Chrononglyph

価値観の問題

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#8160

自責論の隙を探す

自分はどちらかというとかなりの自責論者であると思っています。
これは基本的に議論というのは自分にとって「よりよくするための足掛かり」を得ることを目指すものであり、
であればこそ「もう変えられないことに原因を求めることは不毛である」(#07491 / 2024年06月20日)という信念があるからです。
つまり、自分という個人は基本的に社会を変えられないのだから、社会に原因を求めても仕方がない。
さらに言えば、社会だけでなくその構成要素であるところの「他人」も同様です。
他人は基本的に変えられない(干渉できない)。
何かできるとしたら、他人との関わり方に関して自分の行動様式を変えるだけです。
自分のこの考え方は、2018年以降の脱メンヘラ期において
他人(社会)には基本的に期待できないんだという価値観が経験則によって強化されてきたことに依るものと思われます。
自分が抱く「他人にこうあってほしい」という願望は願望でしかないと分かってきたということですね。


とはいえ自責論も無敵ではなく、どんな議論も自分に原因を求めれば良いということでもありません。
たとえば過去の行動、あるいはそれに基づく価値観などは変えようがありますが、
一方で「自分」の中にも自分が望んで得たわけではない変えられない特性というものがあり、
これも基本的に「変えられない」ので議論の場では社会や他人と同じような扱いになります。
要するにある問題や改善点について議論するとき、それは単に自他というラインで原因や責任を切り分けているのではなく、
「変えられる何かをどう変えるか」という筋に沿った議論のことを有意義な議論だと捉えているということです。


ただ、ある概念に対して変えられるか否かというのは、個々の立場や価値観にかなり依存しそうな予感がします。
自分は社会は個人では変えられないと思っていますが、社会問題に対して意識の高い人はそうは思わないかもしれません。
個々人ができる範囲で活動すればそれが累積して社会を変えるんだ、という主張も理屈としては分かります。
つまり、ここで変えられる・変えられないと言っているのは本人の切実度にけっこう依存するんじゃないかなと。
自分が実践している自責論的な議論というのは、足元のメンテナンスにすぎないのではないかと改めて思います。
とはいえ、それ自体が大きく間違っているとも思っていません。
個人ができるのはせいぜいそういう積み重ねで少しずつ改善することくらいだと思っているので。


ただ、それはそれとして、変えられないと直感したものをただそれだけで議論の舞台からおろすのではなく、
いちおう「見る側の視点を変えたらもしかしたら変えられるかも?」と考えてみることはやってみてもいいのかも。
自分には他人にも通用するような真理を追い求める余裕もキャパシティも無いですが、
あまりにも個人的すぎることを延々考えるのもそれはそれで不毛と思われ、
説得力を持たせたいと思えばこそ、もう少し客観視することに骨を折ってみてもいいのかなと思った次第です。


#8152

欲望は服を着る

これはまだ掘り下げ不足な持論ですが、主に劣等感や自己不信、無力感などをケアする文脈において、
「いまの自分は、おおむね自分が望んだ通りになった結果だ」という考え方があります。
これまでのブログではあまり言語化してきませんでしたが、自分の信念に通底している考え方のような気もします。


たとえば自分はいまに至ってもなお独身であり、いろいろ弁解はしていますがそれに対する劣等感は拭いきれていません。
おそらくパートナーが欲しいという欲求があるのは間違いないのですが、現実はそうなっていない。
その理想と現実の差異に嫌になることが長い目で見てまったく無いかと言われれば嘘になります。
しかし、思い返せばこんな自分にもパートナーを得るチャンスというのは幾度となくあったはずなんですよね。
2011年のあの日をはじめとして、その前後も自分の働きかけ次第で進展するチャンスは何度もあった。
そしてあのとき確かに、自分にそのボールが回ってきてどうするか選べる自由を与えられたはずなんです。
しかし自分はいずれのケースもパートナーになるかもしれない人に接近しない選択肢を自分の意思で選んできました。
その結果としての現在があり、つまりこれは自分が望んだ状況だということです。


