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#8142

突き指と怪しい整形外科

今日の出来事事故

今日から新しいプロジェクトに参画することになり、初日は当然出社を要請されました。
前の現場が10時始業〜19時終業とやや遅めの時間だったうえに基本テレワークのため、
始業直前まで寝ていることが許されることもあって最近はどちらかというと夜型生活を続けていました。
しかし今後の現場は08時45分〜17時45分と1時間15分前倒しかつ就業場所もやや遠め。
電車の乗り換えを調べたところ06時55分に家を出るのが最適という結論に達し、
いつも09時50分まで寝ていた生活から一転して06時台に起きなければならない生活がスタートしました。
こうなると寝坊するリスクが若干不安になるわけですが、
近年の自分はほとんどの場合05時前後に中途覚醒するという睡眠のパターンがあり、
初日の今回はその中途覚醒後に寝ないという戦略を取ることで無難に起きられました。
が、もちろんその副作用として業務時間中常に眠かったことは言うまでもありません。


また、まさかの事故もありました。
会社の最寄駅には若干予定より遅いくらいの時間に到着したのですが、この日は小雨が降っていました。
先方を待たせたくないので少し急いでビルに向かっていたら、濡れた大理石の床に足を滑らせて転倒しました。
しかも、とっさに手をついて衣服はまったく濡れなかった代わりに、
すべての体重と勢いを引き受けた右手の親指がどう見ても曲がってはいけない方向に曲がっており、
起き上がってすぐに左手でボキッと関節を直してとりあえずは復帰しました。
いちおう、右手親指はやや痛むものの普通に動くし問題はなさそう……?
ですが、念のため退勤後にすぐに行ける病院を探し、かなり歩いて新橋駅の至近にある超怪しいクリニックへ行きました。
そこはいかにも昭和のにおいがする古い病院で、「1人1本どうぞ」と待合室にビール箱が置いてありました。
診察室に入ると80歳は超えてそうなヨボヨボのおじいさんが出てきて、簡単な問診。
その後、なにやらハイテクな機械でレントゲンを撮ることになりました。
いちおうそのおじいさんの所見によれば骨がどうにかなっているわけではないそうです。ほんとか?
さらに数分待たされたあと、看護師(?)の立ち会いで
電気治療、超音波治療、レーザー治療をそれぞれめちゃくちゃ古い機械で行い、
湿布や痛み止めの薬、塗り薬、漢方をもらいました。
それなりの請求を覚悟しましたが、たったの2,000円ちょいでした。医療保険制度って素晴らしいですね。


Google Mapsでこの病院のクチコミを見ると、散々なことが書いてあります。
確かにおじいさん先生がまともな診察をしたとは思えないし、使われた機器はいかにも古い。
さまざまな面から見て現代に求められる水準に達していないのは確かでしょう。
ただ、自分が調べたかぎり整形外科も対応して19時半まで受け付けてくれる病院は都心といえども少なく、
ここはいわゆる一般的な若者向けというよりは社会人の駆け込みや昔ながらの患者のためというニーズに特化しており、
そういう意味では年老いてもニーズに応え続けている素晴らしい病院だと感じました。
むしろ、そうしたニーズをこれっぽっちも理解しようとせずに無責任なレビューを書き込むのはいかがなものか。


……まぁ、でも時間に余裕のあるときにあえて選ぶ病院でもないのは事実です。
いまのところ右手親指は無事ですが、
もし1週間様子を見て痛みが引かなかったら地元の病院でセカンドオピニオンを受けようかなと思っています。


入場初日の話をまったく書けなかったのでそれは翌日分へ。


#8143

前途多難な現場

今日の出来事仕事

昨日はまさかの突き指で病院に行く羽目になり、
今日は通勤区間が電車と自動車が衝突したとかで朝から運休しており、迂回ルートで出勤することになりました。
こういうときのためのテレワークですが、今回はまだ2日目ということで無理やり出勤することに。
というわけで昨日は突き指の話に持って行かれて書けなかった新しいプロジェクトの話をようやく書けます。


今度の現場はシンプルにシステム開発をするIT企業。
ここ数年、こういう「いかにも」な現場からはずっと遠ざかっていたので何気に久々です。
例によって自分の意欲スキルその他とマッチしたというより自社の都合でアサインされたという感じですが、
押しても引いても開発をさせてくれなかった前回と違い、今回はいちおう開発込みのアサインの予定です。
ただしweb系ではないので専門外と言ってしまえばそれまでの領域で、その点では不安しかありません。
いままでと違うのは自社の人間がすでに何人かいて、さらに自分と同時に入る人がいるという点。
まだどんな人なのかさっぱり掴めていませんが、そこのつながりは重視したいところです。
ちなみに事前情報だと自社のそこそこ偉い人も参画しているという話でしたが、
まったく別の部署みたいなので当面意識することはなさそう。


現場の雰囲気はなんというかただただ良くも悪くもシステム開発の現場というような感じ。
つまり、新規の人は原則として即戦力という前提があり、設計書その他を「読んでおいて」で丸投げ。
既存メンバーは自分の持っているタスクで手一杯。
この雰囲気に飲まれて手をこまねいていたら後々大問題になることが目に見えているわけで、
現場独自のルールなど分からないことは分からないと堂々と言う覚悟が必要になってきます。
こういう現場を渡り歩いてきた人なら、設計書丸投げでもある程度通用するのでしょう。
むしろそれが普通だからこそのこういう対応なのかもしれない。
自分は幸か不幸かこういう「普通の」現場を避け続けてきたようなところがあるため、
今回改めて「あ、この業界に居続けるの厳しいかも」と直感しました。
少なくともweb系じゃないとダメなのではなかろうかと。
今後も生き残れるかどうかは今回の現場で試されることになるんじゃないかと思います。


いちおう現場の人柄や雰囲気はそこまで悪くはなさそうな空気を感じとっていますが、
これも例によって業界あるある(偏見)なことに上にいる人ほど教えるのが下手そうな雰囲気がぷんぷんします。
もしこの予感が当たってしまうとかなりしんどい現場になることは確定しそう。
その場合、最速で9月末で逃げることになります。
自分に割り振られたタスクがいったんそこまでなので(そのための増員らしい)、
望む望まざるに関わらずそこで終わりになるかもしれませんが。


いまのところ現場の雰囲気は少し嫌な予感がするだけで、
むしろいままでが楽すぎたのは間違いないのである程度の反動は覚悟の上ではあるのですが、
どちらかというと3連勤&06時起きのキツさに参っています。
終業が早いので慣れればある程度適応できそうだけど……このままでは趣味活動は維持できないだろうなと。
少なくともブログで手一杯になりそうな気配。
いちおう出社日は自分で選べるものの週3程度の出勤は要請されているので、
連勤がキツいことを鑑みて月・水・金を出勤日にしようと考えています。これで趣味を維持できるかどうか。
ただ、実は今回の通勤ルートでは行きで45分くらい座れる区間があり、非常に読書に適している事情があります。
なのでもし余暇の趣味活動が維持できない場合でも読書は維持できそう。
もちろんそれを維持するためには面白い本を探し当て続ける活動が必須なわけで、
やはりどのみちある程度の余暇が無いと困るのは確かではあります。


新年度にして放り込まれた新しいプロジェクト。前途多難な予感がしていますがどうなることやら……。


#8144

出勤の時間コスト

今日の出来事通勤・通学

新プロジェクト参画3日目。
当初、とりあえず今週中はすべて出勤してほしいというプロジェクトリーダーからの要望があったのですが、
TLに相当するメンバーがみんな本社に来れない事情があるとのことで、
むしろ今日は在宅勤務してほしいとのことで初のテレワークということになりました。
今度のプロジェクトはテレワークに関して統一された制約(週○日以上出社せよ、など)はありませんが、
その辺を自主性に任せつつ、一方でPLは「まあやる気あるなら出社はするよね」という雰囲気を漂わせており、
無能だと思われたくないならなるべく出社しろという言外の圧力を感じています。
おそらく、過去にテレワークでがっつりサボる人がいてテレワーク自体を若干警戒しているのでしょう。


そんな現場の事情も鑑みて、自分はいまのところ週3出社を目論んでいます。
これまでの教訓として、テレワーク比率を高めすぎると仕事自体のモチベーションを高められない上に
連動して趣味などのモチベーションも下がりがちという傾向が自分の中にあることが分かっているので、
PLの圧力とは関係なくなるべく出社はした方が良いだろうという意識はあります。
しかし一方で連日出勤はシンプルに身体への負荷、ことに睡眠リズムの維持が難しい可能性が大いにあり、
連日出社前提にしてしまうと身体面で破綻するリスクが少なくありません。
また、出社日は単純に勤務時間(8h)+休憩時間(1h)+移動時間(3.5h)=拘束時間となるため、
電車内読書以外でプライベート活動を進める余地がほとんどありません。
自分は個人的な制約としてブログ維持のためにまず週7時間は確保した上で、
それでも余った余暇が初めて諸々の活動に使える時間として計上できるという事情があります。
そのためあんまり社畜方向に寄せてしまうとあっさり破綻してしまうリスクがあるんですよね。
なので身体面の心配とは別に趣味の維持という観点からも完全出社スタイルは避けたい。
そうした諸々を考慮した上で月・水・金のみ出社が妥当かなと考えた次第です。


それにしても移動時間だけで1日3.5時間消費するというのは改めて考えると馬鹿馬鹿しいですね。
これでも今回の勤務先は山手線内にあるという点で特に遠いわけでもなく、
多摩に住みつつ都心勤務を前提としている以上、この程度の通勤時間に文句を言える立場ではないんですよね。
通勤しつつライフ・ワーク・バランスを整えたいなら都心に住むか、
せめてもっと都心に近い地域に移住することを考えなければなりません。
この辺はお金を優先するか、時間を優先するかといった個人の選択なのかなと思っています。
自分はいまのところ地元の住みやすさ優先でテレワークできるなら片道2時間未満は許容範囲として考えてはいますが、
もっと年齢が上がってきたら住まいや体力や時間に対する価値観や事情が変わり、都心志向になるかもしれません。


#8145

本選びの重要性

今日の出来事読書

2026年は読書を本格的に復活させたいという思いで迎えたわけですが、
最初の2ヶ月間はさまざまな事情でそれどころではなく、先月上旬からようやくスタートしました。
読書メーターに再登録して、その実績を重視してどちらかというと「乱読」気味に読み進めた結果、
なんと年間最低目標である4冊(前年に読んだ冊数+1)をわずか1ヶ月でクリアしてしまいました。
今度の勤務先は移動中に合計1時間ほど電車の席に座れるため否応なしに読書が進むという事情があり、
そういう追い風もあって今後ますます読書は加速していきそうです。
基本的には読書録を書くなどのプレッシャーが無ければ新書であれば週1冊ペースで読めると思っていますが、
もちろんそのペースを維持すること自体を目的にしないよう戒める必要があります。


いま、4冊読んで5冊目を読んでいますがこれまでの経験から感じていることをいくつか言語化します。
まず、何よりも本選びが重要であるということは改めて認識しています。
4冊読み切った感じだと、内容がやや微妙でも新書程度ならサラッと最後まで行くことはできますが、
やはり面白くない本を読むのは有意義でないのでそういう本を避ける工夫は必須かなと思います。
引っかかりやすいのは、タイトルはとても惹かれるが内容が必ずしもそれに則していないようなケースですね。
タイトルの言わんとしていることと内容が乖離しているとまでは言えないものの、
タイトルを読んで期待するこちらの思惑と書かれている内容が乖離するというケースは往々にしてあります。
先月読んだ4冊のうち2冊はそれに該当するケースでした。
それでも読めることは読めるんですが、あんまり有意義な感じはしないし目が滑りやすい。


『資本主義を半分捨てる』(青木真兵著、ちくまプリマー新書)なんかがまさにそれでした。
この本は「個人が資本主義から距離を取りつつ豊かに生きることの正しさ」が書かれているのかと期待したのですが、
実際に書かれていたのは山奥で私設図書館を開設してまったり生きる著者の自分語りでした。
「資本主義の誘惑やシステムからどう逃れるか」などの実践的な内容がメインではなかったということです。
内容がタイトルのインパクトに負けているイメージは拭えず、個人的にはかなりイマイチな本でした。
もちろんこれは個人的にニーズが合わなかったという意味であり、著者の考えを否定するものではありません。
ただ、せっかく読書するなら自分のニーズに噛み合った本を選びたいものです。


今後、こうした本選びの失敗を避けるためにやろうと思っているのは
読書メーターの書評をあらかじめ読んでしまうというものです。
実用書・新書ならネタバレは怖くないし、むしろ著者の主張を理解してから読み進めた方が内容は頭に入りやすく、
その意味でも書評を先に読んでしまうというのは有効なんじゃないかと思っています。
読書メーターはまだ再開して1ヶ月も経っていませんが結構みんな真面目にレビューしていて、
少なくともAmazonのレビューよりは信頼できそうな雰囲気を感じています。
今月はその辺の情報も処理しつつ、本探しの精度を高めることを意識していきたいところ。


#8146

有能な新人としてのAI

今日の出来事ai

02月からCodexで本格的にバイブコーディングをするようになって2ヶ月ほど経っていますが、
バイブコーディングという概念に対して当初抱いていたイメージと現在のイメージがだいぶ異なるので、
軽くその辺の差異について振り返っておくことにします。


