいる人になりました。
そこでは自分の腕前は通用せず、単なるゲームのやり込みによってアイデンティティーを保つのは難しくなりましたが、
それでもテトリスなどの一部のゲームやスマホゲームなどのニッチな分野ではそれなりの腕前を自負していたし、
代わりにweb制作やイベンターとしての立ち位置を獲得することもありました。
先日、これらの活動は「インセンティブが無いからもう無理」と切り捨てていますが(#07855 / 2025年06月18日)、
幼少期から地続きとも言えるこれら活動をインセンティブが無いからスッパリ辞められるかと言われると、
その「割の合わなさ」に継続が難しくなっているとはいえ、完全な断絶はなかなか難しいところがあるのが現実です。


こうした自分とゲームを取り巻くアイデンティティーの歴史を振り返って思うのは、
自分はなんらかの活動をすることによって他者に「〇〇の人」と認知されたいんだろうなと思います。
それこそがアイデンティティーの獲得だろうと。
こう考えればゲームをプレイするだけでアイデンティティーを獲得することが困難なのは明白です。
やり込みで「〇〇の人」と呼ばれるためにはテクニックなどの第一発見者になるか、トップに立たなければなりません。
後者は相当ニッチなカテゴリならトップを取れるかもしれませんが、
あまりにもニッチすぎるとそのアイデンティティー自体に価値を見出すことが難しくなるでしょう。
イラスト活動に活路を見出したのは、成果物が千差万別であり競争社会ではないからという理由も大きいです。


web制作活動は決定的に割に合わないと思いつつもなかなか捨てられないのは、
オンリーワンなサイトを完成させて世間に認知させればそれだけで「〇〇の人(管理者)」になれるからでしょう。
確かにその方面なら実績もあるし、やろうと思えばできる気がする。
「〇〇の人」になれる可能性としては比較的有望なのかもしれないと思うわけですが、
一方でオンリーワンでしかも継続的に運営を続けるためには、まず自分がテーマとなる文化に精通しなければならない。
そのハードルが非常に高く、「浅く広く」な主義の自分がそこまで深掘りする機会がほぼ皆無という現実があります。
それは、「〇〇の人」と呼ばれるからにはそれに相応しいテーマでなければならない、
というアイデンティティーの都合もあるのでしょう。
つまり、自分がそれに対して「これだけは譲れない」と思えるかどうかが重要だということです。
「やろうと思えばできる」という程度の信念ではアイデンティティーは確立しない。


なのでまず自分自身が「これだけは譲れない」と思うほど熱量を預けられる文化と出会う必要があるし、
「〇〇の人」と認識してもらうためには他者との関係性も絶対に必要だということです。
しかもそれは単に他者承認を満たせれば良いという単純な話でもありません。


もちろん物事を持続可能にするためにはインセンティブが重要だというのはその通りですが、
それはあくまでも自分がやりたい活動が明確になってからの話。
いま、自分は中年期を前にしてアイデンティティーの再構築期に差し掛かってきており、
今後の活動方針についてはいったんインセンティブの有無は抜きにして考えた方が良いのかもしれません。


#7855

ブログに注力する

このまま行くと、2024〜2025年(あるいは来年も)は後年から見て趣味の過渡期と評価されるようになると思います。
あるいは、バトンを渡すことに失敗した場合は「虚無時代の始まり」という烙印を押されるかもしれません。
いずれにしろ、趣味活動は重要な転換点に差し掛かっていると思うので、改めて整理していきたいと思います。


まず、趣味活動を継続させるためのモチベーションについては、
そもそも社会的承認を求める活動は「仕事」と同義であり、つまり仕事における賞罰と同じものが必要になる。
「本心」(=内発的動機づけ)だけを頼りにするのは間違っているという結論に至っています(#07840 / 2025年06月03日)。
そもそも自分が「無償でもやりたい」と思うまで待つというのは非合理で怠惰の正当化に過ぎないと。
なので、趣味活動もインセンティブがあるからやるのだという仕組みに乗せて粛々とやるべきだと改めて思いました。


そして、現状の趣味(特にweb制作)はその意味でのインセンティブがありません。
1円未満のニッチな活動をするにしても、その代替と考えられる承認欲求さえも満たされない。
自分は22年もの間web屋さんを自称してきましたが、これはもう明確に限界を迎えてしまったと思います。
少なくとも、明確に誰かから求められているわけでもない以上は不毛だと言わざるを得ない。
先日、新本家サイト復興の話が再浮上しましたがこうして考えると論外でしょう。
もちろん、そこに需要がある可能性はあるし、やろうと思えばできるのも事実。
web制作というプラットフォームの構造が自分の性格の深いところとマッチしていて、関心を持ちやすいのも事実。
ただ実際問題として完成してもそれだけで何も起こらない公算の方がはるかに高いという現実があります。
それはSEO問題しかり、プロモーションの難しさしかり、web制作特有の問題であると言わざるを得ません。
そこまでを包括的にビジネスと割り切ってできるかと言われると、正直怪しいです。
よって、これを持続的に個人活動としてやっていくのは無理があるというのが現時点の結論です。
自分が作りたいサイトを求めている人と直接出会わないかぎりは新規サイトの制作はもう難しいでしょう。
いままでもこの不毛さに薄々気づきながらも「100%自己満足だから構わない」と目を背けていた時期がありましたが、
その自己満足という行動エンジンがそもそも信用できない以上はもう無理だと思います。
「〇〇に興味が湧いたから〇〇に関連したサイトを作る」という構想はネット活動黎明期からたびたび浮上しましたが、
それで成功したのは2006年のピク3同盟が最後と考えるとあまりにも時代錯誤で、
今後は妄言として切り捨てることになると思います。


ではどうするのか。
2025年時点でweb制作の代替として挙がっているのが、ブログをメインポータルとした文筆活動および一次創作です。
ブログは19年かけてインセンティブ無しでも継続できる下地が完成しましたが、
今後は少しずつ「インセンティブがもらえない前提で活動しつつインセンティブをもらう余地を作る」方向にシフトする、
というのが現時点で有望な施策です。
具体的には年初にもチラッと書いたとおり「独り言」の出張記事を書くとか、
現在制作中の創作が完成したらその世界観をイラストに起こしてPixivに投稿するとか、
要するにブログのコンテンツをさらに磨き上げ、より人目につきやすい場所に投稿するというものです。
軌道に乗ってきたら投げ銭ボタンを設置したりパトロンサイトのアカウントを取得するなどすれば
これが名実ともに「仕事」になり、新しいネット活動として盤石になっていくでしょう。
このロードマップは、インセンティブが無くても継続できる時点ですでにweb制作よりも有望に思える。
となれば自分は今後の人生、よりブログに注力すべきなのではないかということです。


そうなると2023年まで活動の主軸だったピクチャレ大会が完全に動線から逸れてしまうわけですが、
そもそもこれはサービスとして完成しているので
改修・アプデはコミュニティからはもうそこまで求められていないという認識です。
アプデしないからコミュニティの期待を損なっている、みたいな考え方はもう辞めました。
そもそもピクチャレ大会改修こそが割に合わない活動の代表格みたいなものなので、
活動をちゃんと持続可能にするためにはまずこれに依存することを辞めないといけないわけです。
もちろん、それはただちにピクミンコミュニティを離脱するというわけではありません。
ピクミンを継続したいならせめてプレイヤーとして再出発するのが妥当だと思っています。
もちろんゲーマーさえも卒業しかけている自分にその選択肢は本来あり得ないわけですが、
もうそれ以外にこの道で生き残る術はないということです。