本気になれる何かを探して
先日の東大入学式祝辞で承認欲求を否定する衝撃的な言葉と出会い、
自分にとって承認欲求を否定しうるほどの「本当に好きなこと」ってなんだろう……
と考えています。そしてそれは、直感的にはいまの自分は持っていないように感じられます。
ここで、「本当に好きなこと」に対する自分の現時点での理解は、
他人に認められたり認められなかったりすることとは関係なく、
自分自身の内側にある好奇心などの根源的な欲求によって継続していける活動のことです。
もしも他人に一切認められないことが明らかなら辞めてしまうであろう活動は当てはまらない。
本当に好きな活動をしているかぎりは、
「他人に認められたから自分は素晴らしい」「他人に認められなかったから自分はダメ人間だ」
というような価値観に依存することなく活動を継続することができるはずです。
ただ、それは「他人に評価されなくても継続する活動」とは
必ずしもイコールではないような気がします。
先日それに当てはまる例としてこのブログを挙げましたが、
自分の正直な気持ちを省みると、執筆活動を「本当に好きなこと」とするのは無理があるように思う。
長年やっていれば自動的に「本当に好き」になるとは限らないということです。
より直感的には、「本当に好きなこと」とはある程度夢中になれることが条件のように思います。
幼少期〜思春期と違って歳を取ったいまは夢中になれるものが無くなってしまったから、
いまの自分は「本当に好きなこと」を持っていない。
……しかし、それは本当に正しいのでしょうか。
そうやって突き詰めていった先に思いついたのは、
「本当に」好きであるかどうかはそれに対する思いや意識の強さなどではなく、
目標(夢)に対して結果として完遂できたかどうかによって決まるのではないか、ということです。
どれだけ継続しているかという時間的尺度や熱意などの精神的尺度は関係ありません。
目的を達成せずダラダラと継続しているだけだったり、
熱意だけで行動しなかったりするのは「本当に好き」とは言いがたいということです。
逆に言えば、短期間でも熱意がなくても、
途中経過がどうあれ目標を達成できたならそれを堂々と語れるはずなんです。
他人に堂々と語れるかどうかというのはそれが本当に好きかどうかを測る尺度になると思います。
それを踏まえて昨今の自分を省みると、
何かを「完成」させる経験が圧倒的に不足しているように感じました。
往々にして、興味を持って少し触れるだけならどの界隈も比較的簡単にできるし、
少し触れたことを持って「興味がある」と自称することは嘘にはなりません。
しかしその界隈の中で何かを成し遂げたいと願ったとき、それを実現するのは困難を伴います。
その困難を、「誰かに認められたいから」という原動力で突き進んでいくこともできるけれども、
それは仮に他人が想定通りの評価をしてくれなかったときにすべて瓦解します。
そういった他者評価に依存することなく困難にも立ち向かっていくモチベーションがあり、
結果的に何かを成し遂げられたのなら、
それこそが自分にとって本当に好きなものなのではないでしょうか。
これは別に大それたことばかりではなく、日常的にも起こりうることです。
ゲームが面白くていつの間にかオールクリアやトロフィーコンプリートしてしまったのなら、
それは本当に好きだからでしょう。いわゆる「ハマる」というやつです。
ど素人が作曲したいと思って1曲完成させたのなら、それはきっと作曲が好きだと言えるでしょう。
その後、YouTubeにアップしてちっとも高評価がつかなかったとしても。
昨今の自分は何一つ成し遂げていません。ただ幅広く手を出しているだけです。
本当は手を出しているそれぞれのジャンルで成し遂げたいことはあるのですが、
あえてそこから目を背けていたような節があります。
もしかすると、それが昨今の人生にワクワク感をなかなか見出せない原因なのかも……。
いつからそうなってしまったのかと振り返ってみると、
2021年でアニバーサリー企画や年末企画を事実上廃止したのがひとつの転機だったように思います。
それ以前は、年間で一番興味のあることを年末企画という形でアウトプットすることで、
苦労は多かったもののその分自分なりに満足することができていたように思います。
まあ……社会人になってからはそれもほぼほぼ破綻していましたが。
リミットを決めてそれまでに何かを完成させるというのは、
「本当に好きなもの」を本気で探すためのアプローチとしては有望な手段なのかもしれません。
今年、余力があったら年末企画を復活させてみましょうかね……。