まずバイブコーディングデビューした02月当時は、ものすごい開発実績を叩き出しました。
わずか1週間で全体的に低迷傾向にあった2025年の7ヶ月分に相当する規模の改修を行い(#08095 / 2026年02月13日)、
既存のwebアプリはSEO対策、セキュリティ対策、累積的なバグ修正などといった
人力コーディングでは工数の割に報われないので放置されてきたタスクが一気に片付きました。
こうしたどのようなwebアプリにも通用するような実装については、今後もAIに丸投げで良いと思っています。
これは個人のwebアプリ制作プロジェクトにAIという力強いコーダーが新たに入ってきてくれたような感覚でした。
ただ、その後も継続して新機能追加や既存コードの整理を進めていくにあたって、
やはりCodexも数あるコーディング支援ツールのひとつでしかなく、
結局のところ開発主体は自分なのだという認識が強くなっていきました。
もちろんこれはGPT-5.4現在の話でしかなく今後どうなるかはわかりませんが……。


そう思った理由はもちろん意図通りにコーディングしてくれないことがあるという実体験があるからです。
まずAIは基本的に、人間の指示は絶対のものとして解釈します。
つまり人間の指示からして方向性が誤っている場合、AIは必然的に誤っているコードを生成してしまうわけですね。
明らかな間違いはAIが実装を開始する前に確認してくれるかもしれないし、常に確認するように指示することもできます。
しかし、「自分が実装したいこと」を自分が常に正確に言語化できるとはかぎらず、
それぞれの単語のニュアンスによって方向性が微妙に異なるようなケースでは、AIは基本的にその違いを指摘しません。
さらに、実装したいことを過不足なく言語化したとしても、AIがそれを正確に解釈してくれるとはかぎりません。
AIは常にプロジェクトファイルの内容のすべてを把握しているわけではなく、
人間で言えば「めちゃくちゃ有能だけど入ったばかりの派遣社員」みたいなものなんですね。
なのでマニュアル(AGENTS.md)がよほどしっかりしていないと、AIは各ファイルの役割を正確に把握できません。
これによって齟齬が生まれると、わりと簡単にAIは勘違いします。


「プログラミングまったくできないけどClaude Codeに丸投げしてアプリ開発できた!」
というようなドヤ顔ブログをたまに見かけますが、ああいうのはイチからAIに委託するのでむしろ簡単なんです。
なぜならAIが全容を把握しつつコーディングできるので。
既存のプロジェクトにエージェントAIを導入する場合はそういうわけにいきません。
必ずどこかで人間がAIにコードの仕様、意図、役割を説明しなければならず、
そうしたドキュメントの作成をサボってきたプロジェクトではAIはあまり役に立たないこともありえます。


AIは強力なツールであることは間違いないしSEO対策みたいな汎用的なタスクの処理はすぐできますが、
既存アプリを土台に新機能を組み込むような場合は結局人間側もそこそこ頑張らないといけないということです。
もちろん、土台作りの段階からAIにフォローを入れてもらうのもアリですが、
いずれにしろAIにプロジェクトを理解してもらうテクニックは今後の開発で重要になってくるんじゃないかなと。
Codex登場当時はもう人間がコーディングする時代は終わったなどと思ったものですが、
プロジェクト整備やマニュアル化・言語化の重要性がさらに増したこと、
何も考えずにAIに任せっぱなしだといずれ人間はコードさえ理解できなくなる危険性など(#08132 / 2026年03月22日)、
むしろ人間側の負担が増えたような気がしないでもないです。


#8147

読書を社会活動にする

今日の出来事読書

いまのところあまり順調ではないですが、
今年は良くも悪くも無難だった2025年の反省を生かして諸々の計画を遂行したいと考えています。
基本的なスタンスとしてはネット活動はもう不特定多数からの承認というのは諦めて、
想定できる具体的な誰かのためにできるかぎり有意義な活動をするという方針です。
その方針自体は妥当だと思っていますがリアルをないがしろにしているかぎりは永遠に承認不安から抜け出せないので、
それはそれとしてリアル志向の活動も何かアクションしたいという方針を考えています。


自分はざっくり言えば家族、仕事関係、ネット関係、そして上京以降の友人関係と4つのコミュニティに属しています。
とはいえこのうち仕事関係はプライベートなことを話せるわけではないのでノーカンかも。
ネット関係は趣味別に名義がありますが、本アカ以外はしょぼいので全体で1個として考えてよいでしょう。
また、かつては重要な立ち位置だった上京以前のつながりはもう消えたと考えてよいと思っています。


かつて未熟ゆえにさまざまな人間関係トラブルを起こしてきた自分にとって、
これらのコミュニティ、特にネット関係と上京以降の人間関係はきわめて大切なコミュニティです。
しかし大切だからこそ慎重な立ち回りをしており、それゆえ「すっぴんの自分」を誰にも見せられず、
だからこそ承認不安に陥っているのだと思っています。
これはもう思春期による致命的な愛の不足によるものであり、今後もずっと背負って生きる運命なのだろうし、
社会は結局のところ何かを演じて他人と関わり合うものなのかもしれないとも思っています。
しかし現状はそれにしては上京以降の友人への依存度があまりにも高いという現実があり、
せめて5つ目のコミュニティを持ちたいというのが当面の課題だと思っています。


とはいえ、自分にはそのきっかけが無いことが長年の課題でした。
唯一開かれているのが異性との出会いを目的とするマッチングアプリの類ですが、
これまでの経験を考えると恋愛ありきのつながりは相手の期待を全部背負わないといけないという不条理があり、
またこの年齢になってしまうと結婚する/しないを念頭に置かざるをえないという不合理があります。
それらは自分のステータスやポテンシャルやモチベーションを正直ベースで考えるとなかなか難しい現実があります。
理想に忠実だった20代だったらまた違う価値観だっただろうと考えると、
やはり恋愛の適齢期は20代前半なんだろうなと改めて思うわけですが、いまそんなこと考えても仕方ありません。
もう少しハードルの低い、かつ新規コミュニティに入れる余地はないものか。


これについては基本的には自分の正直な興味関心に基づく「具体的な活動」があることが前提になると考えていて、
それを土台に人間関係を広げられるかどうかを検討するということをいままでやってきました。
あるゲームにハマったらそれをテーマとするコミュニティを探すとかですね。
ただお察しの通り、自分は2週間でマイブームが移り変わるほど物事に対する意欲が薄っぺらく、
コミュニティに属する前にコンテンツに飽きてしまうのが常です。
まぁこれについては土台であるところの「ゲーム」というカテゴリが自分にはもう限界なのだと理解しています。
そもそもゲームは若者文化であり、年齢的にもマッチしているとは思えない。
かといって長年ゲームに傾倒してきた自分にとって、他にそれに相当する趣味があるわけでもない。
思春期の怠慢が祟って、手札があまりにも少なすぎるんです。
もっと体力のあるうちにさまざまなことに手を出しておけば……とは誰もが30代になってから後悔することですが、
自分もこの文脈ではそれに該当すると認めざるを得ません。


そんな孤独なモンスターである自分が現状唯一「正直な興味関心に基づく活動」として有望視しているのが読書です。
そこで、「読書会」ならどうかとふと思いました。
サラッと調べてみると、東京都内ならその手のイベントが山のようにあります。
初心者向け読書会は自分の好きな本のレビューを1〜2冊発表するだけで参加できるらしい。
常連向けでは文学部のゼミでやるような輪読もやっているらしい。
ほうほう、これはもしかしてワンチャンあるかも?
と思ってある読書会の応募フォームを見たら、なんと年齢制限を超えていました。これはショック……。
ああ、自分はもう10年単位で周回遅れの人間なのだと自覚せざるをえなかった瞬間です。
もちろんすべての読書会で年齢制限をオーバーしているわけではないですが、
多くのイベントは20〜30代をターゲットにしているため、出るとしても年配者として扱われるのは避けられません。


まぁでも、読書自体いま自分の中で勢いのある活動だし、それを誰かと共有できるのは願ったり叶ったりです。
第5のコミュニティに属したいという動機とは関係なく興味ありますね。
とはいえ語れるほど読んだ本というのは少ないので、その辺の選定と精読は必須になりそう。
逆に言えば、独力で精読までやるモチベがあるならむしろ参加しない手は無いような。
もし参加する勇気があれば、この春〜夏くらいに一度くらいはチャレンジしてみようかなと思っています。


#8148

個人サイトの過剰防衛

若干過剰防衛かつ自意識過剰かなと思うのですが、
このブログをゆくゆくは「トップページ以外非公開」にしようかなと考えています。
きっかけは2つあり、まず先日の承認不安に関する考察で「匿名でもそれをやりたいならやってもいい」
という一種の試験をパスした活動は今後も継続しうるのではないかという記事を書いたこと(#08135 / 2026年03月25日)。
そこに書いた「長年の承認不安はWeb 2.0という構造上の問題なのでは?」という気づきが、
「脱Web 2.0」を推進すべきなのではないかという思想へと発展しつつあります。


脱Web2.0とはつまり、ネットにいる有象無象のユーザーに対して一切期待しないというスタンスを意味します
(ここでいうWeb 2.0とはユーザー参加型プラットフォームを言いますが、ほぼ「SNS」を指しています)。
Twitterのフォロワー、YouTubeのチャンネル登録者はもはや承認不安を増幅させる存在でしかない。
彼らはどうあがいても認めようとしないだけでなく、少しでもラインを越えれば自分を否定する可能性さえある。
このリスク認識が妄想じみたものであることは承知していますが、
とにかくSNSの仕組みはそういう不安から逃れるための安全装置を致命的に欠いているわけです。
真っ当に努力して客観的に価値のあるモノを生み出せる人はこうは考えないのかもしれません。
これは言うなればネット社会の(クリエイターとしての)敗北者の論理なのでしょう。
ただ、ネット社会を見限るにしても自分は自分のアウトプットに価値があると感じているし、
他人に見られないからといってそれを止める必要は無い。
また、有象無象ではなく信頼できる人に見てもらう余地を完全にシャットアウトするのも非合理に思える。
そこで有望に感じているのが、活動の軸足を個人サイト、つまりここに移すというものです。


とはいえ個人サイトも結局はネットに晒していることには変わりはないわけで、
「有象無象に見られたくない」ということなら個人サイトはまだ万全ではありません。
たとえば個人サイトのコンテンツをスクショしてSNSに貼られるということは全然ありえるわけです。


その発想にいたったのがもうひとつのきっかけで、
先日エゴサしていたらこのブログがいまや存続危機に陥っている匿名掲示板、5ちゃんねるに晒されていました。
本人の預かり知らぬところでその発言に対して評論や誹謗中傷等を繰り広げるいわゆる「ヲチスレ」で、
「たかだかゲームでここまで熱く語れるのは恐怖」と晒されていましたが、
当該レスは誰にも反応されることなく流されていました。せめて誰か反応してよ。
晒されたのは2024年11月で、当時ハマっていたゲームは『ポケモンカードポケット』ですが、
もしかしたら文脈的には少し前に掲載した『原神』の記事を晒そうという意図があったのかもしれません。
2024年秋当時は移転したばかりでURLも変わっており、
SEO対策もしていなかったので検索で見つけるのはかなり難しかったはず。
さらにいえば2023年05月〜2024年08月は非公開運営だったのでネット上からはアクセス不可能です。
もしかしたら晒しあげた本人はそれよりも前から自分のことを知っている誰かかも……と邪推したりもしています。


まぁ、この件は特に内容を叩かれたわけでもないのでどうでもいいんですが、
要するに個人サイトに軸足を移したとしても結局はこういう悪意的な晒しリスクは無くならないわけです。
とはいえかなりのレアケースだと思うし、逆にポジティブな反応を書かれたこともあるので(#07729 / 2025年02月13日)、
今回の件だけで決めるのはいくらなんでも早計かなとは思いますが。
単に検索流入を避けたいならトップページ以外のクロールを排除するなど、
個人サイトを全面撤退する前にできることはいろいろあり、まぁいまのところ完全撤退は可能性のひとつでしかなさそう。


脱Web 2.0もかなり極端な考えだと思うので、今後はさまざまな折衷案を模索することになると思います。
個人サイト自体はクローズド運営にしつつ、クリティカルなコンテンツはWeb 2.0に出張するのが無難そうではある。
とにかく、このところ自分の中でネット活動の持続可能性がかなり揺らいでいるのは確かで、
これを基盤レベルから安定させるか、どうしても無理なら代替活動を見つけるか、
いずれにしても中年期の本格始動に向けて変革を求められている段階であるというのは確かです。


#8149

時代依存の価値観

昔のアニメの問題シーンに対する当時と現在のコンプラ意識の差についてAIに調査してもらっていたら、
放送当時の感想として2006年の個人ブログの記事が引用されており、
ブログの概要をついでに見てみたらなんと記事数がこのブログよりも多い約8,900本でした。
自分よりも多く書いているブロガーは珍しいのでどんな内容のことを書いているのかと見てみたら、
残念ながら2023年を最後に更新が止まっていました。
ついでにChatGPTのリサーチ能力を頼って長期運営ブログを探してみてもらうと、
5,000〜7,000本くらいのレンジではいくつか見つかりました。8,000本以上かつ継続中と指定すると無いとの回答
(つまり、このブログはChatGPTのSearch APIにひっかかっていない……)。
7000本台のブログをいくつか拝見すると、60代でうつ病に苦しんでいる社会人のブログ、
めちゃくちゃ右寄りの思想で政治についての話ばかり書いているブログなど、
まあ自分みたいにいろいろな意味で「こじらせている」ブログが多いという印象でした。
長期運営しているからといって読者数が特に多いわけではないのもここと似ていますね。
やはりブログは孤独に行き着くプラットフォームなのか……?


