Chrononglyph

#7759

表現活動とコンプレックス

ポケモン対戦専門YouTuberのインゲンさんが、
ルンパッパの解説動画 の「後語り」としてコンプレックスについて話していて興味深かったので引用してみます。


インゲンさんはもともとポエマーで、独特でテンポの良い言い回しをするのが好きだったと言います。
新しい言葉を覚えたらすぐ使う性分で、それこそ未就学時代からそうだったそうです。
しかし、それは「恥ずかしいこと」なので大っぴらに他言することができずにいました。
そこで、ある意味その恥ずかしい物事を正当化するために作詞家を目指し、
しかし当初は作詞家として仕事をもらえるレベルでもなかったので
架空の歌詞を考えて掲載するwebサイトを作ったりもしたそうです。


やがてそれが信頼できる人の目に留まり、仕事をもらえるきっかけになり、インゲンさんは思いました。
世間からはみ出している「恥ずかしい」と思う部分こそがその人の長所であり、
その長所は自分に救われるのを待っている人にとっては確かな一助になる。
コンプレックスは恥ずかしいとか恥ずかしくないとか思っていてもそれを答え合わせをする機会など無いのだから、
むしろ堂々としていればいいのではないか、と。


……まさかルンパッパの対戦動画を観に行ってこんなに打ちのめされるとは思いませんでした。
自分もおそらく世間一般の人々よりも「言葉」が好きで、だからこそ20年以上このブログを続けています。
もう知っている人はさすがにいないと思いますが、ブログ黎明期にはポエムも書いていました。
そういう意味で、インゲンさんとはかなり近しいタイプの人間と言えなくもないかもしれない。


自分もこの物書きという活動は「恥ずかしい」と思っています。
少なくとも、軽率に他人に見せるものではないだろうと。だからTwitterのプロフにもリンクを貼っていません。
まぁ自分の場合はブログという性質上、どうしても個人の意見を書かざるを得ないところがあるし、
その絡みでコンプライアンスの問題や炎上リスクといったものがついて回るため一概には言えませんが、
それを抜きにしてもブロガーであることは積極的に誰かに教えるものではないと思っています。
昔はそうではなく、こういう考え方になったのは割と近年になってからです。
ネット社会の成熟や、自分自身の成熟に伴って
ブログのような媒体でお気持ち表明することが前時代的なものに見えるようになったのかもしれません。


ここでの諸活動における「恥ずかしい」と「恥ずかしくない」の違いはなんなのでしょうか。
これは2つの考え方があると思います。まず、その活動そのものに対する先入観。
ポエマーだから恥ずかしい、小説家なら恥ずかしくない、といったようなものですね。
しかし「詩人」にも表舞台でプロとして活動している人がいる以上、それはあまり恥ずべきではないように思います。
AI絵やゲーム改造、切り抜き動画など倫理的な問題をはらんだ活動となるとまた話は変わってきますが……。


もうひとつはその活動に稚拙さがあるかどうかという問題。
他者や自分が許容するレベルと比べてまだ十分熟達していないと「恥ずかしさ」は感じると思います。
それが慢心によるものなら、インゲンさんの言説とはまた違う文脈で乗り越えるべきハードルでしょう。
一方、自分なりに十分やっていると思えるのなら堂々としていればいいのではないかとは思います。
他者から見れば稚拙かもしれなくても、いまの自分の精一杯であればそれは活動に値するでしょう。


これらの「恥ずかしさ」は他人に評価してもらって箔がつくと一気に解消するイメージがあります。
だからこそ、人は自分の活動を正当化するために他者承認を求めがちだし、
一度他者承認を得られた活動は簡単に切り捨てることができません。
一方、他者に認められていない状態だと、ついついそれ自体が「稚拙」で「恥ずかしい」ものだと思うものです。
しかし他者の目に留まるかどうかとクオリティの高低は必ずしも相関しないため、
それなりに頑張っていて倫理的な問題が無いのなら堂々としていればいいのではないか、というのは頷けます。


自分が本当に感銘を受けたのはそこから先です。
インゲンさんの言う、自分の尖っている部分こそが誰かの一助になりうるという考えには膝を打ちました。
他者と違うからこそ自分のコンプレックスになり、また長所にもなる。
他者と違うからこそ誰かにとっての「特別」になりうるのだという考えはとても救いがあります。


まさにインゲンさんの言説が自分にとっての一助になったわけですが、
同じように自分がブログで展開してきた数多くの言説がいつか誰かの一助になってほしいと改めて思いました。
『モモ』で有名なドイツ作家のミヒャエル・エンデはある対談でこんなことを言っています。



ある人たちが価値やアイデアを考えだし、こちらの人たちが、こう言うわけです。
「そうだ、僕がいつも感じていることを、言ってもらえたぞ。僕には表現できなかっただけなんだ。
だが彼は、ぴったりと言ってくれた。」
私たちにできるのは、まさにそういうことです。(『芸術と政治をめぐる対話』より)



エンデの言説が正しければ、すべての表現者は誰かの一助たり得ると言えるでしょう。
しかし自分は文筆活動をすることを「宿命」だと思っていますが、まだ「使命」と思えるには至っていません。
エンデやインゲンさんが言うことを実感できる領域にいつか達することができればと思いながら、
ひとまずはこれからも粛々と書き続けることにします。



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