パートナーとまでいかなくても、承認不安に陥って話し相手が欲しいと思うことはよくあります。
それも深刻な悩みで、だからこそ先日は第5のコミュニティに属したいという話を書きました(#08147 / 2026年04月06日)。
しかし一方で手放してきたコミュニティも数多くあり、
人間関係を増やすことそのものが必ずしも自分の生活を豊かにするとはかぎらないということは薄々分かっています。
つまり、孤独感を感じる現状も、自分の性格を踏まえた上で望んで作り上げたものなのではないかと。
単に人が恋しいだけならとうの昔からコミュニティ探しに動いているだろうし、
コミュ力や趣味などそれを阻む問題があるならせめて実家暮らしを継続すれば家族との距離なら近づけられる。
しかし現実はそこまで真剣にコミュニティ探しはしてこなかったし、
実家に至っては自分から距離を置いているようなところがあります。
他人と話す機会も、その気になればDiscordなどコミュニケーションアプリの利用時間を増やせば
いくらでも増やすことはできますが、あえて絞って一人時間を確保しているようなところがあります。
にも関わらず、一方では寂しいからと第5のコミュニティを探そうとしている。


これはそもそもクリティカルに波長の合う相手でないと承認不安は取り除かれない(?)という問題もあり、
コミュニティの数を増やすことは本質的な解決にならないということに注意が必要なケースではありますが、
結局のところ自分個人の価値観と社会の価値観のズレからくる歪みなのではないかとも思っています。
コネは多い方が偉い、独身よりも既婚の方が偉い、年収は高い方が偉い、SNSのフォロワーは多い方が偉いなどなど、
社会は個人のステータスに基づきランキング化し、「より上を目指さなければならない」と煽動しているように見えます。
そしてそれに乗らない人は「負け組」で「怠慢」なのだという後ろめたさが多かれ少なかれあります。
実際のところその方が「社会は」合理的なのでしょう。
しかし、それはあまりにも個別の事情を無視した支配的な価値観であると言わざるを得ません。
仕事に人生を賭けたい人もいればワークライフバランスを重視する人もいるし、
自分のように一人時間を比較的重視する人もいれば常に誰かといないと落ち着かない人もいる。
そこに本来優劣は無いはずなのですが、人間どうしても他人と比べたがる生き物なのでいかんともしがたい。
多様性だなんだと言われて久しい世の中ですが、競争原理を否定できないのは人の性のような気がします。


問題は、自分が何かを望んでいるとしたら、それを本当に望んでいるのは誰なのかということです。
本心は一人でいる方が気楽なのに人前では彼氏/彼女が欲しいと言って憚らないような人の場合、
それを望んでいるのは本人ではなく実は社会で、本人はその価値観を着ているに過ぎないのではないかと。
そして自分に選択権を与えられた場面では意識的にしろ無意識的にしろ「裸の自分」の価値観が望む方を選び続けてきた。
その結果の総体こそが「いまの自分」なのではないかと思うわけです。


7年前にも似たようなことを書いていて、
当時の主張を要約すると「人生は選択の連続で構成されており、
その選択はそのときどきにおいて可能なかぎり最善を選んできたはずである。ゆえに人生は自分の思い通りになっている」
というようなことを書いています(#05600 / 2019年04月21日)。
また過去の自分はいまの自分を構成するという考え方は古くは17年前にも書いていて(#02000 / 2009年09月01日)、
当時この考え方は日記を書く自分の信念のような位置付けでした。
自分史を文章にして受容し、解釈し、自省した結果としていまの自分がいるということです。
もしかしたらこの辺が自分哲学の核のひとつになるのかもしれません……が、
まだ十分に自己批判してきた考え方ではないので、それは今後の掘り下げ方次第かなと思います。


#8017

嫉妬の根源を整理する

いわゆる既婚者などの恋愛市場における「成功者」に対する嫉妬は思春期以降長く続く負の側面であり、
昨今は元同僚の結婚によってその感情がいまもなお根強く残っていることを自覚せざるをえなくなりました。
この問題は単に恋愛観・結婚観のみならず自分のアイデンティティーにも深く根ざしている問題でもあり、
解決はそう簡単ではありません。
しかし一方で、今後も嫉妬し続けるのは明らかに不毛であり、人生に悪影響を及ぼす可能性を否定できず、
乗り越えられるなら乗り越えるべきハードルとして認識しています。
今回、良い機会だったので多少深くまで掘り下げてみました。