自分が他人のブログを読むことはあまりないのですが、
考え方が一致する長期運営ブロガーのブログならぜひ購読したいという気持ちはあります。
いわば同業者がいることはブログ執筆を強力に援護するし、そういうモチベの観点からもぜひとも見つけたい。
しかし、他人のブログを読む習慣が無いから当然といえば当然なのですが、そんな稀有な人はついぞ見つかっていません。
こうして探し続けていけばいつかは見つかるのでしょうか。


他人のブログを読んでみて改めて思うのは、
自分のブログは「自己の内面」にかなり寄っているのがある種の特徴になっているということですね。
拝見したブログはどれも時事問題を積極的に書く傾向にあり、自分のことはそこまで積極的に書いていない。
なんというかあくまでも目の前に起きた現象について書くのが主流で、
自分の心の中を積極的に言語化しているこのブログはそういう意味で少し異質なのかもと改めて気づきました。
もしかしたら、他人のブログを積極的に読むことで見えてくる景色もいろいろあるのかも……?
ただ、知らない人のブログって内容の99%は興味持てないので続かないんですよねぇ……。
それこそが長期運営ブログに人が定着しない理由なんでしょうけど。


ちなみに冒頭の「昔のアニメの問題シーン」とは、
2006年のアニメ『涼宮ハルヒの憂鬱』で主人公のハルヒ(破天荒な女の子)がコンピュータ研究部に押しかけ、
その部長に悲劇のヒロインの朝比奈みくる(おっとり巨乳な女の子)の胸を触らせたところを写真に撮り、
撮影データで脅してパソコンを奪い取ろうというシーンです(『射手座の日』)。
コンプラ意識の高まった現代では、20周年再放送で「いまならアウトだろう」という意見が見られたそうですが、
それなら当時はどうだったんだろうなと。
そこで冒頭の8,900本書いているブログが感想を書いているのを発掘したわけです。
当該記事には「ハルヒひどいな……」と書いていて、当時からハルヒの行動は不評だったことが垣間見えます。
でも、セクハラ×イジメとも解釈されかねないこの内容はいま地上波で放送するのはさすがに当時より厳しそうではある。
当時は各キャラの立場や事情を踏まえた上でしている行動だという理解ができましたが、
ショート動画全盛の現代は炎上させるために無責任な人が都合良く切り取ってコンテンツを消費する時代ですからね。
ハルヒはセカイ系で象徴的かつ魅力的なキャラクターだと思うのですが、
そういう文脈では魅力的でも現代のコンプラ意識やネットの構造と合わなくなってきた感があり、
20年でこうも価値観が変わるのかとしみじみ思います。さらに20年後はいったいどうなっているんだろう。
こう考えると、作品に対する印象は読み手が生きている時代の価値観に依存するという意味では流動的で不可逆的で、
作品解釈というのはまるで生き物のような印象が見えてきます。
そしてそれは、他人のブログや自分のブログにも言えることなのかもしれません。


#8150

生活リズムの意外な適応

今日の出来事生活リズム

プロジェクト変更により仕事の時間が少し変化し、生活リズムもそれに合わせざるをえなくなりました。
この業界にいるとこういうことが(一般職と比べて)頻繁に起こりうるというのは、
生活リズム維持の観点でハンデを抱えている自分にとっては憂鬱なことです。


前年度末まではまず月・金曜のみ出社で、その日は08時10分起床→09時45分会社着→20時半ごろ帰宅という感じでした。
始業がやや遅いので朝は出社するにしては遅くまで眠れる分、帰宅時間が遅かったわけですね。
そしてテレワークの火・水・木曜は09時50分起床→19時終業でした。
翌日がテレワーク or 休日の月・火・水・金・土は03時くらいまでの夜更かしが許されていました。
休日は12〜13時ごろに起きることが多かったですね。
ちなみに自分は寝起きの負荷を減らすために起床直後のタスクは極限まで短縮しているので、
寝起きから家を出るまでは10分しかかかりません。


一方、新年度からは月・水・金曜出社で、その日は06時30分起床→08時35分会社着→19時半ごろ帰宅という感じです。
またテレワークの火・木曜は08時35分起床→18時ごろ終業となっています。
月・水・金・土はある程度の夜更かしが許されていますが、前年度ほどド深夜まで起きているのは危険になりました。
そもそも出社日は朝早く起きているので深夜まで起きていられません。
このように早起きせざるを得ないリズムに矯正されたことから、休日は09〜11時ごろに起きるようになりました。
ちなみに新年度は起床から会社着までの時間が延びていますが、これは各駅停車に乗る区間が多いためです。
そのおかげで40分くらい読書に集中する時間を確保できているので、これ自体はデメリットとは捉えていません。
が、3年前の自分なら読書よりも睡眠時間を少しでも長く確保することを優先していたような気がします。


かつて運動不足やストレスで起立性調整障害を強く疑う症状によって押しても引いても起きられなくなったことがあり、
それによって会社とトラブルさえ起こしたことのある自分にとって、朝無事に起きられるかどうかは重大な関心ごとです。
出社でさえ08時起床だった前年度と違い今年度は06時台に起きる必要があるため、
本当に朝起きられるのかという不安はかなりあったのですが、いまのところ難なくクリアできています。
前にも書きましたが、自分は近年、夜明けの時間帯にほぼ確実に中途覚醒してしまう傾向にあります。
いまのところその後二度寝できているので支障は無いと放置しているのですが、
この「夜明けに確実に一度起きる」という習性が06時に起きなければならない事情とぴったり噛み合い、
出社日は中途覚醒したらそのまま起きて出勤、テレワーク・休日は二度寝するという運用ができています。
これのおかげで、いまのところ新年度の生活リズムには自分でも意外なくらい適応できています。


このブログの最初の18年は睡眠についての悩みを書く日記だったと言っても過言ではないくらい、
かつては睡眠について深刻に悩んでいたし、それについてさまざまな迷走をしてきました。
しかし非ベンゾ系睡眠薬の適切な服用、朝の準備を極限まで削ること、ストレスと向き合うこと、睡眠環境、
習慣的な運動として出社機会を確保すること、仕事に対する責任感、一週間全体で生活リズムの平均化を意識することなど、
あらゆる方策や意識改革を試した末に、ついに安定してきたと言える時代が来たのかもしれません。
自分が2010年ごろから抱えてきた睡眠の問題をついに克服したかもと初めて実感したのは2023年末ですが、
いまのところそこから順調にさらなる改善を続けていると思います。
あとは連続出社に耐えられるかどうかですが、これだけ順調なら普通に耐えられそう。


コロナ以降、睡眠の問題があるかぎりは
テレワークできない職場には勤められない半社会不適合者という自覚がありましたが、
もしかしたらその問題はここに至ってかなり寛解してきたと言えるのかもしれません。


#8151

本当の余暇の重要性

取引市場で、長いレンジを見ていてなんらかの根拠があってこれは買い(売り)だろうという自信がある場合、
短いレンジのちょっとした下落や上昇に対して動揺することは基本的にありません。
5分足や1分足の値動きというのは砂浜のさざなみのようなもので、常に押したり引いたりするものです。
高波を待っているのなら地平線の向こう、
具体的には根拠としているファンダが本当に正しいのかどうかを注視するべきであって、
足元の動きは大した問題ではないわけです。
しかしそういった情報を持たずに1分足でテクニカル取引をしているような場合、そうはいきません。
ミユビシギ というかわいい鳥は砂浜で波が引いたのを見計らって波が残していったエサを探し回り、
次の波が来ると一斉に逃げ出すというせわしない習性がありますが、
1分足スキャルピングで取引をするような場合はそのように足元のさざなみにも過敏にならざるをえません。


自己実現や日頃の活動と、それに対する心の変化についても似たようなことが言えるのではないかと思っています。
つまり、中長期で何をやりたいのかという見通しが立っているかどうかで、
目先のタスクに対する姿勢、あるいはそのタスクの立て方や、
ネガティブな事態に陥ったときに持ち堪えられるかどうかが根本的に異なるのではないかと。
最初はとても面白いので定期的にやるようになったことも、
ある程度時間が経つとマンネリ感が漂ってきて当初のような面白さを感じられなくなってくる。
そういうときに、「いまはまだ道半ばだけどこの活動をすることで最終的に得るものがある」と信じているのと、
「いつもやっているから」と惰性で着手するのとでは充実感がまるで変わってきます。
それは他人が絡む活動でありがちですが、個人的な活動においてもある程度当てはまりそうです。
ことクリエイティブな活動については、このマンネリ期をどう凌ぐかでその活動の持続可能性がかなり変わってきそう。
短期展望だけで活動していると、容易に波に飲まれてしまうということです。
ミユビシギのように完全にそれに特化するならあるいはそれでも適応できるかもしれませんが、
人は「飽きる」という習性がある以上いかんともしがたいところがあります。


いま、自分は短期的にはややネガティブなマインドに陥っていると自覚しています。
いずれの活動も(読書以外は)新しい展開がなかなか見えて来ず、行き詰まり感が漂い始めたからです。
では長期展望が無いからダメなのかというと、決してそういうわけではありません。
むしろ長期展望があるのに機能していないからこその この悩みです。
週間・月間・年間計画はいちおう形にしているし、年間よりも広いレンジのロードマップもいちおうある。
それに対して「解像度が低い」という指摘はできそうですが、
長期展望をめちゃくちゃ具体的に書けばモチベが回復するわけでもないでしょう。
どちらかというと不足しているのは、それぞれのレンジ同士に納得感のある関連性があるのかどうかなのかもなと。


この週間計画をこなすと月間計画のここを部分的にクリアしたことになる。
ということは年間計画がこれだけ進んで、当初やりたかったことの実現にこれだけ近づく。
というようなイメージができているかどうかが、思っているよりも大切なのではないかということです。
月間計画の進捗に影響を与えない定常的な活動に追われて進捗に寄与することができていないという事実が、
いまの「ややネガティブなマインド」に少なからず影響を与えているんじゃないかなと。
ここでいう「定常的な活動」は一般的には生活を維持するための諸々のタスクや仕事が該当しますが、
自分の場合はそれにブログ執筆も含まれます。運動習慣がある人はそれも含まれるでしょう。
ブログや運動は超長期的な展望に基づく活動とも言えますが、月間計画のような中期レンジとは結びついておらず、
そういう意味で「納得感のある関連性」は見出しにくい活動です。


人はどうしても日々に進展を見出せないと心が閉じていってしまう生き物です。
そしてこの意味の進展は24時間から睡眠食事その他生活維持のための行動、仕事、超長期的な習慣等々を差し引き、
それでも残った自由時間と余力でできることからしか見出せないものなのではないでしょうか。
もちろんこれを厳密に言いすぎるとすべての娯楽を否定しかねないので「ときと場合による」のでしょうが、
こと自分に関してはもう少し中長期的な計画と地続きになっている活動を重視してもいいのかもしれません。


#8152

欲望は服を着る

これはまだ掘り下げ不足な持論ですが、主に劣等感や自己不信、無力感などをケアする文脈において、
「いまの自分は、おおむね自分が望んだ通りになった結果だ」という考え方があります。
これまでのブログではあまり言語化してきませんでしたが、自分の信念に通底している考え方のような気もします。


たとえば自分はいまに至ってもなお独身であり、いろいろ弁解はしていますがそれに対する劣等感は拭いきれていません。
おそらくパートナーが欲しいという欲求があるのは間違いないのですが、現実はそうなっていない。
その理想と現実の差異に嫌になることが長い目で見てまったく無いかと言われれば嘘になります。
しかし、思い返せばこんな自分にもパートナーを得るチャンスというのは幾度となくあったはずなんですよね。
2011年のあの日をはじめとして、その前後も自分の働きかけ次第で進展するチャンスは何度もあった。
そしてあのとき確かに、自分にそのボールが回ってきてどうするか選べる自由を与えられたはずなんです。
しかし自分はいずれのケースもパートナーになるかもしれない人に接近しない選択肢を自分の意思で選んできました。
その結果としての現在があり、つまりこれは自分が望んだ状況だということです。


パートナーとまでいかなくても、承認不安に陥って話し相手が欲しいと思うことはよくあります。
それも深刻な悩みで、だからこそ先日は第5のコミュニティに属したいという話を書きました(#08147 / 2026年04月06日)。
しかし一方で手放してきたコミュニティも数多くあり、
人間関係を増やすことそのものが必ずしも自分の生活を豊かにするとはかぎらないということは薄々分かっています。
つまり、孤独感を感じる現状も、自分の性格を踏まえた上で望んで作り上げたものなのではないかと。
単に人が恋しいだけならとうの昔からコミュニティ探しに動いているだろうし、
コミュ力や趣味などそれを阻む問題があるならせめて実家暮らしを継続すれば家族との距離なら近づけられる。
しかし現実はそこまで真剣にコミュニティ探しはしてこなかったし、
実家に至っては自分から距離を置いているようなところがあります。
他人と話す機会も、その気になればDiscordなどコミュニケーションアプリの利用時間を増やせば
いくらでも増やすことはできますが、あえて絞って一人時間を確保しているようなところがあります。
にも関わらず、一方では寂しいからと第5のコミュニティを探そうとしている。


これはそもそもクリティカルに波長の合う相手でないと承認不安は取り除かれない(?)という問題もあり、
コミュニティの数を増やすことは本質的な解決にならないということに注意が必要なケースではありますが、
結局のところ自分個人の価値観と社会の価値観のズレからくる歪みなのではないかとも思っています。
コネは多い方が偉い、独身よりも既婚の方が偉い、年収は高い方が偉い、SNSのフォロワーは多い方が偉いなどなど、
社会は個人のステータスに基づきランキング化し、「より上を目指さなければならない」と煽動しているように見えます。
そしてそれに乗らない人は「負け組」で「怠慢」なのだという後ろめたさが多かれ少なかれあります。
実際のところその方が「社会は」合理的なのでしょう。
しかし、それはあまりにも個別の事情を無視した支配的な価値観であると言わざるを得ません。
仕事に人生を賭けたい人もいればワークライフバランスを重視する人もいるし、
自分のように一人時間を比較的重視する人もいれば常に誰かといないと落ち着かない人もいる。
そこに本来優劣は無いはずなのですが、人間どうしても他人と比べたがる生き物なのでいかんともしがたい。
多様性だなんだと言われて久しい世の中ですが、競争原理を否定できないのは人の性のような気がします。


