ゲーマーに向いていない
なんというか、自分という人間を根幹から否定しかねないあることに気づいてしまいました。
「もしかして自分はそもそもゲーマーに向いていないのでは?」という。
ゲームを取り巻く文化は好きで、それはもう後戻りできないところに来ていると思う。
でも、「ゲームをプレイする」という体験が好きなのか……これは近年かなり疑わしいところがある。
最近で言うと『Apex Legends』『風来のシレン6』、
あと最近ちょいちょい復活しようとして結局成果が出ていない『ピクミン4』などなど、
ここ1年のゲームプレイを思い返すと結果が出ていないだけでなく、
イライラしているケースが多いことに気づきました。
実生活、それこそ仕事よりも圧倒的にゲームでイライラする機会の方が多い。
実生活は基本的に「すでにできること」で構成されたルーチンであり
無理に「できないこと」に真正面から立ち向かう必要は無く、
したがって挫折を経験することもあまりありません。
ゲームに関しては少なからず理不尽を強いられることもあり、
またゲームプレイの結果で他者に認められようと思ったらかなり高いハードルを越える必要があります。
かといって他者承認無しだとそれはそれで虚しさを否定できない。
そしてそのハードルを乗り越える途中で生じるストレスに、もう自分の心が耐えられないんですよね。
昨日も知り合いの前で『風来のシレン6』をプレイしていたのですが、
理不尽な死に方をしてかなりイラッとしてしまいました。
継続していたら知り合いからの心証を悪くしかねないと思ったのですぐやめましたが、
「本当は楽しいはずのゲームでなんでこんな気持ちにならないといけないんだろう……」
と思ったのも事実です。
とはいえ、ゲームの面白さとはそういったストレスを乗り越える過程にこそあり、
心に負荷がかかるのを一切排除したところでゲームは楽しめないでしょう。
金銭(ガチャ)、時間(放置系)など別のコストを差し出すならまた話は違いますが。
過去にこのブログで何度も書いている通り、
自分はゲームをプレイする動機を他者承認に強く求めてきたという経緯があります。
これは2016年以降、もはややり込みプレイをしなくなってから特に顕著ですが、
ゲームをするようになった時点で家族という一緒にゲームをする相手がいたという点では、
幼少期の頃からすでに「他人に認めてもらいたいからやる」という動機があった可能性も否定できません。
他者承認関係なくゲームをすることもゼロではないのですが、比率としてはごく小さい。
年に数日あるかどうかといったレベルで、少なくともメインの趣味とは言い難い。
自分は幼少期からずっとゲームに親しんできたので、ゲームがメインの趣味だと思っていました。
しかしその実、もうプレイヤーとしてはとっくに衰えていて、
趣味とは言えないレベルにまでなっていたのではないかと改めて感じました。
他者承認を動機とするゲームプレイを一切排除すると、
2016年以降はほとんどゲームはしていないということになってしまうからです。
とは言えこの考え方は、ストレス耐性が極端に低くなっていて
「ゲームを楽しむ」というレベルにすら達していない、というのが根本要因という前提がありますが、
それ自体を生み出している要因がゲームそのものにあると限らないのがこの問題の難しいところです。
実は仕事など他の何かのせいでストレス耐性が低くなっていてゲームは楽しめないものの、
「ストレス耐性が低い」という要因を取り除けばゲームは心から楽しいと言えるのかもしれない。
まあ、いずれにしろ何も考えずにゲームを楽しめるような状況ではないのは確かです。
もはやゲームも仕事と同じく、心身ともに健康でないと着手は難しいということなのでしょう。
これがそもそも加齢によるものなのか否かについてはなんとも言えないところですが。