自分に期待しないということ
過去を振り返ると、2018年ごろから2022年までの自分はかなりのメンヘラ気質であったと思います。
2019年にブラック会社を辞めたことで明確に回復するわけですが、
この状況から本当に脱出したと初めて実感したのは2023年初頭に旧Twitterのタイムラインを久々にみたとき、
他人のつぶやきを偏見抜きで読めたと感じたときでした。
それまでの自分にとっては、旧Twitterは「自分ばかり認められない不公平な場所」であって、
そこにいるユーザーは「自分を認めてくれない人」「何かにつけてマウントを取る人」でしかなかったのが、
そういう認識は誤りだったということを実感を持って知ることができたわけです。
このことからも心の調子と他者承認は切っても切れない関係にあることは疑う余地もなく、
メンヘラ時代からの脱出するためのキーワードになったのが
『嫌われる勇気』を読んで学んだ「他者に期待しない」という考えでした。
この視点が無かったら自分はいまでもメンヘラであり続けたと思います。
しかし、「他者に期待しない」というのは本当に正しいのかどうかについては、まだ結論が出ていません。
部分的には人は他者に期待せざるを得ないところがあり、それに応えて然るべきときもあると思うし、
何もかも他者に期待しないということは、それはつまり信頼関係をも否定するということなのではないかと。
改めて「他者に期待しない」というのはどういうことかを整理してみます。
まず考えられるのは、自分の希望を達成するのに必要な要素が他者に依存してはいけないということ。
他者というのは基本的に自分がコントロールできない範囲の要素であり、
それが思い通りに動く前提で自分の希望を思い描くのは明らかに正しくありません。
まして、それがうまくいかなかったことを他者のせいにするのは筋違いも甚だしいわけです。
これは、善意に対する見返りを期待してはならないということでもあります。
自分が善意で他人に尽くしたとしても、
同じことを他人がしてくれなかったからと言って不平を言う権利はありません。
善意はあくまでも無償であって、見返りを期待するならそれは強いて言えばビジネスであり、
善意を与えたから善意を求めるというのは単なる価値観の押し付けでしかないわけです。
2023年初頭にヘラったイトコはこのケースなんじゃないかといまでも思っています。
これが正しいなら、いわゆる「良い子」に育つとメンヘラになりやすいのかもしれません。
これらの考え方は、いまのところ正しいと思っています。反例もすぐには思い浮かばない。
ただし一方で、徹底して他人に期待しないからこそ、生活がつまらなくなってしまうというのもあると思います。
要するに他者承認を否定しているわけですから、
この考え方だと他者承認を目的とする一切の活動は不毛だという結論に至るわけです。
ネット活動なんかは特によく当てはまります。
「いいね」をもらえたりもらえなかったりして一喜一憂するという以前に、そもそもつぶやかなくなる。
結局この考え方を推し進めると孤独になるのではないかと思う昨今です。
やはり人間は社会性あってこその動物である以上、
他人に期待することにリスクが内在するとしても、そうせざるをえないところがあるのではないかと。
そもそも他者承認に依存して心を病むのは、
他人への期待というより自分の期待に応えられない自分への失望に由来するのではないかと思います。
他人が認めてくれないというのは目に見える結果でしかなくて、
実はその裏にある自分の不甲斐なさにこそ心を病む原因があるのではないかと。
他人に期待しないというより「自分に期待しない」という方を意識する方がもしかしたら健全なのかもしれません。
これはここ最近の「無能であることを受け入れる」という考え方にも通じてきます。
ただ、これも言葉尻を捉えて愚直に実践すると無気力で自堕落な生活になると思います。
この辺はおそらく成功体験を積み重ねていくしかないのでしょうが、
それにしても期待するというのは自分にしろ他人にしろ難しいものだなと改めて思う今日この頃です。