問題は、自分が何かを望んでいるとしたら、それを本当に望んでいるのは誰なのかということです。
本心は一人でいる方が気楽なのに人前では彼氏/彼女が欲しいと言って憚らないような人の場合、
それを望んでいるのは本人ではなく実は社会で、本人はその価値観を着ているに過ぎないのではないかと。
そして自分に選択権を与えられた場面では意識的にしろ無意識的にしろ「裸の自分」の価値観が望む方を選び続けてきた。
その結果の総体こそが「いまの自分」なのではないかと思うわけです。


7年前にも似たようなことを書いていて、
当時の主張を要約すると「人生は選択の連続で構成されており、
その選択はそのときどきにおいて可能なかぎり最善を選んできたはずである。ゆえに人生は自分の思い通りになっている」
というようなことを書いています(#05600 / 2019年04月21日)。
また過去の自分はいまの自分を構成するという考え方は古くは17年前にも書いていて(#02000 / 2009年09月01日)、
当時この考え方は日記を書く自分の信念のような位置付けでした。
自分史を文章にして受容し、解釈し、自省した結果としていまの自分がいるということです。
もしかしたらこの辺が自分哲学の核のひとつになるのかもしれません……が、
まだ十分に自己批判してきた考え方ではないので、それは今後の掘り下げ方次第かなと思います。


#8153

遅延掲載スタイル

久々にweb開発が捗り、起床してからほぼ一日中取り組んでいました。
いろいろとやらねばならないことはありますが、こういうことができる日を1日は用意したいですね。
通常、日曜日はブログ更新日ということでブログの加筆修正に追われていることが多いですが、
今週はそのタスクを土曜日までにほとんど消化していたため日曜は別作業に集中できた感じです。
かなり理想的な動きができたと思っていますが、これを毎週できるとは思っていません。


そのブログについて、今日のアプデでわりと大きな変更があったのでお知らせを。
というのも、これまでは日曜日にその週の始まりから1週間分をまとめて掲載するという建て付けになっていました。
「毎日必ずブログを完成させる」というルールは仕事との兼ね合いなど生活実態と全然噛み合わないので、
1日1本ではなく7日7本書く、つまり1週間以内に辻褄を合わせられればそれでよいというのが
このブログの4代目以降のルールです。
日記系ブログとは言っているものの今日起きたことだけを書くという趣向は はるか昔に廃れているし、
このルールの方がブログ以外の活動に支障をきたさないのでこれで行かせてもらっています。


ただ、そうするとwebサイトとしての更新頻度が週1回になってしまうのが問題でした。
訪問者の視点からすると次の日曜日まではずっと同じ記事がトップに表示されているということになり、
いつ来ても同じ(たいていは最後の日曜日に書いた)記事が表示されることになり、
訪問者の再訪問率を上げたいという観点からも、日曜の記事が良くも悪くも不当に目立つという観点からも微妙でした。
そこでこれらの問題を緩和するために少しルールを変えることにしました。


簡単に言うと、掲載は現在時刻を基準に7日遅延するというのが新しい方針です。
たとえば今日この記事を書き上げたら7本アップしますが、明日04月13日に閲覧できるのは7日前の04月06日分まで。
内部には残り6日分の記事が「公開待ち」としてストックされ、毎日00時に1本ずつ解禁されるという方式です。
これなら執筆側は従来通り日曜日にまとめてアップするという体裁を保ちつつ、
webサイトとして見ると1日1本新しい記事が更新される高頻度更新のブログとして成り立つということです。
短期的に頑張って7日分未来の記事をストックしておけば事実上当日の記事を当日に公開できますが、
そうすると記事の日付と執筆日が乖離して日付が形骸化してしまう気がするので、いったんこれで行かせてください。


ところでブログ改修の方は順調でしたが、ピクチャレ大会の改修の方は大変な難工事になっています。
というのも、DBとして使っているPrisma ORMというデータベースの定義ファイルでIDEが警告を出していたので、
これを消したいと思ってCodexに働いてもらおうとしたんですね。
すると、その警告はPrisma 7.xとそれ以前の仕様変更によるものということが発覚。
しかも前バージョンは新しい記法をサポートしていないので、警告を消すには7.xにアップグレードするしかない。
しかしPrisma 7.xを入れるにはそれが依存するさまざまなソフトもそれなりに新しくないといけないらしく、
芋蔓式にソフトのバージョンアップをすることになったという次第です。
そして無事にアップグレードが終わってコンテナを動かしてみると、致命的なエラーが出るわ出るわ。
Codexがやってくれるからと軽率に初めてしまったアップグレード改修ですが、まだまだ続きそうです。
最悪の場合は警告を放置して旧バージョンのまま運用するという選択肢も留保していますが、
それはいつでも決断できるのでひとまず掘り下げられるだけ掘り下げるつもり。


#8154

プライベートサーバー炎上事件

今日の出来事ネット文化

スクエニの人気IPである「ニーアオートマタ」関連シリーズの熱心な外人ファンが、
『NieR Reincarnation』というサービス終了済みのソーシャルゲームのプライベートサーバーを建てたことで、
日本人と外国人(主には欧米人)との間でわかりやすい文化対立 が起きています(元ツイはこちら )。
ざっと双方の主張を読んだところ、
外国人は「公式が正当にプレイする可能性を閉ざしているゲームをファンによって再興することは、
それが著作権侵害だったとしても許容されるべき行為だ。文化を失うことこそが本質的な悪だ」
というようなことを言っているのに対し、日本人はおおむね一貫して
「どのような意図・目的であれ公式がサービス終了したものを公式に無許可でファンが再発するのは盗用であり、犯罪だ。
著作物をどうするかについての主権はあくまでもクリエイターにあり、消費者にそれをとやかく言う権利は無い」
というような主張が多いように見受けられます。
そしてお互いがお互いを「彼らとは分かり合えない」と呆れており、その溝の深さに驚いているようです。


結論から言えば、プライベートサーバーの設立と公開は公式が所有するアセットを一切使っていなかったとしても、
クライアントアプリを勝手に非公式サーバーへ接続させる時点で少なくともエンドユーザー利用規約に抵触するだろうし、
自前のサーバーでゲームを成立させる過程でリバースエンジニアリングやコピーガード回避をしていると思われ、
それらは明確に著作権侵害となります。
権利元のスクウェア・エニックスが怒ればプライベートサーバー運営側は消し飛ぶはずです。
そして、その辺の権利を保障するための法律は別に日本独自のものではなく、各国でも似たような規定があります。
つまり「どのような大義名分であれ、権利侵害している以上は法的にはアウトと言わざるを得ない」というのが結論かと。
海外勢は「法より倫理」という立場で文化の保存を大義名分としているようですが、
本質的に問題なのは他人も遊べるサーバーを勝手に公開していることであり、その点は倫理的にもアウトに見えます。
「ホスト本人のみか、ごく限られた人しかプレイできない」とかだったら炎上しなかったかも。
ただ、事態はそう単純なものではありません。


まず、「日本のゲーム・アニメが好きな外国人オタク」という立場になって考えると、
自分たちが好きなコンテンツが、自分たちに供給されることはあまり多くないという実情があります。
レトロゲームのような物理媒体はそもそも国内で手に入らなかったり、
DL販売にしてもリージョンや専用プラットフォームなどがややこしくてプレイが困難な可能性もあり、
そしてやっと手に入れても言語の壁があったりするわけです。
海賊版や改造版の存在はそうした問題を一挙に解決するので、
倫理的な問題はあるにせよそういうインターネット技術に頼らざるを得ないという感覚は、
まあ10000歩譲ってわからなくはない。
その点、日本はゲームに関しては公式からの供給手段がとても安定しているので理解できないのでしょう。
しかし日本でも電子書籍の購入はレンタルに等しく、ストアがサービス終了すれば全部読めなくなるというリスクを挙げて、
「公式が提供するサービスが著しく使いにくいなら、割れ(違法DL)に頼らざるを得ない」
という言説が比較的受け入れられているのを見かけたこともあり、この辺は共通感覚としてあるのかなと。


さらにやっかいなのはソーシャルゲームというものの実態です。
ソシャゲはユーザーにクライアントアプリを支給するものの、それは公式サーバーが稼働していないと起動さえできません。
そしてサーバー維持やコンテンツの制作にお金がかかる以上、
ユーザーがそれなりに課金してくれないとサービスの安定供給はなかなか難しく、
『パズル&ドラゴンズ』以降、おそるべき数のソシャゲが世に出ては消え去っています。
サ終してしまったソシャゲは基本的には遊ぶことができません。電子書籍のようなものです。
それに対して「文化の損失だ」と嘆く感覚もまあ分からなくもないです。
ソシャゲは電子書籍における紙書籍のような代替フォーマットが存在しませんからね。


しかしだからといって「ソーシャルゲームはいつでもプレイできるように保存されるべきだ」
という方向に倒してしまうと、権利者の負担はただ増えるだけになるでしょう。
たとえばサービス終了したらサードパーティのサーバーに接続する方法を用意しなければならない、
というような法律を作ったとしたら、
自分さえ楽しめればそれでいいユーザーたちは公式を攻撃してさっさと公式サーバーを撤退させ、
自分たちの裁量でやりたい放題できるサードパーティでのプレイ体験にこそ価値を見出すようになるのではないでしょうか。
もしもそれが通用するならもはや企業はお金をかけて他社IPとコラボしたりアセットを用意したりする意味がなくなるので、
ソシャゲという文化は急速に廃れていくことになるのではないかと思います。


つまり、ソシャゲのような文化は公式が手綱を握っているからこそ維持されている文化であり、
それを奪い取れるような世界線ではそもそもソシャゲというもの自体が成り立たないのではないかということです。


この辺の議論は日本人(の若者)が作品というものをどう見ているかという価値観が垣間見えて興味深いです。
同人文化に接続して考えればさらにいろいろな発見がありそうですが、まあそれはまた今度ということで。


#8155

執筆時間のインフレ

執筆時点でこのブログの累計文字数は約1328万文字で、1記事あたり約1,628文字となっています。
実際には、平時では1,000文字を目指して書き、筆が乗ったら書けるだけ書くというようなスタイルです。
そのスタイルで書くと結果的に平均1,600文字前後に落ち着くという感じですね。
年別で見ると2007年にはすでに現在と同じくらいのボリュームになっていて、
社会人以降は年によって上振れ下振れが若干ありますが、おおむね60万文字/年をキープしている状況です。
つまり、このブログは文章量だけで見ると19年前からあまり変わっていません。


しかし近年、実はブログにかける時間というのはかなりインフレしている実感があります。
macOSのスクリーンタイム計測によると、1本あたり1時間半〜2時間程度かかっています(あくまで推定値)。
昔のブログ執筆時間については記録していませんが、体感で1時間もかかっていなかったはず。
文章量が増加傾向だった2011、2012、2019、2020年などの例外を除くと、
おおむね30〜45分くらいだったんじゃないかと思っています。
少なくとも最初期は随筆でさえ1時間半もかけていなかったはずで、
まして通常記事に時間をかけるという発想は無く、なんというかもっと乱雑に書いて投稿していました。
だからこそその頃は1日2本以上投稿といういまでは考えられないスタイルが成立していたわけです。


文字数は増えていないが執筆にかける時間は延びている。
それをもって「質が上がっている」と考えるのは軽率というものですが、内容が変化してきているのは確かです。
黎明期は「日記」としてスタートしたので、その日のことを書くのが当たり前でした。
しかしいまはどちらかというと「随筆集」みたいなスタンスで書いているような気がします。
そしてこれは何か転機があって明確に分断しているわけではなく、
黎明期も随筆的な記事を書くことはあったし、いまも日記的な記事を書くことが根絶したわけではありません。
ただ、両者の比率は明らかに変化してきている。


日記はあったことを書くだけなので、極論そこに思想めいたものはありません。
なので特に何か考えなくても書くことはできる。
ただし、日記を書くためにはブログ執筆以外の活動がある程度充実ないし進展している必要はありそうです。
一方、随筆は思想の「タネ」みたいなものさえ見つけられれば、それを膨らませて記事にすることができます。
ブログ執筆以外の活動進捗が皆無でも書ける反面、タネを膨らませるためにはしっかり考える必要があり、
また毎日同じ結論にするわけにもいかないのである程度の思想的進展が必須になり、
そのためにはかなり頭をひねる必要がありそうです。そもそも適当な「タネ」が見つからないことも多い。
昔は後者のような書き方については相当未熟だったし人としても未熟だったので、
こういう書き方はちょっと油断すると愚痴や批判などのネガティブな結論に着地することも多かったように思います。
しかし長年書き続けてきた結果、興味深い議論を自分なりに距離を取って思考することができるようになってきた。
まあ他者の批評を通過していないので客観的にこれらが妥当なのかは知りませんが、
少なくとも自分個人は近年のブログ上の議論はかなり有意義に進展してきているように感じています。
ブログというプラットフォームが、自分の思考を発展させるための足場として機能している実感がある。
その実感も見える化されるので、RPGでいうところのレベリングに近い感覚です。


そこへ来ると近年、10代から続けてきた趣味はどれもこれも限界を感じてきていて、まるで進展していない。
短期で興味を持てることはありますが、「2週間の壁」を越えて取り組み続けられる活動はもはや稀です。
特にコンシューマーゲームなど若者向けの娯楽は長期的に見ると存続はかなり危ういのが実情で、
これはそう思うようになった2022年からいまのところ一度も覆っていません。
今後どうなるか分からないし、変な先入観は持つまいと思っていますが……なかなか糸口が見えていない状況です。
それをもって、最近は「趣味そのものが減退した」「加齢で生活エネルギーそのものが落ちている」
というようなことを認識するに至りました。