まず、自分の周りにはわかりやすい比較対象として既婚者が2人います。仮にAさん、Bさんとします。
この2人は以下のようにわかりやすい差異があります。


  • Aさん:30代半ばで、自然恋愛の結果として結婚した。客観的に見て清潔感のあるイケメンで、コミュ力は高い。
  • Bさん:40代前半で、結婚相談所を利用してすぐに結婚した。容姿は平均以下で、業務スキル・コミュ力ともに低い。

自分はAさんに対しては嫉妬心をいっさい抱きませんが、Bさんに対しては強く嫉妬します。
これは、Aさんは日頃から人としての基本ステータスを高めるために継続的に努力していて、
しかも対人スキル・業務スキルをも高めようとするモチベーションが客観的に見て高いので、
そうした努力を払った結果としての結婚という捉え方ができるのに対して、
Bさんは努力とは無縁にも関わらず結婚相談所という制度を利用してお金の力で結婚しているという認識だからです。
つまり、結婚は努力の結果であるという前提に基づくとBさんの結婚は不当な報酬なのではないか、という考え。
そもそもBさんは実家暮らしなのでお金が貯まることさえ本人の努力の結果ではなく、単に運が良かったからです。
そういう意味でも独身かつ地方出身の一人暮らしからはなおさらアンフェアに映る。


では結婚相談所を利用した結婚は「ズルい」のかというと、ここは信念との兼ね合いでそう見えるのかなと。
結婚相談所は、まず第三者の介入がある時点で主体性に欠けています。
「赤の他人である誰かに選んでもらった『いますぐ結婚したい相手』と結婚する」という側面を否定できないわけです。
世の中のカップルが交際開始してから結婚に至る平均年数は3.4年だそうですが、
自然恋愛の結果として結婚する人は少なくない時間コストを払って人間関係を十分に成熟させてから結婚しているわけで、
結婚相談所を利用したスピード婚はそうした段階をもカットしてただ結果としての結婚を追い求めています。
つまり彼らは、交際相手と深く分かり合った結果として結婚をしているというよりは、
ステータスとしての「結婚」を得たいがために活動しているという事実を否定できません。
必死に勉強して受験戦争を勝ち抜いて大学進学する高校生も
「学生という肩書きがとりあえず欲しい」と思って通信制大学にお金を払って入学する社会人も、
過程や実態に大きな差はあれど、それぞれ「大学生」という肩書きに違いはありません。
恋愛結婚と見合い婚(結婚相談所を利用した結婚)にもそれと似たようなものを感じます。
合法な制度としてあるルートを利用することは悪とは言えない。
けれど、そこまでして結婚したいかどうかというのは個々人の信念(自尊心)に依存すると思います。
そして、ある種の信念を持つ人にとって、結婚相談所の利用はある意味「誠実でない」ように見える。


また、結婚に必要なものは突き詰めると、見た目の良さや異性としての魅力といったステータスよりは、
ある程度の年収と結婚してから死ぬまで共同生活をするに値する価値観の一致です。
つまり、過程としての恋愛は必ずしも必要なわけではないというのが重要なポイントになると思います。
そう言う意味で見合い婚はその人の異性としての魅力や見た目、
その他社会的ステータスが全面的に肯定されなければ成婚しないというわけではなく、
その意味では価値観が一定程度一致する相手と「契約」を取り交わしたにすぎないという見方もできます。
「運命の相手」などというものは存在し得ず、価値観さえ一致すれば究極的には誰でもいいわけです。
そこに果たして愛は介在しうるのか、はなはだ疑問です。
「幸せ」を価値基準の中心に据えたとき、恋愛結婚と見合い婚の価値は大きく乖離している可能性は否定できない。
もちろんそれは一般論であり、個別具体的にはそうでないケースもあるでしょう。


