達成感について
昨日、『メテオス』20周年に際して記念に「レイヤーゼロ」のフルスロットルクリアを動画に残そう、
と思い立ち、実際に30分程度でさほど努力せずにフルスロットルクリアはできました。
しかしその動画がやや斜めにズレていたのとスコアがやや低かったので、
もうワンテイク撮ってそれを成果として投稿したいという気持ちが湧いてきました。変に妥協したくなかったわけですね。
しかし、フルスロットルというのはそう滅多にクリアできるものではありません。
その後2時間半ほど頑張ってみましたが結局惜しいところまで行くもののクリアはできず、
03月10日のタイムリミットを迎えてしまいました。
まぁでもよくよく考えてみれば20周年記念とはいえ観る人はほぼいないだろうし自己満足だからいいか、
と少し斜めにズレた動画を補正して投稿するに至りました。
この行為は、「承認欲求を得たい」という目的を前提として合理的に考えれば間違っていないと思います。
わずかなスコアとこだわりのためにこれ以上頑張っても得るものは皆無で、明らかにコスパもタイパも悪い。
しかし自分の正義に関する観点から見ると、合理的に正しいからこそ罠があるのではとふと思いました。
これは、なにげにここ数年の自分の価値観をひっくり返しうる気づきです。
2022年の自分は、社会と協調するためには「自分ができ、かつすべきだと思うこと」を不足なく遂行すること、
すなわち誠実であることが重要だと考えました(#07100 / 2023年05月26日)。
2023〜2024年の自分は「自分の無能さを積極的に受け入れる」ことが一種の心の防衛として働くことに気づくものの、
後期にはその実践は人生の希望をも切り捨ててしまう危うさがあると分析しました(#07600 / 2024年10月06日)。
これらの過去の自己分析について改めて噛み砕いてみると、
まず2022年当時は、社会に出ると個人としての自分にはさまざまなことが要求されている(ように思える)けれども、
自分のスキルレベルを無視して表面的な「すべきこと」に立ち向かおうとすると人生が破綻してしまう。
そのため、その中から現実的に何ならできるのかをしっかりと点検して、
「できる」かつ「すべき」ことだけはしっかりやっていこうというのが「誠実であるための条件」だと考えました。
しかし、2023年に入ってそれを実践していく中で、
「できる」と認識しているものを粛々とこなすだけの生活にはなかなか希望を見出しづらいことが判明しました。
無能さを受け入れることで挫折する経験が無くなりストレスフリーな生活は実現できたものの、
同時にワクワクするような何かに出会う可能性をも切り捨ててしまっていたわけです。
改めて振り返るとこの考え方には重大な欠陥があることが分かります。
すなわち、自分ができる範囲ですべきことを遂行することを「誠実」とするならば、
自分が何もできないなら何もしないことが「誠実」であることになってしまうということです。
この考え方は突き詰めると怠惰や慢心の正当化になりかねません。
事実、だからこそ2024年以降の自分はさっぱり結果を出せていないと感じているのだと思います。
「レイヤーゼロ」のフルスロットルプレイで妥協スコアが出たとき、
妥協なきラインまで突き詰めるのは当時の自分にしてみればできるかどうか際どかったわけです。
そして、「できたらいいな」という一縷の希望を携えて挑戦した結果、結局できなかった。
しかし挑戦したという行為からは、ここ数年感じたことのないようなエネルギーを感じました。
いまの自分に足りていないのはまさにこのチャレンジング精神だったのではないかと。
そしてその精神を枯らしてしまったのは他でもなく近年の信念に関する誤解だったのではないかと気づいたわけですね。
できることはやり、できないことはやらない。言い換えれば、できないことをできると言わない。
そういう意味での誠実さは社会を歩く上で重要です。
しかしどうやら個人の活動に関しては必ずしもそうとはかぎらないもよう。
「できるかどうか分からないが、やりたい」のであればやってみてもいいのではないかと改めて思います。
挫折したり達成したりする中でのみ得られる栄養も見えてくる景色もあるでしょう。
いま結果を出せていないと感じているのは、実際に成果物があるかどうかというよりも、
ここ最近何かに挑戦した経験が圧倒的に足りないからなのではないかとも思います。
確かに、誇大妄想に囚われて自分のスキルをあまりにも度外視してしまうのは問題がありますが、
「頑張ればできるかも」というようなラインを攻めることは日々を充実させるためにも重要なのではないか、
とレイヤーゼロと遊んでいて改めて思った次第です。