が、よくよく思えばゲームをしなくなった代わりに2時間/日も時間をかけてブログを書いているではないかと。
つまり自分はいま、若者向け文化を卒業してブログをメインの趣味とするフェーズに入りつつあるのかもなぁと。
こうなることは想定していなかったわけではありません。
昔から定年を迎えたらブログ専業になるんじゃないかとぼんやり考えていたのですが……
40歳になる前にその段階に突入するというのはさすがに考えていませんでした。
まぁでも、定年前までゲームをするのが自然かと言われるとそれもどうかとは思うのでこんなものなのかもしれない。


ブログを中心に据え、それ以外を切り捨てる生活は華が無いと言ってしまえばそれまでです。
なんというか社会から隔絶された、隠居生活みたいなイメージがある。
しかしそれはポジティブに言えば活動の一切を社会に依存せずに自立しているということでもあります。
ゲームにしろ動画サイトにしろコンテンツを食い潰す活動は長い目で見るとコンテンツが枯渇したり、
トレンドが自分の価値観と食い違ったりしてうまく消費できなくなったりと意外とうまくいかないものです。
しかもそれは社会の潮流によって変化するものであり、個人はどうすることもできません。
ブログ活動はいちおうクリエイティブな部類なのでそういう消費活動における悩みとは無縁です。
人生単位の長期活動という観点では、実はブログは結構有望な活動なのかもしれない。


若者文化を切り捨てるにはさすがにまだ早すぎるとは思っていますが、
青年期から中年期の過渡期において、今後何を軸に生きていくべきかというのは折りに触れて考えることになりそうです。


#8156

自律の季節

前途多難感が漂っていた仕事(新年度からの新プロジェクト)については、
一番知識量のある前任者が「マニュアル読んどいて」だけで質問してもレスポンスがめちゃくちゃ遅く、
温厚そうな後任者で実質的な自分の直属の上司は新年度からの異動らしく
業務知識についてはキャッチアップがまるで追いついておらず、正直まだまだ頼りにならない。
それならもうマニュアルを聖書として読み尽くすしかないのか、しかしどこから手をつければ……
と困っていたら、マニュアルの書き間違いが原因で前任者と認識齟齬のトラブルなんかも発生。
そこでPMは「マニュアルが間違うのは仕方ないんだから鵜呑みにするな」となぜか前任者を擁護。
その場は引き下がったものの、これはもしかして上京以降で一番真っ黒な会社なのでは?
と内心不安になりました。


が、ここで腐ってしまったらいままでのキャリアやメンタル面の意識改革はなんだったんだということになります。
いまはネガティブな気持ちを抑え込んで前任者から穏便に知識を引き出すことに専念しており、
前任者も思っていたよりコミュ障ではない雰囲気も感じられているのでここが踏ん張りどころなのかも。
結局、会社の人間関係構築って自分から「諦めてしまう」から結果的に当たりが強くなってブラックに感じるわけで、
思い返せば自己責任でリタイアしたところもあったと思います。
今回、それを避けられるかどうかというのはメンタル面の大きな課題になるでしょう。
それはもしかしたら定年まで平社員で終わるか否かの分かれ道かも。


とはいえ心配事といえばそれくらいで、当初最大の懸念だった出勤日の早起きもいまのところ安定しています。
なんなら週4出勤でも支障なく行けると思うし、
出勤した方が結果的に読書もはかどるのでそっちの方がいいのかもとさえ思います。
テレワーク日は結局誰にも見られていないからこそ怠惰を貪ってしまうし、
その怠惰にどっぷり浸かって退勤時間を迎えるとプライベート活動も捗らないことが多いんですよね。
自分を律するためには、むしろ他人の目に積極的に晒される環境に身を投じるべきなのかもしれない。


その点ではゴールデンウィーク計画も若干迷っています。
当初はゴールデンウィークは帰省しないつもりで余り過ぎていた有休を03月に消化し、そこで帰省しました。
当時は新プロジェクトに入ってすぐ有休を取れる保証が無いと思っていたからです。
しかし実際には特に問題なく取れそうだし、むしろ取るならいまのうち感が漂っています。
秋にリリースを控えているので、そこに近づけば近づくほど有休を取るどころではなくなってくるでしょう。
今年のゴールデンウィークは2日有休を取得するだけで9連休にできるので、
そこでまた実家に帰れば『ぽこあポケモン』の続きができるという明確な目的もなくはない。
実家は基本的に車が無いと外に出られない閉鎖空間であり、
しかも他人と同居しているため否応なしに作業が捗る環境でもあります。
自分を律しやすいという意味では、ゴールデンウィークはやっぱり帰省するというのもアリかもしれない……?
ただ、やはり03月に帰ったばかりでそのときはあまり自律できていたとは言い難いので微妙なのは確か。
気分転換が目的なら実家ではなく地方に旅行するというのも少し考えましたが、
作業するという目的なら結局都内のカフェを巡るのが一番無難な気がしています。
カフェでノマドワークは他人の目で自分を律したい人にとってはやはり最強コスパの作業環境なんですよね。


職場の立ち回りにしろプライベート活動にしろ、自分を律するということがテーマになりそうな今日この頃です。


#8157

推し活動の脆弱性

承認欲求のために活動することは、成果を生み出す段階では報われるかどうかわからないという意味でギャンブルであり、
そうした活動からギャンブル性を払拭するための実践として利他活動は有望なのではないか、
というようなことをここ2年くらい繰り返し論じてきました。
利他活動(自分の利益を一切求めない、他人のためにする活動)によって「自分は社会貢献している」と実感できれば、
少なくとも活動は他人に認められないと無意味だ、というような文脈の活動よりも持続しやすいのではないかと。


そして当時の自分は「推し活動」を利他活動のひとつとして挙げました。
推し活動、つまり誰かの活動を(多くの場合金銭的に)サポートするという活動です。
パトロンサイトで課金制のファンクラブに入ってブログに全肯定的なコメントを残したり、コミケでグッズを買ったり。
推し活動が利他活動と言えるのかどうかについてはかなり厳しいような気はしていますが、
いずれにしろこれらの考えの根底には「自分が社会に埋没することに対する恐れ」から脱したいという願いがあり、
その視点からすると推し活動はカネさえ払えば推しからレスポンスはもらえるという点で、
不特定多数を相手にする成果主義の「承認欲求ありきの活動」よりは若干マシのように見えます。


承認欲求ありきの活動は、認めるかどうかは他人次第であり活動主体はそれをコントロールできません。
そのため頑張っても頑張っても認められないという経験が累積すると他者不信に陥り無償では頑張れなくなります。
これは本人のスキルだけに必ずしも依存しません。時代の価値観、運、人間関係にも大いに左右されるでしょう。
そして自分は20年のネット活動の末にもはや頑張れなくなってしまったという事情がまず念頭にあります。
その点、「推し活動」は憧れている人に自分を重ねることによって、
憧れている人が社会に認められたとき、他者に褒められたとき、成果を発表したとき、
それらをあたかも自分ごととして捉えることで欲求を満たすことができます。
しかも、自分自身はファンクラブのサブスクにさえ入っておけば主体的に努力する必要もありません。
語弊があるかもしれませんが、承認欲求の投資信託みたいなイメージです。


しかしそれがいかに脆弱であるかということは、2024〜2025年にVTuber界隈を見渡して痛感しました。
推される側は、推す側の期待によって敷かれた見えないレールの上を正確に歩くことを求められていて、
そこから少しでも逸脱すると「解釈不一致だ」と叩かれます。まずこの難しさがある。
また、推しが叩かれるとそれを推している人もあたかも否定されたかのような気持ちになることは避けられません。
ホロライブ界隈はこれに派閥や不祥事の問題が加わっているので泥沼の戦争みたいなことを裏でやっているわけです。
そして決定的なのは、ファンが多いような人やキャラの推しをやっていても、
ただそれだけでは「社会に埋没することへの恐れ」は払拭できないということです。
ちょっと母数が減っただけで、結局ファンクラブ内では有象無象の一人であるということは否定できない。
そこから抜け出したいと思ったらファンとして主体的に「認められないかもしれない活動」をするしかないわけで、
結局冒頭の地点に戻ってしまいます。


この問題は、「どの程度欲求が満たされれば満足できるのか」というボーダーラインを見極める必要がありそう。
埋没している・していないという観点でこの問題を考えてしまうと、解決は不可能なのではないかということです。
それは自分が推していたVTuberもYouTube配信界隈では埋没している1人の配信者にすぎないことからも明らかです。
もしかしたらこの問題は、視点が高すぎてなんでも他人の成果を俯瞰できるからこそ深刻に思える問題なのかも。
ネット社会はそういう視点の高さがデフォルト設定だからこそ こういう悩みが深刻になっていますが、
実社会の仕事においては、自分は社会に埋没しているという事実を否定できない一方、
たとえば同じ会社でも隣の部署の人が何をやっているのかさえクローズドであるからこそ
自分の領分に集中できているというような側面もありそうです。


実社会をヒントにネット社会における立ち回りを今一度見直してみる、というのはひとつの方針としてアリだと思います。


#8158

出社日の利活用

今日の出来事週間計画

新年度から週3出勤になって約3週間が経過しました。
週間計画の基礎になる「1週間のルーチン」について今一度ここで整理しておきたいと思います。
まず、直近の自分の考え方として、中期目標に直接結びつく活動を少しでも進めるために、
定常的な作業とは別に余暇で何か活動する「余地」を残しておくことは重要と考えています(#05171 / 2018年02月18日)。
ここで定常的な作業とは自分にとってブログと読書が当てはまります。
言わずもがなのことかもしれませんが、仕事もこれに含まれるでしょう。
ここ3週間の実績ベースで、ブログはざっくり10.5時間/週、読書は4時間/週ほど時間リソースを使っています。
読書は実質通勤時間内に含まれるのでほぼカウントしなくてもいいかもしれませんが、
ブログは電車内ではさすがに書けないので退勤後時間を使わざるを得ません。
現状、この10.5時間は週2日のテレワーク日の退勤後と土日で捻出しているという状況です。


作業時間を数値にすると「1日は24時間もあるんだから1.5時間/日なんて大したことないな」と思いがちですが、
経験上、24時間のうち実際に稼働できる活動時間というのは非常に少ないです。
これは各々のモチベーションやポテンシャルによって大きく左右されますが、
実際に怠惰に慣れてしまった低空飛行を続けているような状況では1.5時間の捻出もまあまあ難しいという実情があります。
そんな中で定常作業だけで10.5時間取られると、シンプルに「余地」が残らないんですよね。
いまのルーチンで言うと、テレワーク日に3時間/日確保できないとその皺寄せを土日で吸収することになるため、
結果的に土日は他に何も活動できていないということが起きがちです。


物事を進展させるためには、少なくとも1日は何をやってもいい日として確保しておきたいと思っています。
これは先週日曜日にそういう状況を作れたとき、ものすごく作業がはかどったことに依ります。
毎週これができるなら、かなり理想的なルーチンと言えそうではある。
そのために現状必要なのは、「出社日も定常作業に取り組む」という方針への転換なのではないかと考えています。
出社日は06時起きなので、帰宅するとドッと疲労感が出てくるので諸々の作業が進みにくいのは否めません。
しかし、帰宅する前なら多少の余地はありそう。
そこで、上京直後は毎日のようにやっていたものの最近ご無沙汰だった、
退勤前にカフェで作業をする習慣を復活させてみるというのがひとつ有望な施策になるんじゃないかなと。


いまの通勤先は大手町駅の数駅隣なので、退勤したらまず大手町駅で降りて東京駅まで歩き、
ノマドワーク拠点として使い慣れた東京駅で夕飯を済ませ、その他に必要な買い物も済ませ、
そしていくつかのカフェのうちその日の気分で使いたいカフェでガッツリ作業をする……というのが理想的です。
外食が1日2食になる上に会社に申告している以上の交通費がかかるので金銭的なロスは若干ありますが、
それで趣味系計画を進展させられる余地を作れるなら安い気がする。


#8159

久々の自然睡眠

昨夜、数年ぶりに自然睡眠で寝付くことができました。
自分は幼少期からの夜更かし癖によって生活リズムが異常に破綻しやすい特性を持っており(#07714 / 2025年01月29日)、
大学時代のような社会適応が必要ないライフステージでは概日リズムが根本的に壊れた生活を送っていました。
朝に起きたら翌朝まで起き続け、そして夕方に起きたら次は夕方まで起き続けるというような生活です。
こうした生活は「起きている時間が一般的でないだけ」と捉えられるかもしれませんが、
実際には崩壊した生活リズムで明確に覚醒しているのは起床後1〜2時間程度がせいぜいであり、
あとはめちゃくちゃ眠いのに眠れない、というような地獄が延々と続くというのが実態です。
自分は貴重な趣味第一の生活ができる大学時代の7割くらいをこれによって浪費してしまったという黒歴史があります。


基本的に幼少期〜思春期をこのように過ごしてしまうともうサポートなしで社会適応するのは難しいという現実があり、
自分は2019年から非ベンゾ系の睡眠薬を服用することによって、なかば無理やり睡眠リズムを矯正し続けています。
睡眠薬はざっくり言うと昔からあるベンゾジアゼピン系と呼ばれる依存性の強い薬と、
抗うつ作用が弱い代わりに催眠に特化し、比較的依存性が弱いとされている非ベンゾジアゼピン系睡眠薬に分かれます。
非ベンゾ系は「依存性が無い」と言われて処方されたものの、近年の研究では必ずしも依存性が無いわけではないらしく、
まあいずれにしろ睡眠薬に依存せずに生活できるならそれに越したことはありません。
しかし日常生活で寝るべきときに眠くなるという現象がまず起こらないので、頼らざるを得ない生活を続けてきました。
これはもともと生活リズムが崩れやすいという先述の個人的な事情に加え、
テレワークで起床時間が遅い、運動量が少ないなど眠くなりにくい環境を作り上げてしまっているせいもあると思います。
こうした事情から、もはや睡眠薬無しでは生活できない状況がだらだらと続いてしまっている現状があります。