ただ、事実として結婚相談所には行き遅れた人をメイン層として男性の約3倍の未婚女性が待ち構えていて、
彼女たちは(社会的外圧のせいで)必ずしも主体的に婚活しているわけではありません。
自分は、そういう人が結果としての結婚をした結果、軽率に選んだ旦那との共同生活が嫌になってしまい、
かといって不倫や離婚をする勇気も無いのでただひたすら陰口を言って発散しているケースがあるのも知っています。
「旦那デスノート」みたいなサイトはそういう受け皿として需要があるということなのでしょう。
こういう実態も考慮すると、見合い婚は幸せになるどころか地獄の始まりになる可能性すらある。


自分はBさんの容姿と基本ステータスのみを知った上で、
「結婚した」という報告を聞くとどうしても嫉妬してしまう。
自分が得ている情報だけではBさんが不当に利益を享受して幸せになっている可能性を否定できないからです。
しかしここまで考えてきたように、一般的にイメージする恋愛結婚と見合い婚の実態にはおそらく乖離がある。
自分がイメージするような結婚そのままの幸せを享受していない可能性も十分あるということです。
しかし、実際にはどちらが正しいのかは第三者には知る由もありません。
ここが大きな問題で、このように情報の不足によってどちらもありうるが、
どちらか一方だった場合に自分にとって著しく都合が悪い場合、そちらの可能性を強く意識せざるを得なくなります。
これは嫉妬心のメカニズムであり、理屈では「どっちも半々でありうる」と分かっていてもどうにもなりません。
きれいに50:50で分けて考えることができないわけです。
これが一般的な心理作用なのか、一種の「ゆがみ」なのかは分かりません。


ただ、「ゆがみ」であるとしたらそれは他人のことを自分ごととして捉えてしまうという「ゆがみ」なのかもしれません。
メンタルが弱っているときに陥りがちなことです。
自分はこれまでの人間関係トラブルの反省として、他人に期待することは基本的にはするまいと心に決めました。
その決心はこれまで比較的順調に続いてきたように思っていましたが、
この嫉妬も言うなれば「結婚に関する決断はきわめて慎重に、自由かつ誠実に準備したうえで為されるべき」
という個人の信念を他人に適用しているからこそモヤっている側面も否定できません。
つまり自分だけのルール(信念)で他人をはかり、他人がそれを逸脱しているので怒っているにすぎないのではないかと。


また、「自分がその立場だったらしないことを他人がしていると怒りを感じる」というのは
昨今のSNSの炎上の基本的な動機でもあると思います。
だから著名人はきわめて慎重なコンプライアンスを運用せざるを得なくなっているし、
その息苦しさはすでに個人にも蔓延しています。
こう書くとこの問題は倫理をどう捉えるかというところに行き着くような気もします。


さらに言えば、結婚に対する嫉妬心は時代が生み出した偏見と捉えることもできると思います。
人類史全体から見て、恋愛結婚が「当たり前」だった時代はほんのここ50年ほどの新しい概念であり、
しかもすでに廃れ始めているように思います。
自分はその50年のど真ん中に生まれた世代であり、恋愛は素晴らしいもの、ロマンチックなもの、
そしてその終着点として結婚があるという「常識」を周囲の大人やメディアによってさんざん刷り込まれてきました。
見合い婚やマチアプなどのシステムを使った恋活・婚活はその常識に反するものであり、
世代的価値観の観点から受け入れるのが難しいという見方もあると思います。
自分よりもっと上の世代はお見合いが一般的だったし、下の世代はマチアプが一般的なので、
ちょうどその狭間に生まれてしまった、ある意味では不幸な世代と言えるでしょう。
「時代のせい」で片付けるつもりはありませんが、思春期に植え込まれた偏見というのはきわめて強力な思想であり、
これを否定することは思春期の体験を否定することにもなりかねません。


果たしてこれは信念など価値観の問題なのか、メンタルの問題なのか、倫理の問題なのか、はたまた世代の問題なのか。
恋愛と結婚という問題はそれらが交わったところに存在する、ひときわ厄介な案件なのだと改めて思います。
自分が結果的に生涯独身を選ぶことになったとしても、それまでにこのテーマが片付いているのかさえ分かりません。


#7910

頭の良し悪しの再々定義

一見すると絶対的な基準がありそうではあるものの、人によって回答が千差万別となる命題に、
「頭の良さとは何か?」というものがあります。
7年前にも考察していますが(#05358 / 2018年08月23日)、いまの価値観で再び掘り下げてみます。


