凶器的な祝辞
今年度の東京大学学部生の入学式で、
来賓祝辞としてグローバルファンドの馬渕さんという方が登壇したのですが、
グローバルファンドの偉い人でエボラ熱の解決に貢献したり、
新型コロナ禍の災厄を二度と起こさないための提言をするなど偉人のような人の力強い言葉が、
多くの人を感動させたとしてTwitterでバズっていました。
自分もその祝辞を全部読みましたが、ある一言に大きな衝撃を受けました。
「自分の夢に関わる本当に好きなことをやらないと、それを徹底的に突き詰めることはできません。
また、好きなことをやっていないと、幸せの尺度が『自分が他人にどう評価されているか』
になってしまう。それではうまくいかないときに持たないです。
他人の評価を気にする他人の人生ではなく、
自分がやりたいことに突き進む自分の人生を生きてください。」
(令和5年度東京大学学部入学式祝辞 より引用)
自分は昔から承認欲求不満であり続けてきたし、
いまでも承認欲求そのものを否定して生きるのは難しいと思っています。
誰かに認められるから頑張るというのは、仕事や趣味などにおいて自分を突き動かす動力です。
でも一方で、それが自分が思っているように制御できないという悩みもずっとありました。
他人に認められるために水面下で努力することは時に困難を伴い、
ある意味自分を騙しながら進めていくことになります。
最近はもう自分を騙し騙し進めることが当たり前になってきたので、
自分にとって本当に好きなものだけをする、なんていうことは考えてもみませんでした。
誰かに認められたいから頑張るというのは、頑張った結果思い通りの評価がもらえなかったとき、
他人に幻滅したり、自分の不甲斐なさに腹が立ったり、とにかく精神的に良いことがありません。
それが他人とのトラブルにつながることもあります。
また行動のエネルギーの出所を承認欲求に依存するということは、
裏を返せば他人が評価しないことは最初から頑張れないということでもあります。
本当にそれが好きじゃないと一流になれないというのは薄々感じていたことです。
どんな界隈も、だいたいトップまで上り詰める人というのは純粋にそれが好きな人です。
例えば野球で言えば大谷翔平やイチローといった人は
ひたすら野球が好きだという雰囲気が滲み出ているし、インタビューなどでもそれが伺えます。
ただチヤホヤされたいがためにコミュニティに入ってくる人は、
そもそもプロフェッショナルレベルにはなれないし
構ってもらえないと分かった瞬間にあっけなくリタイアしていきます。
そういうある意味残酷な事実があるなかで、それじゃあ自分にとって「本当に好きなもの」
ってなんだろうと考えると、思い当たるものが無いんですよね。
「誰かに認められたいからやっている」ということを真っ向から否定できる活動が無い。
なぜなら自分は幼少期からずっと承認欲求ありきで生きてきたからです。
他人の顔色を伺い、他人の欲求を満たすことで自分も満足してきた。
それが間違いだったとは言いませんが、
本当に自己完結するような活動が無かったのも事実です。だから趣味も浅く広いのでしょう。
「本当に好きなもの」を持たない自分にとって、
馬渕さんの祝辞はある意味では自分の人生観を強く否定する凶器のような言葉です。
自分がなぜこれまでうまくいかなかったのかを端的に表している気がする。
人は、歳を取ってからも「本当に好きなもの」を見つけることはできるのでしょうか。
もはや自分はその答えがNOではないことを祈るしかありません。
承認欲求については
去年の時点でいったんそれを否定することはできないという立場に落ち着きましたが、
この祝辞を読んでまたイチから考え直さなくてはならなくなった気がします。