昨日は06時起きの出社日だったのに加えて、帰宅後すぐにDiscordのボイチャに深夜まで入り浸っていました。
そしてなんやかんやで02時まで起き続けていたのですが、猛烈に眠くなってきたので退室したら、
そのまますんなりと眠れたんですね。まあ、20時間起きていれば眠くなるのは当たり前と言えば当たり前なのですが……。
ふだんは夜更かしするとなると夜明けだろうがなんだろうが眠くならないので、
自分にしてはかなり珍しい現象だったと言えます。
新年度からの週3出勤は出社日に限り睡眠薬に依存しない生活を実現できるポテンシャルがあるかも、と思った次第です。


#8160

自責論の隙を探す

自分はどちらかというとかなりの自責論者であると思っています。
これは基本的に議論というのは自分にとって「よりよくするための足掛かり」を得ることを目指すものであり、
であればこそ「もう変えられないことに原因を求めることは不毛である」(#07491 / 2024年06月20日)という信念があるからです。
つまり、自分という個人は基本的に社会を変えられないのだから、社会に原因を求めても仕方がない。
さらに言えば、社会だけでなくその構成要素であるところの「他人」も同様です。
他人は基本的に変えられない(干渉できない)。
何かできるとしたら、他人との関わり方に関して自分の行動様式を変えるだけです。
自分のこの考え方は、2018年以降の脱メンヘラ期において
他人(社会)には基本的に期待できないんだという価値観が経験則によって強化されてきたことに依るものと思われます。
自分が抱く「他人にこうあってほしい」という願望は願望でしかないと分かってきたということですね。


とはいえ自責論も無敵ではなく、どんな議論も自分に原因を求めれば良いということでもありません。
たとえば過去の行動、あるいはそれに基づく価値観などは変えようがありますが、
一方で「自分」の中にも自分が望んで得たわけではない変えられない特性というものがあり、
これも基本的に「変えられない」ので議論の場では社会や他人と同じような扱いになります。
要するにある問題や改善点について議論するとき、それは単に自他というラインで原因や責任を切り分けているのではなく、
「変えられる何かをどう変えるか」という筋に沿った議論のことを有意義な議論だと捉えているということです。


ただ、ある概念に対して変えられるか否かというのは、個々の立場や価値観にかなり依存しそうな予感がします。
自分は社会は個人では変えられないと思っていますが、社会問題に対して意識の高い人はそうは思わないかもしれません。
個々人ができる範囲で活動すればそれが累積して社会を変えるんだ、という主張も理屈としては分かります。
つまり、ここで変えられる・変えられないと言っているのは本人の切実度にけっこう依存するんじゃないかなと。
自分が実践している自責論的な議論というのは、足元のメンテナンスにすぎないのではないかと改めて思います。
とはいえ、それ自体が大きく間違っているとも思っていません。
個人ができるのはせいぜいそういう積み重ねで少しずつ改善することくらいだと思っているので。


ただ、それはそれとして、変えられないと直感したものをただそれだけで議論の舞台からおろすのではなく、
いちおう「見る側の視点を変えたらもしかしたら変えられるかも?」と考えてみることはやってみてもいいのかも。
自分には他人にも通用するような真理を追い求める余裕もキャパシティも無いですが、
あまりにも個人的すぎることを延々考えるのもそれはそれで不毛と思われ、
説得力を持たせたいと思えばこそ、もう少し客観視することに骨を折ってみてもいいのかなと思った次第です。


#8161

手がかりとしてのスマホ環境

今日の出来事ai

Codexを導入して3ヶ月ちょい経ちましたが、使い方によって明暗が分かれています。
まず、真っ当な使い方としての開発エージェントとしての使い方はおおむね順調かなと思っています。
Codexがいなかったら何ヶ月かかっていたんだろう、という難解なタスクもあっさりできるようになった。
イチから大規模なアプリを作る実践はまだですが、複雑な要件でなければなんとかなりそうな気はしています。
ただし、「理解負債」という新しい概念も登場していてこれは折りに触れて対処したいところ。
Codexに任せれば任せるほど自分のリポジトリなのに自分が理解できない部分というのが増えていくため、
意識的にキャッチアップしないといずれ初歩的な改修でさえ人力では行き詰まってしまいます。
幸い、キャッチアップ自体もCodexが補助してくれるので解決の見通しは立てやすいですが、
実務的には時短したい欲求との戦いになりそうな気がしています。
まぁ、過信は禁物ですがその辺も人間が入力するプロンプト次第なところもあり、便利なツールであることは確か。


一方、あまり順調とは言えないのがナレッジベースのアシスタントとしての運用。
自分は創作に関する設定メモをかつてはアナログノート、2010年以降は主に着想メモとしてEvernoteに溜めていましたが、
今年初頭にこれをプライベートリポジトリ化してプロジェクトとしてまとめました。
こうすることによりCodexは横断的に情報を探索することができるため、
情報の整理(矛盾がないかどうか等)、断片的な情報の集約、創作に関する壁打ち相手などに応用できるようになります。
これで創作はさらに発展する……かに思えたのですが、実際にはあまり捗っていません。
絶対にいままでよりも合理化が進んでいるのになぜ?


これは、シンプルに「スマホに対応していない」というのが原因のひとつであると思っています。
創作活動自体は腰を据えてPC環境でするのが当たり前かもしれませんが、
「創作設定を練る」という行為自体はいつどこでも発生しうる着想によって進展するものであるため、
思いついたらさっと取り出してさっとやめられるスマホの方が相性は良いです。
実際、これまで創作設定が発展してきたのは最速メモアプリ「Drafts」のおかげといっても過言ではなく、
そういう意味ではもう創作活動(の下地作り)はここ16年ほどはスマホが舞台なんですよね。


しかしCodexは現時点でスマホに対応していません。
web版なら対応していないわけではないものの、ネイティブ対応でない時点で利便性は劣るのが現実です。
じゃあ「2025年は創作が捗った」というのはなんだったのかという話になるわけですが、
Codex導入以前はChatGPT Projectsという機能で創作の壁打ちをしていたのでスマホでの創作設定が捗っていたんですね。
いまでもそれはできるんですが、こっちで進めてしまうとCodex側との情報に差が出てしまうし、
かといって現状ProjectsとGitリポジトリを同期する手段は存在しないのでどうにもならないという状況です。
まぁ、こうした現状を踏まえるといったんCodexは考えないでProjectsに絞るのが無難な気はしますが。
確かにナレッジベースを作れるのは魅力的ではあるものの、
それも「腰を据えて取り組む」タイプのタスクということなのでしょう。
情報が散乱しているのは確かなので、その整理こそ腰を据えてやりたいというのは考えているのですが、
優先度が高いわけではないのでなかなか手が出ていないのが現状です。GW計画に組み込んでみてもいいかも。


というわけで「創作はスマホ環境必須」というのがここ3ヶ月で新たに生まれた反省です。
創作は去年と違って今年はマストの計画ではありませんが、去年の勢いを殺さない程度に続けたいところです。


#8162

頼りにならない表題

今日の出来事読書

03月上旬からスタートした2026年の読書は、今日で7冊目を読み終わりました。
いまのところ月4冊ペースで読み進めているので、このままいくと2020年比で3倍もの冊数を読めることになります。
年間計画の当初の予定ではこのうち4冊について精読して読書録を書きたいという方針になっているので、
単純計算で9冊に1冊精読すればよいという割合になります。
が、ただ闇雲にたくさん読めばそれでよいというわけでもないので、
ここでいったん「本の選び方」について改めて考えることにします。


7冊の内訳はすべて新書で、基本的には03月の読書開始前に整備したTwitterの読書アカウントを頼りに
タイムラインに流れてくる書影を見てまずはフィーリングで「いいね」していき、
定期的にいいね欄を読み返して興味関心にマッチしているか等を勘案して「読みきれそうか」を吟味した上で、
まあ行けるだろうと判断した書籍を実店舗で探しています。
つまり、いいね→興味関心・ボリューム感→実店舗の在庫有無という3段階のチェックを経ているわけですね。
ちなみに「本を買ったという実感」を大切にしたいので、
実店舗に在庫が無いケースではAmazon等にあったとしてもいまのところ諦めています。
が、これはいずれ方針転換せざるをえないかもしれません。


このフィルタリングはまず書影(カバーイラスト、タイトル)とそれに付随する書評で絞ることになるわけですが、
7冊読んで思ったのはここが結構当てにならないということですね。
まず、新刊を紹介するアカウントは当たり前ですが新刊のことを絶対に悪く言いません。
それどころか、あらゆる語彙を総動員して内容を褒めまくるというのが通例のようです。
当然、その語彙のインパクトや評価者の影響力などによってタイムラインに出やすい・出にくいも決まるわけで、
インパクトが強い投稿ほど露出しやすいでしょう。
しかし、実際に読んでみるとそういう投稿で釣られた書籍ほど肩透かしを食うケースが多い。


これは帯についてもほぼ同様のことが言えるのですが(少なくとも帯の寄稿者の肩書きはほぼほぼ当てにならない)、
帯だけでなく「タイトルそのもの」も似たようなことが言えます。
タイトルから抱く期待は読む前が最高潮で、そこからずっと右肩下がりになるケースは結構多い。
タイトルで示唆しているテーマについて扱うのは書籍のうちほんの一部というケースもありました。
タイトルに直接紐づいたテーマで1冊がっつり語っていたらそれだけで当たりの部類という印象です。


まだたった7冊ですが、ひとまずTwitterの書評やタイトルはあまり当てにならないことがわかったので、
今後は書店で本を探す時間をもう少し意図的に増やそうかなと思っています。
あらゆる本の内容を事前チェックするのはいろいろな意味で不可能なので書影の印象からある程度絞ることはしますが、
書店の場合は気になったらその場ですぐ手に取れるので、最低でも目次は目を通す。できれば前書きも読む。
それで良さそうな候補はその場で買ってしまうのもアリだとは思いますが、
それだと購入冊数が無駄に増えそうなのでいったんタイトルをメモってネットで書評を読むのがベターかなと。


月4冊というハイペースな読書スタイルは本を読むことのハードルを下げてくれるので
これについては慣れてくるまでもうしばらく維持していこうと思っていますが、
それはそれとして精読に値する書籍とも出会いたいので、本の選び方はどんどんブラッシュアップしていきたいですね。


#8163

音楽体験のマンネリ化

音楽のマンネリ化がやや深刻な段階に入ってきたと思うので状況整理を。
自分にとって音楽は長らくiTunes Storeなどで能動的に探し、視聴などで購入候補を吟味し、
そして厳選した結果買うと決めた作品のCDアルバムを買ってライブラリに取り込んで育てていくものでした。
またライブラリを楽しむにあたってはその時点の趣向に沿った即興プレイリストを作るのが当たり前でした。
しかしタイパが大切な価値観になった昨今、これら選定作業はあまりにも手間がかかりすぎるという現実があり、
特に「アルバムを買う」という行動は上京してから大幅に衰退。
それによって新規楽曲があまり入ってこなくなり既存楽曲ばかり聴き回す時期が長く続いていましたが、
いよいよそれもマンネリ化してきて音楽趣味の滅亡を予感するようになったため、
2023年12月に長期契約を前提としてApple Musicのサブスクに加入しました。


これによって2024年は1年を通じて「音楽の年」と言えるほど音楽が再興しました。
以後、従来のマイレートとは別に「お気に入り」楽曲が蓄積していくことになり、
そこから自動再生(∞)プレイリスト機能によって似たような未知の楽曲を延々流すというスタイルが確立しました。
2025年の半ばくらいまではそれでおおむね満足していたのですが、
結局お気に入り楽曲から芋蔓式に見つける楽曲というのはそれぞれ似たようなベクトルの楽曲だったりするわけで、
いつしかお気に入りプレイリスト自体が似たり寄ったりの楽曲ばかりになってしまいました。
とはいえ、現状お気に入り以外から受動的に楽曲を発掘する方法が確立していないので、
手を打たないかぎりはマンネリから脱出できないという泥沼に陥ってしまっています。
そんな中、2007年末からずっと好きだったテクノポップ系統への飽きも少し自覚しつつありまずい状況です。
そこへ畳み掛けるようにmacOS 26におけるApple Musicの信じられないレベルのUI大改悪も重なり、
音楽関係のモチベーションは再び危険な状態です。


まぁ、結局のところスマートプレイリスト等で小手先の改善はできても、
長期的に音楽を楽しみ続けるには能動的に楽曲に興味を持ち、探すという手間を払うことは不可欠なのでしょう。
ライブラリは基本的に最後に手入れをしたときの価値観で固定化される傾向にあり、
いまの自分の「お気に入り」プレイリストもVTuberへの期待が高かったころの価値観がそのままパッケージされています。
一方、自分自身の興味関心は移ろい続けるわけで、
音楽もそれに合わせて変えていかねばどうしても本心から楽しみ続けることはできない。
これは音楽に限らないことですが、やはり長期で楽しみたいならその都度メンテすることが重要なのだろうなと。


いま、音楽に関する作業は毎月10日のライブラリバックアップのみですが、
ライブラリの点検と新曲探しも定常作業として入れようかなと思っています。
それが続くかどうかはなんとも言えませんが。


#8164

アサーション再び

今日の出来事心理学

もしかしたら、いまの自分にこそ「アサーション」の理解が必要なのではとふと思いました。
アサーションとは認知行動療法(#04865 / 2017年05月01日)でも実践されているコミュニケーション技法のひとつで、
自分も相手も自己表現したいという前提を理解した上で、相手を尊重しつつ適切な自己表現を目指すというもの。
会話の主導権を相手にすべて渡して聴き専に回ってしまうのは「ノン・アサーティブ(非主張的)」、
相手を尊重せずに自己表現するのは「アグレッシブ(攻撃的)」とし、そのどちらも避けることが良いとされています。