直感的には、それは学歴によって客観的基準が作られているように見える。
しかし学歴というのは(少なくともセンター試験時代までは)要するに知識のみを問うものであり、
大脳のリアルタイム処理能力、つまり論理的思考力やコミュニケーション能力などは問われないという点で、
実際には頭の良さの一部(基礎知識量)に対する評価と考えるのが妥当でしょう。
高学歴だからといってコミュ力が高いとは限らない(偏見ですが、むしろ低い人の方が多い)わけです。
知識の優位性は技術革新が進むほど後退しており、
また生涯学習をしない人にとっては学生でなくなってから日数が進むほどそのステータスは形骸化していきます。
後述のことも考慮すると学生生活をただ大学受験のためだけに費やすのは、
結果的に学歴を得られたとしても「頭が良い」とは思えません。


もちろん、同様にコミュ力だけ高くてもそれだけでは頭が良いと言えないし、
論理的思考力もそれなりに有望そうに見えますが、
たとえば論理の暴力を振りかざして倫理が欠けているような人は「頭が良い人」というより「小賢しい人」です。
それは「本人だけが『頭が良い』と思っている」という状態だと思います。
かといって、倫理観で卓越していれば頭が良いと言われるわけでもない。それは単に「良い人」です。
しかし、じゃあ「頭が良い人」と認められるためには、知識量や論理的思考力、コミュ力は不要で、
社会に擦り寄るチカラさえあれば良い……というわけでもありません。


個人的な考えでは、「頭が良い」というのは基本的には脳の総合力であり、
また具体的には脳の総合力を応用した環境(社会)適応力だと思います。
その後者は5年前の読書録で考察した結論と共通しています(#06170 / 2020年11月09日)。
つまり知識量、論理的思考力、コミュ力といった頭の良さに必要な各ステータスは基本的にはひとつも欠けてはならない。
なおかつ、置かれている状況で合理的にすばやく問題解決できなければならない。
これができない人はどんなに特定のステータスが飛び抜けていても「頭が良い」とは言えません。
また、いわゆる「地頭」はこの意味で言う総合力を指していると思います。
つまり地頭は学歴などがそのまま当てはまるのではなく、
諸々の頭で処理する能力の高さが「総合的に高い状態」であることを評価する言葉であるということです。
ちなみに、地頭が悪くていずれかのステータスが顕著に低くても、
他のステータスで環境にうまく適応さえできていればそのコミュニティでは「頭が良い」と言われうると思います。
つまり、頭が良い状態と地頭が悪い状態は両立するということです。


あと、この文脈で基礎ステータスとして「知識量(学歴)」「論理的思考力」「コミュ力」「倫理観」を挙げましたが、
もちろん本当の意味で地頭の良さを決めるステータスはこれだけではありません。
たとえばこの手のブログを書き続けるのに不可欠な「語彙力」「文章構成力」なんかも当てはまるし、
場合によっては一見すると関係なさそうな「身体能力」も脳の機能に関係しているなら該当しうると思います。
極端な運動音痴は「地頭が良い」とはみなされないという感じですね。


そういうわけで我々の脳みそにはさまざまな尺度のステータスがあるわけですが、
個人的にはこれからの時代は「発想力」の地位がどんどん上がっていくんじゃないかと思っています。
発想力、つまりアイデアを独創するためのチカラ。
これも頭の働きによって生み出されるものであるため「頭の良さ」に関わってくることは確かである一方、
「知識」「論理」「倫理」は今後AIが全部教えてくれるのでどんどん形骸化していくでしょう。
一方、AIをどう活用するかといったことは結局各個人が独力で考えるしかなく、
むしろそれこそが人間の役目になっていくことは明らかです。そういう意味で発想力はどんどん重要になっていくはず。
まぁ、もしかしたらもう少ししたらそれすらもAIが肩代わりする時代が来るのかもしれませんが。


