タコウインナーのその先
往年の課題でもあるモチベーションの問題に根ざしている、
「本当に好きだと思えばこそ後回しにしてしまい、それに触れる勇気が出ない」という問題。
このブログではこれをタコウインナーの法則と呼び、不定期に考察してきました。
2014年当時の自分は、「本当に好きだからこそ神聖視し、
それと『客観視した自分』の不甲斐なさのギャップがお互いの間に壁を作っている」
というような分析をしました(#03900 / 2014年10月07日)。
対して6年後の再考察では、好きなのに着手できないのは
「着手することで理想通りにならない可能性から逃げ続けることができるから」
と考えました(#06097 / 2020年08月29日)。
両者の考えは見る角度が違うだけでたいていはどちらも当てはまっています。
根底には成功体験があまりにも少ないことによる自己否定感、自信のなさなどが関係しているのでしょう。
これは好きな人、好きな文化、好きな食べ物、好きな場所などさまざまな「好き」に関わる問題ですが、
さらに言えば自己実現にも関わっているところがあると思っています。
長年やりたかったことにもタコウインナーの法則は適用され、
自分の例で言えば「創作」に関わることは一番実現したいことであるという自負がありながら
実に20年近く着手できておらず、普通に考えてこのまま行けば実現することはできずに終わると思います。
一方で、未練みたいなものは確かに頭の隅にずっとあり、もうやらないという決断はできない。
こんな体たらくなのに「いつかは着手したい……」といまだに思い続けている自分がいるわけです。
我ながら「だったらやればいいのに」と心底思うのですが、ここまで分かっていてもできないんです。
これらを踏まえた上で昨今改めて感じるのは、
人は心の状態と行動に矛盾が生じるような行動は強く抑制されるのではないか、 ということです。
好きなことをする、というのはその人にとって少なからずポジティブな意味合いのある行動です。
そういった行動は本来「嬉しい」「楽しい」「ワクワクする」といったポジティブな感情が伴うものであり、
真逆の感情、つまりストレスなど心理的負荷がかかった状態でポジティブな行動ができないのは当然と言えます。
つまり好きなことに向き合うには、ある種の心の余裕が必須になると。
さらに、その心の余裕を得るために身体的・金銭的・社会的・時間的自由を確保することが重要と考えています。
- 身体的自由は3大欲求が適度に満たされていること(食べ過ぎ・寝過ぎなど過剰に満たされているのもNG)。
- 金銭的自由はある程度自由に使えるお金が手元にありお金に関する心配が無いこと。
- 社会的自由は年齢相応にやるべきことをやっていて人間関係に関する心配事が無いこと。
- 時間的自由は自分専用の自由時間がある程度確保できていること。
ハラスメントや貧困に悩んでいるような状況で、推し活を心の底から楽しめるとは思えません。
人は楽しいことよりも心配事の方に心を引っ張られがちです。これは種の生存戦略から来る本能でしょう。
つまり、タコウインナーの法則による行動抑制を克服したいのであれば、
やるべきことをやっていない後ろめたさ、あるいは生活を脅かす心配事を整理する必要があるわけです。
それらから逃げ続けてきたことこそが、好きなモノと向き合えない要因になっているのではないかと。
このことから、好きな何かを思い浮かべることを阻害されている場合は心の余裕が無いと判断することができます。
自分はかつて、好きなものを想像するとインモラルな描写によって無理やり阻害されるという、
電波を受信しているんじゃないかというような症状に困っていたことがありましたが(#06903 / 2022年11月10日)、
それも潜在的に強い切迫感、不安、心配があったからなのだと納得できます。
それ以来、創作に関する着想や愛猫の写真・動画などの心の底から好きな概念と向き合えるかどうかというのは
心の状態を測るリトマス紙として機能しています。
これらのことは少なくとも自分のこれまでの人生には大小様々な形でよく当てはまっています。
大学生活では、2024年現在もなおこの世で一番だと思っている異性との出会いがありましたが、
一方で当時はバイトしないといけないのにしない、
生活リズムは崩壊して単位は落とすなど大学生としては散々だったため、
それに対する後ろめたさ、劣等感などは非常に強くありました。
もし、それらが無く一端の大学生として堂々としていられる前提があったなら、
2011年のあの局面で告白しないという選択肢はあり得なかったと思います。
そしてその後もなんだかんだで人間関係トラブルや健康の問題、負の感情との戦いが続いてきました。
2024年現在、フルテレワークによる睡眠の問題の改善に加えここ数年のコミュ力の向上と自尊心の変化で
主に人間関係を原因とするネガティブな問題はかなりきれいになりましたが、
一方で上京後には収入が増えたことでむしろ負荷が大きくなった金銭問題や
テレワークを起因とする仕事のやり甲斐の問題が新たに浮上しており、
まだまだ心の余裕を実現できそうにありません。
唯一2021年のみ、人間関係もある程度清算した上でまだ金銭問題もさほど深刻になっていなかったので、
だからこそあの1年間はさまざまなことに興味を抱き、そしてそれに行動力も伴っていたのでしょう。
あの好奇心に溢れている状態こそが本来の自分だと信じたいものです。
自分の場合、長期的に見て一番大事なことから逃げ続けてきたという自覚があるので、
この負け組人生は自己責任だと思っているし、もうこれを根本的なところから覆すのは不可能だと観念しています。
ただ、ポジティブな行動を抑制する「心配事」は、
書類不備で返送された郵便物をまた出さないといけない、というような短期的に面倒くさいトラブルもあれば、
生まれつきの能力の低さでなかなか就職できない、交通事故で半身不随になった、
などといった独力ではどうしようもないことも多くあるわけです。
これらを一緒くたにして自己責任論に結びつけるのはあまりにも短絡的で乱暴なので、
どこかで一定の線を引く必要はあろうかと思います。解決可能か否かで分けるとかですね。
体感的に、ネガティブな物事が心配事になるかどうかの閾値は歳を取るほど上がっていく(心配事になりにくい)
ような気がしますが、この辺は主観的な経験則だけではなんとも言えません。
確かに言えるのは心配事から逃げれば逃げるほどそれの解決を難しくするということです。
年齢が上がれば経験値も積み重なって解決できるハードルは下がっていくのが自然ですが、
逃げ続けてきた人生では経験値が少ないのに心配事の難易度は上がる一方なので逆にハードルは上がると思います。
これもまた短絡的な考えかもしれませんが、この辺が人生の明暗を分ける要因なのかもしれません。
ここ15年くらいの自分は、心の底から物事を楽しめない、
上っ面だけで芯の通っていないような人生を歩んでいる実感がありました。
今回、長らく正体が分からなかったその原因についに腕を突っ込んだような気がします。
いや、ずっと目を背けていた原因とようやく向き合う覚悟ができたと言うべきか。