自責論の隙を探す
自分はどちらかというとかなりの自責論者であると思っています。
これは基本的に議論というのは自分にとって「よりよくするための足掛かり」を得ることを目指すものであり、
であればこそ「もう変えられないことに原因を求めることは不毛である」(#07491 / 2024年06月20日)という信念があるからです。
つまり、自分という個人は基本的に社会を変えられないのだから、社会に原因を求めても仕方がない。
さらに言えば、社会だけでなくその構成要素であるところの「他人」も同様です。
他人は基本的に変えられない(干渉できない)。
何かできるとしたら、他人との関わり方に関して自分の行動様式を変えるだけです。
自分のこの考え方は、2018年以降の脱メンヘラ期において
他人(社会)には基本的に期待できないんだという価値観が経験則によって強化されてきたことに依るものと思われます。
自分が抱く「他人にこうあってほしい」という願望は願望でしかないと分かってきたということですね。
とはいえ自責論も無敵ではなく、どんな議論も自分に原因を求めれば良いということでもありません。
たとえば過去の行動、あるいはそれに基づく価値観などは変えようがありますが、
一方で「自分」の中にも自分が望んで得たわけではない変えられない特性というものがあり、
これも基本的に「変えられない」ので議論の場では社会や他人と同じような扱いになります。
要するにある問題や改善点について議論するとき、それは単に自他というラインで原因や責任を切り分けているのではなく、
「変えられる何かをどう変えるか」という筋に沿った議論のことを有意義な議論だと捉えているということです。
ただ、ある概念に対して変えられるか否かというのは、個々の立場や価値観にかなり依存しそうな予感がします。
自分は社会は個人では変えられないと思っていますが、社会問題に対して意識の高い人はそうは思わないかもしれません。
個々人ができる範囲で活動すればそれが累積して社会を変えるんだ、という主張も理屈としては分かります。
つまり、ここで変えられる・変えられないと言っているのは本人の切実度にけっこう依存するんじゃないかなと。
自分が実践している自責論的な議論というのは、足元のメンテナンスにすぎないのではないかと改めて思います。
とはいえ、それ自体が大きく間違っているとも思っていません。
個人ができるのはせいぜいそういう積み重ねで少しずつ改善することくらいだと思っているので。
ただ、それはそれとして、変えられないと直感したものをただそれだけで議論の舞台からおろすのではなく、
いちおう「見る側の視点を変えたらもしかしたら変えられるかも?」と考えてみることはやってみてもいいのかも。
自分には他人にも通用するような真理を追い求める余裕もキャパシティも無いですが、
あまりにも個人的すぎることを延々考えるのもそれはそれで不毛と思われ、
説得力を持たせたいと思えばこそ、もう少し客観視することに骨を折ってみてもいいのかなと思った次第です。