しかしどんなに技術が発展しても、人はなんらかの環境に適応して生きていかねばなりません。
それに必要な最低限の能力というのはあるはずです。
こうして考えていくと、結局「コミュ力が一番大事なのでは?」というところに行き着いてしまう……。
AIがどんなに進歩しても人間同士の関わりがゼロになることはないだろうし、
人間同士の関わり合いではAIに頼れないので、そこではコミュ力が重要になることは間違いありません。
あと20〜30年くらい経ったら、コミュ力が高い人のことを頭が良いと言うようになっているんでしょうか。


#7877

エゴイズムとすれ違い

相変わらず毎週水曜日は元同僚(2020〜2021年時点の所属会社の同僚)と話す時間になっているのですが、
去年末にマンネリ感の限界を迎えて一時的に長期休止期間に入り、05月下旬に5ヶ月ぶりに復帰しました。
が、07月現在早くもまたマンネリ感が漂ってきています。
話す前はとても楽しみにしているはずなのに、話終わったあとはドッと疲れてしまう。


その主な原因はやはりというか『Apex Legends』の敵が強すぎることだと思っています。
自分はもうこのゲームだけは真剣にプレイすることができません。
なぜならあまりにも頻繁にザコ死するので、真剣にやっていたら悔しさで頭がおかしくなることうけあいだからです。
真剣にやらないことが敗北から目を逸らすためのいわば心理的クッションとして機能しているわけで、
ここはもうこのゲームをやる上で譲れません。
したがって、やればやるほど下手くそになっていき、上達の向上心もありません。
しかしやればやるほどランクは上がってしまうので敵はどんどん強くなっていく。
もう飽和の限界を超えてやり続けているのでこうなってしまっているわけですが、
それでもなお同僚は『Apex Legends』以外のゲームをやりたがらないので半ば無理やり付き合っているところがあります。
こういう面だけ切り取って見ると、かなり危うい縁と言わざるを得ません。


もちろん、お互いにこの状況が良くないのは分かっていて、だからこそ「Apex以外」の可能性を長らく模索しています。
いまのところApex以外でもっとも長く続いたのは『Minecraft』ですが、それでも2ヶ月程度。
これはお互いのゲームの好みが違いすぎるというところに起因していると思います。
お互いにマルチでできそうなゲームを提案しても、お互いに相手の提案を受け入れられないような状況。
これは単に好みの違い、育ちの違いも多分にありそうですが、
それ以上にお互いのコミュ力が十分でないからなのではないかとも最近考えています。
つまり、我が強いために「自分が興味あるか否か」という物差しでしか物事を評価できず、
相手が勧めるものを「相手が勧めるから」という理由で受け入れることがお互いにできないんですね。
もし、十分以上にコミュ力があり思いやりや慈愛の気持ちがあれば、
自分の興味の有無はさておき「提案されたからとりあえずそれやってみよう」という話になってもおかしくないはず。
そうならないのは、お互いに自分の都合を優先させてしまうエゴイズムがあるからなのではないか……
というわけです。


自分はもうかなり譲歩しているつもりなので、
もしかしたらこの行き詰まり感は同僚のエゴイズムな部分に起因するところも少なくないのでは?
と思った次第ですが、それをあけっぴろげにしたところで無粋なだけで何も良いことが無いのは確かです。
マイクラのように受け入れてもらってなお、自分が先に飽きるというようなケースも少なくないので
そもそも「ゲームを前提としている縁なのに自分自身がゲームそのものに飽きている」という問題も相当深刻です。
むしろエゴイズム云々は単に責任転嫁で、問題の本質はこちらにある可能性も否定できません。


とりあえず来週以降は『ドンキーコングバナンザ』を観てもらうという話で決着しましたが、
ゲーム会を本当に存続させたいのなら、惰性でやるのではなくゲームというものに本気で取り組むことも視野に入れつつ、
お互いに譲歩するというマインドを成熟させられるようにそれとなく働きかけることも検討したいところです。


#7508

競争原理について

ブラック企業勤務時代のメンヘラ状態からある程度脱出できたと実感しているいま、
再びメンヘラに陥らないために何がダメだったのかを自己批判することは重要だと考えています。
それをタスクとして明文化し、形に残せるという意味ではブログは重要な媒体です。
ブログが無かったらいちいち自分の気持ちを言語化しようという動機は得にくいですからね。