アサーションできていない=コミュ障、とぶった切るのはかなり乱暴な言い方になりますが、
そういう意味では自分はかつて、ノン・アサーティブでありアグレッシブでもある深刻なコミュ障だったと自覚しています。
例の長年の付き合いが消えた2件の人間関係トラブルも、
思い返せば一方はノン・アサーティブだったから欲求不満が溜まりすぎて起きたトラブルであり、
もう一方はアグレッシブだったから相手の尊厳に傷をつけてしまい起きたトラブルであると考えることができるからです。
そして諸々の反省を踏まえて、いまようやくアグレッシブなコミュ障傾向はかなり改善してきたと思っています。


一方、ノン・アサーティブな傾向は必ずしも改善していません。
だからこそ欲求不満に陥って「第5のコミュニティに属したい」などという気持ちが湧き上がってくるのだと思います。
既存の人間関係で特にトラブルは起こしていないのにそれを見限って新たな出会いを求めたくなる姿勢は、
客観的に見れば本人に問題があるからそうしているのだという可能性を否定できません。
つまり、ノン・アサーティブなコミュニケーションしかできないから自己主張できていないという不満が静かに溜まっていく。
その欲求は適切な人間関係によって解消できる(他者に解消してもらえる)という期待があればこそ、
「既存の人間関係ではダメなんだろう」という発想に至るわけです。
もしこの原因がノン・アサーティブなコミュニケーションをしている自分にあるのだとしたら、
仮に新しい人間関係を結んだとしても、この問題は解決しない可能性が高いと思われます。


ただし、自分よりさらにノン・アサーティブな傾向にある人と話す機会がある場合はこのかぎりではありません。
自分に会話の主導権を全部くれる人がいるなら、この問題は解決するかもしれない。
しかしそれは、同時に相手方にいま自分が抱いているような欲求不満を押し付けることを意味します。
それでは持続可能な人間関係を構築することはできないので、やはりある程度の自助努力は必要そうではある。
こう考えると、クリティカルに相性の良い「運命の相手」とさえ出会えれば人間関係の問題は一挙に改善する、
などという考えは現実にはありえない、自分が改善する努力を端から放棄した人の妄言なのだと分かります。


とはいえ、ノン・アサーティブを克服するのはそう簡単ではないような気がしています。
アグレッシブ(攻撃的)なコミュニケーションがダメというのは倫理的直感にも通じるので分かりやすいんですが、
ノン・アサーティブ(非主張的)なコミュニケーションがダメというのはそれと同じ文脈で説明できないどころか、
ある意味「道徳的に正しいこと」をいったん否定してみる必要性すらあるのではないかと予感しています。
つまり、聴き専に回るということ自体は、その人なりに相手を尊重している行動でもあるわけで。
ノン・アサーティブがダメと言われると「相手を尊重する〈正しさ〉より自分の欲求を優先しろと?」
とその人の誠実性を否定する話にもなりかねないと思っているのですが、
この辺は専門家の話を聞いてみないと実際どうなのかはわかりません。


実はアサーションに関する本は例の絶縁した知り合いに勧められて買って読んだことがあるのですが、
内容が陳腐に思えたのでメルカリで手放して「無かったことにした」という黒歴史があります。
知り合いが勧める本を否定してみることが、当時の自分なりに「ノン・アサーティブを超える実践」だったのかもしれません。
自己表現の機会に圧倒的な差が生じている人間関係では、
思想の相違や利害などとはまた違う文脈でそういう反抗的な気持ちも起こりうるのでしょう。
しかし6年を経て自尊心も周辺環境も一変したいま、アサーション自体は改めて学ぶ価値のある分野なのかも。
加齢によって膨張しすぎた自尊心をどう切り崩すかという問題も横たわっている昨今、
これがとっかかりになってくれればいいなとも思っています。


#8165

作曲への羨望

今日の出来事音楽制作

久々に新規ジャンルで物欲を掻き立てられるニュースがありました。
カシオがポータブルスタンドアロンサンプラー「SXC-1 」を発表。店頭価格39,930円、05月28日発売予定。
持ち運べる軽さ・小ささながら16個のパッドとミニディスプレイを備え、これ一台でサンプリングから作曲まで完結でき、
スマホ連携でデータの入出力もできるという、作曲経験の無い初心者向けのポータブルサンプラーです。
ゲーミフィケーション感覚で学べるチュートリアル動画パッケージ付き。


言うまでもなく自分は作曲経験がありません。
電子音楽を聴いてきた歴史はそれなりに長くなってきましたが、基本的に聴き専で満足しています。
イラスト制作やゲーム制作などと違って作曲は幼少期から続く創作との関連性が薄いのもあって、
音楽は好きだし作曲家を尊敬はしているものの、「自分も作曲したい!」とはなかなか思わなかったという経緯があります。
長年の活動遍歴を遡っても、作曲は完全に未知の領域。
しかしだからこそ、自分の領分やステータスとはまったく関係ない動線の「遊び」として成り立つ魅力がありそうです。
つまり、何か意義があるからとか野望を叶えるためとかといった欲求とは関係なく、
単にちょっと高価なおもちゃとして「遊ぶため」に欲しい。
まぁ、あわよくばこれで作曲の基本を身につけたいというスケベ心も無いわけではないですが……。
そこはあんまり重視すべきではないのかなとも思います。


作曲経験は無いですが、実はこの手のガジェットでできることに近い遊びはやったことがあります。
1年を通してiPod touch/iPhoneアプリに夢中だった2010年の暮れ、
ただタップするだけで作曲できてしまうアプリ「TonePad」と出会ってわりとハマっていました(#02486 / 2010年12月14日)。
このアプリはヤマハの「TENORI-ON(テノリオン)」というガジェットに触発されて作られたものだそうです。
「TonePad」でなんちゃって作曲に魅力を感じた当時の自分は
年が明けてすぐに「Music Studio」という本格的なDAWアプリを購入することを決意しますが、結末はお察し。
あと細かいところでは家族間でBMSが流行っていた当時、ほんのちょっとだけ作曲しようとしたことがありますね。
どういう曲を作りたいのか何もイメージできずにあっさり諦めましたが。


いずれにしろ、本格的な作曲は基礎知識が根本的に抜け落ちているのでハードルが高いのは確かです。
が、そのハードルをとっぱらったおもちゃなら過去にもハマった実績がありポテンシャルを感じます。
まぁSXC-1はおもちゃと割り切るにはちょっと高価な感じもするので迷いどころではあるのですが、
今後はこういうものにも手を出せるくらいの余裕は欲しいところです。


#8166

宿題としての哲学

今日の出来事哲学

去年、生涯を通じて1冊でいいから本格的な哲学書を読みたいと思ったことがありました。
当初はカントの『実践理性批判』への興味が強かったのですが、
次第に承認不安について考えている時間が長い自分はヘーゲルの『精神現象学』の方が合っていると思うようになり、
ヘーゲルに関する入門書もいくつか積んでいます。
が、最近どうもこの計画はこのままだと単に一過性の興味として過ぎ去ってしまいそうな予感がしています。


確かに古典を学ぶことの意義は小さくないと思います。
カントにしろヘーゲルにしろ、その他の哲学者にしろ、実際に生涯を賭けて読解に取り組んでいる研究者は多い。
ただ、自分個人がそれをする意義があるのかと言われるとそこは微妙なのかなと。
これは先日の、社会的欲求と個人的欲求を完全に切り分ける(#08152 / 2026年04月11日)という発想から来ています。
つまり〈既存の哲学〉について学ぶのは他人に褒められたいという気持ちを否定できないわけです。
自分はヘーゲルを読んだことがあるというステータスが欲しい、ということですね。
それは決して純粋にヘーゲルの思想を学びたいと思っているとは言えません。
そんな気持ちで哲学書に臨んだところで序章も乗り越えられないであろうことは言うまでもありませんが、
仮に読破したとしても、その苦労に見合う評価を得られるのか甚だ疑問です。
昨今の自分は、こういう徹底した一種の他者不信に立脚しているところがあります。
それもどうかというご指摘はあると思いますが、いったんここはその前提で話を進めさせてください。


もし、「自分が哲学書を読むこと」それ自体が確実に社会貢献になるなら、
他人に認められるかどうかはさておき、利他行為と割り切ってそれを実践する価値はあると思います(#07800 / 2025年04月25日)。
ただ、おそらく哲学書を読むことはそれにも該当しないような気がします。
となるとあとは純粋に自分にとっての「実利」を追い求めるしかない。
思えば近年の自分はこれら「他者承認」「社会貢献」「実利」の3すくみの狭間でことごとく迷走している気がしますが、
それは哲学的な営みでさえ例外ではないということです。


哲学が「答えのない抽象的なことに答えを出そうとすること」なら、自分はすでに哲学を実践しています。
「既存の哲学者の思想を学ぶこと」なら、まだ一度足りとも実践したことがありません。
このブログは前者の意味の哲学をすると割り切っていてそういう意味では実利に振り切っているとも言えますが、
単に自分のために考えることそのものが楽しいのでやっている活動であるとも言えます。
教養をつけること全般に言えることですが、
哲学書を読む意義を見出すとしたらそれをサポートする存在として心強いのは確かだろうなと。
そして、そういう実存について参考にするなら少なくともヘーゲルの思想は自分の興味関心に被っていて、有望なのは確か。
「生涯を賭けて精読する価値がある」とまではいかないものの、
実利の観点で読む価値はかなりありそうな気はしています。
ただ、実利といってもどこまで価値があるのかさえ未知数でありハードルが高いのは確か。


生涯を賭けて取り組みたい、というスタンスで哲学本を見定めようとするともっと良い本があるのではないかと考え、
永遠に取り組めないジレンマがありますが、この件はいったん実利のためと割り切ってしまおうかなと思っています。
今年の読書ブームの行先にいずれ哲学書を読むフェーズがやってくるかもしれません。


#8167

入手困難な最速環境

今日の出来事Wii-U

久々に(おそらく上京以来初?)Wii Uを取り出して起動してみました。
ピクミンコミュニティでWii Uについての話になり、たまに起動しないと故障リスクが上がると聞いてのことです。


Wii Uは2012年発売の任天堂ハードで、事実上2006年発売の「Wii」の上位互換的なポジションです。
Wiiソフトも起動でき、Wii特有の操作であるWiiリモコンを接続することもできる。
Wii Uではそれに加えてタブレット的な端末が加わり、据え置きゲームにしてマルチ画面という画期的な遊び方を提案しました。
バーチャルコンソールを配信していた最後の世代でもあり、
ニンテンドーDSのバーチャルコンソールを遊べるのはこの機種が唯一となっています。
世間的には「失敗ハード」という評価が定着しており、Wiiが約1億台、Switch1が約1.5億台売っているの対し、
Wii Uは1桁少ない1356万台にとどまっています。
14年前のハードということで当然修理サポートは終わっているし、新品の入手は困難です。
ざっと調べたところジャンクに近い中古品ならメルカリで3,000〜6,000円程度で買えそう。


ところでピクミンのやり込み世界ではRTAが活発なのですが、
その中でも特に奥深いとされる(自分調べ)RTAとして『ピクミン2』のお宝全回収RTAがあります。
このRTAは走者があまり多くないのですが、
その理由としてハードルの高さはもとより最速環境を揃えるのが困難という事情があるんですよね。
『ピクミン2』はゲームキューブ版、Wii版、Nintendo Switch版とプラットフォーム別だけで3種類あるのですが、
そのうちWii版のダウンロード版がかつてWii Uに配信されており、現在はこれが最速とされています。
本当はSwitch版がロード速度の観点から最速になってもおかしくなかったのですが、
Switch版ピクミン2はなぜか本編のみ意図的にロードを早くしないように抑制する仕組みが含まれており、
さらにお宝重い海外版準拠&主要バグも潰されていることからRTAでこれを選ぶ人はほぼいない状況です。


しかし現状最速のWii U版はかなりの入手困難であるという事情があります。
Wii U本体は手に入っても、当然ながらストアは閉鎖されているのでダウンロード版の新規購入はもう不可能。
現状は持っていると判明している人から譲ってもらうか、
中古のWii Uを片っ端から買ってきてたまたまピクミンが入っているのを祈るしかないような状況です。
ダウンロード版の販売はWii U末期で、確かもうNintendo Switchが登場してから今更のように出てきたと記憶しています。
ただでさえ売れなかったWii Uなのに当時のアクティブユーザーは輪をかけて少ないと思われ、
さらにピクミンのニッチさを考慮するとダウンロード版自体あまり世に出回っていない可能性も十分あります。


自分はこのダウンロード版をたまたま(RTAをやる予定もないのに)買ったという経緯があり、
貴重なWii U版プレイ環境が手元にあります。まだ起動したことさえありません。
しかしこれも本体が壊れてしまったらそれまでなので、
壊れる予兆を感じたら速やかにデータ引っ越しをしなければなりません。
保全することを真面目に考えるなら未使用品のWii Uを手に入れたいところですが、果たして手に入るのか……。


ダウンロード専売のゲームタイトルは基本的にストアの閉鎖とともに世の中から消える運命にあります。
ピクミンに限らず、他のやり込み界隈でもDLソフトの入手困難性に悩みストアの復活を望む人は多くいそうですが、
しかし任天堂がこれを救済するのは相当難しいような気もします。
こういうことを避けるために、欲しいものは欲しいと思ったときに手に入れるのが鉄則なんですよね。
それはDL専売ゲームに限らずCDや書籍でも似たようなことが言え、
コンテンツが供給過剰だからこそ1つのコンテンツを大切に扱わなければならない時代なのだと改めて思います。


