自己欺瞞の掃き溜め
近年ブログがなかなか捗らない問題について、ひとつ仮説を思いつきました。
それは、ブログが捗っていた時代は「自己正当化したい」という欲求があったからこそ
その捌け口としてのブログ執筆が捗り、結果として習慣化していたのではないかと。
ここで自己正当化とは、〇〇できていないのは××のせいだから自分は悪くないという主張です。
できていないこと、とは言い換えればやらなければならないと自覚していることで、
それをやらないことは自分の主義や立場に反するような場合が当てはまります。
それは簡単なタスクであることもあればとても実現不可能な理想に過ぎないこともある。
それでも、それを「やるべき」と確信してやらなかったら自己欺瞞に陥ります。
そこで、やらなかったことの正当な理由(××のせい)を挙げることによって、
本当にそれを「やるべき」なのかどうかを再確認しているわけです。
再確認の作業は、単なる現実逃避であることもあれば筋が通った論理であることもありますが、
まあ大筋としては単なる言い訳であることに変わりはありません。
概ね上京以前の自分は、まず理想があってそこに向かっていくことで現実の諸問題を乗り越えていく、
というような人生観があったと思います。
だから常にその理想が妥当であるかどうかをチェックする必要があって、
それが先述のようなプロセスによってブログで行われていた節があるのではないかと思います。
だからこそブログは生活において非常に重要な地位を占めていたわけです。
上京以後の自分は、どちらかというとその逆の考え方をするようになったように思います。
現実で何かをすれば、それが将来の何某かに影響を与えるんだというような考え方。
まず理想を据えるやり方は往々にして現実的な自分の能力を度外視してしまう傾向にあるため、
理想と現実のズレを矯正していく中で自分の能力の低さに幻滅してしまい、
結局大きな下方修正になってしまいがちです。それはもうそろそろうんざり。
年齢的にもそろそろ夢を見るような段階ではなくなってきているわけで、
こういう風に人生観が大きく転換したのは年齢的な意味でも自然なことなのではないかと思います。
ただ、そうするとブログで何を書けばいいんだろうという話になってくる。
いままではいわば理想を下方修正するための機能としてブログ執筆という行為があったのに、
それがすっぽり抜け落ちてしまったとなるとこのブログは「ただの日記」になるわけです。
元々がそういう目的で設立したのでそういう意味では本意だし、
延々言い訳を垂れ流したところでブログとして有意義だとは思えません。
ただ一方で、日々の出来事、話題、その他考えたことを文章化するという作業は、
言い訳をしたいという動機が無いとなかなか後押ししてくれる欲求が無いのだと改めて感じます。
近年のブログがなかなか安定しない理由はその辺にあるのではないかと、ふと思いました。