そこで今回批判したいメンヘラ思考のひとつが「競争原理」です。
ここでは「自分は他人より優れているか否か」と言う物差しを過剰に重視する価値観を言います。
近年はこれを否定する考えを度々表明してきました(#07229 / 2023年10月02日#07100 / 2023年05月26日#07073 / 2023年04月29日)。
ただ、どんなに競争原理を否定したくとも
「自分の活動と他者の活動が競合する場合、社会はより優れた方を評価する」
という事実が社会の仕組みとして存在することは否定することができません(一概には言えませんが)。
かといって、そこから安易にドロップアウトすることは自己実現の放棄、社会活動の放棄に他ならないわけです。
社会がある程度競争によって成り立っているという事実は受け入れる必要があるでしょうし、
真っ当に努力した上で競争に負けて「悔しい」と思うことそのものはヘラっているとは言えないと思います。
良くないのはそれを望んでいるにも関わらずできるはずの努力をしていない後ろめたさがあり、
その上で他者に望むものを先取りされたときに生じる嫉妬の感情ですね。
この嫉妬を正当化しようとすると価値観が社会一般のそれと乖離していって攻撃的なメンヘラになりうると思います。


自分も、少し前までは競争原理に心が囚われていました。
たとえば同じような内容のポストに対して、いいねの数などで劣っていると微妙に嫌な気持ちになったものです。
これは「自分こそを認めてほしい」という承認欲求が満たされていないのが原因だと思っていました。
昨今は同等のことで嫌な気持ちになることがゼロになったとまでは言わないものの、
負の感情に支配されていたブラック企業勤務時代よりは明確にマシになったという実感があります。
とはいえ、いずれの活動も社会的に成功して承認欲求を強く満たす何かを得られたというわけでもない。
では、メンヘラ時代の自分といまの自分の違いはなんなのか?


単純に不眠症が治ったことによる身体的健康も相当メンヘラ解消に寄与していると思いますが、
考え方の違いという点で見れば
成果に対する評価は自分そのものへの評価ではない」という考えが浸透したからかなと思っています。
人は自分の思想、こだわり、努力、アイデアなど諸々の要素を詰め込んだ結果として「成果」を生み出し、
往々にして競争原理が働くのはその意味で言う「成果」に対する相対的評価に対する反応です。
せっかく自分らしさを成果に込めたのに、自分より他者の方が評価されているとガッカリするといった具合に。
その反応自体は基本的に間違っていないのですが、ガッカリしてヘラっていたときの自分を思い返すと
成果を生み出すためにする努力の程度を盲目的に捉えていたような節があるように思います。
実際にはほぼ努力していないのに、自分には無条件で認めてくれる人望があり、
何某かの成果に対する評価は人望さえあれば上がるものと勘違いしていたと言うべきか。
なので成果のバックグラウンドにある努力量と人格を切り離すことによって、
成果が評価されなくてもそれは成果が評価されなかったというだけの話なんだと納得するようになったわけですね。
ヘラっていると思考のブレーキが効かず、そこから無限に拡大解釈して自己否定に陥りがち。


要するに、競争原理でヘラるのは自分の努力(などの成果を生み出すための諸要素)に対する軽視、
あるいは自分自身そのものへの過大評価と言えます。
世の中はより優れた方が評価されるというシステムに対しては納得している一方で、
人生経験の浅さから自分だけは特別に優れているのだという根拠なき万能感を否定できず、
それゆえに自分だけはさほど努力しなくても他者より評価してくれるだろうという高慢さがあるのではないかと。
そしてなぜそういう考えに陥るのかというと、既知の分野のあれこれと比較して相対的にこれは得意だ、
みたいな考えが自分のレベルを見誤らせるのかなと。
あるいは過去の誤った他者評価を鵜呑みにしているがゆえにその意味での誤認が起きているケースもあるでしょう。
この辺は本人の責任と言い切れないところでもあり、かなり難しいところだと思います。


個人的にはもじぴったん対戦問題(#05980 / 2020年05月04日)がまさに実力誤認で起きたトラブルでした。
自分は語彙力には自信があるからそうそう負けないだろうという根拠なき自信を対戦ゲームでぶち壊され、
完全にメンタルが崩壊したという黒歴史です。