#8168

AIの改修による暴走

今日の出来事web制作

出社日の退勤は、まず会社最寄駅から新宿駅まで行き、
新宿駅から自宅最寄駅までは確実に座るために次発乗車列に並ぶことも考慮して駅で待機します。
そして新宿駅で無事に座れたらあとは読書タイム。
逆に言えば、新宿駅に辿り着くまでは乗り換えの都合で読書をする余裕が無いのでスマホをいじるしかありません。
こういうとき、最近はGoogleアプリでニュースをチェックしていることが多いのですが、
自分のサイトを巡回することも結構あります。
そこで今日はサイトを巡回しようとしたらサイトがめちゃくちゃ重く502エラーを吐くこともあったため、
「またサーバーが攻撃されているかも?」と思いつつ内心不安になりながらも帰路を急ぎました。


サーバーのリソースモニタを見ると夕方からCPU使用率が不自然に上昇しており、
ターミナルでSSH接続するとターミナル自体が固まってしまうほどサーバーが激重状態になっていました。
が、結論から言うとこれはセキュリティ・インシデントやDDoS攻撃などではなく、
単にこのブログのフロントエンドが不当にリソースを食う設計になっていたせいで暴走していただけした。


基本的にこの手のトラブルが起きた場合はChatGPTに訊けばどうにでもなります。
React2Shellの件(#08035 / 2025年12月15日)や今回使った手法はどちらもtopコマンドを起点にしています。
これはWindowsでいうところのタスクマネージャーで、CPU使用率の高いプロセスが一目瞭然になるんですよね。
プロセス番号さえ分かればどこの何が暴走しているのかは仮想化環境内だろうと特定できるので、
今回はこのブログのフロントエンドコンテナの中にあるNode.jsが暴走していたとわかったわけです。
そしてなぜ暴走していたのかと言えば、
本家ブログで本文やタグを表示しようとするときに全記事(執筆時点で8,167本)を探索するAPIが走っていたと。
実際、ログをリアルタイムで流すようにして本番環境にアクセスしてみると、
面白いくらいアクセスした瞬間だけCPU負荷が爆上がりすることがわかりました。


今回、この原因を作ったのはAIの改修であり、これはこれで問題だと改めて思いました。
やはり自分の手が届かない範囲で改修を完結させてしまうとこういう予期せぬ問題が発生することがあるんだなと。
人力開発では何を書いて何が起こりうるのかを自分がそれなりに把握できていたのでこうした問題は起こりにくく、
それゆえにどうしてもテストなどの後工程は軽視されがちでした。
しかしエージェントコーディングにおいてはむしろ盤石なテストプロセスが必須なのかも。
AIを過信しないことはもちろん大事ですが、人の手が介入しないからこそ個々のプロセスについて言語化しておき、
ルールを過不足なく決めることは今後の開発において急務になるんじゃないかと思っています。


#8169

「感想さ」の奇妙さ

今日の出来事日本語

1週間くらい前に何気なくYouTubeのコメント欄を見ていたら、「感想さ」という奇妙な日本語を目にしました。
あいにくなんの動画か覚えていなかったのでそのコメントは見失ってしまったのですが、
試しにweb検索したら同じニュアンスの使用例を発見したので引用します(ブログ主さんすみません)。



食べたものが違うのですが、概ね同じ感想さです。

私はポテトサラダ、オニオングラタンスープ、アワビ煮込みを頂きました。
ですが、これらでドリンク込み3500円の価値は無いかなと思います。


東京美食Life, 2017/02/02 のコメント - 2023/07/16



おそらくですが、この「感想さ」とは文字通りに受け取れば感想の程度というニュアンスになりますが、
文脈的には飲食店に対する評価の程度を表現しようとしているのだと思います。
同じようなニュアンスで以下のように「感動さ」という表現も見つけました。



詳しく話してしまったら動画の感動さ(?)が欠けてしまうかもしれないのでここら辺にしておきますが、
凄く細かく作られているので考察のしがいはありそうだなと思います


さちの自己満日記, 2019/11/30



これも「感動の度合い」という意味なのでしょう。
つまり「程度」を表すために名詞に「-さ」がくっついているというわけですが、これは正しいのでしょうか。


形容詞は、それを名詞化するために「-さ」がつくことがあります(例:大きい→大きさ)。
同様に、「〜な」と表現できる形容動詞についても、「-さ」に置き換えて名詞化できます(例:公平→公平さ)。
「公平」のように(活用が隠れていて)名詞としても形容動詞としても通用する語彙については、
「〜性」とつけても違和感なく通じることが特徴として挙げられます。
ざっくり言えばこの「〜性」を「〜さ」に置き換えることができるというわけですね。


感想という語それ自体に度合いを表現するニュアンスは含まれていないので、
「感想さ」を正しい日本語と言い切るのは相当厳しいような気がしていますが、では「感動さ」についてはどうでしょうか。
感動にも程度の違いというのはあるのだから、「〜さ」でその程度を表すのは間違いとは言い切れない気がする。
「感動」は名詞なので形容動詞としての活用形は作れないし、「〜性」をつけるのも違和感があります。
何かつけたいならこの場合は「〜的」とつけるのが妥当ですが、それでは感動の度合いを説明したことにならない。


そこで引用文をもう一度読むと、そのあとに「欠けてしまうかもしれないので〜」と続いています。
結局ここで感動の度合いについてのニュアンスを説明できているので、
「感動さ」の「-さ」は不要で、「感動が欠けてしまう」で十分に伝わるというのが正解かなと。
欠けてしまう、というのは物質みたいで少し違和感があるので、より自然な文にするなら「薄れてしまう」でしょうか。
1つ目の引用も、「食べたものが違うのですが、概ね同じ評価です」で何も問題ありません。


つまり、若者言葉になりつつある(?)名詞の形容動詞化はシンプルに蛇足だという結論になりますが、
言葉のルールというのは実は単に正しい・正しくないで決まるわけではありません。
誤用が広まった結果、それが辞書に載るようになったケースはけっこうあります。
「敷居が高い」「とんでもございません」「既存(きぞん)」などなど。
もし今後「感動さ」という表現を使う人が多数派になれば、それは正しい日本語として受け入れることになるのでしょう。
「タピる」(タピオカミルクティーを飲む、を意味する動詞)が流行する若者言葉界隈なら何が起きてもおかしくない。
言葉はいきものと言われますが、本当にその通りだと思います。


#8170

動的サイト制作の機運

『ピクミン2』22周年ということで、
だからというわけではないのですがピクチャレ大会の開発作業に1日を捧げました。
その一環で移転前にしかないコンテンツを確認したいというニーズがあったため、
レガシーとなっているリポジトリを復旧する作業をしていました。


自分が制作・管理しているピクチャレ大会というサイトは2007年の今日、
特設サイトのコンテンツの一部としてスタートし、その後2015年09月01日に移転、2023年07月21日に再移転しました。
このうち2015年の移転は当時さまざまな思惑の交差するところで実行を決意したという経緯があります。


ざっくり自分のweb制作運営遍歴を振り返ると本番環境の基盤(というより制約)によって5段階に分かれています。
楽天広場や「Yahoo! Geocities」でテキストサイトを作っていた2003〜2005年。
忍者ホームページでサブドメイン運用をするようになった2006〜2009年。
独自ドメインとレンタルサーバーを運用してもろもろまとめることを目論み
「新本家サイト」という位置付けのポータルを中心に制作していた2010〜2013年。
2003年からやっていたブログをその新本家サイトと同じ格付けにして独立した2014〜2022年。
ついにVPSを契約して基盤も自由にいじれるようになった2023年〜現在。


忍者ホームページまで(〜2009年)はHTML, CSS, JavaScriptのみでバックエンドはいじれず、
2010〜2013年の新本家サイトはGMOの「XREA(エクスリア)」、
2014〜2022年の3代目本家ブログ&ピクチャレ大会ver.2はGMOペパボの「heteml(ヘテムル)」を使っていましたが、
当時、両者にそこまで大きな仕様の違いはなかった……と思います。
ただ、2010年当時の自分はそれ以前のノウハウを活かしてHTML+JS主体のサイト設計をしたこともあり、
XREAでPHPを使えることさえ知らず、JavaScriptベースの自己満足なサイトを構築していました。
当時はPerlの方が耳にする機会があったので、Perlの勉強をしていたくらいです。でも結局そのPerlも使わなかったという。
独自ドメインで運用できればそれでよし、というスタンスだったのでしょう。


新本家サイトプロジェクトも自分の中ではちゃんとした成果になったとは言い難く消化不良のまま終わってしまい、
結局ゲームファンというだけでコンテンツを生み続けるのは難しいのだと察したのか、
ブログ10周年の節目である2014年には新本家サイトを半ば放棄し、
ブログをWordPressに移管してそれに専念することになります。
そしてそのWordPressを通じてPHPを触るようになり、HTMLタグのようにスクリプトを埋め込めるその簡便さに感動。
それによって改めてPHPとデータベースを使って参加型サイトを作りたいという機運が高まってきました。
そこへ来ると当時のピクチャレ大会(ver.1)は外部サイトの応募フォームに依存してExcelで人力更新していたため、
投稿を自動化したいというニーズを考えたときに いの一番に考えつく既存のコンテンツでした。
さらに当時はTwitterでピクミン界隈とのコミュニケーションが盛り上がって所属意識が形成されつつあったこともあり、
コミュニティに貢献できるという意味でも大きな意義があることは明らかでした。
ピクチャレ大会はそうした数々の巡り合わせのおかげで制作に漕ぎ着け、独立したという経緯があります。
蛇足ですが、さらに言えば『ピクミン3』がリリースされたのが2013年だったのも絶妙なタイミングだったと思います。
2010〜2012年は黎明期スマホゲームや音ゲーに夢中だったのでピクミンはほぼ忘れ去られており、
その時点でPHPを知ったりコミュニティに所属したりしても結果的にこうはならなかったんじゃなかろうか。


そもそもピクチャレ大会の開催自体も2本のゲームとの巡り合いによるものだったことを考えると(#07494 / 2024年06月23日)、
今日で開催から19周年を迎えるこのサイトもさまざまな奇跡の積み重ねで立っていると言えるのかもしれません。
いま、改めてレガシーを復旧してみるとページの読み込みにめちゃくちゃ時間がかかるし、ページの動線はわかりにくいし、
余白をまったく考慮されていないキツキツのデザインはいかにも前時代的で、チープさを拭えません。
各ドキュメントにはメンヘラ期の遺物とも言える管理人のお気持ちが垣間見える文章もあって絶妙に黒歴史感がありますが、
一方でナビゲーションメニューなど、当時の自分が自分なりにこだわっていた痕跡もしっかり残っています。
このサイトの客観的なクオリティはどうあれ、
これに打ち込んだ日々があってこその現在があることは忘れてはならないと改めて感じます。


#8171

都内で過ごすゴールデンウィーク

今日の出来事休日計画

今年は帰省しないことにしたゴールデンウィーク。
新年度からプロジェクトが変わるので参画して早々に有休を使いにくいと思ったのが主な理由で、
帰省しないゴールデンウィークは2年ぶりということになります。
前回はやや後悔したので「ゴールデンウィークはやはり実家帰省するのが無難」と考えていましたが、
果たして今年はどうなることやら。


完全にカレンダー通りの休みなので、今週末がメインで5連休、そして2日出勤してまた2連休という感じになります。
ただし来週の土曜日はなぜか会社のオフライン飲み会があるので実質的に平日のようなものかも……。
いずれにしろ、自分のゴールデンウィークは今週末の5日間が勝負ということになります。
タスクが入っていない休日はだいたい正午前後に起き、そこから夕食前までがメインの作業時間となります。
経験上、ここで何もできないと夕食後のフリータイムも何もできないことが多いと思っているので、
とにかくこの起床後からの時間を有効活用することを意識したいところ。


メインのタスクは期間限定ランキングの開発を進めること。
毎度説明していますが、「期間限定ランキング」とは自分が運営するサイトの大型イベントで、
いろいろあって2022年を最後に開催できていません。
当初から年1回開催を目安にしていたのもあって2023年には開催を公言していたのに結局技術トラブルで開催できず、
そのリベンジとして位置付けた2024〜2025年もなんやかんやで開催できず。
Codexを本格的に開発に導入した2026年こそは四度目の正直で開催したいと思っているところです。


基本的に開発主体はCodexです。だったらすぐにできるんじゃないかと思われるかもしれませんが、
想定しているのはかなり本格的なデスクトップwebアプリに近い構成になるため、
最初にある程度仕様を決めておかないと後に退けなくなってから破綻しかねません。
その辺もイマドキのAIくんなら抜本的な軌道修正もできるかもしれませんが、
そもそもルールやシステムを想像できていなければそれを具現化することもできないわけです。
要するに、詳細設計書をちゃんと作らないといけないということですね。
自分にとっては詳細設計書から作ってCodex主体で開発するのはこれが初めてなので、ハードルは感じています。
この最初のハードルを乗り越えるのがゴールデンウィークの最大にして唯一の目標というわけです。
おそらく、一定程度の粒度で設計書を作ってしまえばあとはCodexでどうにかなるんじゃないかなと……。
頭の中を整理して言語化する最初のステップが一番大変そう。
それを大型連休の機会に乗り越えておきたいということです。


5日間ずっとそれをやるつもりはなく、サブタスクとして創作ナレッジベース整理もやりたいと思っています。
こちらはCodex導入以降、むしろそれがボトルネックになって進んでいないという問題があり(#08161 / 2026年04月20日)、
今後のためにもボトルネック解消はやっておかねばなりません。
要は今回のGWは2つの大きなボトルネックを解消して、年間計画を次のステップに進める役割があると認識しています。
ここを逃すと3連休以上の機会は07月まで待たされるので、そういう意味では最低限の仕事はしたい。


去年はお絵描きやらなんやらクリエイティブな計画を立てて結局挫折したので、
そういう挑戦的なタスクは今年は立てずに無難に行くことにしました。
あとは気分転換にどこかへ行くかどうかですが、それは当日になってから気分に従う方針でいいかなと思っています。


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