土俵に上がらないということ
ここ五年くらいの自分の心境変化を顧みてみると、
競争原理からドロップアウトすることは個人をかなり楽にすると思います。
自分たち現代日本人は、生まれたときから他の誰かよりも優れていることが善いことで、
他の誰かより劣っていることは善くないことであるというような価値観を植え付けられて育ちます。
受験戦争や自由恋愛、就職活動やその後のポスト争いと人生の要所では他人を競うことは避けられず、
そこで落ちこぼれれば人生そのものを否定されるような価値観はいまだ根強く残っています。
しかもSNS全盛期に突入した昨今は個人的な活動もステータス化され何某かと比較され、
ある意味で競争を余儀なくされるような時代です。そして競争に勝てば幸福になれる(気がする)。
こういう世の中に生きていれば、
人生は椅子取りゲームのようなものであると思うのも無理はありません。
事実そういう側面もあるでしょう。
そういう社会がさも当然であるかのように思春期を生き抜いた自分たちにとって、
競争原理を否定することは難しい問題であるように思います。
デジタルネイティブであるいまの10代、20代はもっとシビアにこの問題を捉えていると思います。
しかし、そもそも果たしてこの世の中は本当に競争に勝てないと幸福になれないのかというと、
そうとも限らないのではないかというのがここ近年の自分の考えです。
たとえばYouTuberのような動画配信が流行っている昨今。
表面的に見れば「チャンネル登録者数が多い人はそうでない人より偉い」と思いがちです。
それはそれである意味正しいのかもしれませんが、
一方で動画活動という土俵に上がっていない人もたくさんいるわけです。
そういう全社会的な人をひっくるめてチャンネル登録者数が多い人が偉いと言い切るのは難しい。
何を持って偉いとするかという尺度が人や活動によって全然違うからです。
競争原理の渦中に生きていると、YouTubeが流行れば登録者数を追い求めたくなるし、
Twitterが流行ればフォロワー数を追い求めたくなります。
ただそれは客観的に見れば流行り廃りに振り回されている側面が否めず、
活動がその人自身の適性に合っているのかどうかとか、
本当にやりたいことなのかとかといった観点が抜け落ちています。
流行している土俵で勝ち上がればそれ相当にもてはやされるので
自分もそうなりたいと願うのは当然の欲求ですが、それこそが自分を見失う罠のようにも思います。
以前も書いたように、自分はできないことを夢として掲げるのは愚かだと思っています。
それは適性が無いのにYouTuberになろうとするようなことを指しています。
個人の活動というのは、流行り廃りのような社会的な価値観によって決めるものではなく、
自分が本当にそれを好きなのかどうなのかという尺度で決めるべきなのだと改めて思います。
自分はかつて、こういう観点を持っていなかったのである意味振り回され続けて生きてきました。
そして結果を出せない現実に苛まれ続けてきたわけです。
でも、競争の世界から降りて自分の好きなことをやっていればいいんだと割り切っただけで、
同じような活動をしているのに以前と比べて格段に気持ちが楽になりました。
やりたいけれどできないことはできない、
ならば自分にできるのは何なのだろうかと広い視点を持つことができるようになったわけです。
従来は「やりたい、やりたいけど……」と唱えるだけで延々一歩も前に話が進んでいませんでした。
他人と競争することはときとして自分の限界を越えるのに有効なので
競争自体を否定するわけではありませんが、負けることが明らかな勝負をできるだけ避けていくのは
現代の処世術として大事なのかもしれないと思う今日この頃です。