もしこれらの仮説が正しければ、昨今の自分がメンタル的に安定しているのは
2022〜2023年の低迷期を経て自分の無能さを徹底的に思い知り、
それを受け入れることができたから(受け入れざるを得なかったから)と言うことができます。
やはり自分の能力を正直ベースで把握し受け入れることはメンタル安定にかなり寄与すると思います。
逆に言えば、「自分は本来こんなものではないはずだ」と安易に夢を見ることがいかに危険かということですね。
若いうちに挫折を経験することの重要性がようやく分かってきた気がする。
このことは今後も強く戒めて生きていこうと思います。


#7154

他人への期待と自己愛

「他人に期待しない」というのはここ数年で得た最大の教訓であり、
なおかつ精神を健全にするために必要な意識改革の骨子と言っても過言ではない重要なことですが、
それが必ずしも文字通りに常に正しいというわけではありません。
たとえば期待を前提とした人間関係というのも実生活では多くあるわけで、
これを根本的に否定するとなると生活が根本から揺らぐことにもなりかねません。
なので、この教訓についてはこれからもよく考え、必要なら矯正する必要があると思います。


他人に期待するのがなぜダメなのかというと、
まず第一にその「期待」は往々にして期待する側の価値観が強く反映されていて、
期待される側の事情が考慮されていないという問題があります。
親が子に対して、無条件に「自分の子は優秀な子であってほしい」と思うような場合ですね。
そういう一方的な理想の押し付けに応えることは大きな負担になるし、
そもそも理想が高ければ高いほど他人はそれに応えられないことの方が多いわけです。
期待を抱いた側は失望したり、
期待された側も期待に応えられなかったことを不甲斐なく思ったりしてロクなことがありません。
場合によっては人間関係に亀裂を入れる原因になり得ます。
これは相互理解不足から起きるよくあるトラブルだと思います。


期待を抱いた側は失望すると書きましたが、この失望にもさまざまな程度があると思います。
そもそも一方的に理想を押し付けている時点でその期待は正当性に欠けるわけですが、
期待する側が「達成して当然」と思っていたり、
「頑張れば達成できるかもしれない」と思っていたり、そのレベルはさまざまなわけです。
そしてその期待レベルが低いにもかかわらず達成されないと、やはり失望の気持ちは大きくなる。
そこには多くの場合他責の念が含まれるわけですが、
「あいつは思っていたより能力が低かったのか」などと思うようならまだマシで、
「この程度の期待にすら背くということは自分に対して悪意があるんじゃないだろうか?」
などと考え出すと結構深刻な部類に入ると思います。
自己愛が強く自分が思っていることは実現してしかるべき、
という信念を持っているような場合、そういう思考へ至るのは特別なことではありません。
むしろ日常の些細なことからもそういう「悪意」を感じとっている可能性もあります。


なぜそんな分析に至るのか。
それは言わずもがな、自分がそういう自己愛に偏った価値観を持っていたと思っているからです。
おそらく長男という立場を利用して独善的な振る舞いが許されていた幼少期から
そういう価値観はすでにあったのではないかと考えています。
2018年以前の自分はメンヘラなところがありましたが、
その自己中心的な振る舞いの根本にこういうゆがんだ自己愛があったのではないかと思っています。
だからこそ「他人に期待してはいけない」という価値観を正とみなしているのだと思います。
十分な相互理解に基づく適切な期待ができていた実績があるならば、
そもそも「他人に期待すること」が無条件に悪いものだという認識に至るはずがありません。
なのでこの教訓は広く世間一般に通用するものというよりは、
自分という個人にのみ特別に効き目のある処方箋のようなものとして機能するのだと思います。


こういう心の奥底の汚い部分に手を突っ込んで原因を受け入れるのは非常に大事なことで、
それをするかしないかでQOLや人間関係がかなり変わってくると思います。
自分はそれをする覚悟を成熟させるのにずいぶんと長い時間を要したし
手遅れになった人間関係もありますが、
残っている人生の長さを考えると、この時点で気づけただけまだマシなのかもしれません。


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