迷案の話
去年から今年にかけて僕の中では一定の説得力があった「無能である自分を受け入れる」というスローガンは、
しかしただちに人生を改善してくれる魔法の言葉というわけではなかった。
確かにそれ自体はれっきとした事実であり、また重要な教訓であることを疑う余地はない。
自分を顧みず不相応な夢や目標を抱き続けることは不毛に人生を費やすことに他ならず、
それは誰よりも本人が豊かに生きることを阻害する。
たとえそれが世間では「できて当たり前」と言われるようなレベルの目標であってもだ。
自分が成し遂げたいことは、果たして「本当に」自分が成し遂げたいことなのか胸に手を当てて考えてみる。
実はそれは、暗黙のうちに社会あるいは身近な他人によって刷り込まれた価値観なのではなかろうかと。
できないことが明白なら、あるいはそれが本望でないと感じているのならそれを望むことほど愚かなことはない。
可能性があるから人は努力できるのだとすると、自分の能力を呪い、それを直視しないかぎり努力などできるはずもない。
その意味での努力をしないかぎりあらゆる可能性は成就せず、一歩も前に進むことはない。
ゆえに「無能である自分を受け入れる」ことは確かに飲み込むべき正論であることに異論はない。
そうして僕は世間が求めるいわゆる「当たり前」の定義がときに不相応たりうることを観念し、
それでもなお自分が確実にできることに基づいて次の一歩を見定めようとした。
しかし、その先にある景色はこれまでの夢物語と比べてあまりにも地味で、チープで、レベルの低い世界だった。
「他人が認めてくれる」という不相応だが煌びやかな夢と比べると、それはあまりにも味気なかった。
もし、その地味な道へ行くことが合理的に正しかったとしても、
そこに向かって努力するための燃料を僕は持ち合わせていないように感じられた。
それは、自分ができることは他人にもできるのだろうからこの先へ行く価値を見出せない、
という一種の驕りがまだ残っているからだと思う。
僕はどこかでまだ「自分だけは特別でありたい」という他人本位な願望を捨てきれていないのだ。
どこまで行っても社会的欲求は付きまとい、本当に自分がやりたいことが何なのかを考えさせてくれない。
そもそも、それが本当に存在するのかさえ疑わしい。
仮に特別になりたいという高慢さをも捨て、確実にできることに基づいて粛々と活動することが正しいとするならば、
率直に考えればそこに生きる意味を見出すのは難しいように思う。
人生にかくあるべきというようなものはなく、
「こうあらねばならない」と盲信しているものは他人から刷り込まれた他人本位の願望でないか疑ってみる。
また、自分ができることを再確認して身の丈に合わない夢や目標は切り落としていくべきだ。
しかしだからといって従来思い描いていた空想を全否定すべきかというと、それもまた早計である。
夢や目標を整理していくと、いまはできないがこれだけは譲れないと思うようなものが残る。
それはそれでお守りのように取っておいてもいいのではないかと僕は思う。
表向きは、自分の能力と正直に向き合った上で決めた目標を粛々とこなしていく。
しかしそれだけでは人生に希望を見出すことはできないので、夢は夢で頭の片隅にしまっておく。
それは「こうあらねばならない」というような人生を規定するものではなく、未だ実現しないからこそ日々の希望になる。
誰でもなく自分自身がそれを見定めることに、きっと大きな意味があるのだろう。
「無能である自分を受け入れる」というスローガンは、それ自体にまだいくばくかの高慢さが含まれており、
また愚直に実践すると人生における希望をも切り捨ててしまう危うさがある。
しかしそれにさえ気をつければ、目標を整理し合理化することそのものはとても有意義な営みだとは思う。
人生が迷宮のようなものだとしたら、これら思索は次に確かな一歩を踏み出すための方位の呪文である。